馬場秀和のRPGコラム 2002年5月号



『“ライヤーズダイス”とゲームデザイナーの介入』



2002年5月28日
馬場秀和 (babahide*at*da2.so-net.ne.jp)
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 ゲームデザイナーこそは、世界で二番目に古い職業である。

 私はそう思うのだが、むろんこれには様々な異論があることも承知している。
 なにしろ、地球上のあらゆる酒場で、いつでも「世界で二番目に古い職業」と
いうテーマについて活発に議論が行われているのだ。(おそらく、誰もが、本心
では“一番目”についての情報交換をしたいのだろうが、何にせよ話の切り出し
方には順序というものがあるらしい)

 この議論についてより深く知りたい方には、次のページをお勧めしておこう。


  『世界で二番目に古い職業』
    http://www.med-legend.com/column/urbanlegend8.html#second_oldest_profession


 さて、世界で二番目に古いかどうかはこの際置いておくとしても、ゲームデザ
イナーという仕事には長い長い歴史があることは間違いない。何しろ人類は太古
の昔からゲームをプレイしてきたのだから。

 食料や安全など、生存に必要な条件がある程度満たされると、人間は本能的に
「他人に認められたい」「自分の能力を試したい」「今までにない新しい体験を
したい」といった欲求を覚える。これらの、いわゆる社会的欲求を満たすために、
人類はゲームを必要とするのだ。どんな時代にも、どんな文明においても。

 おそらく初期のゲームは、参加者が自らルールを定めて行う競争だったのだろ
う。「日暮れまでに獲物(game)を沢山とった方が勝ち」といったような。

 しかし、「参加者がルールを決める」という方式には、様々な欠点があること
は明らかだ。例えば、この方式だと、権力(あるいは腕力)の強い参加者が自分
に有利なようにルールを決めてしまうので、どうしても不公平が生ずる。

 そこで、すぐに新しい方式、すなわち「公平な第三者」がルールを決め、複数
の参加者がそのルールに従って競争する、というやり方が生まれたであろうこと
は想像に難くない。これが、ゲームデザイナーの誕生だ。

 やがて、競争する度にルールを作るのは面倒なので、よく出来たルールが何度
も再使用されるようになったに違いない。特別に出来の良いルールは、別の土地
にも伝えられたことだろう。広く普及したルールは、作者が死んだ後も、ずっと
使い続けられることになったはずだ。こうして、ルールはその作者の手を離れ、
別の場所で、別の時代に、作者について何も知らない参加者によってプレイされ
るようになっていったのだ。


**


 こうなると、ゲームのプレーヤーにとって、ゲームデザイナーは、いわば神の
ようなものと言ってよいだろう。

 例えば、私は囲碁のデザイナーについて何も知らない。彼または彼女がどのよ
うな人物であったのか、1人なのか複数なのか、全く分からない。だが、私が碁
を打つとき、私はデザイナーが定めたルールに従い、デザイナーが意図したゲー
ム展開(両プレーヤーが自分の領土を広げ、相手のそれを少しでも奪おうとして、
複雑に絡み合った2つの陣地が盤面に広がってゆく)の実現に尽力する。囲碁を
プレイしているとき、囲碁のデザイナーは、私とその対戦者にとって、神の役割
を果たしていることになる。

 ゲームデザイナーを神に例えるのなら、ゲームデザイナーの仕事は、神による
天地創造に例えることが出来るだろう。

 神が世界を創造する。すなわち、自然法則を定め、世界の初期状態を決定し、
世界の範囲(境界)を定める。すると後は、作り上げた世界に介入しなくても、
自然の営みと人々の活動により、神の意図が(大筋で)自動的に実現されてゆく。

 同様に、ゲームデザイナーはゲームを創造する。要するに、ルールと初期条件
と境界条件を定める。後は、デザイナー本人がゲームに直接的に介入しなくても
(それどころか、そのゲームが、デザイナー本人よりずっと後の時代、全く別の
文明においてプレイされたとしても)、プレーヤー達の活動によりデザイナーの
意図が(大筋で)自動的に盤面に実現されてゆく。

