馬場秀和のRPGコラム 2003年11月号



『背景世界とキャラクターをつなぐもの』



2003年11月6日
馬場秀和 (babahide*at*da2.so-net.ne.jp)
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 私のコラムには、ときどき「観念的」だという主旨の批判が寄せられることが
ある。観念的であるということがどうして批判の根拠になるのかよく分からない
のだが、おそらく、経験的、あるいは感覚的なことにしか興味を持てない読者も
いるのだろう、と思われる。

 そこで今回のコラムでは、読者に対する配慮として、2つの目標に挑戦するこ
とにした。第一の目標は、最初から最後まで、観念的な話題に終始する、という
こと。第二の目標は、文中で「RPG」という言葉を絶対に使わないこと。

 すでに第二の目標達成には失敗したので、ここからは第一の目標に専念する。
まずは、「なぜ私は私なのか」という問題について考えてみることから始めよう。
充分に観念的な話題である、ということには同意して頂けるものと思うのだが、
いかがだろうか。


**


 「なぜ私は私なのか」というのは、要するにこういう問いかけだ。このコラム
を書いている「私」は、馬場秀和という名で呼ばれている特定の個人だが、なぜ
この「私」はベンさんでもなく、コスティキャンでもなく、「この私」なのか。
他の誰であっても、いやそれを言うなら犬や猫であってもよかったではないか。
虫や草、空に浮かぶ雲、岩、川、空気。それこそ森羅万象、何であったとしても
よかったはずなのに、なぜに私は「この私」という存在であり、この存在に他な
らないのだろうか。「存在するものは無数なのに、私はこの私という特定の存在
である」というのは非常に不可思議なことではないだろうか。子供の頃、こんな
疑問にとりつかれたことがある人は、きっと私だけではないはずだ。

 あらかじめお断りしておくが、この問いに答えを出すことは本コラムの目指す
ところではない。というか、こんな疑問に答えなぞあろうはずもない。ただ、こ
の観念的な疑問について、ある方向から少し考えてみるだけだ。

 さて。まず「なぜ私は私なのか」という疑問を提起した瞬間に、私が雲や風、
虫や草ではあり得ないことは明白だろう。なぜなら、このような疑問を持つこと
が出来るのは人間だけだからだ。

 当たり前じゃないか、と思われるかも知れないが、これは意外に重要なポイン
トである。つまり、ある種の疑問は、その疑問が提起されたというそのこと自体
によって答えに制限を付けてしまうということだ。この場合には、「“私”は、
その実態が何であれ、なぜ私は私なのか、という観念的な疑問を抱くだけの知的
能力がある存在でなければならない」という制限が付けられたことになる。これ
は能力的制限と呼ばれるものだ。

 同じように考えてみよう。「なぜ私は私なのか」などという抽象的で観念的な
疑問を持つ機会など決して持てない人は多いはずだ。生きるか死ぬかの瀬戸際で
一生を過ごす人。性格的にこんな疑問を抱くはずのない人。他に悩み考えなけれ
ばならないことで頭が一杯の人。いずれにしても、「私」がこの種の疑問を抱く
チャンスを得たことは確かであるから、「“私”は、なぜ私は私なのか、などと
いう浮き世離れした疑問を抱くチャンスを持った存在でなければならない」とい
う、これまた大きな制限、いわゆる機会的制限が付くわけだ。

 次に言語的制限がある。「なぜ私は私なのか」という疑問は、日本語である。
従って、「“私”は、日本語を理解できる存在でなければならない」ということ
になる。もちろん、日本語であることが重要なのではない。どんな疑問も、それ
が充分に観念的であるなら、特定の言語で表現されなければならない。従って、
必然的にそのような疑問を理解している“私”に対して言語的制限が付くわけだ。
(本コラムを翻訳版でお読みの方は、「日本語」というところを適宜読み替えて
下さい。主旨は言語的制約ということであって、本コラムの原文が日本語で書か
れているということとは独立です)

 こう考えてくると「無数に存在するあらゆるものの中で、なぜ私は特定の私と
いう存在であるのか」という疑問が持つ不思議さ、不可解さは、かなり薄れてし
まう。このような疑問を抱いた“私”なるものは、日本語を理解し、このような
浮き世離れした観念的な疑問を抱く機会と能力を持った人間でなければならない。
そのような能力的制約、機会的制約、言語的制約を満たす存在は決して無数には
存在しない。世界全体でも、数千万くらいしか存在しない。それ以外のあらゆる
存在、無数の存在、それらは決して“私”ではあり得ない。

