初めての衝動(末期)
煮詰まった挙げ句にピンクの髪の女王候補に相談してから、五日後の日の曜日、深夜。寝入っていたカナタは、悲鳴のような叫びをあげて飛び起きる羽目になった。
「……はっ、……え、夢……?」
どきどきどころではない。太鼓でも叩き鳴らしているかのように跳ねる心臓に、じっとり全身を濡らす汗。辺りは暗く、ベッドの上には自分だけだという現実を遅まきながら認識する。
さながら悪夢を見た後のようだ。実際、飛空都市に連れてこられたばかりの頃は、何度もこんな風に飛び起きた。夢だったと安堵し、だけど暖かい日常に帰れないことを嘆く。幾度も幾度も苦しめられた悪夢を、最近は見なくなった。最後に見たのはもう一ヶ月は前のことだったと思う。魘されて起きた記憶はあるが、夢の内容までは覚えていない。それが、最後。
遠慮無くゼノを親友だと公言できるようになった頃から記憶は薄れるようになって、守護聖として前を向く覚悟を決めた日からは、ぱったり見なくなった。ただの推測だが、受け入れられない現実が悪夢というかたちで苛んでいたのだろう。だから、今は見ない。
そう、悪夢を見たわけではなかった。飛び起きたのは、確かに夢だったようだけれど、あの頃の悪夢ではなく、もっと別の。
「……うわ……オレ、最低……」
ひどく断片的ではあるが、今見た夢の内容を覚えている。夢だと理解した上で、小さく吐き捨てた。飛び起きたせいか、夢のせいか、呼吸が荒い。耳奥でどくどくと音が聞こえるのは、脈が速いからか。全力で走った後のような状態だ。
見てしまった夢に頭を抱え、悔いるように息を吐き出す。そのまま深呼吸を三回繰り返した。少しだけ脈が落ち着いた気がする。そのせいで気が付いてしまった。
「最低が過ぎる……マジかよオレ……」
息の整ってきた体の一部、妙に熱が集まっている。嫌な予感しかしないまま、確かめないのも落ち着かずに掛けていたタオルケットを捲った。そして、先程以上に項垂れる結果に陥る。
あり得ない。これが答えだとしても、こんな気付き方したくない。
いっそ寝直して、この時間さえも夢だったと片づけてしまいたくなった。
まだバースにいた頃、一度だけAVを見たことがある。否、見せられたことがある。たまたま、いつも連んでいた友人たちとは別の友人の家に遊びに行った時、彼の兄のものだと流された。他にも何人かいて、みんな興味津々に見ていたなと遠く覚えている。
カナタ自身も全く興味がないわけではなかったが、他の友人たちのように見たいとは思えなかったので、スマホを弄っていた。友人たちにはかっこつけるなよとからかわれたが、しっかりと見るには羞恥というか抵抗もあったから。でも、完全に無視していたわけではなく、ちら見くらいはしていた。
だから、知識として記憶が微かにでも残っていたとしても、不思議じゃない。普段は忘れていても、思い出さなくても。
でもそれがこんな風に夢に影響すると、誰が予想できただろうか。
「明日ゼノにどんな顔して会えばいいんだよ……」
特大の溜息と共に、嘆く。つまりはAVで得た僅かな記憶を元に、夢を見た。女優ではなく、ゼノで。
あの時見たAVは男女の絡みだったので、最低に最低を上塗りするような内容ではなく、その、口で、というやつで。しかもカナタがしてもらう方で、だからこそ余計にゼノに合わせる顔がない。逆なら良かったのかと問われれば、勝手にゼノを汚したような妙な罪悪感は覚えなかったかもしれない、程度だと思う。どちらでも気まずさは一緒だ。
実体験のない行為だから、夢だとしても想像の域を越えることはなく。感覚というか感触というか、そういったものを認識しなかったことだけが、せめてもの救いだろうか。
こんな夢を見たのは、明らかに先日から暇さえあれば考えていたことが原因だろう。ゼノに対して覚える衝動は、何に由来するのか。ゼノを親友としてだけではなく、そういう意味でも好きなのかと。
今の夢が、その答えであるような気は、大いにするけれど。
ひとまず、汗を掻いて湿った寝間着が気持ち悪いのと、まだ少し熱を孕んだ下半身をどうにか鎮めるためにも、一度シャワーでも浴びてこようとベッドを降りた。数歩離れてから、ちらりとベッドを振り返る。
