馬場秀和のRPGコラム 2003年2月号



『“RPGこそ「ディプロマシー」の子孫”(そうだろうか?)』



2003年2月28日
馬場秀和 (babahide*at*da2.so-net.ne.jp)
    スパム対策のために@を *at* と表記しています。メール送信時には、ここを半角 @ に直して宛先として下さい。






 さっさと本題に入ろう。まず、次のレビューをよく読んで頂きたい。


  『ディプロマシー』
    http://www.scoopsrpg.com/contents/review/rev030210_diplomacy.html


 さて、TRPGと『ディプロマシー』には何の関係もないように思われるだろ
うが、実は初期のTRPG論争においてこのゲームが重要な役割を果たしたこと
があるのだ。何しろ“RPGこそ「ディプロマシー」の子孫”というスローガン
が打ち出されたほどだ。

 今回は、この歴史について語ろう。

 読者よ、特に若者たちよ。先人から学ぼうとする姿勢をないがしろにしてはい
けませんぞ。


**


 さて、その論争のテーマとは「TRPGには様々な魅力があるが、この新しい
タイプのゲームを今後広く普及させてゆくためには、どのような魅力を強調すべ
きであろうか。言い換えれば、TRPGにとって最も重要な特徴は、何であると
我々は見なすべきか」というものだった。(当時は、TRPG黎明期だった)

 容易に想像がつくことと思うが、この問いかけに対する回答は、大きく2つに
分かれた。

 一つは「TRPGはもともとシミュレーションゲームの流れから生まれたもの
で、それらを拡張して戦闘以外の様々な行動を扱えるようにしたものである。
ゆえに、包括的できっちりとしたルールシステム、柔軟かつ幅広い適用が可能な
判定アルゴリズム。これらこそが、最も強調すべきTRPGの魅力である」とい
う見解。

 もう一つの回答は「TRPGは確かにシミュレーションゲームから派生してき
たものかも知れないが、実際のところ、プレーヤー間の会話、ロールプレイング、
演技、といった“ゲームらしからぬ点”にこそ、その新しさがあるのだ。従って、
我々は、これらの新しい魅力をこそ強調すべきだ」といったもの。

 ちなみに、この種の議論は、洋の東西を問わずどこでも行われていたようだ。
例えば、『スターウォーズ』TRPGにおいては、帝国軍が前者に近い公式見解
を、反乱軍が後者に近い主張を、それぞれ読者に対して提示していたりする。

 これは、なかなか微笑ましい仕掛けなので、ここでもそれぞれの見解の支持者
を、ユーモアを込めて、それぞれ「帝国軍」「反乱軍」と呼ぶことにしてみよう。

 なお、言うまでもないことだが、帝国軍はダークサイドだとか、そういう他意
はない。単に、TRPGの重要な特徴を、ルールシステムやアルゴリズムに求め
る立場が帝国軍、会話やロールプレイングに求める立場が反乱軍というだけだ。


**


 昔、昔、遠く離れたゲームコミュニティで・・・。

 帝国軍と反乱軍の論争は熾烈を極めていた。どちらの陣営も、TRPGという
この可能性に満ちた新しいタイプのゲームを日本で広く正しく普及させることを
自らの使命と考えており、その邪魔をする誤った抵抗勢力を無力化することこそ、
未来を切り開くために必要不可欠なことだと信じていたためだ。

 最初のうち、戦局は帝国軍の方に圧倒的に有利に展開した。なぜなら、帝国軍
は「自分たちの見解は事実に立脚している」と主張できたからだ。つまり、次の
ような感じだ。


  1.長年に渡ってプレイされ続けているゲーム、世代を越えて広く普及してい
   るゲームを見よ。囲碁、将棋、チェス、麻雀、ブリッジ、モノポリー。
   何ならラミーキューブ、スクラブル、最近すごい勢いで伸びているマジッ
   ク・ザ・ギャザリングを入れてもいい。いずれも、しっかりとしたルール
   システムを持ち、そこから生み出される豊かなゲーム性によって、多数の
   プレーヤーを魅了し続けているものばかりではないか。

