約束一歩前

「お疲れ様、カナタ。どう? 終わった?」
「ごめん、まだ」
 執務時間終終了間近、ゼノが執務室にやってきた。ひょこっと顔を覗かせながらの問いかけに、簡潔に答える。まだ今日の執務が終わらなくて、顔をあげる余裕がない。
 終了時間きっちりに終わっていなければならない決まりはない。何時までやっていても問題はないし、時間になると執務室の電気が消され施錠されるルールもない。だから、焦ったり急いだりする必要は本来ないのだが、ゼノが来てしまった。
 この後、夕食を一緒に食べる約束をしている。だから、終わらない時間はそのままゼノを待たせる時間になってしまう。
「焦らなくて大丈夫だよ」
「ん。サンキュ」
 視線も意識もタブレットに向けたままのカナタに呆れるでもなく、ゼノが声を掛けてくれる。その言葉でようやく顔をあげたカナタに気付き、励ますように笑いかけてくれた。
 礼を口にしてすぐ視線を戻し、続きに取りかかる。あと少しで終わりそうだからこそ、やりとりに時間を掛けたくない。短時間で終わらせて夕食に向かえば、その後にゼノと遊べる時間が増えるから。
 ゼノも承知してくれているんだろう。それ以上は声を掛けないでくれた。少ししてから気になって視線を向けると、戸口に近いソファに座って、手を動かしている様子。暇つぶしに出来る作業があったんだろう。退屈させずに済むなら良かった。
 奥まったカナタの机から一番遠い席を選んだのは、存在を感じさせないようにという配慮からだろう。距離があるので何をしてるかはわからないが、退屈させることはなさそうだ。
 安心して改めてタブレットに向き直り、ラストスパートとばかりに頭と手をフル回転させる。……といっても、朝から執務に時間を費やしているので、すでに大した労力は残っていない。
 きっとゼノなら数分で終わらせただろう最後の書類に、三十分以上掛かってしまった。もっと早く出来るようにならないとと思うが、今は向上心を燃やすよりも待たせているゼノを。
「あれ……」
 顔を上げると、ソファに座ったゼノが手を腿の上に投げ出して俯いているのが見えた。掛けようとした言葉を飲み込み、音をたてないようにそっと近づく。編みかけのカラフルな糸を何本も手に掛けたまま微動だにしないゼノからは、微かな呼吸音が聞こえてきた。屈んで覗き込めば、しっかり閉じられたまぶた。
 待たせすぎてしまったのだろう。ゼノが居眠りをしていた。
 モノづくりや類する作業で徹夜することが多いゼノ。慢性的な睡眠不足をいつも心配している相手の居眠りは、起こそうという気にはなれない。できればベッドでしっかり寝てもらいたいけれど、今起こしたらきっと夜遅くまで作業してしまうだろう。
 ほんの少しでも睡眠時間を補えるなら、しばらく寝かせてあげたい。
 でも、待たせてしまった分、ゼノの空腹具合も気に掛かる。「すぐお腹空いちゃうんだよね」と苦笑するくらいだから、カナタよりずっと空腹に違いない。執務が終わったらすぐ食べに行く約束を、カナタのせいで延ばしてしまったから。
 どちらを優先するのがゼノのためになるだろうと考えかけるが、答えはすでに出ている。
 空腹に耐えかねたら起きるだろう。つまり、寝かせてあげるべきだ。
 幸いここはカナタの執務室なので、時間を潰すのも容易い。今日中に終わらせなくても良い書類を数枚残したから、それをやっつけてしまおう。
「え、ちょ」
 ゼノが起きるまですることを決め、机に戻ろうと立ち上がったところで思わず声が出た。ゼノの体が横に傾いだせいだ。慌てて手を伸ばして支える。流石に起きたかなと様子を窺うも、ゼノは目を閉じたまま。
