馬場秀和のRPGコラム 2002年1月号



『ロールプレイもろくに出来ねぇのにキャラプレなんざ10年早いっ!』



2002年1月14日
馬場秀和 (babahide*at*da2.so-net.ne.jp)
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 この世には「プレイ」するものがたくさん存在する。スポーツ、楽器、芝居、
そしてゲーム。これらをまとめて「プレイヤブル」と呼ぶことにしよう。これら
プレイヤブルに共通して言えることがある。プレイには、スジの良し悪しという
ものがある、ということだ。

 プレイの“スジの良し悪し”とは何だろうか?

 一般に“スジの良い”プレイとは、基礎に忠実で、摂理に適っており、何より
繰り返すことで上達につながってゆく、そういうプレイを指す。“スジの悪い”
プレイはその逆で、自己流で、理に反し、いくら繰り返してもほとんど上達しな
いようなプレイを指す言葉だ。

 困ったことに、“スジの良い”プレイを促すような本能を人間は持っていない。
したがって、スポーツでも音楽でも何かしら特定のプレイヤブルを始めたばかり
の初心者は、きちんとした指導を受けない限り、ただ「楽しいから」というだけ
で自己流でいい加減な“スジの悪い”プレイばかりを繰り返すことになる。これ
では変なクセがつくだけで、決してある程度のレベル以上に上達することはない。
どんなに才能があったとしてもだ。

 プレイヤブルには、あるところまで上達しない限り決して分からない、喜び、
魅力、価値、が内在しているのだ。そう、スポーツしかり、音楽しかり、演劇し
かり、もちろんゲームしかりだ。この喜び、この魅力、この価値を感じ取れない
限り、真の意味でそれらをプレイしたとは言えないだろう。スジの悪いプレイか
ら得られるものは、ひどく表面的で薄っぺらい“楽しさ”だけだ。それは長続き
しない。そのような“楽しさ”も、そしてプレイそのものも。

 これが、スポーツや音楽や演劇などのプレイヤブルの世界で、指導、コーチン
グが重視される理由だ。まず表面的な“楽しさ”に引かれて入門してきた初心者
に対して、“スジのよい”プレイを教え、上達を促し、上達して初めて得られる
真の喜びや魅力を自分で発見するよう導く。これが指導者、コーチの仕事だ。

 上達した後にどうするかは、プレーヤー次第だ。プロを目指す者もごく少数な
がら存在するだろう。「人生の糧」とも言うべき一生ものの趣味にする者もいる
し、単にひとつの趣味/教養/人生経験として懐にしまう者もいるだろう。だが、
どの道を選ぼうと、彼らは真の意味でそのプレイヤブルを「プレイ」したのであ
り、それこそが何にも代えがたい経験なのだ。そして、それは指導、コーチング
なしには、決して得ることが出来ないものなのだ。


**


 というようなことは、スポーツや音楽といったプレイヤブルの世界では、ごく
当然のこととして受け入れられている。初心者は、スジの良いプレイを身につけ
ようとして、指導を受けるための場所を探す。そこが学校の部活であれ、同好会
であれ、公民館であれ、カルチャー教室であれ、やってきた初心者に対して指導
者は言うだろう。「さあ、ではまずちゃんとした姿勢から」「最初は、ドリブル
だけを徹底的に練習しましょう」「いつも指を確実に定位置に持ってゆくこと。
そこから全てが始まります」・・・。

 そして、初心者は、基礎体力をつけ、ドリブルやパスといった基本的な動きを
徹底的に練習させられる。素振りとフットワークを何千回も繰り返すように指示
される。バイエルやチェルニーの練習曲を何度も弾かされる。いきなり試合をし
たり、最初から一曲通して演奏したりすることは、まず許されない。

 こういう“スジの良い”プレイを身につけるための基礎練習は、地味で退屈な
ことが多い。試合や即興演奏の方が派手で楽しそうに見える。だから、こういう
愚痴も出るだろう。「別に私はプロを目指しているわけでもなく、ただ楽しみの
ためにやっているのに、何でこんな基礎練習ばかりやらなきゃならないんだ」。
実際、学校のスポーツ部に入部したばかりの新入生は、ほとんど誰もがこういう
愚痴をこぼす。が、同時に彼らはこれがただの愚痴だということを自覚している。
スポーツや音楽をプレイするからには上達しないと嬉しくなく、上達するために
はスジの良いプレイが必要で、それは地味な基礎練習を繰り返すことでしか身に
つかない。そう、指導者は正しい。初心者が基礎練習をさぼって、ただ「楽しさ」
のために試合や即興演奏ばかりやっていては、結局は本当の楽しさを台無しにす
るだけなのだ。こういうことは、常識として知られている。


**


 では、同じくプレイヤブルであるゲームの世界はどうだろう?