 そう考えてみれば、後は確率的な問題になってしまう。私が「この私」だった
のは数千万分の1の確率かも知れないが、これは宝くじに当選する程度の確率で
ある。珍しいことではあるが、不可思議というほど例外的な事象ではない。


**


 もう少し考えてみることにしよう。

 まず1つ仮定を置いてみる。人類は永続的に存続し、今後も人口は無限に増加
を続ける、という仮定である。宇宙に果てしなく広がってゆく人類、という通俗
的なイメージをご想像願いたい。

 すると、先ほど書いた「珍しいことではあるが、不可思議というほど例外的な
事象ではない」という結論は誤っていることになりそうだ。なぜなら、遠い遠い
未来まで視野に入れて考えるなら、さきほどの制限を満たす「私であり得た存在」
の数は、数千万ではなく、無数になってしまうからだ。つまり、私がここにいる
この私(馬場秀和)であって、西暦5289年にクジラ座タウ星系コロニー23
で生まれたケン・ソゴルでないのはなぜか、というところまで疑問を拡大するな
ら、「時間軸上に無数に存在する、私であり得たもの全ての中で、なぜ私は今の
この私という特定の存在であるのか」という、最初の疑問と全く同質の問いかけ
にたどり着いてしまう。

 この疑問を解決する最も簡単な方法は、背理法を適用することだ。すなわち、
最初に置いた仮定を否定してそれを結論とする。「私は今この私である。ゆえに
人類は永続的には存在しない。これから先、私がこの今の私であることが確率的
に不可思議でない程度の人口が生まれたところで、人類は絶滅する」というわけ
だ。

 何じゃそりゃ、と叫ぶ前に、次の問題について考えてみてほしい。

「AとB、2つの人名データベースがある。Aには10名の人名が登録されてお
り、Bには1000万人の人名が登録されている。どちらのデータベースにも、
あなた自身のデータが登録されていることは分かっている。さて、ここに1台の
端末があり、キーを押す毎にデータベースに登録された人名をランダムな順番で
1名づつ表示してゆくようにプログラムされている。ただし、この端末がAとB
どちらのデータベースに接続されているかは分からない。あなたが、試しに端末
のキーを叩いてみると、3回目にあなたの名前が表示された。端末は、AとB、
どちらのデータベースに接続されていると思いますか」

 この問題には誰だってAと答えるだろう。もちろん、確率的にはBである可能
性もある。しかしながら、1000万人のデータがあるのに、たまたま最初の3
名のデータに自分が含まれている確率はかなり低い。しかし、データ全体の件数
がたった10名なら、これは大いにあり得ることだ。誰でもそう考えるはずだ。
そして、それは合理的な推測である。

 では、過去から未来永劫に渡ってこの宇宙に生まれてくる全ての人類が登録さ
れているデータベースというものを想像してみよう。端末のキーを叩く度にデー
タベースからランダムに選ばれた人間がこの世に生を受けるものとする。500
億回ほどキーを叩いたところで、あなたが生まれてきた。さて、ここで問題です。
この全人類データベースに登録されている人類の数はどのくらいだと推測すべき
でしょうか。

 さきほどの問題でAと答えた人は、この問題に対しても、「数千億人から、数
兆人くらいの範囲」と推測するはずだ。それなら、あなたが最初の500億人に
含まれていたのは、確率的に不可思議ではない。しかし、このデータベースに、
例えば「10の40乗」人ほどの人間が登録されているとすれば、あなたが最初
のわずか500億人に含まれるという偶然は、確率的に極めて不可思議である。
とてもありそうにない。これも、さきほどの問題と同様に合理的な推測に思える。

 これで「私は今この私である。ゆえに人類は永続的には存在しない。これから
先、私がこの今の私であることが確率的に不可思議でない程度の人口が生まれた
ところで、人類は絶滅する」という主張が、最初に感じられたほどには馬鹿げて
いないことがお分かりのことと思う。

 こうして、「人口は急激に増加している」「私は今この私である」という2つ
の事実だけから、何と「人類は遠からず絶滅するだろう」という、とんでもない
重大な結論が導かれるわけだ。素晴らしい論理のアクロバット。私は好きだな、
こういうの。

 ちなみに、これは私が考え出したものではなく、「終末論法」と呼ばれる有名
な議論だ。終末論法は正しいのか、それとも詭弁の一種なのか。多くの論理学者
や哲学者たちが論争しているらしいが、私の知る限り、今だに結論は得られてい
ない。あなたも一つ考えてみてはどうだろうか。

