馬場秀和のRPGコラム 1998年9月号



『キャラクタープレイ −あるいは傷つきやすい人々−』



1998年9月7日
馬場秀和 (babahide*at*da2.so-net.ne.jp)
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 前作コラム、『RPG世代論 −あるいは盛年の主張−』を書き上げてから、
まず最初に、我が配偶者に読んでもらった。(恥ずかしくない文章を書く最大の
コツは、公開する前に批判的な人に読ませて感想を聞くことなのだ)

 配偶者の感想は「こんなものを最後まで読むのは、どうしようもない馬鹿だけ」
といったものだった。これには私もちょっとムッとして、「そんなことはない。
きっと沢山のRPGプレーヤー達が最後まで読んで、しかも感想を送ってくれる
はずだ」と反論したのだが、あいにく鼻先でせせら笑われただけだった。

 だがしかし、結果的には我々はどちらも正しかった。


**


 そもそも昔から、配偶者は私を含めたRPGプレーヤーという人種に対し批判
的だった。特に今回のテーマである「キャラクタープレイ(キャラクター演技)」
に対して拒否反応が強かった。

 交際を始めた頃、私は彼女にRPGの素晴らしさを知ってもらおうと思って、
彼女を連れてRPGサークルに参加したことがある。(そのころの私は大胆不敵
で、しかも愚かだったのだ。せめてどちらか一方にすべきだったと切実に思う)

 後から彼女は、どうしてあんな風に馬鹿丸出しで演技するような真似をして、
恥ずかしくないのか、というようなことを言った。あんな光景を見れば、何かの
間違いでRPGに興味を持った人だって、あきれて二度と近寄らなくなるだろう、
と。

 私はそのとき、RPGというのはキャラクターの演技をするものなのだと一生
懸命に説明したと思う。自分と異なる人格を表現することの素晴らしさ、物語の
登場人物になりきることの感動。君も実際にキャラクターの演技、いわゆる「キ
ャラクタープレイ」をやってみるべきだ。

 だが彼女は少しも納得してくれなかった。彼女の見るところでは、私の言って
いることは「自分が何を好きか、何をしたいかを延々と力説している」だけで、
キャラクタープレイなんかに何の興味のない人もそれをやるべきだという客観的
な根拠は何も含まれてないというのだ。

 その通りだった。私は、自分とは異なるキャラクターになりきるのがRPGの
理想の姿だと当然のごとく思いこんでいた。まさか、その根拠を求められるとは
思ってもいなかったのだ。(そして、そんな根拠はないということも)


**


 確かに私の思い込みにはそもそも何の根拠もなかったが、それは大した問題で
はない。根拠もなく何かを信じること、それ自体は誰でもやっていることだ。

 問題は、彼女の言った通り、RPGに興味を持った人が、キャラクタープレイ
に対する抵抗感から、それ以上RPGに立ち入ることなく、去ってゆくことだ。
そういう人は多い。RPGに興味を持ってサークルやコンベンションに参加して
みたものの、演技を強要されたり、あるいはノリノリで演技している人を見て、
恥ずかしさにいたたまれなくなったりして、それっきり二度とRPGに手を出さ
ないことにした、という話はよく聞く。実際、私もそういうケースを幾度となく
見てきた。

 キャラクタープレイが世間一般に対して与えるマイナスイメージにも、多大な
ものがある。以前、TVのドキュメンタリー番組か何かでテーブルトークRPG
が扱われたことがあり、キャラクタープレイの様子が映し出された。レポーター
は頭が痛いとか言うし、私は番組を見た世間一般の知人達から「馬場さんって、
ああいうのをやってるんですか」と気持ち悪そうに尋ねられた。(私はもちろん
強く否定して、コンピュータじゃないRPGやってる人って変だよね、気味悪い
よねー、という世間の声に同調してしまいました。この場をお借りしてテーブル
トークRPGプレーヤーの皆様に深くお詫び申し上げます)

 RPGのプレイを続ける人をもっと増やすためには、こういう状態をどうにか
しなければならないと思う。


**


 そこで今回のコラムでは、キャラクタープレイ(キャラクターの演技)に焦点
を当てて、それがRPGにおいて果たしている役目を明確にし、それに強い思い
入れを持つ「キャラクタープレーヤー」たちの気持ちを代弁することにした。