……夢を見たのが昨日じゃなくて良かった。
声には出さずに呟いて、小さく安堵の息を吐く。昨日は土の曜日で、恒例お泊まりに来ていたゼノも、同じベッドで寝ていたから。
「ちょ、マジかよ」
今までと同じく広いベッドだから一緒に寝ていただけで、何事かあったわけではない。でも昨日はここにゼノもいたと思ったら、体温が上昇したように感じた。錯覚した熱は全身を駆け抜けたわけで、元から熱を帯びていた箇所へも当然影響が出てしまう。
何度目か数える気もなくした溜息と共に、とぼとぼとシャワールームへと向かった。当然浴びるのは冷水だ。冷たいが、熱を冷ますにはこれ以外思いつかなかったから。
幸いなことにあっさり引いた熱にほっとした。着替え直して寝室に戻るが、ベッドを目にしてまた溜息を零す。なんだかもう眠れる気がしない。寝転ぶだけに留めても、先程の夢を思い出してしまいそうで。
時計を見ればとうに日付は変わり、明け方が近い時刻だった。充分とは言えないが、きちんと睡眠はとったのだから徹夜にはならないだろう。気分転換をするためにも、ゲームでもして早起きとしてしまおうか。
思いつきはしたものの、実際にゲームをする気にはなれなかったので、ソファに寝転がるだけに留まる。
少しだけ見慣れてきた天井をぼんやりと眺めながら、ゼノを思い描く。先程の夢の断片は見たという情報だけが明確で、映像やらなにやらに関してはすでにひどく薄ぼんやりと消えかけている。夢なんてそんなもんだよなと安堵する一方で、ほんの微かに惜しい気もするような。
結局、どうなんだろう。ゼノとそういうことがしたいから、夢に見たんだろうか。夢は願望の顕れとも言うし。
それとも、ただ興味があるだけなんだろうか。たまたま近くにいるから、興味の向く相手がゼノだっただけで。
興味だけなら、同性のゼノよりも異性の方が想像しやすかったはずだ。異性で見たかったわけではないが、自然な流れとして。ただ、今現在カナタにとって身近な異性は二人の候補だけ。青い髪の候補とはさほど親しくはないし、ピンクの髪の候補には勘違いを指摘されたばかりだ。この状況でそういう興味が二人のどちらかに向かうかというと、ナシだろう。代わりに友愛からであっても大好きなゼノに向いてしまった、という流れならなんとなく頷ける気がする。
そもそも、何故今なんだろう。バースにいた頃はほとんど興味がなかった。興味が向くものは他にたくさんあったし、受験のことや将来のことなんかも真剣に考える時期に来ていたから。カナタの興味や関心という枠はすでにキャパオーバーで、恋愛や類することへの興味に向ける余剰などなかっただろう。
こちらに連れてこられてからはいろいろと落ち着かずにいたから、新たに興味を向ける余裕がなかったのかもしれない。
改めて家族やバースの親友に会って話して、ようやく守護聖としての自分に向き合えた。ざわついていた心が少し落ち着いて生じた余裕に、受験や将来のことを考えていた分が必要なくなり、溢れていた興味関心の枠に隙間ができたのかもしれない。結果、今までに持たなかったことへの興味も向けられるようになった……とか。うん、ありえそうだ。
湧いた新しい興味、だけど向けるべき対象の異性がいない。だから親友に向かっていったと、一応の説明がつくような気はした。
だけど、先日、バースの親友に向かうかと考えた時の拒絶感を考えると、『親友だから』は否定されているのでは。
なら、やっぱり親友としての友愛だけではなく、恋愛感情でもゼノが好き、なんだろうか。
「……わかんねー」
視界を覆うように腕を上げ、呟く。この衝動は好きを伴うものなんだろうか。興味だけが先走っているんだろうか。むしろ興味だけなら、一度試してみれば治まったりしないだろうか。
唇に触れたいとか抱きしめたいとかは無理でも、手に触れるくらいは親友にだってできるはず。思い出そうとしてみても、バースの親友と手を繋いだ記憶なんか出てこないけれど。ハイタッチとかグータッチとか一瞬の記憶はいくつか浮かんだが、今求めているのはもっとしっかりとした接触で。あ、でも、そうか、腕相撲だ。あれなら全く疑問に思われずに手を握れる。腕相撲をする口実さえ思いつけば。