 終末論法の正当性はともかくとして、ここまでの観念的な議論で言いたかった
ことを整理しておこう。「ある種の疑問は、その疑問が提起されたことそれ自体
によって、回答に制限が付く」ということだ。これは「選択原理」と呼ばれる。


**


 次の話題に移ることにしよう。今度は「宇宙はなぜこのような宇宙なのか」と
いう疑問だ。これもまた充分に観念的な話だと認めて頂けることと思う。

 まず、宇宙の年齢について考えてみる。宇宙が誕生してから、140億年ほど
経過しているらしい。(ところで、宇宙の年齢の推測値はしょっちゅう変わるよ
うなので、140億年という具体的な値そのものの正確さはどうか気にしないで
頂きたい。以降の議論は、宇宙の年齢が130億歳でも150億歳でも何ら支障
なく成立する)

 さて、では、宇宙はなぜ140億歳なのだろうか。

 大急ぎで言っておくが、これは「天文学者たちが、なぜ宇宙の年齢を140億
年と推測しているのか」という疑問ではない。宇宙の年齢は何歳であってもよい
はずなのに、なぜ、たまたま140億歳という特定の値なのか、という疑問だ。

 宇宙の年齢は、1億歳であっても、1000億歳であっても、よいではないか。
知られている限りの自然法則からは、宇宙の年齢が何歳であるべし、という制限
は出てこない。宇宙の年齢は、観測によって調べるしかない事柄である。そして、
自然法則から導出され得ない観測結果というものが、「なぜそうなのか?」とい
う疑問にさらされるのは、ごく自然なことであろう。

 ここにも選択原理が働いていることは、既にお分かりのことだと思う。そもそ
も宇宙の年齢を問うほどの知的生命(人間)が存在するという事実により、宇宙
の年齢には大きな制約が課せられるのだ。

 まず知的であるほど複雑な生命体が存在するためには、複雑な物質構造を作り
出す元素(炭素など)が必要不可欠だ。若い宇宙には水素とヘリウムしか存在し
ないから、知的生命体も存在し得ない。まず何はともあれ恒星群が誕生し、それ
らが創り出した様々な元素が宇宙中にまき散らされ、それらの物質を豊富に含む
惑星を持った恒星系が存在するようになって、初めて生命が誕生する可能性が生
ずる。そこから知的生命体が発生して「宇宙の年齢」を問うようになるまでには、
それなりの時間がかかる。

 結果として、「宇宙の年齢は?」という問いが提起されたというそのこと自体
により、宇宙の年齢が100億歳より若いということはありそうもない、という
大きな制約が付くわけだ。

 実際、宇宙の年齢が140億歳というのは、おそらく下限に近い。すなわち、
宇宙が誕生してから140億年が経過し、「宇宙の年齢は?」という疑問が提起
される可能性が生じるやいなや、すぐにそのような疑問が提起された、というわ
けだ。従って、宇宙の年齢は、たまたま何の理由もなく140億歳であるという
わけではなく、むしろ、宇宙の年齢が問われた、というそのこと自体によって、
ほぼ必然的に回答はそのくらいの値になる、と考えられるのである。

 宇宙を観察している人間がそもそも存在する、というそのこと自体によって、
観察される宇宙には(大きな)制約が課せられる。この考え方は「人間原理」と
呼ばれている。これまた、さきほどの「終末論法」と同様に、素敵なアイデアだ。
両者が同一人物によって提唱されたというのも、またナイスである。(これは、
たぶん偶然ではない。選択原理が働いているのだろう)

 人間原理を、宇宙全体の存在や性質に対して適用することで、そもそも宇宙が
なぜ「この宇宙」なのか、という問いに挑戦することも出来る。要領はさきほど
の「私はなぜこの私なのか」について考えたのと同じだ。

 宇宙はどんな性質を持っていても良かっただろうに、なぜこのような自然法則
と基本定数を持った「この宇宙」なのか。それは、そもそも宇宙の性質を問うよ
うな知的生命が存在する、という事実が極めて厳しい制約条件を課すためだ。

 ここでは細かく議論しないが、知的生命、具体的には人間が存在するためには、
物理の基本定数が極めて厳密に調整されていることが必須であると判明している。
基本定数が現在の「この宇宙」とごくわずかに異なっている宇宙には、人間など
の知的生命は決して発生しないだろう、ということ自体には、ほとんどの科学者
が同意している。このことは「見事に調整された宇宙」などと表現される。

