馬場秀和のRPGコラム 2000年4月号



『外へ向かう言葉(後編)』



2000年4月17日
馬場秀和 (babahide*at*da2.so-net.ne.jp)
    スパム対策のために@を *at* と表記しています。メール送信時には、ここを半角 @ に直して宛先として下さい。






 前回コラムにおいて、私は、「コンピュータRPGやネットワークRPGでは
提供できない、テーブルトークRPG特有の価値とは何か」と問いかけた。そし
て、テーブルトークRPGを世間に普及させたいと願うのであれば、我々の一人
一人がこの問いを真剣に考え、自分なりの回答を“外に向かう言葉”にしなけれ
ばならない、と論じた。覚えておられるだろうか?

 さて、約束通り、今回はこの問いに対する私なりの回答を示すことにしよう。


**


 実のところ、この問いに対して説得力のある回答をするのは、いとも簡単だ。
「そんなものはない」と、そう答えればよい。

 いや、確かにテーブルトークRPGの世界は独特の魅力に満ちていた。昔は。

 ストーリーの創成、キャラクターの演技、感情移入、背景世界への参加感覚、
他の参加者との協力や役割分担、そして困難を乗り越えたときの達成感。そこに
は、他の何をもってしても代え難い、ワクワクする高揚感があった。それは唯一
無二、テーブルトークRPGのみが提供し得る価値だと、そう信じることが出来
たのだ。昔は。

 だが、コンピュータRPGの急激な発達は、こういったテーブルトークRPG
特有のものだったはずの魅力を、一つまた一つとディスプレイ上で実現していっ
たのだ。

 飛躍的に拡大したコンピュータの能力。ハイクオリティなグラフィックとサウ
ンドが作り出す仮想世界やキャラクターの存在感。メモリ容量の拡大と、ソフト
ウェア技術の進歩による、柔軟かつ自由度の高いシナリオ。今や、コンピュータ
RPGは、そこらのゲームマスターでは到底太刀打ちできないレベルの臨場感、
リアリティ、感情移入を実現してくれる。コンピュータRPGでは実現できない
と思われた他の参加者との会話や演技といったものでさえ、ネットワークRPG
の登場によって、もはやテーブルトークRPGの特権ではなくなってしまった。

 今や我々は、RPGをプレイするためだけに、分厚いルールブックを読んだり、
スケジュール調整に労力を費やしたり、休日を潰して出かけたりしなくてもよい。
自室に居ながらにして、手軽に、好きな時間に、好きなだけRPGの魅力を味わ
うことが出来るのだ。全国の(あるいは全世界の)プレーヤーと一緒に。

 だから、膨大な手間をかけて、紙と鉛筆でテーブルトークRPGをプレイする
意義はもうない。テーブルトークRPGはその歴史的役割を終えて、今や袋小路
に向かっている。何よりも、市場がどんどん縮小し、プレイ人口も減少の一途を
たどっているのがその証拠だ。そう、テーブルトークRPGに未来はないのだ。


**


 ・・・と、このままだと、あまりの説得力ゆえにコラムが終わってしまうこと
に気づいた。それどころか、ここ数年に渡って私が書いてきたこと努力してきた
ことも、全て無駄無駄無駄無駄無駄ァァーッていうか、沈没しつつある船の中で
風呂の栓を抜くような徒労だったという事実に直面せざるを得なくなるではない
か。

 それは非常にまずいので、自己欺瞞を承知で、強引に前向きに方向転換するこ
とにしよう。

 確かに“今までのような”テーブルトークRPGは歴史的役割を終えた、ある
いは終えつつある。であるがゆえに、テーブルトークRPGを袋小路から救い、
復権させたいと我々が望むのであれば、そこに内在している新たな価値や魅力、
コンピュータRPG(ネットワークRPGを含む)では提供できないか、少なく
とも十分に提供できないようなものを改めて探さなければならない。

 昔から「テーブルトークRPGの魅力」とされてきた項目、感情移入だの演技
だのストーリー作成だのノリだのといった事柄は、今ではコンピュータRPGや
ネットワークRPGが十分に、しかもより手軽に提供してくれるのだから、もう
そちらに任せてしまうべきだ。我々は、テーブルトークRPGから新しい価値、
新しい魅力を引き出し、今後はそれを徹底的に追求することで、世間一般の人々
にテーブルトークRPGの存在意義をアピールしようではないか・・・。

 というわけだが、どうだろう?

