2000年11月1日〜11月15日

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11月15日(水)

 松浦理英子裏ヴァージョン』を読み始める。「全米マゾヒスト地位向上委員会」って……。

11月14日(火)

 東浩紀不可視なものの世界』読了。一番おもしろかったのは山根信二との対談かな。この人が一番、東浩紀と異質な言葉を語っているように感じたので。
 阿部和重との対談は、読み物としては確かにおもしろいんだけど、何というか、対談としての意味に欠ける気がする。読んでいる途中、どちらの発言なのかがわからなくなることがたびたびあった(発言者の表記をほとんど気にせずに読んでいるので)。同じ物語を2人の話者が交互に語っているだけ、という印象。スリルに欠ける、というのは言いがかりだろうか。

11月13日(月)

 東浩紀不可視なものの世界』。残すところ阿部和重との対談のみ。
 しかし、この2人の対談って、読んでるとどうも気持ち悪いんだよなぁ。仲良すぎて。

 仕事が早く終わったので新宿に出てAdobeGoLive5.0」のアップグレード版を購入。Windows版はどの店にもあるんだけど、入荷数そのものが少ないのかMac版はなかなか見つからず、東口の量販店をまわって最終的には西口のソフマップ(Mac専門館)で発見。

 帰宅後、さっそくインストール。当然のことながら設定は前バージョンから引き継がれる(が、初期設定ファイルは別名で作られるので、他のAdobe製品と同様、旧バージョンと併用できる)。
 しかし、パレットのタブ化(ポップアップウィンドウのように、パレットを画面の側面に収納できる機能。……Macユーザにしかわからない説明ですね)ができなくなっているのが痛い。iMacは画面が狭いので、非常に重宝していたんだけど。
 さらに、ローカルのindexファイルを開いてみて愕然。レイアウトが全然違っている。ページの幅が倍くらいに広がっているのだ。最初、ソースで開くと問題ないんだけど(5.0ではファイルを開く時の表示形式を選択できるようになった)、一旦レイアウト表示にするとガタガタに崩れてしまう。で、もう1回ソースを見ると、明らかにテーブルの数値が書き替わっている。これってどういうことなの? バグ?
 他のページについては未検証。とりあえず、今日は4.0で更新しています。

 ALTAの地下にあるカレー屋「HAICH」の2号店がサブナードにオープンしていた。ALTAの店は息苦しいくらい席が狭いけど、こちらはいたって普通の広さ。相変わらずドライカレーはうまかった。

11月12日(日)

 来客。焼肉をして酒を飲んで寝る。

11月11日(土)

 東浩紀不可視なものの世界』を読み始める。
 とりあえず、法月倫太郎(1)まで。総じて読みやすくておもしろい。話もわかりやすい。
 しかし、山形浩生との「対談」は果たして対談と呼べるのだろうか?

11月10日(金)

 立ち読みした「本の雑誌」に掲載されていた『神様がくれた指』の書評について。内容を要約した記述で「事件らしい事件が起こらない」と書かれていた(申し訳ない。うる覚えなので、正確な記述は評者の名前とあわせて後日確認します)が、電車に轢かれて片腕をなくしたり、拳銃をぶっぱなしたり、包丁で刺したりというのは「事件」とはいわないのだろうか、最近では。

 東浩紀不可視なものの世界』を購入。

11月9日(木)

 佐藤多佳子しゃべれども しゃべれども』読了。★★★★

神様がくれた指』との★1つの差は、単なる個人的な好みの問題だと思う(あ、でも、結末部はちょっと冗長だと感じた)。

11月8日(水)

 本日発見したサイト。『処ログ』。特に「ラベル99」。往年の「ログイン」テイストに溢れていて最高です。そういや、堀井雄二の『白夜に消えた目撃者』って結局発売されたんだっけ?(←されてません)

 昨日購入した本。黒田研二ペルソナ探偵』、霧舎巧ラグナロク洞』、松浦理英子裏ヴァージョン』。とはいえ、佐藤多佳子しゃべれども しゃべれども』がまだ途中なのでいつになったら読めることやら。祥伝社の「400円文庫」もまだ読んでいないし。
 あと、恩田陸はいいかげん新刊の発売を控えるように。

11月7日(火)

 本日よりフレッツ・ISDNを導入。これで時間を気にせずネットにつなげる。
 とはいえ、現在のように平日は1日の半分以上を会社で過ごしていると、あまり利点がないような気がしなくもない。

 恐らく誰一人気づいていない、というか、今までも別に気にしていなかっただろうけど、今月より日記内での一人称代名詞の使用が解禁になりました。というか、しました。「私」「俺」「僕」を気分によって使いわけるつもり。いや、正直いって、自分でも自分のこと「そらけい」って書くの、気持ち悪かったんですよ(おかげで可能な限り主語を省略して文章を書く癖がついてしまった)。

11月6日(月)

 以前にも書いた気がするけどどうせ誰も覚えていないだろうから気にせず続けることにするが、私は高校生のころクーンツ(よりによって『ライトニング』)をきっかけにモダンホラーにはまり、しばらくのあいだクーンツは当然として、キングやらマキャモンやらジョン・ソールといった作家の小説(扶桑社ミステリー文庫の赤背表紙作家……という表現は不適切だろうか)ばかりを読んでいたのだが、まあ、そのことはどうでもいい。
 クーンツの解説といえば、確か我孫子武丸が『戦慄のシャドウファイア』(なぜか装丁のイラストが天野嘉孝でしたね)の解説をやり玉に挙げていた覚えがあるけど、やはり、北上次郎の名前ははずせないだろう。で、一時期は「本の雑誌」を開けばまっさきに北上次郎のレビューページを開いて紹介されている本をチェックするほどだったのが、次第に読書の嗜好が変化するに従って(白状するが、新本格を読み始めたのはこの頃である)、むしろ敬遠する書評家の一人になった。