  2.TRPGで最も(あるいは唯一と言ってもよい)成功しているD&Dだっ
   って、結局のところ、ほとんどのプレーヤーは、モンスターとの戦闘が楽
   しいからこそ、続けているのだ。多種多様な戦闘のオプション、魅力的な
   モンスター、シンプルながら人をわくわくさせるセービングスロー。
   仮に、こういった要素を全部抜いたとして、それでも「会話」や「ロール
   プレイング」だけのためにD&Dをプレイしようとする人が、いったいど
   のくらいいるだろうか。ほとんど存在しないだろうことは、反乱軍を含め、
   誰もが合意するだろう。

  3.これらの客観的な“事実”を見ても明らかなように、あるゲームが本当に
   広く普及するためには、完成度の高いきっちりとしたルールシステムと、
   そこから生ずるゲーム性こそが大切なのであり、それ以外の要素はほとん
   ど付け足しに過ぎないのだ。

  4.帝国軍の主張は、これらの客観的な事実を元にしているのに対し、反乱軍
   の主張と称するものは、要するに「自分にとってTRPGの魅力はここに
   ある。ゆえに、他の人にとっても同じであるはずだ/同じであるべきだ」
   と言い張っているだけで、何ら客観的な事実に立脚していない。
   どちらの主張を採用すべきかは、明らかである。


 むむ。確かにそうかも知れない。でも何となく違うような気もする。

 もちろん反乱軍も負けてはいなかった。ここで彼らが持ち出してきた武器が、
そう、『ディプロマシー』だったのだ。彼らはこう反撃した。


  1)『ディプロマシー』を見よ。60年代から今日までずっとプレイされ続け、
   多数のプレーヤーたちに愛されている名作である。これは否定できまい。

  2)『ディプロマシー』のシステムはかなりシンプルなものであり、そこから
   豊かなゲーム性とやらが生み出されているとは、とても思えない。
   実際、あのゲームの魅力の大半は、プレーヤー間の自由な交渉から生まれ
   るものではないか。交渉を制限あるいは制御するためのルールシステムや
   アルゴリズムは、何ら提供されていない。全てがプレーヤー間の会話にゆ
   だねられている。まさにそこが、ディプロマシーの良いところなのだ。

  3)TRPGは、ルールシステムやアルゴリズムではなく、プレーヤー同士の
   会話やロールプレイングによって進行するゲームだ。これは、すなわち、
   『ディプロマシー』が試みて成功した路線を、さらに先に進めたものでは
   ないか。そう、“RPGこそ「ディプロマシー」の子孫”、なのだ。

  4)以上の“事実”を見ても明らかなように、ゲームが普及するには必ずしも
   完成度の高いきっちりとしたルールシステムやゲーム性が必要なわけでは
   なく、会話とか交渉といった要素を強調することで成功する作品もあるの
   だ。反乱軍は、TRPGもそういう方向で普及と成功を目指すべきだ、と
   言ってるわけで、これは客観的事実に立脚した主張である。


 ふむ。これもまたうなずけるものがある。実のところ、帝国軍所属ゲーマーの
ほとんどは『ディプロマシー』が大好きだったわけで、これを持ち出すことで、
反乱軍は効果的に敵兵たちの志気を挫くことに成功したのであった。


**


 だが、帝国の逆襲が始まった。彼らは、前述した反乱軍のロジックチェーンの
うち、最も弱いと思われる輪、すなわち3)の部分に反撃の砲火を集中させた。
「RPGがディプロマシーの子孫だって?」、彼らは嘲笑した。
「そんな馬鹿な話があるものか」

 ところが、意外なことに、『ディプロマシー』についての議論が深まるにつれ、
確かにこのゲームはTRPGの先駆的な位置にある、という認識が強まっていっ
たのだ。

 例えば、『ディプロマシー』には、ロールプレイングの要素が含まれている。
それも、かなり色濃く。プレーヤー達は、「ヨーロッパ列強国の指導者」という
立場になって、そのように振る舞う自分を大いに楽しむ。

 前述したレビューにも、こう書いてある。

「公式にはプレイヤーの国の決定はランダムに決定されるのだが、実際には、プ
レイヤーはしばしば誰がどの列強をプレイするか決めていたりする」

 なぜだろうか。有利な国をプレイしたいからだろうか?