 ほとんどのボードゲームにおいて、ゲームデザイナーの位置づけは上の通りに
なっている。つまりゲームデザイナーがゲームに介入するのは、基本的にはそれ
をデザインするときだけだ。実際のプレイには一切タッチしない。ゲームの展開
は全てプレーヤーに任され、プレーヤーの尽力によりゲームはデザイナーが意図
した通りに展開する。これを「天地創造型の介入」と呼ぶことにしよう。


**


 ところで、「神は天地創造のとき一度だけ世界に介入し、それ以降は一切介入
していない」という考え方は、実のところあまり人気がない。

 というのも、この考え方だと、この世に起こる出来事は全て天地創造のときに
(少なくとも大筋で)決定されており、人間の自由意志で変えることは出来ない
ということになるからだ。あるいは、神は天地創造それ自体で満足してしまい、
創られた世界や人々がその後どうなろうとあまり気にしなかった、と見なすこと
も出来るかも知れないが、どちらにしてもこういう考え方は信仰を広める役には
立ちそうにない。

 やはり「神は世界や人々の行く末について気にしているが、人間は自由意志に
よって神の意図を台無しにすることも出来るので、ときどき世界に介入してやる
(神の意図に沿う者には福音を与え、そうでない者には災厄を与える)必要があ
るのだ」という考え方の方が、信仰の価値を大いに高めてくれるので、宗教的に
も神学的にも社会的にも、何かと都合がよろしい。

 これは「逐次介入」と呼べるだろう。さきほどの天地創造型の介入という考え
方より、逐次介入という考え方の方が、ミームとしても成功率が高いはずだ。


**


 では、同様のことを、ゲームデザイナーについて考えてみよう。

 前述した通り、天地創造型の介入だと、ゲームの展開は、それがデザインされ
た時点で(少なくとも大筋で)決定されており、プレーヤーの自由意志や好みに
よって変えることは出来ないことになる。実際、これはほとんどのボードゲーム
について正しい。

 ここで「ゲームの展開」というときには、もちろん非常に大局的な話をしてい
る。どんなゲームだって、細かい局面の展開は、むろんプレイする度に異なる。
しかしながら、それが大局的にどんな展開をするかという事は、少なくとも大筋
では、事前に決まっているのだ。

 例えば、将棋やチェスといったゲームでは、両プレーヤーが交互に盤面上の駒
を動かし、相手の防衛陣の突破を試み、やがては自軍の駒が敵軍の最高位の駒に
迫って、それを相手より先に「詰み」の状態にした方が勝つ、という展開になる
ことが決まっている。麻雀やラミーキューブは、複数のプレーヤーが順番に牌を
入手し、手持ちの牌のセットを改善してゆき、最初に手元のセットが一定条件を
満たしたことを宣言し開示した者が勝つ、という展開になるゲームである。

 こういった最も大局的なレベルで考えるなら、全てのボードゲームについて
「ゲームの展開」は事前に決定されていることになる。

 これは当然だ、と思えるだろう。大局的にみても「どんな展開をするのかすら
決まってない」ようなルールは、どうしようもなく不完全なもので、とてもゲー
ムのルールとは呼べないのではないか。

 ゲームの歴史を通じて、ずっとこれは疑問をさしはさむ余地のない自明のこと
と見なされてきた。だからこそ、ゲームのルールについては、その完成度が重視
されるわけだ。誰が、いつ、どんな状況下でプレイしても、大局的には同じ展開
になる、それこそが完成度の高いルールの特徴であり、そしてゲームのルールは
完成度が高くなければならない。もっともな話だ。

 しかしながら、よく考えてみると、これはゲームデザイナーが「天地創造型の
介入」を採用しているという前提があっての話だ、ということに気づくだろう。
つまり、ゲームデザインが終わった後はゲームに介入できないからこそ、最初か
ら完成度の高いルールが求められるわけだ。

 では、この前提を崩したら、すなわちゲームデザイナーが「逐次介入」を採用
したら、はたしてどうなるだろうか。そもそもそんなことが可能なのだろうか。


**


 ここで再び、神のやり方を参考にしてみよう。

 この世で起こる様々な出来事に対し神が直接的に介入することは、決してない
とは言えないが、まあ非常にまれなことであろう。だからこそ、それは奇跡とか
呼ばれて珍重されるのだ。