 うんうん、自己欺瞞にしても、割ともっともらしい論旨になった。では、この
論旨に従って、前向きに、前向きに、コラムを書き進めてみることとしよう。


**


 テーブルトークRPGを袋小路から救う新たな価値とは何か。

 私は、それを「意志決定」という概念に求めたいと思う。

 多くの読者にとって、この回答はさほど意外ではないはずだ。何しろ私は以前
からずっと「RPGはゲームである。ゲームの本質は意志決定である。ゆえに、
RPGの本質は意志決定にあるのだ」といったことを、何度も何度も書いてきた
からだ。

 しかし、そもそも「意志決定」とは何だろう?

 よく考えてみると、今まで何かといえば意志決定、意志決定と言いながら、私
は「意志決定とは何か」ということについて掘り下げて書いたことがなかった。

 次のような問答を想像してみよう。

    問:ゲームの本質とは何か?
    答:それは意志決定にある。

    問:では意志決定とは何か?
    答:それはゲームの本質である。

 私が「ゲームにおける意志決定」について語るとき、実は上の問答以上のこと
を何も言ってないのではないか、という疑問が生じたとしても、無理はない。

 そういうこともあって、ゲームを論じる文脈において「意志決定」という用語
は、常にある種の混乱や誤解を伴って使われてきた。であるからには、ここらで
いきなり説明なしに「意志決定こそがテーブルトークRPGの新しい価値である」
と主張しても、混乱と誤解に拍車をかけるだけというのは容易に想像できること
だ。

 そこで、以降では、まず「意志決定」にまつわる混乱や誤解をできるだけ解消
するよう努めることにする。次に「意志決定とは何か」という難問に立ち向かお
う。最後に、それがテーブルトークRPGの新たな価値となり得ることを示す。

 どうか、途中で挿入される資料も含めて、全体をじっくり読んでほしい。


**


 意志決定に関する混乱のうち最も最初にくるのが、「そもそも“意志決定”と
いう表記は正しいのか。“意思決定”ではないのか」という疑問だろう。

 これは中々に微妙な問題である。結論としてはどちらの表記も間違いではない。
だが、企業経営や政策を決定する行為を論じるときには“意思決定”という表記
を用いる方が一般的だ。より詳しく知りたい方は、次の資料を参照してほしい。

    「意思決定 vs 意志決定」(小橋康章著)
      http://www.taikasha.com/kobashi/dm/dectra.htm

 さて、ゲームを論じる文脈において“意志決定”という用語が使われたのは、
私の知る限り、次の資料が初めてだろうと思う。

    「コスティキャンのゲーム論」
      http://www004.upp.so-net.ne.jp/babahide/library/design_j.html

 上記の翻訳にあたっては、原文に頻出するキーワードである"Decision Making"
をどう訳すか、私は散々悩んだのだ。その挙げ句に“意志決定”という、間違い
ではないが、どちらかと言えば一般的でない用語をあえて選んだ。なぜか。それ
は、コスティキャン論じるところの"Decision Making" は、日本語で一般に用い
られる“意思決定”とは全く異なる概念だからだ。


**


 この違いを理解してもらうことは非常に大切なので、少し詳しく説明しておこ
う。 以降では、“意思決定”と言えば、それはすなわち「意思決定論」とか、
「経営者の意思決定」とか、「政策の意思決定」といった文脈で使われる一般的
な意味の判断決定を指すものとする。一方、“意志決定”と言えば、「コスティ
キャンのゲーム論」に登場する、ゲームにおける"Decision Making" という概念
を指すものとする。

 上に述べたような意味における“意思決定”と“意志決定”はどう違うのか。

 簡単に言ってしまうと、“意思決定”においては結果にこそ価値があり、それ
に比べれば意思決定に至るプロセス自体には何の価値もない。一方“意志決定”
はその逆であり、意志決定に至るプロセスこそが価値を持っており、それに比べ
ると、結果には大した価値がない。

 このように、両者は全く異なる概念だ。


**


 あなたが会社の経営者だとしよう。今、あなたの前に、経営上の選択肢が複数
あって、そのうちどれか1つを選択しなければならない。あなたの決断に会社の
将来と従業員の生活がかかっているのだ。さあ、どれを選べばよいだろう?