 いやいや、彼らは特定の国に愛着を持っており、その国の指導者になってみた
いのだ。あるいは(こちらの方がよくあることだが)、特定の国を打ち負かして
やることに、痺れるような喜びを見い出しているのだ。

 これは、ロールプレイングといってよい。この要素が、ディプロマシーの魅力
を形作る上で欠かすことの出来ない重要なピースであることは、誰にも否定でき
ないだろう。

 こう考えてみよう。4×9の行列(から2マスを塗りつぶして)に配置された
合計34マスからなるボードと、各マス間の接続関係を示すラインと、各マスに
配置する7色のチップから構成される抽象ゲームで、『ディプロマシー』と論理
的に全く等しいルールシステムを作ることは簡単に出来る。だが、もし『ディプ
ロマシー』がそういう抽象ゲームだったとしたら、あれほど多くのプレーヤーを
獲得したとは、到底考えられない。

 なぜなら、彼らが我が身を焦がさんばかりに切望しているのは、18個のマス
に自色のチップを置くことではなく、ヨーロッパを征服することだからだ!

 こう考えてみると、少なくともチェスやブリッジのような抽象ゲームに比べる
と、『ディプロマシー』は、ロールプレイングや会話や演技(わが国としては、
そのようなご判断は極めて重大な結果を招くだろうと忠告せざるを得ませんな、
閣下)の重要性が増しているという点で、確かにTRPGに近づいたゲームだと
言えるだろう。

 また、当時、大いに話題になった新作TRPG『アンバー:ダイスレス・ロー
ルプレイング』に関するレポートが提出され、これも強力な論拠となった。詳細な
分析レポートが指摘したのは、「アンバーのルールシステムは、ディプロマシー
のそれと本質的に同じである」ということだったのだ。

 『アンバー』のルールシステムは、ダイスによるランダム要素を排し、結果は
プレーヤー間の交渉に任せるというスタイルをとっている。各プレーヤーは、ど
こにどれだけのリソースをつぎ込むかを考える。むろん1人が持っているリソー
スでは不足するので、互いに交渉し協力を取り付けることが必要となる。結果は、
各プレーヤーがつぎ込んだリソースだけで完全に決定される。ランダム要素は、
たった1つ。他のプレーヤー達の判断だ。彼らが約束を守るとは限らない。
ううむ。これは確かに『ディプロマシー』だ。

 これは説得力があった。抽象ゲーム、伝統的ボードゲーム、ディプロマシー、
アンバー、TRPG、という風に並べると、確かにある方向に向かって(必ずし
も時系列順とは言えないまでも)連続的に変化してゆく流れのようなものを誰も
が感じた。

 ここに至って、帝国軍も、反乱軍が提示したロジックチェーンの有効性を認め
ざるを得なくなった。

 しかし、それでもなお、帝国軍は圧倒的な物量を誇っていた。

「よし分かった。ディプロマシーが反乱軍の見解を支持する事例の1つだという
ことは認めよう。だが、たった1つだ。それに対して、帝国軍を支持する事例は
以前から示しているように多数存在する。この事実を前に、何を持って反乱軍の
方が正当だ、などと言えるのであろうか」

 もちろん、反乱軍は物量差をものともしなかった。

「TRPGは新しいタイプのゲームだ。先例が少ないのは当然であり、そのこと
は何ら我々の主張の説得力を損なうものではないはずだ」


**


 こうして戦線は膠着状態に陥った。誰もが、この議論にはもう決着がつかない
だろうと感じた。

 そのとき、戦場に『コスティキャンのゲーム論』が駆けつけてきたのだ。

 『コスティキャンのゲーム論』が指摘したのは、ゲームの本質とか、ゲーム性
といったものは、ルールシステムそれ自体ではない、ということだ。ルールシス
テムや他のプレーヤーを前に、プレーヤーの心中で行われる "decision making"、
(後に「意志決定」と訳されることになる)その行為こそが「ゲーム性」の本質
である、というわけだ。