 その代わり、神は自分のエージェント(代理人)を使って現世に介入すること
になっている。神のエージェントには、文化や文脈によって、「天使」「精霊」
「使途」「預言者」「シャーマン」「アリシアのメンター」など様々な呼称があ
るが、いずれも神の意志を人に伝えたり、ときに世界に直接介入して影響を与え
る存在だ。

 彼らが、あるいはそれらが、自分が神の意志を代弁/代行しているということ
を自覚し、その勤めを着実に果たすなら、神が直接的に介入しなくても、世界や
人々は大筋で神の意志に沿う方向に進んでゆくことが期待できる、というわけだ。


**


 では、ゲームデザイナーも、ゲームに介入するためのエージェントを雇うとい
うのはどうだろうか。

 このやり方だと、まずゲームデザインにおいては、ルールの完成度をわざと下
げておく。すなわち基本的なゲームコンセプトだけを決め、細かいルール、初期
条件、境界条件といったものは曖昧にし、ゲーム展開が固定されないようにする。
そして、実際にゲームがプレイされる度に、専任のエージェントを現場に派遣す
るのだ。

 エージェントはそのゲームのコンセプトを熟知しており、さらに今回のゲーム
の参加者たちについて性格や好み、要望をよく調べ、それに合わせて初期条件や
境界条件、目的や障害や制限を決める(ゲーム開始前に)。ゲームが始まると、
必要に応じ適宜プレイに介入し、ルールの完成度が低いために決められていない
様々なことを、その場その場で決定する(ゲームバランスが最適になるように)。
つまり実際のプレイ状況、ゲームの局面に合わせ、ルールの完成度を高めてゆく
わけだ。

 さらに、ゲーム展開が固定されてないことから生ずる様々なトラブルを防止し、
参加者間の仲裁を執り行い、その他ゲームをより良いものにするために必要なあ
らゆるサポート任務を遂行する。

 エージェントが、ゲームデザイナーの意志を代弁/代行していることを自覚し、
ゲームコンセプトの具体化/具現化につとめるなら、そのゲームは「天地創造型
の介入」を採用した「完成度の高い」ゲームより、もっと優れたものになり得る。
なにしろ、実際のプレイ状況やゲームの局面に合わせて完成度が高まるルール、
参加者の特性を考慮して調整された初期条件や境界条件、目的や障害や制限、そ
して事前に固定されていないゲーム展開、といった画期的なことが可能になるの
だから。

 問題は、多数のエージェントを雇い、派遣するためには、莫大な費用がかかる
という点だが、これについてはそれなりに解決手段がある。つまり、ゲーム参加
者の一人に依頼してエージェントになってもらうという手だ。要するに、ゲーム
デザイナーが特定のゲーム参加者と契約して、前述の通り任務を遂行することを
条件に、エージェントとしての特権を与えるのだ。

 何という素晴らしいアイデア!

 しかし、あなたが「エージェント制による逐次介入方式を採用することにより
画期的な特性を持つ新しいゲーム」というこのアイデアを権利化して大儲けしよ
うと考えたなら、残念ながら手遅れだ。長いゲームの歴史の中で、このアイデア
がものになるまで何千年もの歳月が必要だったが、それでも20世紀の後半には
これがとうとう実現されている。そう、今日、ロールプレイングゲーム、RPG
と呼ばれているゲーム。日本ではテーブルトークRPG(TRPG)と呼ばれて
いる、あれだ。


**


 お分かりの通り、「ゲームデザイナーの代理人となって、ゲームコンセプトの
具体化/具現化につとめる」という責務を果たす特別な参加者、それがいわゆる
ゲームマスターに他ならない。

 こうして、我々はTRPGにおけるゲームマスターの位置づけを正しく理解し
たわけだ。以前のコラムにおいて、私はゲームマスターについて様々な宿題を出
したが、覚えておられるだろうか。今ここで、上記の理解に基づいた回答を示し
ておくことにしよう。


・ゲームマスターの職務は何か?

