安楽椅子探偵の名推理

馬場秀和


「問題は、現場が”密室”であったということなのですっ」
 刑事はひどく興奮した声でそう言った。

 無理もない。上流階級が集まるパーティ会場で、密室殺人事件が発生したのだ。そんな事件は滅多に起こらない。普通、人を殺すのに密室をこしらえたりはしないものだし、何より、わざわざ人が集まるパーティの日を選んで決行するほど愚かな犯人がいるだろうか。

 だから、実際にそういう事件が起き、しかも自分が担当になったのは、それこそ宝くじの特賞に当たるよりも、ずっと、ずぅーっとまれな幸運だ。刑事はそう思っている。

 この事件を解決し、関係者を現場に集めた上で「さて、皆さん」とか言うことが出来たなら。

 あああ、そうしたら、もう残る一生をくだらないヒトゴロシの捜査に費やしたあげく、ある日なにげなく殉職してしまっても、それでもいい。おお、それでも悔いはないのだ。

 などと、そんな風に思いつめている刑事なのであった。

 一方、聞いている安楽椅子探偵は、刑事のセリフに特に心動かされた様子でもなく、どちらかといえば気乗りがしないという調子で応じた。

「密室殺人? そんなもんはあり得んよ」

 あっさり否定された刑事は、憤然と抗議する。

「しかしですよ、あの屋敷から夫妻の遺体を運び出すことは不可能でした。絶対に」

「よろしい。不可能だったと仮定しよう。しかるに、実際には遺体は屋敷の外で発見されている。これは矛盾だ。したがって、屋敷は密室ではなかった。犯人は何らかのトリックを使って遺体を運び出したに違いないのだよ」

 安楽椅子探偵は重々しく断定した。「初歩的な背理法の問題だ」

「なるほどっ。そうか。犯人は密室トリックを使ったんだ」
 ついに謎が解けた、と言わんばかりの口調で刑事は叫ぶ。

「ショホテキなハイリホーの問題なんですねっ」
 感激のあまり、ぎゅっとこぶしを握りしめる刑事であった。

 もしかすると、ここら辺で読者は思うかも知れない。この刑事は、少しばかり、その、アホなのではあるまいか、と。

 ああ、しかし、それはあまりにも酷な評価というものだ。刑事にしてみれば、これは前代未聞の大変な事態なのである。

 繰り返すようだが、ほとんどの殺人犯は、トリックなど使わないのだ。たとえ使ったとしても、はなはだ幼稚なアリバイ工作くらいが関の山。一人二役とか、顔のない死体とか、密室といった大ワザを仕掛ける犯人なんて、もう今世紀中は二度と現れないことだろう。

 それほど凄いことなのである。これは。

 刑事が少々はしゃぎ過ぎているとしても、それは大目に見てやるべきではなかろうか。

「では、密室トリックを見破ろう。まず起こったことを時間順に整理して教えてくれ」

「はいっ」刑事はきびきびした返事とともに書類を机の上に広げ、説明を始めた。

 さて、刑事の報告が続いている間に、なぜ彼が安楽椅子探偵のところにやって来たのかを簡単に述べておこう。

 事件の捜査に取りかかったとき刑事が最も恐れていたのは、どこからか名探偵が現れて、「さて、皆さん」をやってしまうことであった。

 今まで何人の警察関係者がこうして主役の座を降ろされ、泣いてきたことか。まことに、刑事にとって、名探偵こそは天敵ともいうべき忌まわしい存在である。

 そこで刑事は、事件の関係者のリストを徹底的に調べ上げた。私立探偵はいなかったが、むろんそれで安心するわけにはいかない。名探偵はどこに潜んでいるか分かったものではないからだ。

 学者、弁護士などはもちろんのこと、なかには奇術師だの神父だの給仕だのといった一見無害そうな職にありながら、ひとたび事件が起こるとたちまち名探偵に早変わりする、ふらちな輩もいるのである。

 そういうわけで、刑事は、名探偵になる可能性がある人物を徹底的に洗い出すことに専念した。

 用もないのに犯行現場に行ったりしないか、作家や新聞記者や医者といった類の知人がそばにいないか。こういった素行や交遊関係を厳しくチェックする。

 こうした地道で粘り強い捜査の結果、今回の事件に関しては潜在的な名探偵はいない、という確信が持てるようになり、刑事はほっと一息ついたのである。事件の捜査方針としては間違っているような気もするが。