 この論は、極めて重要なものとなった。なぜなら、どう考えても両立しないと
思われていた帝国軍と反乱軍の主張を止揚し、最終的にほとんど誰もが納得する
統一見解をまとめあげることが出来たのは、まさにこの認識のおかげだったから
だ。

 そう。『ディプロマシー』のゲーム性は決して低くはないのだ。ただ、ルール
やアルゴリズムというよりも、プレーヤー間の会話や交渉が、その豊かなゲーム
性(すなわち意志決定)を生み出す源泉となっている、というだけのことである。
TRPGも同じように理解することが出来る。それは、会話やロールプレイング
を通じて、キャラクターがとるべき言動を「意志決定」するゲームだ。そこにあ
るゲーム性は、それを生み出すやり方が異なるだけで、『チェス』や『ディプロ
マシー』と比べて、本質的に差があるわけではないのだ。

 というわけで、いよいよ機は熟したと見た評議会は、停戦調停に乗り出した。

 帝国軍の「あるゲームが広く普及し、長年に渡ってプレイされ続けるためには
豊かなゲーム性こそが重要である」というテーゼは、確かに事実に基づいており、
正しい。だが、「ルールシステムとアルゴリズムが、すなわちゲーム性なのだ」
という認識は、誤っている。コスティキャン論が示す通り、"decision making"
(意志決定)を促すものは全てゲーム性の源泉、あるいは構成要素なのだ。ルー
ルシステムも、アルゴリズムも、プレーヤー間の交渉も、会話も、ロールプレイ
ングも、等しく「ゲーム性」を作り上げているコンポーネントと見なせる。

 これらのコンポーネントのうち、特にルールシステムやアルゴリズムに力点を
置いてデザインされたゲームが囲碁やチェスや麻雀やブリッジ、あるいはシミュ
レーションゲームであり、会話や交渉やロールプレイングに力点を置いてデザイ
ンされたゲームが、ディプロマシーやTRPGだというわけだ。どちらのグルー
プも、優れた意志決定を促す、という本質的な点から見ると、等しく「ゲーム性」
を追求しているのだ。

 結論。TRPGにとって本質的に重要な特性、普及を目指すために我々が強調
すべき点は「ゲーム性」すなわち意志決定にある。帝国軍と反乱軍の主張の違い
は、「ゲーム性」あるいは意志決定を生み出すためのデザイン手法の違いに過ぎ
ず、本質的な矛盾ではない。TRPGの普及促進活動において、両者は何ら対立
することなく、現実的に両立し、共に協力することが出来るはずだ。

 この統一見解は、両陣営ともに受け入れられる画期的なものだった。両軍は、
たちまち和解に至った。

 帝国軍は「TRPGを普及させる上で大切なのは、何よりもゲーム性であり、
演技とか感情移入とかノリといったものではない。ゲーム性こそが、その源泉が
何であろうと、TRPGを普及させるキーに他ならないのだ」という主張が認め
られたことで、深く満足した。

 反乱軍は「TRPGのゲーム性は、ルールシステムやアルゴリズムだけでなく、
プレーヤー間の会話やロールプレイングからも生み出されるものであり、完成度
の高い包括的なルールシステムを持つ、シミュレーションゲームに近いTRPG
がすなわち優れたTRPGだというわけでは全然ない」ということを納得させた
ことで、勝利を祝った。

 こうして、長年に渡って続いた論争に幕が下り、銀河には(束の間の)平和が
戻ったのであった。人々は陣営を越えて手を取り合い、多くの流血(は、さすが
になかったが)の上に築かれた統一見解をもとに、TRPG普及促進活動を進め
ていったのだ。