 それは、前述したような意味で、ゲームデザイナーの代理人となって、ゲーム
コンセプトの具体化/具現化につとめることである。もっと詳しく言うと、まず
ゲームコンセプトを理解し、ゲーム参加者の特性に合わせて初期条件や境界条件、
それに目的や障害や制限をゲーム開始前に決める(これは、「シナリオ作成」と
呼ばれている仕事だ)。ゲームが始まると、必要に応じて適宜プレイに介入し、
ルールの完成度が低いために決められてない様々なことを、その場その場で決定
する(ゲームバランスが最適になるように)。さらに、ゲーム展開が固定されて
ないことから生ずる様々なトラブルを防止し、参加者間の仲裁を執り行い、その
他ゲームをより良いものにするために必要なあらゆるサポート任務を遂行する。
これが、ゲームマスターの職務だ。


・ゲームマスターの存在意義は何か?

 それは、実際のプレイ状況やゲーム局面に合わせ完成度が高まってくるルール、
参加者の特性を考慮して調整された初期条件や境界条件、目的や障害や制限、そ
して事前に固定されてないゲーム展開、といった画期的な特性を備えたゲームを
実現することにある。それが、いわゆるロールプレイングゲームだ。


・ゲームマスターは、TRPGにとって本質的に必要なものか。
 それとも便宜的なものか?

 ゲームデザイナーのエージェントとしてのゲームマスターは、TRPGにとっ
て本質的に必要なものだ。それは、TRPGがTRPGであるための必須条件で
ある。ゲームマスターがいて、ゲームデザイナーのエージェントとしてゲームに
介入するからこそ、TRPGのルールは、一般的なボードゲームのそれと比べて
完成度が低くて、初期条件や境界条件が曖昧で、目的や障害や制限が抽象的で、
ゲーム展開が固定されていないのだ。そういったことは、全てゲームマスターが
補うことが想定されているのである。

 逆に言うと、ゲームマスターと呼ばれる参加者がいたとしても、彼または彼女
がゲームデザイナーのエージェントとして活動していないのであれば、やはりそ
のゲームをTRPGと呼ぶことは出来ない。


**


 将来、読者であるあなたがTRPGの指導者/コーチをつとめる日がやって来
れば(それが今の馬場コラムの目標だ)、生徒たちに、次のことをよく教えてあ
げてほしい。


 ・一般的なボードゲームは、ゲームデザイナーが「天地創造型の介入」方式を
  採用したゲームである

 ・それに対して、RPGとは、ゲームデザイナーが「逐次介入」方式を採用し
  たゲームである

 ・両者は、デザイナーの介入方式が違うだけで、その本質が異なるわけではな
  い。どちらも、ゲームという観点では本質的に同じものなのだ


 こういった当たり前に思えるであろうことをことさら強調するのは、かつて、
TRPGが「ごっこ遊びが進化したもの」とか「みんなでストーリーを創る遊戯」
などゲームとは別物と見なされたり、「即興演劇性」「ノリ」「なりきり」など
ゲームとしての本質から外れた側面ばかりがクローズアップされて、結果として
TRPGの健全な発展や、ゲームマスター/プレーヤーの技量向上が阻害された
暗い時代があったからだ。こうした混乱や有害な誤解を次世代に残さないように
することも、指導者/コーチの責任だということをよく自覚してほしい。


**


 あなたの生徒たちがボードゲームとTRPGの関係を正しく理解すれば、彼ら
は、「優れたボードゲームを学びプレイしてゲーム感覚を磨くことが、そのまま
TRPGの上達に役立つ」ということも、ごく自然に納得するだろう。

 最近の馬場コラムが、ボードゲームとTRPGの両方を取り上げ、両者に共通
している要素について考察する、という形式で書かれているのも「ボードゲーム
とTRPGは本質的に同じものである。ただ、ゲームデザイナーがゲームに介入
するための方式が異なるので、見かけが異なっているだけなのだ」ということを
はっきりさせるためだ。