堂々巡りの思考から抜け出すためにも、試してみる価値はあるだろう。早速実行したいが、口実は何がいいか。
「あーもういいや。これ以上悩むの面倒だし。懐かしくなってとかでいいでしょ」
ごろりとソファの上で寝返って、乱暴な口実を作った。ゼノなら深く追求しないでくれるだろうと、謎の安心感もある。善は急げ、朝イチで執務室に行ってみよう。
試してみるという新たな道が拓けたからか、少し安堵したらしい。いつの間にか寝ていたようで、気が付いたら朝になっていた。ソファで寝たから少し体がきしむ感覚はあったが、無視できる程度なので問題はない。時刻を確認すれば、そろそろ私室を出る準備を始める頃だった。
早速身支度を整えて私室を出る。朝ご飯を食べ損ねたが、用を済ませたらカフェでテイクアウトすればいいだろう。学校よりも自由の利く生活を、少しだけありがたく思った。
気が急いて早足になりそうなのを抑え込んで、ゆっくりと聖殿の廊下を歩く。自分の執務室を通り越してゼノの執務室に向かい、在室を確認する。扉を開けるのは、ほんの少しだけ躊躇った。
「おはよう、ゼノ」
「あれ、カナタ? おはよう。珍しいね、朝から来てくれるなんて」
気合いをいれるように小さく頷いてからノックして扉を開ける。執務室に入りながら挨拶すると、ゼノが笑顔で応じてくれる。すでに机に向かっていたゼノの元に向かい、机を挟んで正面に立つ。ゼノが笑顔を不思議そうな表情に変えて首を傾げた。
「どうしたの?」
「突然で悪いんだけど、オレと腕相撲してくんない?」
寝落ちる前に考えるのを放棄したせいか、躊躇いなくド直球に告げる。ぱちぱちと数回瞬きをしたゼノは、だけど理由も訊かずに快諾してくれた。
「俺でカナタの相手になるかはわからないけど、いいよ」
言いながら机の上をさっと片づけてくれたゼノ。ありがたいなと思いながら、少し手伝う。合間にゼノが右手でいいのかなと尋ねてくるので、一瞬疑問を覚えたが頷いた。そういえばゼノはどちらの手も器用に使えるのだったっけ。
椅子から立ち上がってくれたゼノと、机を挟んで向き合う。腕相撲に使うには幅の広い机だが、真剣勝負ではないので気にならない。互いに右手を出して繋ぎ、腰を屈め肘を机に付けて準備をする。
ゼノの手に触れた瞬間、今まで感じたことのない感情が胸の奥深くで溢れ、体温が上がったような気さえした。手袋を填めたままなので触れているのはほんの一部なのにと、内心苦笑する。先日、ピンクの髪の候補の手に直接触れた時には、何も思わなかったのになとも。
「あ、俺、手袋外した方がいいよね」
「や、大丈夫、そのままで」
「え? でも、ハンデもらってるよね?」
「うん、そのままで大丈夫だから」
左手で机の端を掴んだことで気が付いたんだろう。ゼノが繋いだ右手を外そうとするのを、言葉だけでなく手に力を込めて引き留めた。フェアじゃないと気にするゼノに小さく首を振って、繰り返し留める。
「カナタがいいならいいけど……」
「いいよ。大丈夫」
申し訳なさそうに受け入れてくれたゼノに、三度目の大丈夫を返した。でも全然大丈夫じゃない。半ば以上手袋越しの接触だけど、なんかいろいろ、なんていうか、そう、すでに、やばい。
だって、ずっと触れてみたかったゼノの手に、今、触れている。手袋越しだから直接触れているのは指だけだとしても。カナタの手の甲に添えられたゼノの指先が動くと擦れて、僅かに硬く引っかかる感触を覚えた。先日見た指先の傷によるものだろう。想像した感触を実際に受けて、更に体温があがる気さえする。
だから、これ以上の接触は、今はいらない。むしろ、本来の目的は達成できたのだから、早く終わらせて帰りたいとさえ思う。
「じゃ、行くよ。レディ……ゴー!」
どちらがかけ声を掛けるかも、ゼノに任せた。とにかく余裕がないというか、早く手を解きたい。いや、ほんとはこのまま繋いでいたいし、手袋だって取ってもらいたいけれど、今は無理だ。何を口走るかわからない恐怖さえ覚えている今は。