 一部のゲームは、スポーツや音楽ほどではないにせよ、スジの良し悪しや指導
といった考え方が定着している。例えば、将棋がそうだ。学校の将棋部に入部し
た新入生は、先輩や顧問からこう言われるだろう。「定跡や手筋を覚えなさい」。

 ちょっと考えると、盤面に駒を並べて、定跡手順を何度も繰り返し指して、細
かい変化をいちいち確認することが将棋の上達に役立つようには思えない。実際
の盤面が定跡通りに進むことは決してないからだ。そんなとき、定跡を知ってい
ても役に立たないのではないか。川柳にも「定跡を覚えて下手になりにけり」と
いうではないか。

 だがしかし、そうではない。定跡手順とは、要するに将棋の“スジのよい”プ
レイの見本であり、これを何度も何度も確認して覚えることで、自然に“スジの
よい”指し方の感覚が身につくのだ。こういう感覚が身につくと、スジの悪い指
し手は、直観的に「ダサい」「オモい」「ヌルい」と感じるようになる。

 将棋において定跡や手筋を覚える目的は、もちろんその知識が実際のプレイに
役立つということもあるが、むしろ上記のような感覚、一般的にいうと「ゲーム
感覚」を磨くことにあるのだ。これは、スポーツや音楽における基礎練習に相当
する。

 スポーツ部の新入生と同じく、将棋部の新入生も愚痴をこぼすことだろう。
「プロを目指すならともかく、ただ楽しみのために将棋を指すのに、定跡の勉強
なんて不要じゃん」。そこで先輩にこう言われるのだ。


 『矢倉定跡もろくに覚えてねぇのに振り飛車なんざ10年早いっ!』


 もちろんこれは、振り飛車より矢倉の方が初心者に向いているという意味では
ない。色々な戦法に手を出す前に、まずは基本的な指し手、“スジの良い”指し
手を学べ、言い換えれば、ゲーム感覚を磨け、ということだ。ここでも先輩は正
しい。定跡や手筋の勉強をさぼって、ただ「楽しさ」のために将棋を指すばかり
では、将棋を指すことから得られる本当の喜びや魅力、その価値を台無しにする
だけだ。将棋の世界でも、こういうことはやはり常識として知られている。

 囲碁も、将棋と同様であることは改めて言うまでもないだろう。

 麻雀はさほどでもないが、やはり上達につながる“打ちスジの良し悪し”なる
ものがある。私も、大学時代には、先輩諸氏から「麻雀に強くなりたかったら、
待ち読みだの迷彩だの場の流れだの、麻雀劇画みたいなことは忘れろ。役やドラ
も最初は意識するな。いつでも、どの牌を切れば、“もっとも待ち牌数が多い”
イーシャンテンに持ってゆけるかだけを考えるんだ。そのためにも、場に出てる
牌は全て完璧に頭に入れておけ」などと厳しい指導を受けたものだ。(ちなみに
指導料も高くついた)

 そういえば、最近では、いわゆるトレーディングカードゲームの正しいプレイ
方法を教える教育施設があるらしい。もちろんメーカーが自社製品を普及させる
ためにそのような施設を運営しているわけだが、そこには明らかにトレーディン
グカードゲームというものをスポーツや将棋のように普及、定着させようという
長期的な戦略が見て取れる。いずれは、他の成熟したプレイヤブルと同じように
「トレーディングカードゲームを本当に楽しむためには、指導者についてゲーム
感覚を磨き、“スジの良い”プレイを身につける必要がある」というのが常識に
なることだろう。


**


 さて、ではテーブルトークRPGの世界はどうだろう?

 残念ながらテーブルトークRPGの世界では、これまで述べてきたようなこと
は常識になっているとは言えない。とても言えない。プレイの“スジの良し悪し”
どころか、そもそも「上達する」という概念すら持ってない人が多い。上達へと
つながる正しい(スジの良い)プレイ方法を教えるための指導者も、そのための
教育施設もない。それらが必要だということすら、ほとんど議論されていない。

 はたしてTRPGサークルでは、新入会員に対してきちんとした指導、コーチ
ングが行われているだろうか。ロールプレイングの基礎も出来てないのに、キャ
ラクタープレイ(セリフや身振り手振りなどの演技)で盛り上がろうとする初心
者に対して、先輩はこう言ってくれるのだろうか。


 『ロールプレイもろくに出来ねぇのにキャラプレなんざ10年早いっ!』


 そういうことは、全くなさそうだ。TRPGサークルでも、TRPGコンベン
ションでも、指導やコーチングという活動はほとんど行われてないように思える。
そこでやっているのは、ただただセッションだけだ。これは、スポーツ部や器楽
部への新入生に対して、ボールやラケットや楽器を渡して「まぁ、好きなように
楽しんでよ」と言うだけ、というのに等しい。