 また、あなたの生徒たちがTRPGにおけるゲームマスターの位置づけを正し
く理解すれば、ゲームマスターとして最も大切な能力/スキルが何であるかも、
正しく理解してくれることだろう。それは、ゲームデザイナー(の代理人)とし
ての能力/スキル、例えば「ゲーム感覚」だ。

 これが分かってない生徒は、プレーヤー間の仲裁、ゲームを滞りなく進行させ
る手際、語りのうまさ、といったゲームマスターにとっては周辺技能に過ぎない
いわゆる「セッションハンドリング」の技量ばかりを磨き、ゲームコンセプトを
理解し、ゲームバランスを見抜き、優れたゲームを具現化する、といったゲーム
デザイナー(の代理人)として最も大切な能力/スキルの研鑽をおろそかにする
かも知れない。

 実際、ろくなゲーム感覚も持たず、ただ小賢しいセッションハンドリング技量
を身につけただけで「ベテランマスター」を自称する輩が、うようよいた時代も
過去にはあったのだ。指導者/コーチとして、生徒たちがそのような似非ゲーム
マスターにならないように、正しく導いてほしい。


**


 最後に。ゲームデザイナーの「逐次介入方式」がどのように機能しているかを
分析すれば、将来のTRPGが進むべき方向も見えてくるだろう。このテーマに
ついて、生徒たちに研究を勧めてみよう。いつの日にか、彼らの中から、未来の
TRPGをリードする優れたゲームデザイナーが現れるかも知れない。

 ゲームマスターを単なる調停役、ゲーム進行役と見なす人は「今後、TRPG
は、ゲームマスターがいなくても機能する“マスターレス”化の方向に進むこと
だろう」と予想するかも知れない。しかし、以前に論じた「コンビニRPG」の
ようにひたすら大衆化を目指す作品ならともかく、本格的なTRPGがマスター
レス化に進むことは考えにくい。なぜなら、ゲームマスターはTRPGにとって
必要悪ではなく、便宜上の役目でもなく、本質的に不可欠な存在だからだ。

 したがって、私としては、将来のTRPGはマスターレス化とは逆の方向へ、
例えば「参加者各人が、他の参加者に対して、ゲームマスター(あるいはゲーム
デザイナー)として機能する」といった方向へ進むと予想する。いわば、参加者
全員が、互いにゲームマスター/ゲームデザイナーになる、そんなTRPGだ。
それが具体的にどのようなものであるかは、正直なところ私にも想像できないの
だが。この予想を形にする仕事は、未来のゲームデザイナーに託すこととしたい。


**


 といったあたりで、今回のボードゲームを紹介しよう。

 今回とりあげるのは、『ライヤーズダイス』だ。

 何とまあ、このゲームは私の青春だったのだよ。というのは言い過ぎとしても、
とにかく私にとっては非常に思い入れの強いゲームだ。もしも、「あなたが最も
好きなボードゲーム」を選べ、と言われたら、悩みまくった挙げ句、最終的には
このゲームを選ぶだろうと思う。

 まだ私が若かりし頃、ボードゲームをプレイする場に出席するときには、必ず
ライヤーズダイスを持ち込んでプレイしたものだ。このゲーム、20〜30分で決着
がつく軽いゲームでありながら、誰とやっても、何人でやっても、いつでも手に
汗握るスリルとサスペンスを味わえる傑作なのだ。その上、何度プレイしても、
飽きるということがない。(というか、精神的な疲労のため、飽きるほど続けて
プレイするのは無理、と言ったほうが正確だが)

 ライヤーズダイスは、ブラフ(はったり)と心理的かけひきのゲームだ。他に
は何もないと言ってもよい。ルールはひどく短く簡単で、初めてルールを読んだ
人は、誰もが「何でこれでゲームになるんだ」と困惑するのではないか。そう、
ライヤーズダイスは、まさに「プレイしてみなければ分からない」という言葉が
ふさわしいゲームだ。ルールを読んでも、実際の面白さはとても想像できない。