 このとき、あなたに求められているのは“意思決定”である。あなたはどんな
方法で決断に至ってもよい。結果さえ良好であれば、それでOKなのだ。そこに
至るプロセスはどうでもいい。

 いや、もちろん現実には「プロセスはどうでもいい」とは言えない。経営判断
をヤマカンやダイスで決めるようなら、あなたは経営者失格とされることだろう。
しかし、それはあくまで「他の合理的なプロセスを用いた意思決定に比べ、ヤマ
カンやダイスによる意思決定は、良好な結果を出す確率が低い」から批判される
のである。重要なのはあくまで結果であり、意思決定プロセスは、いや意思決定
それ自体が、良い結果を生み出せるかどうかという点でしか問題にならないので
ある。

 それが証拠に、もしあなたが心底から信頼している占い師がいれば、あなたは
彼または彼女の指示に従って意思決定することを真剣に考えるに違いない。占い
師がどのようなメカニズムにより未来を見通すのか、それは分からない。しかし、
もしその占い師が「結果として最善の選択肢を教えてくれる」と確信できるので
あれば、あなたは占いによる意思決定を受け入れるだろう。意思決定においては、
結果こそが大切だからだ。

 余談になるが、不合理なプロセスによる意思決定は、そんなに珍しい話ではな
い。レーガン元大統領が占星術師の助言に従っていた、という逸話は有名だし、
オカルトや疑似宗教にハマってそれを経営に取り入れようとする経営者は決して
少なくない。いや、そもそも経営者という人種が、ビジネス本や経営論本、人生
訓本や自己啓発本、果てはカリスマ講演者にハマりがちなのも「面倒な意思決定
プロセスはすっ飛ばして、最良の結果だけを得たい」という気持ちの表れだろう。

 いわゆるビジネス本の多くが、合理的な根拠のない(ときにはオカルト的な)
「成功の法則」とやらをアピールしているのも、このためだ。嘘だと思うのなら、
書店に行ってビジネス書を何冊か買って読んでみるといい。(特に帯に「船井氏
推薦」という謎めいた呪文が書かれているものがよかろう。だが、内容について
私に文句を言わないでほしい)

 このように、“意思決定”においては、結果にこそ価値がある。意思決定のプ
ロセスや、意思決定という行為それ自体は、良い結果を生み出すか否か、という
観点でしか価値を持たず、「可能ならすっ飛ばしてしまいたい」ものなのだ。


**


 今度は、あなたはゲーマーであり、今まさにゲームをプレイしていて、複数の
選択肢のうちどの手を選ぶか悩んでいるとしよう。

 このとき、あなたに求められているのは“意志決定”である。あなたがゲーム
をプレイするということは、複数の選択肢のうちどの手を選ぶかを何らかの根拠
の下に、自分で決断するということだ。その結果は大した問題ではない。結果と
して勝とうが負けようが、それは本質的にはどうでもいいことなのだ。

 いや、もちろん現実には「勝敗はどうでもいい」とは言えない。勝てば嬉しい
し負ければ悔しい。しかし、ゲームにおける勝敗の意義とは、あくまで「意志決
定を行うために、勝利という“目標”が必要」とか「意志決定を魅力的なものに
するためには、勝利の嬉しさや敗北の悔しさが“動機付け”として重要」という
ところにある。我々ゲーマーは、勝利のためにゲームをプレイするのではなく、
ゲームをプレイするために勝利条件を必要とするのだ。

 それが証拠に、さきほどの占い師(あるいは藤原佐為でもよい)が、あなたの
背後にいて、「結果として最善の選択肢を教えてくれる」と確信できるとしよう。
あなたがゲーマーであれば、それでも(あるいは、それゆえに)、決して助言を
聞こうとはしないはずだ。助言通りにプレイすれば絶対勝てると分かっていても
「それじゃ、ゲームをプレイしたことにならない。つまらない」と思うだろう。