**


 もちろん、どちらの陣営にも頑固な、あるいは極論を唱えるメンバーが残った。

 終戦後も、帝国軍の極右残党は「ルールの規定範囲が少ないTRPGは駄目だ」、
「戦闘においては、ルールを濫用してでも、全力で生き残りを図るのは当然だ。
TRPGはゲームであって、ごっこ遊びじゃないんだから」「ゲームマスターと
いえど、明文化されたルールを破る権限はない」といった、極論を唱えていた。

 一方、反乱軍の極左残党も「TRPGの魅力はキャラクタープレイングや演技
やストーリー作成やノリといった、ゲーム性とは異なる部分にある」「ゲームマ
スターの仕事は、プレーヤーを楽しませることだ」「参加者が楽しんでいる限り、
TRPGをどんな風にプレイしようと勝手だ」といった、これまた極端な主張を
繰り返した。

 双方に共通しているのは、結局のところ、「私にとってのTRPGの魅力は、
こういうところにある。だから、他の人にとっても同じはずだ/同じであるべき
だ」という、客観性も論理性もない幼稚なプロパガンダを、言葉を変え、表現を
変え、ただただ繰り返しているに過ぎなかったことだ。そのため、次第に彼らは
誰にも相手にされなくなっていった。

 これに対して、統一見解を支持する人々は、様々な成果を生み出していった。

 自分に関することだけ述べるとしても、私は『コスティキャンのゲーム論』を
翻訳して、それを基盤としてTRPG教科書(マスターリング講座)を執筆し、
非常に高い評価を得た。また、その後も、TRPGコラムの連載を通じて議論を
さらに発展させてきた。

 これらの活動は、かつての熾烈な論争と、その結果として獲得した和解、そし
て両陣営が共に築き上げた統一見解を、その礎としているのだ。いかにこの統一
見解が正当かつ有益なものであったか、既に歴史が証明している通りである。
(ちなみに、前述した極右および極左プロパガンダは、ただ繰り返し唱えられる
だけで、今日に至るまで何ら具体的で有益な成果を生んでいない)


**


 というわけで、戦後、多くの人々は、TRPGコミュニティの中から『ディプ
ロマシー』のような傑作が次々に生まれてくる未来を想像した。今世紀(20世紀
のことだ)の終わりには、テーブルゲームの大半がTRPGまたはその発展形に
なっているだろう、と予想する人もいた。TRPGはかの『ディプロマシー』の
子孫であり、優れた血統を未来のゲーム史に残すであろう、と。

 ・・・残念ながら、そうはならなかったけど。

 いや、おそらく、レビューアーならこう言うかも知れない。
「しかり。ヴァンパイア:ザ・マスカレードこそ、ディプロマシー血族の末裔だ」

 そうかぁ?

 今日、発売から40年を経てなお『ディプロマシー』はプレイされ続けている。
ヴァンパイアは、40年後もプレイされているだろうか。いや、それを言うなら、
40年後もプレイされているTRPGがあるだろうか。これから、出てくるだろ うか?

 読者よ、特に若者たちよ。まずは『ディプロマシー』をプレイしてみたまえ。
そして自らに真剣に問いたまえ。囲碁、将棋、チェス、麻雀、ブリッジ、モノポ
リー、そしてディプロマシー。これらのゲーム史に不朽の名声を刻みつけ、殿堂
入りする名作ゲームが、はたしてTRPG業界から生まれてくるだろうか?
TRPGには、“「ディプロマシー」の子孫”を名乗る資格はあるのだろうか?

 今や、強者どもが夢の跡である。帝国軍も、反乱軍も、もう残ってはいない。
(残党の成れの果て以外には)

 かく言う私も、徒然なるままにTRPGコラムなど書いて、若者に説教をたれ
るだけの無力な老人に成り下がってしまった。

 さあ、歴史の話はここまで。ここから先を語り継ぐ仕事は、読者よ、若者たち
よ、あなた方に託すこととしよう。



馬場秀和
since 1962


馬場秀和が管理するRPG専門ウェブページ『馬場秀和ライブラリ』


 この記事はScoops RPGを支える有志の手によって書かれたもので、あらゆる著作権は著者に属します。転載などの連絡は著者宛てにしてください。

タイトルページへ戻る