 このあたりの感じを理解するには、プレイングカードゲームである「ポーカー」
を思い出してみてほしい。ポーカーをプレイするシーンは、様々な映画、漫画、
小説に登場する(ジョジョの第三部にも)。このため、実際のプレイ経験がない
方でも、ポーカーの面白さがカードプレイではなくブラフと心理戦にあることは
よくご存じだろう。だったら、ポーカーのルールをいくら読んでも、その面白さ
はとても想像できない、というのは納得して頂けることと思う。

 ライヤーズダイスも、それと同じなのだ。


**


 ところで、ポーカーを引き合いに出したが、これは単なる比喩ではない。

 ライヤーズダイスとポーカー、全く異なる外見をしたこの2つのゲーム、実は
深いところでつながっているのだ。

 これは、当時の私もうすうす感じていた。両者は、プレイ時の、何というか、
「感触」が似ているのだ。そういえば、ルールにも(用語こそ異なるが)共通す
る概念が用いられている。どちらにもベット(ビット、賭宣言)があり、ドロー
(振り直し、交換)で補給し、レイズ(せり上げ)の攻撃にコール(チャレンジ)
で応じて、ショウダウン(公開)で勝敗を決する。どちらのゲームにおいても、
相手の心理を読み切り、レイズが本物なのかブラフ(はったり)なのかを正しく
見抜くことが勝利への鍵となる。

 後で知ったことだが、実は、ライヤーズダイスは実際にポーカーから派生して
出来たゲームなのだ。感触や概念が似ているのは当然のことだったわけだ。


**


 どうやら、19世紀の前半に米国で生まれた「ブラフ」というプレイングカー
ドゲームが、これらのゲームの原型らしい。(異説あり)

 「ブラフ」が発展して、様々なバリェーションの「ポーカー」が生まれ、広く
普及した後、このゲームをダイスでプレイしてみようというアイデアが生まれた。
(なぜかは分からないが、たぶんカードよりダイスを愛する人がいたのだろう)
そこで作られたのが、「ポーカーダイス」という特殊なダイスである。

 ポーカーダイスというのは、通常の正六面体ダイスの各面に、9〜Aのカード
を描いたもので、これを5個振ると、ポーカーハンド(手役。ワンペアとかスト
レートとかフルハウスとかいうあれ)が出来るのだ。私も1セット持っているが、
正直に言うと、実際に使ったことはない。

 いくつも作られたポーカーダイス・ゲームのうち、「ライヤーダイス」という
ゲームがヒットしたらしい。これは、ポーカーから運の要素(カードの引きの良
し悪し)を極力抜いて、ブラフと心理戦だけで勝負が決まるように工夫したもの
だ。それと、ポーカーのドロップ(フォルド、降り)を廃止し、逃げられないよ
うにしたことが大きい。このために、緊張感がぐっと高まり、プレイ時間が短縮
された。

 これにさらに改良を加えてマルチプレーヤーゲームとして完成させたものが、
「ライヤーズダイス」だ。

 「ライヤーズダイス」では、とうとうポーカーダイス(したがって、ポーカー
ハンド)を捨ててしまい、普通のダイスに近いものを用いる。役の強弱をダイス
の目の数に置き換えて、ポーカーの手役を知らない人でも簡単にプレイできるよ
うに工夫したのだ。それと、複数のプレーヤーが連携してブラフをかけられるよ
うになったというのも画期的だ。自分以外のプレーヤー達が、本当に連携してる
のか、そのふりをして互いを陥れようとしてるのか、そこら辺を読む必要がある。
(素晴らしい)

 ライヤーズダイスは、その後に海を渡ってドイツに到着し、ドイツ語版が生ま
れたのだが、そのタイトルが何と「ブラフ」(Bluff) 。原型となった19世紀の
カードゲームのタイトルに回帰したわけだ。そして「ブラフ」は1993年のドイツ
ゲーム大賞を受賞している。魅力的なゲームは、どんなに表面的に形を変えても、
やっぱり魅力的なのだ。


**


 こうして、19世紀前半のカードゲーム「ブラフ」から、20世紀後半のダイ
スゲーム「ブラフ」まで一世紀半の歴史を追ってみると、優れたゲームは、時代
を超え、海を超え、文化を超え、生き延び、進化してゆく、ということがよく分
かる。

