馬場秀和のRPGコラム 2003年8月号



『場の流れに逆らうな』



2003年8月31日
馬場秀和 (babahide*at*da2.so-net.ne.jp)
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 いわゆる夏バテというやつだろうか、このところどうにも身体の調子が悪く、
気力も出ない。

 とにかく本コラムだけは命を削ってでも書こう、という決意でキーボードに向
かったのだが、そういや「肩の力を抜いて、さらりと書く」だの「身辺雑記風の
軽い読み物にする」だの「号によっては、ほとんどTRPGと関係ない随筆にな
る」だのと宣言したのだから、何も命を削ってまで頑張る必要はないような気が
してきた。うん。

 という具合に、ぐだぐだ書けない言い訳をしているのは、必ずしも夏バテだけ
が原因ではない。もちろん、歳のせいでもない。予定しているテーマが、ちと荷
が重い、というのが大きい。

 これまで「TRPGを築く土台(ロールプレイング)」と「TRPGを支える
柱(背景世界)」について書いてきた。次は、自然な流れとして、「TRPGを
覆う屋根」の話をしなければならないだろう。意識するしないに関わらず、TR
PGの全てをあまねく覆う巨大な屋根。すなわち「物語」と呼ばれているあれだ。

 うーん、困った。

 何から書き始めればよいのか見当もつかない。

 今までどれほど多くの作家、学者、思想家が「物語とは何か」というテーマに
ついて考えてきたことだろう。いくたの物語が、物語を物語る、ということそれ
自体について物語ってきたことだろう。

 その知の集積を考えると、さすがの私も無力感に打ちひしがれてしまう。いま
さら「物語」について何を書けばよいのだろうか。

 これは、ちと荷が重い。ううむ。

 そういうわけで、よし、今回はお休み。夏休みだ。

 一回休んで、レタスカードを捨てることにしよう。


**


 では、突然ながら今回のコラムは夏休みなので好き勝手なことを書かせて頂く。

 せっかくの夏なので、ひとつ怪談などいかがだろうか。

 怪談と言っても、怪獣談義のことではない。いや、怪獣談義もやりたい気がす
るが、私の世代がこれを始めるときりがないので、自粛しておこう。

 ここで言う怪談とは、幽霊話をはじめとする怪異や奇現象、オカルトについて
の話のことである。(日本には、夏にこういう話をする伝統があるのだ)
子供の頃から、私は怖がりのくせにそういうのが大好きで、雑誌や本でその手の
話を読んでは震え上がっていた。

 だが、物心がつくにつれて、どうやら海外で起こっている怪異の方が、そこら
のちんけな幽霊話などより、はるかにスケールが大きく、しかもあまり怖くない、
いや目茶苦茶に面白い、ということに気づいた。

 何しろ、飛行機や船が消滅する魔の海域、血を流す石像、湖に潜む巨大生物、
沈んだ大陸に空洞の地球、3億年前の足跡、住民全員が謎の消失をとげた村。
とにかく派手である。話がでかい。子供心にも「うわあ、外国って、すごいや」
と素直に感心したものだ。

 それからは、そういう話ばかりを追いかけるようになった。

 外国では、死者から電話がかかってきたり、人が自然発火したり、歯の詰め物
がラジオを受信したり、謎の宇宙生物が家畜を襲ったりする事件が、どこでもか
しこでも、日常的に起きているらしかった。すげえぜ、外国。

 図書館には、その手の話が乗っている本を集めたコーナーがあり、私はそこに
入りびたるようになった。大陸書房という出版社から出ている本は凄い、という
ことを発見して、あちこちの図書館を回って、とにかく大陸書房のその手の本を
読みあさった。続いて、角川文庫の「超自然の謎シリーズ」のとりこになった。
ムー別冊も見逃せない。歴史読本の別冊だって油断してはいけない。国書刊行会
「超科学シリーズ」、ボーダーランド文庫。そういやボーダーランドという雑誌
もあったなあ・・・。ああ、こうやって書いているだけで、ノスタルジーで胸が
一杯になるよ。

 今にして思えば、私は、実に平凡な子供だった。


**


 先日、とある掲示板で、空から生きた魚が降ってくるのを目撃したという体験
談を読んだ。魚やカエルが振ってくる話はよくあるのだが、その体験談がすさま
じかったのは、魚は地面に落下しないで空中にとどまり、びちびちと身をよじら
せながら浮遊していたということ、そいつがゆっくりと北西の方角に漂ってゆき
視界から消え去るのを、現場にいた20名ほどの目撃者がずっと見てた、という
ことだ。それは、凄い。私もぜひ見たかった。

 激しい落雷が落ちたとき、積み重なっていた皿のうち上から偶数枚目の皿だけ
が割れた、といった変な話も良い。深海底で発見された3本指の巨大な足跡、な
んていう話にもワクワクする。