 どうやら、居眠りというには深く寝入ってしまっているらしい。もしかして昨日も徹夜したんだろうか。あり得る。尚更寝かせてあげたいと強く思うが、支えが片手だけというのは不安定だろう。どうにかできないかと辺りを見渡す。
 一人掛けとしては少し座面の大きなソファに、ゼノが深く座っていなかったおかげで腰掛ける余白があった。起こさないよう細心の注意を払いながら、そっと隙間に腰を下ろす。肩と肩を触れさせるように支えると、ゼノが僅かに身じろぎした。
 起こしたかと身を固くするも、こつんと頭が触れた後は寝息だけが聞こえてくる。眠ったまま居心地の良い場所を探しただけらしい。安堵の息を吐きつつ、ちょっとくすぐったさを覚えた。言葉にするなら、嬉しい、だろう。
 飛空都市に招致されゼノと出会い、三ヶ月近くが経つ。長いとも短いとも言えない期間で、ゼノは親友だと思えるほど大事な存在になっていた。誰より親身に接してくれて、一緒に遊べば楽しくて、気遣いもできて思いやりもあって優しくて、ここで誰より尊敬できる相手。
 だけど、他でもないゼノ自身に、なにか遠慮というか薄い壁のようなものを感じていた。そのせいで胸を張って親友だと断言できず、もどかしく感じていたのだけれど。
 つい先日、それが無くなっていることに気がついた。なんか切欠になるようなことあったっけと記憶を探り思い当たったのは、一週間ほど前にあったゼノの誕生日。黒歴史を生み出してしまったと後悔するカナタとは対照的に、あの日渡した感想文をゼノはとても喜んでくれた。返却を希望してもすげなく却下されるくらいに。
 カナタの目には感想文の中身より、プレゼントされたこと自体がゼノの琴線に触れたように見えた。変わった切欠があるなら、恐らくそれだろう。確認するのは恥ずかしいしできれば蒸し返したくない黒歴史だし、尋ねようとは思わないけれど。
 こんな風に寄りかかって眠ってくれていると、気を許してくれたんだなと実感できて嬉しい。いつも人を気遣ってばかりに見えるゼノが、カナタの隣なら気を遣わなくていいと安心してくれているのなら。
 真実はもっと単純で、週末遊んでどちらかの私室に泊まることが多いから、寝ているときにカナタが傍に居ても気にならなくなっているだけかもしれない。それだって気を許してくれていることに違いはないはずだ。
 ゼノが大事だと思うほど、強くバースを恋しく思う。こうして守護聖の執務をなんとかこなしていても、やっぱり自分の居場所はここじゃない、帰りたい。友達だけじゃなく家族でさえ、カナタを忘れてしまっているとわかっていても。毎夜のごとく夢にみるほど、切望することを止められない。
 だけど、この場所で新たに結んだゼノとのこの絆も大切で。もう失いたくないとも同じだけ願っている。
 選択肢なんかひとつも与えられていないのに、手を伸ばしてしまう。その先で、どちらを掴みたいんだろう。
 考え込みそうになって、微かに首を振った。守護聖に選ばれたら当然なんだと、誰も彼もが諦めている。元の場所に帰ることを。守護聖になる前に当たり前だった日常の続きを。それを、カナタにも強要してくる。屈したくないと抗っていても、本当は。
「ん……」
 思考が及んだことにぎくりと身を固くすると、伝わってしまったのかゼノが微かに呻いて身じろぎした。
「あれ……? 俺、寝ちゃってた……?」
 掠れた小さな声が耳の傍で響く。起こしてしまったと思うより早く、頭と肩に掛かっていた重みがなくなった。
「ごめん、カナタ。肩貸してくれて、ありがとう」
「……や、平気。それより、ちゃんと寝てないでしょ」
「え、あ、んっと……あはは、今日はちゃんと寝るよ。うん」