 このように“意志決定”においては、結果ではなく意志決定のプロセスや意志
決定という行為それ自体に価値があるのだ。


**


 前述したような意味での“意思決定”と“意志決定”は、異なる概念であり、
従って、似ているが異なる用語を当てはめたのは適切だった(と私は主張する)。

 では次に、“意志決定”についてさらに深く考えてみよう。

 ここまでの説明で、“意志決定”とは、複数の選択肢の中から1つを選ぶ際に、
何らかの根拠のもとに自分で決断する行為であり、そこから生ずる結果ではなく、
選択/決断というその行為自体に価値があるもの、であるということは分かった。
しかし、まだ疑問は残る。「その行為自体に価値がある」というのは、どういう
ことなのか。

 ここで言う「価値」とは、明らかに「金銭に換算できる」「取引の材料になる」
という経済的な意味ではない。「稀少である」「情報量が多い」といった意味で
もない。それは、ひどく主観的な「心惹かれる」「魅力を感じる」といった意味
の「価値」なのだ。すなわち、人間は“意志決定”という行為それ自体に魅力を
感じるということだ。

 では、どういう条件が成立すれば、選択/決断が“意志決定”になるのだろう
か。言い換えれば、どういうときに人間は、選択/決断という行為に「魅力」を
感じるのであろうか?


**


 さきほどのゲーマーの例を思い出してみよう。助言者の言う通りに選択/決断
するのは、意志決定ではなかった。人間は、他人の指示に従って選択/決断する
ことには魅力を感じないわけだ。

 他人の介在がいけないのだろうか?

 では、他人の代わりに、ソフトウェアの助言ならどうだろうか。例えば、よく
出来た「オセロゲーム(リバーシ)」のソフトは、まず大抵の人はとてもかなわ
ないほどの強さを誇っている。そこで、誰かとオセロゲームをプレイする際に、
同じ局面をソフトに入力して、ソフトが「最適手」と判断した手をそのまま打つ
ことにする。きっとあなたは勝つことが出来るだろう。しかし、これも「他人」
が「ソフトウェア」に代わっただけだ。助言者の言う通りに選択/決断している
という点で、意志決定ではないことは明らかだろう。

 では、意志決定か否かの決め手は、他者の助言によらず自分の力で選択/決断
することにあるのだろうか?

 またオセロゲームのソフトウェアについて考えてみよう。ここに超絶的な天才
がいて、このソフトのアルゴリズムを完全に記憶しており、局面を見ただけで、
頭の中でそのアルゴリズムに従った演算を行って「最適手」を算出できるものと
しよう。このような手順でオセロゲームをプレイするなら、他者は介在しないし、
自分の力で選択/決断してることになる。では、これは“意志決定”だろうか?

 やはり違う。この天才が頭の中でやっている作業は、ソフトウェアが行う演算、
すなわち「与えられた入力に対して決まったアルゴリズムを適用して出力を算出
する作業」に過ぎない。これは“意志決定”ではないし、ゲーマーにとって魅力
的な行為でもない。

 要するに、助言者(占い師、藤原佐為、ソフトウェア、アルゴリズム)の介在
が問題なのではない。たとえ自分で選択/決断したとしても、選択基準がはっき
り決まっていて、悩む余地がない、葛藤がない、ということが問題なのだ。人間
は、ある定まった手順やアルゴリズムによる選択/決断には、葛藤がないゆえに、
魅力を感じない、というわけだ。


**


 これで、選択/決断という行為が“意志決定”になる条件が見えてきた。今ま
での話をまとめてみよう。どうやらキーポイントは、「何らかの根拠に基づいた
選択」「自分で決断する」「葛藤を覚える」というところにあるらしい。

 ここから先は、私がぐじぐじ論じるよりも、次のドキュメントを読んで頂いた
方がいいだろう。意志決定について、非常に分かりやすく、見事にまとめている
資料だ。これは是非とも読んでほしい。印刷して、熟読することをお勧めする。
それだけの価値はある。


    「意志決定について」
     http://www.trpg-labo.com/rpg/decision.pdf


 ちゃんと読んだね?