 こういう、説明や解釈の余地を与えない、というか説明や解釈をする気になら
ない、何というか、あっけらかんと突き抜けた感じの、純粋怪異とでも呼ぶべき
奇現象が好きだ。

 残念ながら、こういう純粋怪異は少ない。奇現象が報告されると、皆が寄って
たかって分類し、無意味な説明を付け、それが常識となってしまうからだ。

 例えば、誰も手を触れてないのに家具が動いた、という怪異が起こる。すると
オカルト研究家がやってきて、こう言う。「ああ、それはポルターガイスト事件
ですよ。死者の残留思念か、または思春期の若者が放つ無意識のサイコキネシス
が原因ですね。それで説明がつきます」

 それ、全然、説明になってません。

 こうして、訳の分からない奇妙な出来事だったものは、分類され、ラベルを貼
られ、無意味な説明を付与され、標本のように干からびてしまう。もう、それは
純粋怪異ではない。ただの「ポルターガイスト事件のサンプル」に過ぎない。

 UFOだって、最初はどうにもわけの分からない、純粋怪異だったのだろう。

 それが「っていうか、あれ宇宙人の乗物だし」というのが常識になり、もはや
純粋怪異ではなくなってしまった。そのうちに「ああ、それは第三種接近遭遇の
ケース23aですね。政府の隠蔽工作も少しからんでいるようです。悪夢などの
後遺症が残るようなら、また連絡して下さい、そのときは逆行催眠を試してみま
しょう。では、お大事に」ということになる。

 UFO現象を、純粋にわけの分からない怪異として描いた本は驚くほど少ない。
例外としては、ジョン・A・キール著『モスマンの黙示』というのがある。若い
頃、この本を読んで圧倒的に面白いと感じたことを覚えており、つねづね読み返
したいなあと思っていたのだが、何しろ20年近く前に出版されたUFO本で、
言うまでもなく絶版になっているため、もう絶対に手に入らないと諦めていた。

 ところが、このヘンテコなUFO本が、リチャード・ギア主演で映画化された
ため(うわあ、外国って、すごいや)、ソニーマガジンズから新約で出版された
のだ。タイトルは『プロフェシー』である。どきどきしながら再読してみたが、
やっぱり面白かったので安心した。昔の、何となく不安と恐怖でワクワク心浮き
立つような、いい加減で何でもありのUFOシーンについて知りたい方、お勧め
ですよ。ちなみに、ジョン・A・キールが書いたオカルト本は、どれも真っ当
(オカルト本としては真っ当、という意味)で面白いです。翻訳が数冊出ている
ので読んであげて下さいね。


**


 しかしながら、どうして怪異や奇現象の話を聞くと、その現象よりもっと謎な
説明をつけ、分類して、納得したがる人が多いのだろうか。この点では「UFO
の正体はプラズマだ」というのと「UFOは宇宙人の乗物だ」というのに、何の
差もない。どちらも同じくらい証拠がなく、どちらも同じくらいありそうにない。

 要するに、人間は自分の周囲で「わけ分からない変な現象が、何の意味もなく
起こっている」とは考えたくないのだ。無理やりにでも「我々に見えている現象
の背後に、何かの“場”のようなものがあって、それが様々な事件を引き起こし
ている」といった説明をして、納得する方を好むのだ。

 そのような“場”が、ある人にとっては強力な電界(油断すると、プラズマを
発生させる)であり、別の人にとっては地球を監視する宇宙連合だったりする。
あるときは、波動だったり、時空連続体だったり、形態共鳴場だったり、集合的
無意識だったりする。陰謀組織の暗躍という場合もある。風水、星の配置、レイ
ライン、結界、オーラ、何でもありである。グローバリゼーションの進展、文明
の衝突、進まない構造改革、戦後民主主義教育の欠陥、なんてのもある。

 そういう馬鹿げたオカルト話には興味ありません、という人もいるだろうが、
そういう人だって、麻雀をやっているときには、本気で「場の流れに逆らうな」
などと言い出したりする。

 そう、麻雀卓の上には、牌や点棒やダイスだけではなく、何か目に見えない、
不思議な“場”というものがあり、それが流れたり、カゼを吹かせたり、ツキを
変えたり、牌を引き寄せたりする、と麻雀プレーヤーは信じている。それどころ
か、ウチマワシでしのげばツキを呼び込める、牌を鳴くことで場の流れが変わる、
アガリを逃すと次局の配牌はクズ手になる、トイツ場だからチートイ狙い、早い
リーチはイッスーソウ、などの不思議な法則まで信じている。いや、本当に信じ
ているかどうかはともかく、そういうことは常識として語られ、誰もそれを迷信
だ、オカルトだ、とは言わない。そういうものは、理性が何と言おうと、実感と
して「ある」からだ。


**


 バスケットボールには、“ホットハンド”と呼ばれる現象があるらしい。これ
は、一度シュートを決めた選手は、その後のシュート成功率がぐんと高まって、
連続してシュートに成功しやすくなる、というものだ。いわゆる「波に乗った」
状態。「今の流川は誰にも止められない」という、あれだ。