 スポーツや音楽の世界なら、新入生は不満を持つだろう。「これじゃあまりに
も無責任ですよ、ちゃんと指導して下さい、先輩(先生)!」

 だが、TRPGの世界では、誰もこういうことを言わない。そもそも、指導者
やコーチがいないためだ。


**


 TRPGに上達するための正しい(スジの良い)プレイを普及させよう、とい
う話になると、ほとんど必ず、誰かがこういうことを言い出す。


  「TRPGは娯楽なので、どんなプレイをしようが、参加者全員が楽し
   んでる限り、そんなことは各人の自由である。特定のプレイスタイル
   を“正しい”とか“スジが良い”として、それ以外を否定するような
   考え方は間違っている」


 これは、前述したスポーツ部や将棋部の新入生の愚痴と本質的に同じなのだが、
違うのは、TRPG界ではこんな稚拙な主張がまかり通ってしまうということだ。

 ちょっと考えてみてほしい。例えば、バスケットボールの世界で「バスケット
は娯楽なので、どんなプレイをしようがルールに違反しない限り自由なはずだ。
ドリブルやパスなど特定のやり方を“正しい”とか“スジがよい”として、それ
以外を否定するような指導は間違っている」といった意見を、コーチが認めるだ
ろうか。囲碁の世界で「囲碁は娯楽なので、どこに石を置こうが、楽しければそ
れでいいんだ。特定の打ち方を“正しい”とか“スジがよい”として、それ以外
を否定するような手筋を教えるのは間違っている」といった主張で指導者を納得
させられるだろうか。

 もちろん、責任ある指導者やコーチは、こんな幼稚な屁理屈(というか単なる
愚痴)など一蹴するだろう。そして、彼らが何と言おうと正しい(スジの良い)
プレイを身につけるように指導するはずだ。それが指導者、コーチの責任だから
だ。それが、初心者に本当のプレイ、真の価値を見つけさせるための、唯一の道
だからだ。そう、娯楽だから、エンターティメントだから、楽しみのためにプレ
イするのだからといって、上達を目指さなくてもよいという理屈にはならない。
むしろ、その逆だ。本当の楽しみを見つけるためには、まずは上達しなければな
らないのだ。そのためには、どうしても”正しい”あるいは”スジの良い”プレ
イを身につけることが必要になる。

 TRPGの世界には、責任ある指導者、コーチが存在しない。指導者が不在の
まま、表面的で薄っぺらい「楽しさ」だけを目指す“スジの悪い”プレイがまか
り通り、それを誰かが問題にすると「楽しければそれでいいじゃないか。他人の
プレイスタイルを批判するな」といった屁理屈が返ってくる。お分かりの通り、
他の成熟したプレイヤブルの世界に比べて、TRPGの世界は、ひどく幼稚だ。
まったくもって、腹立たしいほどに。

 指導者、コーチが存在しないというのは、TRPG界の将来を真剣に考えるの
であれば、どうしても解決しなければならない重大な問題だ。TRPGの世界が
今のように幼稚なままでは、TRPGが、スポーツや音楽、演劇、囲碁、将棋の
ように広く社会に受け入れられる日は、決してやってこないことだろう。


**


 ところで、TRPGの正しいプレイング/マスターリング方法を教える指導者、
コーチに相当する人が全くいないというと語弊がある。少なくともTRPG人口
が今よりかなり多かった時代には、意識的にか無意識にかはともかく、指導者と
しての役目を果たしていた人もかなりいたと思う。初心者は、彼らのプレイング
やマスターリングを観察して、一生懸命に真似をして、そうやって上達していっ
たのだ。

 ちなみに私の場合、指導者に相当する人が二人いる。朱鷺田祐介氏と西尾弦一
氏だ。

 むろん、これは私が勝手にお二人を師と仰いでいるだけで、御両名は私のこと
を弟子あるいは生徒だとは思ってないだろう。私のことなど、とうの昔に忘れて
いるかもしれない。だが、それでも私にとって、二人はTRPGの師匠であり、
その昔、教えてもらったことに深く感謝する次第だ。

 私にとってこの二人は特別な存在だった。最初のうちはプレーヤーとして彼ら
のセッションに参加し、後に(おずおずと)ゲームマスターとしてセッションを
開いたときには、プレーヤーとして参加してもらった。その度にじっくり観察す
ることで、プレイングとマスターリングについて、やるべきことを沢山学んだ。
やるべきでないことも沢山学んだが。

(特に朱鷺田さんには、自作シナリオを読んで指導して頂くなど、その節は色々
とお世話になりました。この場を借りてお礼申し上げます。どうも、ありがとう
ございました)