 よろしい。

 では、選択/決断が“意志決定”になるためには、、次の3つの条件が必要だ
ということが分かったはずだ。もう一度、確認してみよう。


    1.葛藤

     複数の選択肢が、どれももっともらしく感じられ、どれが最適解かを
     判断することも、決まったアルゴリズムを適用して決めることも出来
     ない。このため心中に悩みや迷いが生ずる状態であること。

    2.結果に対する責任

     選択/決断の結果が有為な差を生み、それが自分に跳ね返ってくる、
     逃れようなく責任を持たなければならない、という自覚があること。

    3.アカウンタビリティ

     複数の選択肢について、ある程度まで情報が与えられており、選択/
     決断した理由や根拠を自分なりにきちんと持っていること。


 この3つの条件が成立する状況下で、複数の選択肢から選択/決断するとき、
人は“意志決定”を行ったことになる。そしてそのような”意志決定”は、結果
のいかんに関わらずそれ自体に価値があり、人はそのような行為に魅力を感じる、
というわけだ。


**


 人間が、上のような条件下における選択/決断に特別な魅力を感じるのはなぜ
か、それは私には分からない。進化心理学者や脳神経学者なら、何か説得力ある
仮説を持っているのかも知れない。だが、理由はともあれ、人は“意志決定”に
魅力を感じることは確かだ。そしてそれこそが、「ゲーム」というものが生まれ、
文化や宗教を越えて、人類全体に広く普及している理由に違いない。

 そう。「ゲーム」とは、つまるところ参加者に対して強制的に“意志決定”を
行わせるための仕掛けに他ならない。

 ゲームの参加者には、「管理資源」が与えられ、守るべき「制限」が明示され
る。そして、「障害」を克服して、「目標」を目指せ、と言われるのだ。目標に
たどり着くための最適手は明白ではない(葛藤)が、一手一手の判断により形勢
が変わることは明らかで(結果に対する責任)、不完全ながら「どのような手を
打てば、どんな結果になりそうか」を判断できるだけの情報がある(アカウンタ
ビリティ)。参加者は、このような条件下で、自分の手を選択/決断しなければ
ならない。つまり“意志決定”が強いられる。

 これが「ゲーム」だ。

 もうお分かりのことと思う。「ゲームの魅力」とは何か。それは“意志決定”
の魅力なのだ。


**


 「ゲームの魅力」について、さらに考えてみよう。

 例えば、ギャンブルもゲームの一種だが、これは“意志決定”の3条件のうち、
「結果に対する責任」に焦点を当てている。すなわち、選択/決断の結果が有為
な(ときに致命的な)差を生み、それが避けようもなく自分に跳ね返ってくる、
という自覚が、ギャンブルの魅力の大部分を生み出しているのだ。(試しに金を
賭けずにギャンブルをやってみれば、何がギャンブルの魅力を生み出しているの
かよく分かることと思う)

 交渉系マルチプレーヤーゲームにおいては、自分の決断が他の参加者に直接的
な利害をもたらすことが多いので、「アカウンタビリティ」が重視される。つま
り、この種のゲームにおいて他人と交渉するときには、「自分は何を目指してる
のか、なぜ他人にこのような提案を持ちかけるのか」ということを常に自覚して
いなければならない。

 場合によっては、文字通り「説明責任」が生ずることさえある。「自分はこう
いう理由から、大局的判断に基づき、こういう手を打ったのだ。無意味に他人の
邪魔をしているわけではない」などと自分の行動を正当化したり、「さあ、協力
して悪の帝国を滅ぼそうではないか。そのために私は私利私欲を捨て、君を援助
しよう。今こそ奴を叩くのだっ」とか煽動したり。この種のゲームの楽しさは、
何らかの方針や計画(あるいは策略)を持って交渉に臨むことにあり、ただ何と
なくプレイしてもさほど面白くないものだ。

 お分かりの通り、交渉系マルチプレーヤーゲームの魅力の多くは、“意志決定”
の3条件のうち、特にアカウンタビリティという点から生じている。

 他のゲームも同様だ。面白いゲームを取り上げて、その魅力が、つまるところ
どこから生じているのかを分析してみれば、きっと「葛藤」「結果に対する責任」
「アカウンタビリティ」という意志決定の3条件にたどり着くことだろう。


**


 では、TRPG(テーブルトークRPG)はどうか。

 TRPGはきわめて魅力的なゲームになり得る。つまり、他のゲームとは比べ
物にならないほど魅力的な“意志決定”を提供し得るゲームだ。

 何しろ、他のゲームで与えられる葛藤が「コマを動かすか、新たなコマを追加
するか、それともカードを1枚引くか」といったものであるのに対し、TRPG
では、


    ・戒律を破り、神の加護を失ってまで、約束を守るべきだろうか?