 ともあれ、今度は別の問題が発生した。宿命的な役回りとして、刑事という人種には密室の謎を解くことが出来ない。このままでは、肝心の事件そのものが迷宮入りしてしまう。

 結局のところ、密室の謎を解く名探偵は必要なのだ。だが、「さて、皆さん」の役は、何としてでも譲ってもらわなければならない。

 こういう需要を満たす名探偵が、この世にはちゃんと存在する。

 というわけで、刑事は安楽椅子探偵の部屋を訪れたのであった。

「よろしい、だいだいのところは分かった」
 刑事の報告を聞き終わった安楽椅子探偵は、メモ用紙をペリペリと破り取ると、大きな声で読み上げた。

  ・午後7時     パーティ開始。

  ・午後9時     パーティ終了。
            主催者である夫妻は寝室へ下がる。

  ・午後9時5分   引き続き二次会の開始。
            ホスト役は夫妻の息子がつとめる。

  ・午後11時    二次会も終了。
            客は全員帰宅。

「この時点で屋敷に残っているのは、夫妻の息子と使用人の二人だけ、と。いや、
少なくとも生きているのは二人だけだな」

  ・翌朝7時     使用人が夫妻を起こそうとして、寝室が無人である
            ことを発見。夫妻の息子を起こし、捜索にかかる。

  ・午前7時40分  屋敷の外で遺体が見つかり、警察に通報。

「そして検死の結果、死亡推定時刻は、前夜午後9時30分前後と判明、というわけか」

「肝心な点が抜けています。屋敷の窓は格子がはまっていて、出入りは不可能なこと。正面玄関を除く他の出入り口は全てふさがれていたこと。唯一の出入り口である正面玄関ドアには、最後の客が帰った後で太いカンヌキがかけられたこと。そして、カンヌキは翌朝もしっかりかけられたままであったこと」

 刑事が早口でそう付け加えた。

「ふむ。午後11時以降に屋敷に入ることは出来なかったということだな」

「そうです。それ以前はパーティが開かれていて、人目につかずに遺体を運び出すことなど到底無理です」

「待てよ。夫妻の息子か、使用人が犯人だとしたらどうだ。午後11時より後に遺体を運び出して、屋敷に戻ってから正面玄関のドアに内側からカンヌキをかけることが可能じゃないか」

「それでは密室が成立しなくなります」

「うーむ。それはそうだなあ」
 安楽椅子探偵はうなりながら屋敷の見取り図を調べ始めた。

「被害者である当主の過去を洗ってみたんですが、色々と面白いことが分かりました」
言いながら刑事は分厚い資料を広げようとしたが、安楽椅子探偵に止められる。

「待ちたまえ。そんなことを調べてどうするつもりかね」

「はあ。被害者についてあらゆる事実を調べ上げるのは犯罪捜査の基本ですから」

「そういう態度でいる限り、何も解決できやしないさ」

「しかし・・・」刑事が反論しようとするのを手で押しとどめ、安楽椅子探偵は言う。

「いいかね。問題解決のコツは、不要な情報を捨てることにある。例えば、初等力学の問題を考えてみよう。真空中で投げ上げた宝石の運動だ。この問題を解くのに、宝石の価格や所有者の経歴、宝石を投げる動機、そういったことを調査するかね、君は」

「いえ」

「そうだろ。この問題を解くのに必要な情報は、宝石の質量と投げ上げる初速度、それに重力だけだ。それ以外は全て不要な情報なのだよ。正しい推理というものは、そういった不要な情報を無視して、必要なことだけを考える行為なのだ」

「いえ」

「何が、いえ、なんだ」

「はあ。あの、宝石の質量は不要な情報だと思います」刑事はやや自信なさそうに、そう言った。

 安楽椅子探偵は少し考え込んで、それから刑事の顔をぐいっとにらみつけた。

「君は、わざわざここまで初等力学の問題を解きに来たのかね。無駄話は置いといて、さっさと密室の謎に取りかかろうじゃないか」

 安楽椅子探偵は屋敷の見取り図を指さした。

「まず、犯行時刻である9時30分。犯人は夫妻の遺体と共に寝室にいる。犯人は焦っている。一刻も早く現場から逃げ出したいが、遺体をそのままにしておくのが恐ろしい。とりあえず翌朝まで遺体の発見を遅らせ、その間に遠くまで逃げよう。そういう心理状態にある」