 RPGに興味がある人がこれを読んで、キャラクタープレイや、キャラクター
プレーヤーに対する抵抗感を少しでも和らげてくれれば、と思う。(それが無理
なら、せめて我が配偶者がRPGに対して理解を示す一助になりさえすれば、と
思う)


**


 まず、用語の整理から。

 どうか嫌な顔をしないでほしい。話を論理的に展開させるためには、どうして
も「ロールプレイ」とか「キャラクタープレイ」といった、果てしなく混乱して
いる用語の使い方を明確にしておく必要があるのだ。

 まず、RPGという略称の元となった「ロールプレイ」という用語について、
考えてみよう。「プレイ」という単語には「演技」という意味もあるので、混乱
しがちだが、もともとRPGにおけるロールプレイとは、「野球をプレイする」
とか「ピアノをプレイする」というのと同じように、「役割(ロール)をプレイ
する」という意味であって、演技という意味は何ら含まれてないことに注意して
ほしい。

 初期のRPGは、ダンジョンを突破して宝物を持って帰るゲームだった。ダン
ジョンでは様々な障害がプレーヤーを待ち構えている。そこで、障害の種類ごと
に担当者を決め、協力して立ち向かうというゲームスタイルが採用された。これ
を具体化するために、ルールで「実体のあるモンスターには、戦士。実体のない
魔物や悪霊には、聖職者。トラップには、盗賊。魔法の仕掛けには、魔法使い」
という具合に、それぞれ課題に立ち向かう担当を決めたわけだ。

 だから、初期のRPGにおいて誰かが「戦士をロールプレイする」と言うのは、
ウォーゲームで「ドイツ軍をプレイする」と言うのと同じことであり、それ以上
の意味はなかったのだ。

 こういう、元々の意味におけるロールプレイを、ここでは「狭い意味のロール
プレイ」と呼ぶことにしよう。


**


 さて、RPGがゲームとして発展して、各ロールに可能な行動が増えてくるに
つれて、各ロールに与えられているデータをどんどん追加する必要が生じてきた。

 例えば、最初は戦闘用のデータしか持たなかった「戦士」というロールにも、
「木登りは得意か」「水泳は出来るか」「ジャンプできる距離は」といったデー
タが必要になった。

 さらに、NPCとの対人交渉が登場すると、「背景」とか「性格」とか「好き
なもの/嫌いなもの」とか「信じている宗教の教義」といった設定も必要になっ
てきた。こうして、RPGは複雑なゲームになった。

 何しろ、以前は「戦士」を担当するプレーヤーが下さなければならない意志決
定といえば、戦闘用データを元にして、攻撃するか/防御するか/撤退するか、
を判断するくらいが関の山だったのだ。それが今や、背景・性格・好悪・宗教と
いった様々な設定を考慮して「NPCに対しどんな態度をとるか」といった複雑
で微妙な意志決定が求められるようになったのだから。

 だが、この複雑さはRPGというゲームの魅力を飛躍的に高めることになった。
RPGはプレイする度に異なる意志決定、しかも複雑で微妙な意志決定が求めら
れる素晴らしいゲームになったのだ。

 このように、「狭い意味のロールプレイ」に加えて、様々な設定情報(背景・
性格・好悪・宗教、その他)をも考慮して意志決定することを、ここでは「広い
意味のロールプレイ」と呼ぶことにしよう。


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 ここまでは何の問題もない。「狭い意味のロールプレイ」から出発したRPG
は、「広い意味のロールプレイ」を獲得することでゲームとして進歩したわけだ。
「ロールプレイ」とゲーム性の間に矛盾は何もない。ゲームの本質は意志決定に
あり、RPGは「広い意味のロールプレイ」と呼ばれる複雑で微妙な意志決定を
行うゲームなのだ。

 よく、「RPGでは、ルールだけでなく、ロールプレイも大切にすべきだ」と
いう意見を見かけるが、この主張が「RPGでは、狭い意味のロールプレイだけ
でなく、広い意味のロールプレイを大切にすべきだ」という意味だとするなら、
それは全くもって正しい。


**


 ところで、ここまでの話に「感情移入」や「演技」といった要素が出てこない
ことに注意してほしい。これらの要素は「ロールプレイ」とは無関係だからだ。

 そもそも、ロールプレイとは関係ないゲームにも、たいてい「感情移入」とか
「演技」とかいった要素が、ちゃんと含まれていることに注目しよう。例えば、
シミュレーション・ウォーゲームにおいて、戦車を示すコマに戦車の絵が描いて
あるのはなぜか。「感情移入」を促進するためだ。平たく言うと「思い入れ」を
高めるためなのだ。