 すぐに状況を把握して、ゼノが声を掛けてくれる。うまく意識が切り替えられず、咄嗟に反応出来なかった。寝不足を心配したんだと少し遠く思い出して、なんとか返す。照れくさそうに笑って誤魔化したゼノを見て、ようやく直前の思考を切り離せた気がした。
「どれくらい寝てた?」
「オレが終わってからえっと……二十分くらい経ったから、三十分は寝てたんじゃん?」
「そんなに待たせちゃったんだ。お腹空いたよね、ごめん」
 伸びをしてから尋ねてくるゼノに答えるべく、時刻を確認する。思考に耽っていたせいか、体感以上に時間が経っていて驚いた。言葉だけじゃなく表情でも申し訳ないと眉を下げるゼノに首を振って、元はといえばカナタの仕事が遅かったからだと訂正する。
「そんなことないよ。カナタはすごくがんばってる」
「……ありがと」
「カナタを見てると、俺ももっとがんばらなくちゃって思うよ」
 柔らかく微笑んで褒めてくれるゼノに、照れくささを覚えた。ゼノはこうやって軽率に褒めてくれるので、とてもありがたい。どれだけ些細なことでも、一歩踏み出せているよと認めてもらえたように感じられるから。
 ただ、少し強ばった小さな声で続けられた言葉には、頷けない。カナタからすれば、ゼノは誰よりがんばっている。訴えたところでゼノには全く響かないともうわかっているから、反論は飲み込んでおいた。
 水掛け論をしたいわけじゃない。待たせた分、早くゼノの空腹を満たしてもらわなければ。
「じゃ、ゼノに早く寝てもらうためにも、ご飯行こ」
「う~ん、どうかなぁ。早く食べると、後でまたお腹空いて食べたくなっちゃうし」
「え。じゃあ、食べるの後にする?」
 雰囲気を変えようと立ち上がって促したが、ゼノからは歯切れの悪い応答。面食らってしまうが、数時間で空腹になってしまうと前に言っていたのを思い出した。すぐに食べて早く寝るために動いてもらっても、寝る直前にお腹が空いてしまっては安眠できないのかもしれない。
 それならと提案をすり替えるが、ゼノは眉尻を下げた困り顔。
「でも、お腹は空いてるからすぐに食べるのは賛成したいな」
「あ~……なら、今食べて、風呂入ってすぐ寝るってのは?」
「遊ばないの?」
「……遊ぶ」
 腹に手を当てながら困惑声で申告するゼノに、第三の提案をしてみた。が、首を傾げて聞き返され、今の提案に無理があったと指摘される。咄嗟に「ゼノに早く寝てもらう」と「ゼノと遊ぶ」を天秤に掛け、気遣うよりも楽しい方に傾いてしまった。
 立場が逆だったら、きっとゼノはカナタを寝かせようとしただろうに。情けなさを覚えながらも自分を誤魔化せず正直に答えると、ゼノがぱっと顔を輝かせた。
「だよね! 日の曜日に言ってたところ、直してみたんだ!」
「マジで! じゃあ早く、ご飯行こ!」
 嬉しそうに言われて、つい応じてしまう。言ってから少しは気遣えよと自分に思うが、言葉は取り消しができない。
 こうなればカナタがとるべき手段は一つだ。このまま夕食に行き、早めにゲームを切り上げて帰るより他にない。ゲームをしてる間にゼノに風呂に入ってもらって、片づけてる間に寝る支度をしてもらって、あとはベッドに潜るだけになるまで見守る。そこまですれば、いくらゼノだって早く眠ってくれるだろう。
 描いた計画で、今日こそはゼノの徹夜を阻止しようと強く誓いながら、移動を促した。

 ゼノが調整してくれたゲームの難度が絶妙で、結局そのまま泊まるくらい熱中してしまい。ゼノを早く寝かせるどころか二人して夜更かししてしまうことを、この時のカナタはまだ知らない。





+モドル+



こめんと。
26作目。
2022年一発目……が月末という事態に。
更新遅くてすみません。
この少し後に、カナタはフラグを折られます。
カナタが一番しんどい時期はこの辺かなと思ってます。
(2022.1.25)