 佐藤多佳子しゃべれども しゃべれども』の解説を書いているのがその北上次郎で、あまりに久しぶりだったので、自分がぐるりと回って同じ場所に戻ってきてしまったような気分になった。もし『神様がくれた指』を読んだのが3年前の自分だったら、★5つはつけなかったかもしれないなぁ、などと思ったり。いや、それだけの話なんだけど。

 かといって、自分の中で北上次郎の影響力が復活したかといえば、そんなことはまったくない
 現時点で「信頼している」といって語弊のない書評家といえば、たぶん大森望だけだと思う。これには2つ理由があって、1つは金井美恵子の読者である、ということ、もう1つは私の偏愛する麻耶雄嵩夏と冬の奏鳴曲』、佐藤亜紀戦争の法』、銀林みのる鉄塔武蔵野線』を褒めていた、ということ。まあ、自分と比較的趣味が近いんじゃないかと思っているわけです。大森望の日記を読んでいなかったら、〈ブギーポップ〉を読むこともなかっただろうし。
 頻繁にバッシングされる推薦帯にしても、(嘘は書いていないという意味で)アンフェアじゃないので、個人的にはオッケー(その本を買う買わないは別として)。

11月5日(日)

 佐藤多佳子しゃべれども しゃべれども』、歌野晶午生存者、一名』、恩田陸Puzzle』、近藤史恵この島でいちばん高いところ』、西澤保彦なつこ、孤島に囚われ。』、若竹七海クール・キャンデー』、大塚英志+田島昭宇多重人格探偵サイコ』第6巻、浦沢直樹MONSTER』第15巻を購入。

多重人格探偵サイコ』。ここ数巻のストーリー展開には正直ついていけない。できるだけ早急に話をまとめて、とっとと終わらせてくれることを期待する。いや、別につまらないわけじゃないんだけど、冗長な作品になるのは勘弁してほしい。

MONSTER』はいよいよ佳境か? そろそろ一回最初から読み直しておかないと。

 次は佐藤多佳子しゃべれども しゃべれども』を読む予定。

11月4日(土)

 佐藤多佳子神様がくれた指』。
 うまい。唸るほどうまい。とか書いて、あとは読んでくれ、で済ませてしまいたいところだが、そうもいかないだろう。しかし、どう書けばいいのか。

 書きあぐねてネットに逃避。そこで、上山達郎さんこんなことを書いているのを発見した。
 注目したいのは余談の部分だ。「(前略)それは作品を鑑賞する際に上述したベタさに人々の嗜好が戻っているのではないかということだ」。この指摘は、少なくとも私自身のここ数年の嗜好の変化に合致しており、素直にうなずけるものだった。

 しかし、とりあえずこの問題にかんして言及するのはやめておく。上山さん自身、あくまで「余談」だと断ったうえでの仮説であるし、いずれ別の形でまとめられた文章が書かれるであろうから、この数行の文章から私が勝手な結論を導きだし、自分の文章に援用する愚をおかすことは避けたい。

 話を『神様がくれた指』に戻そう。私が『神様がくれた指』を素晴らしいと思うのは、ベタな物語としての完成度が高いという以上の意味を持たない。ただ、その点こそが貴重であると思っているからこそ、★5つの評価をつけた。

 具体的には、主人公の出所で幕が開き、再び刑務所に戻ることで(事件の)幕を閉じる凡庸だが美しい形式であるとか、主人公がスリであることが物語を動かす原動力として有効に機能している点であるとか(若いスリグループとの出会い、あるいは、黒幕の少年とともにスリを働くという結末近くの展開など)、その物語的な機能にとどまらない多彩な登場人物たちの魅力であるとか(例えば、もう一人の主人公ともいうべき占い師の存在は、実際のところ、物語的な機能としてみれば、主人公の視点からだけでは描けないスリグループを側面から描くためと、スリグループの一人である少女と主人公を物語の進行に従ってある時点で出会わせる、という以上の役割を持たない)、そういった全体としての構成や細部の配置に見られる絶妙なバランス感覚こそがこの作品を優れたものにしている。

 物語の構造と細部は分離が可能であり、細部は交換が可能である。しかし、この物語において、作者は無数の選択肢の中から最良の選択をしている(ように見える)。主人公はスリでなくてはならないし、その主人公を助けるのは占い師でなくてはならない。占い師の姉は弁護士でなくてはならないし、主人公の幼なじみは喘息持ちでなくてはならない。そういった細部をきちんと物語的に回収ながら、人工的な印象を読者に与えないのは、やはり、作者が「うまい」からなのだろう。

 娯楽小説はかくあるべしという見本のような小説だと思う。

11月1日(水)

 昨日は会社に泊まり。連泊を覚悟してたのだが、とりあえず明日に持ち越し。さて、どうなることやら。

 佐藤多佳子神様がくれた指』の感想は、週末に。

 といいつつ結局書かずじまいというのがいつものパターンだが、★での評価をはじめて以来、初めて満点(★★★★★)をつけた作品である以上、やはりその根拠を書くのが筋というものでしょう。

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