 プレーヤーは戦車の砲撃命中判定のダイスを振るとき、コマに描かれた戦車の
絵を見て、実際に戦車が砲撃するシーンを思い浮かべ、コマに感情移入するわけ
だ。また、実に多くのプレーヤーが命中判定のダイスを振るときに「ずどーっん
んっ」といった擬音を口にする。これは砲撃の「演技」をしているわけだ。目的?
もちろん感情移入の促進だ。

 同じことはモノポリーの「お金」についても言えるだろう。よく考えてみれば、
モノポリーにおける札束は、ゲームメカニズムという観点からは、単なる「勝利
ポイント」を示すマーカーに過ぎない。だがそのマーカーが実際のお札そっくり
な形をしているのはどういうわけか。もちろん「感情移入」を促進するためだ。

 あなたの周囲にも、テーブルゲームのプレイ中に他人にお金を支払わなければ
ならなくなると「今月のショバ代でごぜえますだ。どうかお納めを」とか「ちっ、
少ないな。まあ今回はこれで良しとしておいてやろう」とかいった馬鹿なセリフ
を口にする人がきっといるはずだ。彼らは、「演技」することにより、ポイント
のやり取りという作業に対して感情移入しようとしているのだ。


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 RPGにおいて、「キャラクターの言動」の演技をすることと、他のゲームで
「戦車の砲撃」や「お金の支払い」の演技をすることの間に、本質的な差はない。
いずれも感情移入を高めるための工夫であり、ちょっとした味付けなのだ。

 注意してほしいことは、これまでの例では、プレーヤーはいずれも自分がゲー
ムをプレイしていることを常に自覚しているし、演技や感情移入の対象がゲーム
トークン(コマ)に過ぎないことをはっきり分かっているということだ。演技や
感情移入は、ゲームをより楽しむための味付けに過ぎない。優先するのは、あく
までゲームである。ゲームが生活だとすれば、演技や感情移入はそれをより楽し
むための嗜好品、例えばお酒に相当する。

 ここでは、上のような意味における「キャラクターの演技」を、「弱いキャラ
クタープレイ」と呼ぶことにしよう。

 「弱いキャラクタープレイ」にも特に問題はない。それはゲームをより楽しむ
ためのちょっとした工夫であって、ゲームと対立したり、ゲームよりも優先する
ことではない。他人に強要するものでもない。どちらかと言うなら、むしろ他人
には「すいませんが、弱いキャラクタープレイをしてもいいですか? 私はその
方が感情移入しやすいもので」と恐縮しながら許可をもらうべきものであろう。
なにしろ、他の人と一緒にゲームをプレイしている場で、自分の楽しみのために
演技をやろうというのだから、了承をもらうのが社会的常識というものだ。


**


 しかし、ここから先に問題が待ち構えている。「弱いキャラクタープレイ」と
して始まったはずの「演技」が、人間の心にあまりにも強い快感や興奮を与える
ため、一部のRPGプレーヤーはその快感に溺れてしまうのだ。

 やがては、ゲームを楽しむために演技するのではなく、演技の快感を得るため
にRPGをプレイするという、倒錯した行為に走ってしまう。これはちょうど、
生活を楽しむために飲み始めたお酒に溺れてしまい、酒のために生きるがごとき
生活になってしまうのとよく似ている。中毒症状といってもいい。

 そういう中毒患者が集まってRPGをプレイすると、もう手のつけようがない。
暴走するノリノリ演技、ルール無視の盛り上がり、キャラクターへの過剰な思い
入れ、なりきり坊主に合いの手小僧、感情に押し流されて涙を流して感激する奴
まで出てくる。いよいよ末期症状になると、このカタルシスだけを求めてRPG
をプレイする(最初からRPGをゲームとしてプレイする気がない)ようになる
のだ。


**


 このように、もはや「弱いキャラクタープレイ」をしてるとは言えないような
キャラクタープレイがまかり通っているのが日本のRPG界の現実である。演技
の快感に中毒した結果、自分がゲームをプレイしているという自覚を失い、ゲー
ム進行より演技を優先させてしまうキャラクタープレイ。ゲームを進めるための
ゲームトークン(コマ)に過ぎないはずの「キャラクター」に感情移入するあま
り、それをゲームより大切にするといった本末転倒したキャラクタープレイ。