「たいていの殺人犯はそう考えますね」

「さて、このときパーティの客はどこにいたか分かるか」

「全員、応接室です。夫妻の息子もです。使用人は台所にいました」

「よしよし。客の居場所と、各部屋のドアの状態を、見取り図に書き込んでくれないか」

 刑事は言われた通りにしながら、言った。
「でもね、どうやっても無理は無理ですよ。玄関から屋敷の外に出るためには、必ず応接室を通らなきゃいけないんですから」

「よく考えるんだ。玄関ドアにカンヌキがかけられてからでは遺体を運び出せないとすると、犯人はそれ以前に仕事を終えたに違いないんだ。したがって、応接室に誰もいない時間があったはずだ。絶対にあったはずだ」

「待って下さい。えーっと、あっ、確かに応接室が無人になっていた時間がありますね」

 刑事は一瞬目を輝かせたが、すぐにがっかりした表情になる。
「けど、やっぱり駄目です。このときも寝室から応接室に行く途中で必ず人がいる部屋か廊下を通らなければなりませんから」

「君はまさか犯人が夫妻の遺体を担いで寝室から玄関までダッシュしたとでも思っているわけじゃなかろうな」

「と、言いますと?」

「安楽椅子探偵は深呼吸をしてから、にっ、と笑った。

「そこがこの事件のポイントだ。もちろん犯人は何回かに分けて遺体を運んだに違いない。例えばだな、まず遺体を洗面所に隠しておく。やがて応接室に人がいなくなる。このとき洗面所と寝室の間の廊下には人がいるが、それは問題じゃない。誰にも見られずに堂々と応接室を通って玄関まで遺体を運べるのさ」