 これはいかにもありそうな話で、おそらくバスケットボールをプレイしている
人なら、誰もホットハンドの存在を疑わないのではなかろうか。

 ところが、これは有名な話なのだが、ある研究者が大量のデータを分析して、
この現象が客観的に存在しないことを証明した。つまり、シュートは、確率論で
いうところの独立試行であり、シュートの成否は、次のシュートの成功率に影響
しない、ということを明らかにしたのだ。

 ここで面白いのは、この結果を知らされたバスケートボール関係者の反応だ。
彼らは一様に「関係ないよ」と言って研究結果を無視したという。

 確かに、シュートが独立試行だということが客観的事実だとしても、バスケッ
トボールの試合にとってはどうでもよいことかも知れない。シューターが困難な
シュートを決める。味方サイドは「よし、波が来た。あいつにボールを集めろ」
となるし、敵サイドは「いかん、何としてでも止めろ。これ以上、あいつを調子
づかせたら取り返しがつかん」ということになる。

 敵も味方も、そして観客も、関係者全員がホットハンドの存在を当然のことと
し、それを前提に考え、行動するのだから、客観的にどうあれ、ホットハンドは
「存在する」というのと同じかも知れない。


**


 麻雀とバスケットボールを例にしたが、ランダム性が強いゲームやスポーツ、
ギャンブルには、必ずこういった「客観的には存在しないが、実感としては存在
する、場、流れ、ツキ、波」といったものがある。

 結局のところ、我々は、わざわざランダム性が強いゲームやスポーツをプレイ
しながら、そのランダム性(あるいは無意味性)に翻弄されることに、どうにも
納得がゆかない。そこで、一見してランダムに生ずるように見える様々な出来事
が「場の流れ」とか「ツキの配置」によって引き起こされている、とした上で、
それら場やツキを、己の技量や精神力や運によって支配した者が勝利を手にする、
という物語を構築するわけだ。

 そう、物語、である。

 それが、世界のランダム性、あるいは無意味性に対する我々の対抗手段なのだ。

 わけ分からない出来事が「レティクル座ゼータ星から来たエイリアンが、人類
を誘拐して生体実験している」ということになるのも、アガリ牌を引いたことが
「この局面で自力で牌を呼び込むとは、奴の、奴の運は、まだ尽きてねぇ!!」
ということになるのも、今回のコラムは夏休みなので好き勝手なことを書かせて
頂くと宣言して思いつきだけで筆を進めてきたのに「そう、物語、である」とか
急に言い出してまとめに入ろうとするのも、これ全てランダムで無意味な事象の
羅列に納得できず「ランダムで無意味に思えた事柄も、全ては何かの物語の一部
であり、物語的に意味があったのだ」と見なしたい人間の心理が原因だ。

 こう考えてくると、TRPGとは「そのままではランダムで無意味なイベント
に対し、物語の一部としての意味を与える(そのために物語を創生する)」活動
だと見なすことも出来る。

 ここで、TRPGにおいて、プレーヤーがキャラクターの言動を選択する際に
考慮すべき主な要因を思い出してみよう。


  1.どの選択肢が(キャラクターにとって)有利であるか

  2.どの選択肢が(世界にとって)リアルであるか

  3.どの選択肢が(プレーヤーにとって)心地よいか


 1.は挑戦(チャレンジ)、2.は模擬(シミュレーション)と呼ばれる。そして
3.が物語(ナラティブ)である。なぜ、プレーヤーは特定の選択肢を心地よいと
感じるのか。それは、物語が生み出され、それにより個々の事象が物語の一部と
して新たな意味づけを見い出してゆくというのは、私たち人間にとって大いなる
快感であるためだ。よく「TRPGは物語を創り出すゲームです」と説明される
ことがあるが、それは物語性を目指す選択(だけ)を指している。

 ときどき、ゲーム性重視と物語性重視は対立する姿勢だ、と考えているらしい
人がいるが、それは違う。挑戦/模擬/物語という3つの要因が互いに矛盾する
からこそ、意志決定が成り立つ、すなわちゲームがゲームとして成立するのだ。
3つの要素はどれもゲームを構成するために必要なものだ。ゆえに、ゲーム性を
重視する人は、論理的に言って、物語性も重視しなければならない。
(そうでないなら、その人はゲーム性というものについて理解してないのだ)

 ただ、その逆は成り立たないことに注意すべきだろう。物語性を重視する人が
ゲーム性を重視する論理的必要性はない。これがどのような問題を引き起こすか
と言うと・・・。


 いやいや、私はいったい何を熱く語っているのだろう。そもそも今回のコラム
は夏休みだったはずだ。ゲームと物語の関係について考えるのは、またの機会に
ということにしよう。



馬場秀和
since 1962


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