 宇宙を観測している人間がそもそも存在する、というそのこと自体によって、
観測される宇宙の性質(自然法則や基本定数)には厳しい制約が課せられている。
宇宙がたまたま「この宇宙」であるのは偶然ではなく、そもそも観測の対象とな
るような宇宙は、この宇宙のような「見事に調整された宇宙」でなければならな
いのだ。

 ここから先へ進む議論は2つあるだろう。1つは、宇宙はおそらく無数に存在
し、ありとあらゆる自然法則と基本定数の組み合わせが「実在」している。しか
しながら、その中で知的な観測者が存在し得る「見事に調整された宇宙」は極め
て少なく、そしてそのような宇宙のみが観測の対象となる。そのような観測可能
な宇宙の1つが「この宇宙」である。だから「この宇宙」が観測者である人間の
存在が可能なように「見事に調整された宇宙」であるのは不思議でも何でもない、
むしろ必然である、という主張だ。

 もう1つは、宇宙は知的生命の発生を目的に創造された、あるいは知的生命の
存在こそが宇宙を誕生させる原因となった、知的生命の存在は宇宙の意思である、
といった主張である。私には、これは科学者にとっての忌み言葉「逆さ犬」概念
を宇宙論にすべり込ませようとする姑息な主張に思えてしかたないのだが、まあ
主張は自由である。ただし、「人間原理」がこう主張しているとか、「人間原理」
からこういう結論が出る、というのは間違いであることは強調しておこう。人間
原理が主張しているのは「観察され得る宇宙は、そもそも観察者の存在が可能な
ような宇宙でなければならない」という、言ってみればあたり前のことだけで、
知的生命の誕生が宇宙の目的だとか、そのようなことは主張していない。(もち
ろん、観測されない宇宙が無数に実在する、ということも主張していない)
そのような主張をすることは可能だが、それは人間原理からは肯定も否定もされ
ないのだ。ここら辺を誤解させるような科学解説本が多いので、注意してほしい。


**


 ここまでの観念的な議論を整理しておこう。選択原理を宇宙に当てはめること
で、宇宙についての観念的な理解を深めることが出来る。これが人間原理である。

 まず、この宇宙の現在の状態(例えば年齢)について人間原理を適用すること
が出来る。この種の議論は「弱い人間原理」と呼ばれている。これに対して、さ
らに、この宇宙の性質(例えば自然法則と基本定数)についても人間原理を適用
することが出来る。この種の議論は「強い人間原理」と呼ばれている。

 余談だが、議論や主張を整理するとき、「強い」「弱い」という表現がよく用
いられる。これまでの枠組み(あるいはパラダイム)自体の見直しを含むものは、
「強い」議論や主張であり、既存の枠組みの中での議論や主張は「弱い」と表現
されるようだ。これは決して説得力の強弱ではないことに注意してほしい。

 さらに余談だが、この慣習に従って「強いキャラクタープレイ」「弱いキャラ
クタープレイ」という用語を提唱したのは私だが、これはとても評判が悪かった。
残念である。ここでいう、強い、弱い、は程度問題ではない。既存の枠組みであ
る「ゲーム」を破壊するキャラクタープレイを“強い”、「ゲーム」を補完する
キャラクタープレイを“弱い”と呼称したのであって、両者は質的に異なるもの
である。繰り返すが、これは程度問題ではない。

 今回のコラムでは「私は、なぜこの私なのか」「宇宙は、なぜこの宇宙なのか」
という観念的なことこの上ない話題について考えてきた。そして、人間原理を含
む「選択原理」というものが、自分(人間)と世界(宇宙)との関係を観念的な
レベルでかなり有効に説明してくれることが分かった。自分の存在は世界のあり
さまと関係しており、人間の存在は宇宙のありさまと関係している。両者は密接
に結びついているのだ。選択原理は、観念的なレベルでこのように語ってくれる。
これは、自己と世界を結びつける「物語」なのだ。

 さて、TRPGは選択原理に支配されている。そこでは、背景世界の存在から、
そこで生ずる出来事の1つ1つに至るまで、ほぼ全てが選択原理に従っている。
そこで、さあ、ようやく、前回のコラムに引き続いて「TRPGにおいて、物語
が果たしている役割」の1つについて、答えを出す準備が整った。だが、残念な
ことに、今回のコラムは観念論に終始すると決めたので、これ以上は書くことが
出来ない。仕方ないので、答えは、題名に書いておくことにしよう。



馬場秀和
since 1962


馬場秀和が管理するRPG専門ウェブページ『馬場秀和ライブラリ』


 この記事はScoops RPGを支える有志の手によって書かれたもので、あらゆる著作権は著者に属します。転載などの連絡は著者宛てにしてください。

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