 ここでは、演技や感情移入をゲームより優先させ(少なくとも対等と見なし)、
キャラクターとの一体感(なりきり)を目指して行われるような、そういうキャ
ラクタープレイを「強いキャラクタープレイ」と呼ぶことにしよう。


    備考:ここで言う「強い」「弱い」は、何かの度合いを表している用語
       ではなく、その基本前提が既存の枠組み(パラダイム)を、補完
       する(=弱い)か、破壊する(=強い)か、という意味で使われ
       ている。「弱い人間原理、強い人間原理」とか「弱い多世界解釈、
       強い多世界解釈」といった自然科学や哲学における使用法と同じ
       である。従って、「弱い」キャラクタープレイにいくら力を入れ
       ても、それは決して「強い」キャラクタープレイにはならない。
       両者の違いは量的なものではないことに留意してほしい。


 困ったことに、「強いキャラクタープレイ」に耽溺している人々は、自分たち
がやっていることを客観的に見ることが出来ない。だから、自分たちがゲームを
破壊していることにも、RPGに上達する道を自ら塞いでいることにも、世間の
嘲笑を買っていることにも、RPGプレーヤー全体の評価を下げていることにも
気づかない。

 それどころか、強いキャラクタープレイを他人に強要し、嫌がる人には説教を
たれる(RPGはね、演技を通じてキャラクターとの一体感を目指すものなんだ
よ)者までいるのだ。

 以降では、このようなプレーヤーを「キャラクタープレーヤー」と呼ぶことに
する。


**


 キャラクタープレーヤーは、RPGに対して様々な実害を与えている。例えば、
システム軽視の風潮を広げることでRPGの市場を狭め、ルールシステムの発達
を阻害し、RPG技量の上達を妨げ、世間に対して「テーブルトークRPGって
何だか得体が知れない怪しいもの」という強烈なマイナスイメージを植えつける、
といった具合だ。キャラクタープレーヤーの害については以前に詳しく論じたの
で、ここではこのくらいで止めておこう。

 さらに恐ろしいのは、キャラクタープレーヤーに接したRPG入門者のうち、
あきれて逃げ出すだけの健全な判断力を持たない少数の者は、彼らに取り込まれ
てしまい、自らもキャラクタープレーヤーになってしまうケースがある、という
ことだ。つまり、キャラクタープレーヤーは感染力を持つのだ。

 もしも「伝染性の麻薬中毒」という恐ろしい疫病が存在するとしたら、社会に
とってどれほどの脅威になるか想像してみれば、キャラクタープレーヤーの危険
性がよく分かるだろう。

 RPGの健全な発達と普及を願う人々にとって、キャラクタープレーヤーほど
の脅威は他にない。そこで多くの心ある人々は、キャラクタープレーヤーを説得
しようとする。彼らの行いがRPGにとってどれほど有害か、RPGから人々を
遠ざける原因になっているかを指摘し、代わりにゲームとしてのRPGの素晴ら
しさを説き、ゲームとしてのRPGに上達する道を目指そうと呼びかける。


**


 にもかかわらずキャラクタープレーヤーは決して反省しないのだ。彼らは自分
たちのようなプレイスタイルこそ正しい、RPGプレーヤーが目指すべきものだ、
キャラクープレーヤーを非難するのは、不当だと主張する。根拠? 彼らが示す
根拠の大半は、言い方は色々だが、要するに次のようなものだ。

    ・私はキャラクタープレーヤーだ。
     ゆえにキャラクタープレーヤーを非難するのは不当である。

    ・私は「強いキャラクタープレイ」が好きだ。友人達もそう言っている。
     ゆえにキャラクタープレーヤーを非難するのは不当である。

 こういう論じるにも値しない自己中心的な戯言を書いたメールを送ってくる人
が途切れないところを見ると、キャラクタープレーヤーには「自分にしか関心の
ない人」が多いようだ。


**


 次によくあるのは、まず「RPGにとって強いキャラクタープレイが重要だ」
という前提を置き、それを根拠に「だからキャラクタープレーヤーは正しいのだ」
と論じる論法。例えば次のようなものだ。