逸る気持ちはあったが、ゼノとの勝負は互角。細身だが、機械を作るのに結構な重量の工具をも扱うからだろうか。ゼノの力は予想外に強かった。対するカナタが集中しきれていないことも要因かもしれない。
結局、ゼノの手に触れているという雑念に囚われすぎたカナタが負けた。
「ごめん、痛くなかった?」
「や、大丈夫。急に頼んだのに、ありがと。じゃ、オレ帰るね」
「え、カナタ!?」
勝ったことを誇るではなく、机に甲を打ち付けたカナタを真っ先に心配してくれるゼノ。ぶわりと湧いてくる感情を抑えつけて、少し強引ながらも手を離した。口早に礼を言って、ささっとゼノの執務室を退出する。ゼノの疑問が追いかけてきても止まらず振り返らず、まっすぐ早足で。何の説明もなしに悪いと思うが、とにかく今はゼノの前から去りたい。何か不要なことを口走ってしまう前に。
気分的には走り去りたいところだが、聖殿の廊下は緊急時以外は走るべきではないと理解できているので、なんとか早足に納めることができた。
本来向かうべき執務室の前を素通りして、まっすぐ私室に戻る。とてもじゃないが誰が来るかわからない執務室には居られない。些か乱暴にドアを開け中に入り、しっかりと防音装置の範囲内であることを確認できた途端、崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。
「いやもう無理でしょ、無理すぎる」
ぼやいて、左手で口を覆った。顔に熱が集まっているのがわかる。恐らく真っ赤になっているだろう。なのに触れた手に熱が伝わらないので、手も同じように熱いのだと気付く。腕相撲に使った右手は微かに震えているようで力を込めようにも入らず、自分のものではなくなったような錯覚さえした。
試してみて良かったと言うべきかもしれない。こんなにも明確に答えが出た。
ゼノの手に触れた瞬間、満足する一方でもっと触れたいと欲が湧いた。だけど同じだけ他の衝動も強まったので、手袋はそのままに。もしあの時外してもらっていたら、衝動に流されずここに帰ってこれていただろうか。
何より、勝敗がついて真っ先にカナタを心配してくれたゼノに対して。もちろん今までのようにゼノらしいなと、優しいし尊敬すると思う感情が大半だったけれど、気付いてしまった。その先に浮かんできた、もうひとつの感情に。
ゼノのことは、親友としてもちろん大好きだ。一緒に遊ぶのも楽しくて好きだし、ゲームや便利な道具、それに手料理なんかでもすごく頼ってしまっている。自分の勝敗よりも人の痛みを心配できる優しさは尊敬するし、見習いたいとも思う。お互いに気を遣わなくてよくて、一緒にいると心地良い相手でもある。
いつも世話になってばかりで恩義を感じているし、できれば少しずつでも返していきたい。不思議なくらい自己評価の低いゼノが自信をもってくれるように手助けできたらいいのにと、歯がゆくなることも多い。
守護聖として招致された以上、ゼノだって故郷に家族を置いてきているはず。似たような境遇といっていいかわからないが、ずっと親身に支えてくれた親友を、カナタだって支えられるくらい近くありたいと思ってきた。
だけど、それだけじゃなくて、もっと……より近づきたい、というか。親友だけじゃなくて、もっとゼノの唯一無二になりたい気持ち。
ゼノの親友であるだけじゃ満足できなくて、もっと、全部。そう、ゼノの全部が欲しいような、ぐつぐつとした感情。
候補の言葉が耳の奥に蘇る。友愛と恋愛が両立しないなんて定義はないよね、と。
つまり、欲張りなんだろう。親友という立場だけじゃ物足りない。両立するならば、親友だけでなく、恋人としての立場も欲しくなる。逆に、もしも恋人になれたとしても、親友でいられないなら意味がない。
親友としても、恋人としても、ゼノと一緒にいたい。だからキスもしたいし、抱きしめもしたい。だけど、遊ぶのだって大切だ。ゆくゆくは背中を預けあえるような信頼する親友にだってなりたい。
実際に試してみて、ちゃんと答えは出た。だからこそ、無理だとぼやくしかない。
親友から恋人になることもある、と候補は言った。それは否定しない。でも、同性の親友から恋人になるって、あり得る?