 また、ポーカーを代表とするこれらのゲームの面白さの核は、手役にではなく、
カードプレイにでもなく、もちろんダイスにでもなく、ベット/ドロー/レイズ
というシンプルで力強いゲームコンセプト(が生み出すブラフと心理戦)にある
ことも明らかだろう。

 今回、ライヤーズダイスを取り上げて長々と書いたのは、もちろんこのゲーム
が大好きだというのもあるが、「ゲームデザイナーのゲームへの介入」というこ
とについて理解する助けになると期待してのことだ。

 こんな風に考えてみよう。まず、最初に(いや二番目だったか)ゲームデザイ
ナーが誕生した。ゲームデザイナーは、ベット/ドロー/レイズという基本的な
ゲームコンセプトをデザインした。このコンセプトは非常に強力で、魅力的で、
プレイヤビリティが高かったが、抽象度も高く、そのままではゲームとしてプレ
イできない不完全なものだった。そこで、ゲームデザイナーの代理人が現れ、こ
のコンセプトを具体化/具現化していった。つまり、ルールの詳細、初期条件、
境界条件、目標と障害と制限を定めたのだ。こうして、基本となるゲームコンセ
プトから、各種スタイルのポーカー、ライヤーダイス、ライヤーズダイスといっ
た無数のバリェーションが生まれた・・・。

 もちろん、これは史実とはかけ離れた「たとえ話」だ。しかし、この「たとえ
話」を、うんとスケールダウンさせれば、TRPGにおけるゲームデザイナーと
ゲームマスターの位置づけが見えてくるのではないかと思う。

 つまり、TRPGのゲームデザイナーの仕事は、強力で、魅力的で、プレイヤ
ビリティの高い「基本的なゲームコンセプト」を創造することにある。しかし、
この創造物(TRPGのゲームシステム)は抽象度が高く、そのままではゲーム
としてプレイできない不完全なものでもある。そこで、ゲームマスターが現れ、
ゲームデザイナーの代理人として、ゲームコンセプトを具体化/具現化していく。
すなわち、シナリオを用意し、ゲーム開始時の状態、ゲームの舞台となる範囲を
明確化し、目標や制限や障害を決めて、実際にプレイできる状態にする。プレイ
中も必要に応じて介入し、ゲームコンセプトの具体化/具現化を継続する。こう
して、基本となるゲームシステムから、無数のセッションが生まれるのだ。


**


 TRPGにおけるゲームマスターは神だから何をしてもよい、と思っている人
がいるが、それは大間違いだ。ゲームマスターは神ではなく、ゲームデザイナー
の代理人だ。その存在意義は、ゲームデザイナーが創造したゲームコンセプトの
具体化/具現化にある。

 ゲームマスターの仕事とは、ベット/ドロー/レイズといったゲームコンセプ
トを理解して、そこからポーカーやライヤーズダイスといった実際にプレイする
ゲームをデザインする、ゲーム開始前にもプレイの最中にも随時デザインを続け
る、いわばそんな仕事なのだ。

 どうか、あなたの生徒たちにライヤーズダイスとポーカーを実際にプレイさせ
てほしい。そして、両者に共通しているゲームコンセプトは何か、その同じコン
セプトがどのように一見して全く異なるゲームとして具体化/具現化されている
のかを考えさせてほしい。その経験は、ゲームマスターについての洞察を大いに
深めてくれるに違いないのだから。


[ライヤーズダイスについて]

 現在、『ライヤーズダイス』は入手困難であるため、その代わりにドイツ語版
の『ブラフ』をお勧めする。些細な点を除き、両者のルールは同じである。一方、
備品の大きさ、重さ、喧しさ(騒音)といった物理的特性については、明らかに
『ブラフ』の方が改善されている。


『ブラフ』

  原題    : Bluff
  デザイナー : Richard Borg
  ゲーム会社 : Ravensburger
  プレイ人数 : 2〜6人
  プレイ時間 : 30分程度
  対象年齢  : 10歳以上



馬場秀和
since 1962


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