    ・RPGはキャラクターを演じるゲームだ。
     ゆえにキャラクタープレーヤーは正しい。

    ・RPGでは、キャラクターとの一体感(なりきり)を追求すべきだ。
     ゆえにキャラクタープレーヤーは正しい。

    ・RPGにおいては、何よりキャラクターを大切にすべきだ。
     ゆえにキャラクタープレーヤーは正しい。

 これらは一般に「私はこう主張する。ゆえに私の主張は正しい」と要約される
循環論法の一種だ。まず「キャラクタープレーヤーは正しい」という前提を立て、
次にそれをもっともらしい別の表現に言い換え、それを主張の根拠だと言い張る
わけだ。もちろん、こんな論法は詭弁、というより強弁に過ぎない。

 キャラクタープレーヤーを正当化したいのであれば、例えば「こういう理由に
より、キャラクタープレーヤーの存在はRPGの健全な発展と普及にとって有益
である。有害な面だけを取り上げて非難する人もいるが、これこの通り利害得失
をきちんと比較すると、害よりも益が大きいではないか」とか、そういった検証
可能な論点を打ち出すべきだろう。

 ところが、実際にはキャラクタープレーヤーは決してそういうことをしない。

 彼らは、ただもう「私は強いキャラクタープレイが好きだ。だからそれを非難
する人に反論する」と言い張っているだけで、自分の主張を客観的に検証できる
形にしようという気がないとしか思えない。かつて私が(そのころは、私だって
キャラクタープレーヤーだった)彼女から指摘された「自分が何を好きか、何を
したいかを延々と力説しているだけ」という、まさにあれだ。


**


 なぜそうなるのか。キャラクタープレーヤーは、論理的思考や建設的な議論が
出来ない愚か者ばかりなのだろうか?

 そうではない。いや、まあともかく、それが主要な理由ではない。真の理由は、
彼らが病的なまでに恐れていることにある。何を?

 ・・・傷つくことを。


**


 そうなのだ。彼らは傷つきやすい。彼らの心の中では、次のようなパニックが
起きているのだ。

    ・私は「強いキャラクタープレイ」が好きだ。愛していると言っても
     よい。

    ・ところが、他人が「強いキャラクタープレイ」に対して否定的なこと
     を発言しているのを見かけてしまった。

    ・こんな発言を皆が信じたら、私が否定される。私が傷ついてしまう!

 これは支離滅裂に見えるし、実際その通りなのだが、彼らにとっては切実なる
問題なのだ。例えば、誰かが「演技や感情移入は、あくまでゲームをより楽しむ
ための味付けに過ぎない」などと書いたとしよう。彼らは、それをこう読み取る。
「君が大切だと思っていることは“おまけ”なんだよ。君は、くだらないことを
やってるんだよ。君は人間のクズなんだよ」

 自意識過剰の被害妄想? 確かにそうだが、実際に彼らは深く深く傷つくのだ。
正確には傷つくのを恐れるあまり、自分の心を守るために反撃しようとするのだ。

 彼らの心は、あまりにも弱々しく、あまりにも傷つき易い。彼らが「キャラク
ターとの一体感」「なりきり」「別人格の表現」などといった、別人を装う行為
に魅せられるのは、このことと関係があるのかも知れない。


**


 ともあれ、キャラクタープレーヤーの主張に何の根拠もないのも、建設的方向
に議論を進めようという姿勢が見られないのも無理はない。彼らは議論をしてる
のではなく、「ボクの心を傷つけないで。みんな、ボクをいたわってくれなきゃ
嫌だ」と悲鳴を上げているだけなのだから。

 キャラクタープレーヤーを非難する前に、このことを理解してあげてほしい。
彼らは、傷つきやすく、傷つくことを病的に恐れる自意識過剰な弱い人々なのだ。
だから、彼らに正論を説いて説得しようとするのは逆効果だ。それが正論であれ
ばあるほど、彼らを傷つけ、怒らせることになってしまうからだ。

 どうか彼らをいたわってあげてほしい。決してキャラクタープレーヤーに対し
「中毒患者」だの「世間の嘲笑を買っている」だの「RPGの健全な発達と普及
を願う人々にとって、キャラクタープレーヤーほどの脅威は他にない」などと、
本当のことを言ってはいけない。そんなことを言ったり書いたりするのは、弱い
心を意図的に傷つけようとする残虐な行為というべきだろう。


**


 というわけで、当初の予定通り、キャラクタープレイがRPGにおいて果たし
ている役目を明確にして、それに強い思い入れを持つキャラクタープレーヤーの
気持ちを代弁することが出来たわけだ。ふうっ。