    ・ゲリラ兵と民間人の区別がつかない状況下において、眼前の村を殲滅
     して前進するか、迂回して背後を突かれる危険を犯すか、それとも、
     撤退して友軍を見捨てるか?

    ・味方の戦士が深手を負った。精霊召還儀式を中断して治療にあたるか、
     それとも、あと数ターン、戦士が耐えることを期待して、召還儀式を
     続けるか?

といった、非常に興味深い葛藤を作り出すことが出来るのだ。

 さらに、TRPGにおける意志決定には、「結果に対する責任」という面でも
興味深いものがある。プレーヤーの選択/決断によっては「キャラクターが死亡
して、ゲームから脱落」「今後ずっとキャンペーンが苦しい展開になる」「他の
プレーヤーやキャラクターに恨まれる」「後ろめたい気持ちや後悔や後味の悪さ
が残る」といった、プレーヤーの心、感情にダイレクトに訴えてくる結果が引き
起こされることが多い。精神的ダメージを受けることさえある。

 他のゲームでは、悪い結果といっても、せいぜい「状況が自分にとって不利に
なる」「勝ち目が薄くなる」という程度のものだ。ゲームから脱落したり、後日
のゲームにまで影響が残ったり、参加者が精神的ダメージを負ったりすることは
稀だろう。

 というわけで、TRPGにおける選択/決断は、他のゲームと比べて、結果が
いささか「重たい」ものになり得るため、いきおい真剣に取り組まざるを得なく
なるのだ。

 そして、TRPGにおける意志決定は、「アカウンタビリティ」という面でも
工夫されている。ゲームにおいて、参加者が自分の選択/決断にアカウンタビリ
ティを持つためには、「どのような選択/決断をすれば、どのような結果になり
そうか」という情報が(不完全でも)与えられていることが不可欠だ。TRPG
では、これらの情報が「背景世界」「設定情報」という形で、豊富に与えられる。
さらに、もっと詳しい情報を得るために様々な手段(調査、聞き取り、尋問、コ
ンピュータへの不正アクセス・・・)を試みることも出来る。ちなみに、どのよ
うな手段を用いて情報を得るべきか、それ自体が興味深い意志決定の対象となる。

 最後に、TRPGが真に独創的なのは、意志決定の機会を作り出しプレーヤー
達にそれを強制する仕事を、ゲームマスターに一任する、という仕掛けだろう。
これにより、毎回毎回、プレイする度に新しい意志決定を作り出すことが出来る
わけだ。

 このように、TRPGとは“意志決定”に関して、他のゲームには見られない、
きわめて斬新なアプローチを試みているゲームなのである。この可能性を活かせ
ば、独創的で、素晴らしい、魅力あふれるゲームになることが出来るだろう。


**


 しかしながら、TRPGが持っている上のような可能性は、実際には、十分に
活かされてるとは言いがたい。というのも、前述したようにTRPGにおいては、
意志決定の条件を成立させ、プレーヤー達に意志決定を強制する仕事はゲームマ
スターに一任されているわけだが、大抵のゲームマスターにはその自覚がないの
である。

 多くのゲームマスターは、プレーヤー達に真の葛藤を引き起こすようなジレン
マを突きつけることを嫌う。またプレーヤー達の選択/決断によりその後の展開
を大きく変えたり、悪い結果に対して責任をとらせることを、避けようとする。
そして、選択/決断を求めるときでも、こまめに情報を与えて考えさせるのでは
なく、ノリやストーリーの美しさや「目立ったもの勝ち」といった側面を強調し
て「深く考えず」決断するよう誘導する。要するに、前述した3条件を全て回避
しようとするのだ。

 お分かりの通り、これでは“意志決定”が成立するはずもないし、その魅力を
感じることも不可能だ。それゆえ、TRPGは、ゲームとしては、ひどくつまら
ないものになってしまう。

 それでもTRPGを楽しもうと思えば、ゲーム以外の要素、例えば、キャラク
タープレイであるとか、ストーリー創成だとか、ノリだとか、そういったものに
頼ることになるのは当然だろう。こうして、TRPGは、ゲームではない、何か
別種の(世間一般の人の目から見ると、ひどく怪しげでうさん臭い)遊戯に変容
してしまうのだ。