 余談だが、私がひどく幸運だったのは、二人のスタイルが少なくとも表面的に
は全く異なっていたことだ。一見して、二人のやり方は全然似てなかった。にも
関わらず、両名とも、それはそれは見事にプレイング/マスターリングをやって
のけたものだ。それを目の当たりにした私としては「どうやらTRPGの技量と
いうものは、表面的な見た目とはあまり関係なく、もっと深い本質的なところに
あるらしい」ということについて真剣に考えざるを得なくなったわけだ。もし、
どちらか一人だけしか観察してなかったら、そういう問題意識を持ち得なかった
かもしれない。


**


 だが、こういう師弟制度みたいな方法には限界がある。特に、TRPG人口が
少なくなっている今はそうだ。TRPG界全体に技量の底上げを図るためには、
もっともっと指導者、コーチを増やすことが必要だ。初心者がどのTRPGサー
クルに入会しても、どのTRPGコンベンションに参加しても、誰かが指導者と
してついてくれる。そういうことが、スポーツや音楽や将棋のように当たり前に
ならなければいけない。

 そこで、考えるべき課題は、「いかにしてTRPGの指導者、コーチを育てる
か」ということになる。これはなかなかの難問だ。ある意味では、TRPG市場
を再建するよりもずっと難しい。

 私としては、まず最初の一歩として正しいゲーム感覚を持ったTRPGプレー
ヤーを増やすことが肝心だと思う。

 ゲーム感覚は、どんなゲームをプレイするときでも、とても大切だ。それは、
ゲームの構造を把握する能力であり、優れたゲームと凡庸なゲームを見分けるセ
ンスであり、さらにはゲームの本質を見抜く洞察力だ。もちろんTRPGにとっ
ても、ゲーム感覚は必須だ。TRPGの指導者、コーチに必要なものを1つだけ
挙げろと言われれば、私なら迷わず「ゲーム感覚」と答えるだろう。

 ゲーム感覚については、『ゲーム感覚 −あるいは実践的RPG入門−』
というコラムにも書いたので、もしまだお読みでなければ、ぜひ目を通して頂き
たい。

 ゲーム感覚を磨くには、どうすればよいだろうか。以前にも書いた通り、ボー
ドゲーム、カードゲーム、ダイスゲームといったTRPG以外のテーブルゲーム、
その中でも優れたものを数多くプレイすることが一番の近道だと、私はそう信じ
る。

 TRPGは、あまりにも自由度が高いゆえに、何をどうプレイしても何となく
ゲームをプレイしたような気になってしまう。だからゲーム感覚が磨かれない。
それに対して、その他のテーブルゲームは、ルールやプレイスタイルなどゲーム
構造(フレームワーク)が固定されており、デザイナーの意図を読み取って正し
くプレイしないと良い結果が得られないようになっているため、これらを真剣に
プレイすれば、ゲーム構造を把握し、デザイナーの意図を読み取り、どうすれば
“正しい”プレイになるかを考える、そういった習慣が身につく。これこそゲー
ム感覚を磨くための基礎練習に他ならない。

 ゆえに、私は出来るだけ多くのTRPGプレーヤーに、特に初心者には、あえ
てTRPG以外のテーブルゲームをプレイすることを強くお勧めしたい。という
より、他のテーブルゲームのプレイ経験が少ない人がTRPGに手を出すことを
全面的に禁止したいほどだ。(ゲーム感覚を身につけずにTRPGをプレイする
と、どうしても“スジの悪い”プレイスタイルが身についてしまう危険がある)


**


 というわけで、2002年の馬場コラムは、TRPG以外の優れたテーブルゲーム、
特にゲーム感覚を磨くのに適した作品を毎回紹介しようと思う。それも、ただの
紹介やレビューではなく、そのテーブルゲームがどのようなゲーム感覚を磨いて
くれるのか、それがTRPGに上達するためにどのように役立つのか、そして、
いつの日か、読者がTRPG指導者としての役目を担うときがくれば、初心者に
何をどう教えてあげればよいのか、そういったことを中心に書いてゆくこととし
たい。

 これは、おそらくまだ誰もやったことのない新たな試みだと思う。今までにも、
TRPGプレーヤーに対して、「TRPGだけじゃなく、他のテーブルゲームも
やってみよう!」と誘ったり、優れたテーブルゲームを紹介する記事はあった。
だがTRPG以外のテーブルゲームをプレイすることが、TRPGの上達にどの
ように役立つのかを、TRPG側の立場から考察したものはなかったのではない
だろうか。

 正直言って、私にもうまく書ける自信はないが、でもやってみることにしよう。
それはTRPG界の将来にとって本当に大切で、そして誰かがやらなければなら
ないことだから。



馬場秀和
since 1962


馬場秀和が管理するRPG専門ウェブページ『馬場秀和ライブラリ』


 この記事はScoops RPGを支える有志の手によって書かれたもので、あらゆる著作権は著者に属します。転載などの連絡は著者宛てにしてください。

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