 では、そろそろまとめに入ろう。

 まず、このコラムを読んだあなたは、これからは「狭い意味のロールプレイ」
「広い意味のロールプレイ」「弱いキャラクタープレイ」「強いキャラクタープ
レイ」という概念をきちんと区別してほしい。むろん、これらの用語が気に入ら
なければ別の言い方をしてもいいが、大切なのはこれらの用語が指している対象
が異なったものであるとよく理解することだ。特にロールプレイとキャラクター
プレイは、くれぐれも慎重に区別してほしい。

 また、「強いキャラクタープレイ」(それはRPGにとって有害である)と、
その他の3つ(それらはRPGにとって重要、あるいは有用である)を混同しな
いように注意しよう。しばしば「RPGではロールプレイが大切」だとか「感情
移入のために演技は重要」だとかいう理由で「強いキャラクタープレイ」を弁護
する人がいるが、これは異なる概念を意図的に混同することから生ずる誤りだ。
 もちろんRPGにとってロールプレイは重要だし、感情移入の強化のために、
「弱いキャラクタープレイ」をするのも悪くない。だが、これらは「強いキャラ
クタープレイ」とは別物だし、決して「強いキャラクタープレイ」を正当化する
ものではない。


**


 次に、キャラクタープレーヤーとそうでない人が共存するために。

 キャラクタープレーヤーの自覚がある人は、どうかご自分の演技や感情移入を
「弱いキャラクタープレイ」という形で表現するようにして頂きたい。どうして
も「強いキャラクタープレイ」への渇望を抑えられない人は、せめて同じ性癖を
持つキャラクタープレーヤー同士でプレイするように心がけ、そうでない人々、
特にRPG初心者を巻き込まないようにしてほしい。

 一方、キャラクタープレイに抵抗感がある人も、どうか「弱いキャラクタープ
レイ」は大目に見てやってほしい。これは、他のゲームでも普通に行われている
ことの延長であり、決してRPG特有の奇癖ではないのだ。だから「すいません
が、弱いキャラクタープレイしてもいいですか? 私はその方が感情移入しやす
いもので」と言いだす人がいれば、なるべく快く受け入れてあげてほしい。

 コンベンションを主催する人は、キャラクタープレーヤー同士を同じ卓に集め
るといった配慮をしてほしい。RPG初心者も参加している場合はキャラクター
プレーヤー達のために特別室を用意した方がよいかも知れない。地下3階の物置
とか。さらに、彼らが邪魔されず心ゆくまで演技できるよう、特別室に外側から
しっかり鍵をかけるといった気配りも求めたい。


**


 最後に、キャラクタープレーヤーを傷つけないよう、優しく接すること。

 RPGについて話したり議論したりするときには、キャラクタープレーヤーを
傷つけないよう、言い方に気をつけよう。例えば、キャラクタープレーヤーとは
呼ばずに「保護を必要とする人々」と言い換えるとか、彼らの主張を「説得力に
とらわれない自由な発想」と評するとか。

 ゲームマスターも、自分がマスターリングするセッション卓にキャラクタープ
レーヤーが参加していたときは、彼らを排除したりしないで温かく接してほしい。
彼らが「なりきり熱演」したときは拍手してあげるとか、ご褒美としてバナナを
あげるとか、キャラクターシートに「よくできました」とハンコを押してあげる
とか。


**


 我が配偶者に「キャラクタープレーヤーに対する温かい配慮」を求めたところ、
予想通り「何でそんな虫けらにも劣る連中に配慮が必要なのよ。有害だと分かっ
てるんだったら、さっさと駆除したら」という冷たい反応が返ってきた。これが
世間一般というものだ。

 だが、RPGプレーヤーであるあなたは、どうかこういう風な考え方はしない
でほしい。「有害な者、劣った者を駆逐せよ」という発想は、ファシズムや民族
浄化につながるものだ。せめてRPG界では、こういう排他的な発想は止めよう
ではないか。

 彼らを「虫けらにも劣る連中」などと見なすのは止め、せめて「虫けら同然」
くらいにとどめておこう。そう、彼らにも五分の魂があるのだ。たとえ、傷つく
以外に用途がないとしても。



馬場秀和
since 1962


馬場秀和が管理するRPG専門ウェブページ『馬場秀和ライブラリ』


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