 このような歪んだ状態があまりにも長く続いたため、もはや多くの(特に最近
になってTRPGを始めた)人々は「TRPGを、ゲームとしてプレイする」と
いうことが何を意味するのか、それすら理解できなくなっているようだ。「自分
はTRPGのゲーム性を尊重している」と言う人ですら、具体的なことを尋ねて
みると、「ゲーム」ということを、「ルールを守る」とか、「戦闘時に確率計算
する」とか、「シナリオの先を読んで対処を考える」とか、実に皮相的にとらえ
ていたりする。

 あるいは「意志決定に楽しさを感じたことがない」という人と話をしてみると、
前述した3条件が十分に成立してない、単なる選択/決断のことを「意志決定」
だと思っていたりする。

 そうではない。そういうことではないのだ。

 TRPGがゲームになるためには、「葛藤」「結果に対する責任」「アカウン
タビリティ」という3つの条件をきちんと成立させた上で、選択/決断を強制す
ることが大切なのだ。これこそが「ゲーム」であり、それに比べれば、ルールを
守るとか勝ち目を計算するとか、そんなことはどうでもいい枝葉末節だ。

 実際、3条件を成立させるためにルールが邪魔になるなら、そんなものは無視
すればいい。数値データが3条件成立の妨げになるというのなら、そんなものは
教えなくてよいのだ。「ゲーム」とは、ルールやデータの集合ではない。ルール
やデータは、“意志決定”の3条件をよりはっきりと定量的に形作るための道具、
ツールに過ぎない。それが本質ではないのだ。


**


 このように、従来「テーブルトークRPGの魅力」だと考えられていたものは、
実は「テーブルトークRPGから意志決定の要素が抜けてしまい、ゲームとして
つまらないものになってしまった」ことから、それを補うために発達したものだ。

 だから、それらの“補足的な”魅力が、コンピュータRPGや、ネットワーク
RPGによってもっと見事に実現されたからといって、テーブルトークRPGの
未来を悲観する必要はない。今こそ、軽視されてきたテーブルトークRPG本来
の魅力、すなわちTRPG特有の意志決定が生み出す価値を追求すべきなのだ。

 ゲームマスターは、プレーヤーに次々と「葛藤」を与えるべきだ。見せかけの
選択肢ではなく、真に迷いが生ずる選択肢をぶつけ、各選択肢について生じ得る
結果をきちんと説明し、結果に対する責任を自覚させ、そして選択に必要な情報
を十分に与える。そして、プレーヤーが努力すればもっと情報が得られることも
明に伝える。

 そして、プレーヤーが何かを選択/決断すれば、その結果により展開を大きく
変えてやることで、決断に重みを持たせる。常に、次々に、息をつかせる間もな
く、意志決定を与え続けるのだ。それが、TRPGを、とてもエキサイティング
なゲームにするコツだ。


**


 では、このようなTRPG特有の意志決定を、コンピュータRPGや、ネット
ワークRPGが提供することは可能だろうか? 私は、不可能だとは言わないが、
非常に困難だろうと思う。

 その理由の1つは、コンピュータRPGでは、同じ選択/決断を何度でも繰り
返せるということにある。結果が気に入らなければ、セーブしたところに戻って
やり直せばよいのだ。これが「結果に対する責任」を骨抜きにしてしまうことは
明らかだろう。ネットワークRPGだって、本質的には同じことだ。システムで
用意されているイベントや課題には、何度でも挑戦することが出来るし、その度
に選択をやり直すことも出来る。

 つまり、コンピュータRPGや、ネットワークRPGにおいては、真に「取り
返しのつかない選択/決断」というものはないのだ。最悪でも、最初の状態まで
戻って新たにゲームを開始することが出来る。

 これに対して、テーブルトークRPGにおける選択/決断は、ほとんどの場合、
取り返しがつかない。特にキャンペーンの場合がそうだ。時間を戻してやり直し、
あるいは、最初からもう一度、ということは(理屈の上ではともかく)現実には
とても出来ない。いきおい、全ての選択/決断は、二度目のないまさに一期一会
の機会ということになる。これがテーブルトークRPGにおける“意志決定”を
真剣で価値の高いものにしてくれるのだ。

 もう1つ。少なくとも今のところ、コンピュータRPGやネットワークRPG
は、プレーヤー達に「結果に対する責任」を十分に感じさせることが出来ない。
つまり、「自分の選択で未来が変わる。ゆえに自分の責任は重大だ」という感覚
を与えることが出来ない。