「無理です。応接室と廊下の両方に人がいるときに、客の一人が洗面所に行ったと証言しています」

「だから、例えばの話さ。よし、最初から犯人の行動を追ってみよう。客の行動は全て分かっているんだろう?」

「ええ。証言は完全にそろっています」

「では、私が犯人の行動を追う。君は客の行動を教えてくれ。いいな」

「分かりました。どうぞ」

「まず、犯人は夫の遺体をボイラー室に運び込む。次に、夫人の遺体を運ぶため寝室に戻り・・・」

「あ、待って下さい。このとき客の一人、ええっと客Aとしますが、その客Aが応接室から廊下に出て書斎に向かったと証言しています」

「犯人は浴室に入ってやり過ごしたんだ。おそらくね。で、客Aが書斎に入った後で寝室に戻り、夫人の遺体を運び出す」

「このとき使用人が台所から出て料理を応接室に持ってゆきます」

「とりあえず夫人の遺体を担いだまま階段を昇って屋根裏部屋に行く。使用人が応接室に入った後で降りてきて」

「いえ、客Bと客Cが応接室から出てきて使用人に声をかけます。そのまま二人の客は階段のわきを通りすぎて事務室に入ります」

「ううむ。退路をふさがれたか。よし、夫人の遺体をいったん屋根裏部屋に置いて、反対側の階段を降りて書斎に入る。もう客Aはいないんだろう?」

「いません。でも客A、D、E、の三人が廊下で立ち話をしていて、ボイラー室には行けませんよ」

「いいさ。逆側のドアから出て・・・」

「あっ、居間のドアが開いて、夫妻の息子と客Fが出てきました」

「とりあえず物置部屋に身をひそめるぞ」

「二人は物置の前を通過します」

「物置を飛び出して、応接室の南側のドアにたどり着く。そのまま待機」

「五分後に応接室は無人になります」

「応接室を通り抜け、玄関に行ってドアのカンヌキを外す。次に廊下に出て」

「廊下では客Gが煙草を吸っています」

「では東側のドアから出て、階段を昇る。屋根裏部屋に置いてあった夫人の遺体を担ぎ、もう一方の階段を降りる」

「使用人があらわれた。どうしますか」

「にげる」

「どちらへ?」

「こっちだ。浴室に逃げ込む」

「あ、客Gが煙草を消して、ぶらぶらと居間のほうに歩いてゆきます」

「夫人の遺体を浴室に隠して、ボイラー室に行く。夫の遺体を何とかしなきゃあ」

「まずいですね。その時点で応接室に客Bと客Dが戻っています」

「待つさ」

「駄目です。10分以内に使用人がボイラーの調子を見に来ます。それまで廊下にはずっと客Cが立っています」

 刑事は嬉しそうに宣言した。「王手っ」

「待った」安楽椅子探偵はあわてて応える。

「待ったなしです。さあ、使用人は犯人と遺体を見つけて大きな悲鳴を・・・」

「しかし、だ。実際にはそういうことは起きなかったんだろう」

「そういえば、そうですね。おかしいなあ」

「どこかで間違えたな。ふむ」

 安楽椅子探偵は、ふむ、ふむ、と言いながら考え込む。と、やがて口を開いた。

「そうか。7手目でミスしている。ここで夫の遺体をボイラー室から物置部屋に移しておけばいいんだ」

「いずれにしても24手目で詰みです」

「19手目で階段を昇らず書斎に行くんだ」

「うーん、妙手ですね。でも、38手目をどう切り抜けます?」

「そこさ。37手目に夫人の遺体を寝室に戻すんだ」

「えっ、それじゃ振り出しに戻ってしまいますよ」

「なに、あわてるな。38手目に夫の遺体を居間に運び込む。台所に行って廊下に人がいなくなるのを待ち、それから事務室に入る。反対側のドアから出て階段を昇り、別の階段から降りて寝室に戻って夫人の遺体を取ってきてそれを応接室のソファの下に隠して南のドアから廊下に出て台所を通り抜けて洗面所で客Dをやり過ごしてボイラー室に行き」

「この時点で残り時間は20分です」

「客Cと使用人がいなくなってからボイラー室を出て書斎に入り客Aと入れ違いに事務室を走り抜けて階段をかけ昇り」

「客Eが居間に向かっています」

「別の階段を飛び降りて居間に転げ込んで夫の遺体を担いで廊下に出て物置に」

「残り時間10分」

「夫の遺体を物置に放り込んで客Eが出た直後に居間に入って廊下が無人になるやいなや台所へ転がりこんで」

「残り時間3分」

「台所の反対側から出て物置部屋に戻って夫の遺体を放り投げるように書斎へ」

「はいっ。時間切れです。残念でした」

「うううむ。くそっ、惜しかった。もう一度」

「やっぱり37手目に無理があるんじゃ」

「いや、むしろ61手目あたりが怪しい」

 二人は、ふむ、ふむ、ふむっ、と唸りながら何度も犯人の行動を追ってみた。が、一度も遺体運び出しに成功することはなかった。

「どうも駄目ですね・・・」刑事がため息をつく。

「もう少しなんだ。何か、そう、何か小さな間違いが全てを隠しているんだ」

 安楽椅子探偵は苦悩の表情を浮かべて、救いを求めるように屋敷の見取り図を見つめ続ける。

「ああ、もう夜明けですね。私はこれで失礼します。何か思いついたら電話して頂けませんか」

 応答はなかった。安楽椅子探偵はじっとうつむいて考え込んでいた。

 刑事は急に襲ってきた深い疲労感と闘いながら、ゆっくり立ち上がる。

 そのとき。ずっと見取り図を見つめていた安楽椅子探偵が、不意に顔を上げた。
刑事と目が合うと、にっ、と笑う。

「分かったよ。あまりにも簡単なことなんで気がつかなかったんだ」

「何のことです」

「犯人さ。我々は勝手に単独犯を想定していた。それが、小さな、しかし決定的な間違いだったのさ」


エピローグ

 数日後のある夕方。屋敷に集められた関係者を前に、刑事はゆっくりと話し始めた。

「さて、皆さん。密室の謎は、今や完全に解明されました」

 全員が息をのんで刑事に注目する。

「少なくとも28人の犯人グループが、協力して遺体運搬の連携プレイを行うことにより、一見して完璧な密室に思えるこの屋敷から、171手で遺体と犯人の全員が脱出できたのです。だれ一人としてパーティ客に目撃されることなく」

 部屋にいる人々の間に驚愕の波が広がってゆくのを見ながら、刑事は楽しそうに付け加えた。

「なあに、これはショホテキなハイリホーの問題に過ぎないのです」



季刊「せる」1989年夏号(通巻12号)掲載作品に加筆修正および改題(2002年9月)
馬場秀和


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