 なぜなら、あなたが何らかの選択/決断を下すとき、心の底では「どの選択肢
についても、結果はすでにプログラムに書かれている。自分の選択によって変わ
るのは未来ではなく、どのサブルーチンが走るか(あるいはどのフラグが立つか)
ということに過ぎない」という事実を知っているからだ。また、あなた以外にも
何千何万という人々が同じゲームをプレイしてしており、全ての選択肢が何度も
試されているであろう(その結果は攻略本に書かれているかも知れない)という
事実もまた、結果に対するあなたの責任をひどく曖昧なものにしてしまう。

 テーブルトークRPGにおいては、プレーヤーが何らかの選択/決断を下すま
では、結果は決まっていない。ゲームマスターはある程度の想定をしているかも
知れないが、それは(プログラムに書かれている内容と違って)確定してない。

 だから、プレーヤーは「自分の選択によって未来が変わる」という感覚を持つ
ことができる。そして、生じた結果は、「自分の決断が招いたもの」だと感じる
ことが出来る。それに、テーブルトークPRGでは全く同じセッションは2つと
ないので、あなたの意志決定は、あなただけのものだ。あなたがどう決断するに
せよ、他の選択肢を誰か他人が試すなどということは決してない。これらの事実
は、結果に対するあなたの責任を、切実なものにしてくれる。

 最後に、これは私だけの感覚ではないと信じるものだが、ソフトウェアが人間
に対して真の「葛藤」を与えることは極めて困難だと感じる。ソフトは、少なく
とも今のソフトウェアは、心も、精神も、意志も持ってない。そこには、神秘的
なものは一切存在しない。どこかのプログラマーが書いた、アルゴリズムがある
だけだ。そういうものを前にして、真剣に悩んだり葛藤に苦しんだりするのは、
無理だろう。少なくとも私には出来ない。だって、そんなの、滑稽ではないか?

 だが、相手がゲームマスターなら話は別だ。ゲームマスターが私に何かを選択、
決断するように告げるとき、私は真剣になる。相手の目を意識するからだ。彼ま
たは彼女は、アルゴリズムではなく、何らかの神秘的なプロセス(精神とか意志
とか呼ばれる何か)によって考え、感じ、決断し、そして私のゲーマーとしての
腕前を評価する。彼または彼女は、ソフトウェアと違って、「尊厳を持つ存在」
だ。私は、一人の人間として、尊厳を持った相手に自分の意志決定がどのように
評価されるかを意識せざるを得ない。そして、真剣に悩むことになる。


**


 いつの日かソフトウェアが、プレーヤーに真の葛藤を与え、選択や決断の結果
に対する責任を切実に感じさせることが可能な「尊厳を持つ存在」になるだろう。
少なくとも原理的にそれが不可能だという理由はない。だが、それは、今日明日
のことではない。

 もしも、本コラムを読んでいるあなたが、コンピュータRPGやネットワーク
RPGのデザイナーや開発者であるなら、どうすればプレーヤーに対して魅力的
な“意志決定”の機会を提供できるか、それを考えてみてほしい。もちろん、あ
なたがRPGの名の下に目指しているものが、実はインタラクティブな「映画」
「ノベル」であるのなら、意志決定について考える必要はない。素晴らしい物語、
洗練されたストーリーを表現し、鑑賞者に感動を与えることに専念すればよい。

 だが、あなたが目指すものが「ゲーム」であるなら、“意志決定”ということ
について真剣に考える必要がある。

 そして、あなたがテーブルトークRPGのゲームマスター/プレーヤーである
のなら、どうか“意志決定”というものを大切にしてほしい。

 演技やストーリーやノリを捨てろと言うつもりはない。実際、それらの楽しみ
と“意志決定”の価値は矛盾しない。だが、もう少し“意志決定”に目を向けて
もいいだろう。なぜなら、そこにこそテーブルトークPRG特有の価値と魅力が
あるからだ。いつの日かソフトウェアが、プレーヤーに真の葛藤を与え、選択や
決断の結果に対する責任を切実に感じさせることを可能にする、そのときまでは。



馬場秀和
since 1962


馬場秀和が管理するRPG専門ウェブページ『馬場秀和ライブラリ』


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