気付いてしまった一方の感情にフタをして、これまでどおりに親友としてだけ接するなんて、あまり器用ではないカナタにできるだろうか。それでも、しなければならない。恋人は無理だと早く諦めて、親友の座だけは死守しなくては。
万一気付かれて、気持ち悪いとか思わせてしまったら、親友でもいてもらえなくなってしまうかもしれない。それは絶対に避けたいが、今この状況でできるとは言えそうになかった。自信がない。でもやらなければ。
なんでこう、いろいろ起こるんだろうと、嘆きたくなる。招致されて激変した環境にも、ようやく向き合えるようになったのに。いや、その分できた余裕からこうなっているのかもと昨晩推測したのだった。前を向けずに居たら気付く余裕もなかっただろうから、良かったのかわからなくなってきた。いや、前を向かなければ候補への依存が増して手遅れになっていた可能性もある。
ひとつの答えは出たが新たな悩みでぐるぐるしてしまい、執務どころではなかった。すぐに答えが出るわけもないのに悶々としていたら昼を過ぎていて、意図せず午前の執務をさぼってしまったと気付く。
同時に強い空腹を覚えて朝ご飯を食べ損ねたままだったと思い出し、ふらりとカフェに向かった。考えすぎて疲れ、多少思考も麻痺していたのと、単純に腹が満たされたのもあるだろう。ようやく今ばたばたしても仕方ないと若干の諦めを覚え、午前のさぼりを反省もしたので午後はきちんと執務室に。執務をこなしていたら少しだけ落ち着いて、考えた通りに動けるわけじゃないんだからと多少のなげやりと共に思えるようになっていた。
だから、夕方様子を見に来てくれたゼノにも殊更慌てふためくことなく、普通に対応できた。と、カナタ自身は思う。
朝、急に押しかけて腕相撲を挑んだことを改めて謝ったら、驚いたけど気にしてないよと言ってくれたゼノ。
「手、大丈夫だった? 痛そうな音したから、心配で」
「うん。平気。赤くなったりとかもしてないし」
「ならよかった。ほんとにごめんね」
「ゼノが謝ることじゃないって。腕相撲挑んでるのに負けたら痛いって文句つけるとか、あり得ないでしょ」
人のことばかり気にするゼノに、自然と口元が綻んでしまう。心配してくれるくらい気に掛けてもらえてるんだと、嬉しくて。それがいつものゼノだとわかっていてもだ。もちろん、手はほんとになんともないのでひらひらと振って見せた。というか、痛かった記憶がない。ゼノの手に触れていることに気を取られていたから。取り繕えなかっただろうが、やっぱり手袋外してもらえばよかったなんて、頭の片隅に浮かぶ。惜しいとか思ってる場合じゃないので、気付かなかったふりをした。
突然挑んだのはカナタの方なのに、こんなにも心配してくれるゼノ。言葉だけではなく実際に右手を見てもらう方が安心してもらえるだろう。でも差し出した手に触れられる可能性が浮かんで、実行には移せなかった。動揺を隠しきる自信がない。
「ありがとう。でね、お詫びに今日の夕飯、俺に作らせてもらえないかな?」
「なんで?」
「痛い思いさせちゃったから」
「いやいやおかしいでしょ。突然勝負しかけたオレがお礼するならまだしも」
特に近づけるでもなく、ただひらひらと何でもないこと主張する為に手を振っただけでも、ゼノは安心してくれたらしい。だが、続くゼノの提案には、怪訝な顔をしてしまった。どうやらそちらが本題のようだけれど、理解できない。直前にも口にしたがゼノには全く非がないのに、お詫びとは?
今朝はたまたまカナタが負けたけれど、勝負をしかけ、応じてもらった時点で、どちらかが負けて多少の痛みを受けるのはわかりきっていたことだ。必要だとしたら受けた側のお詫びではなく、応じてもらった礼だろう。
「ちょっとびっくりはしたけど、お礼してもらうほどのことはできてないよ」
「オレもお詫びもらえる立場じゃないから、相殺ってことで。一緒に食堂行こうよ」
ふるりと首を振ったゼノに、思いついて提案してみる。週の半分くらいは一緒に食べているから、特別気負うことでもないから。
ゼノの手料理はとても美味しいし、振る舞ってもらえること自体も嬉しい。土の曜日にゼノの私室に遊びに行った時は必ずご馳走してもらえるので、遊ぶこととセットで楽しみにもしている。でも、今日その恩恵に預かるのはちょっとその、いつも通りでいられる自信もなくて。
今から作ってもらうのも悪いからと、とってつけたような言い訳も添えてみる。
「俺のことまで気遣ってくれて、カナタは優しいね」
「ゼノのが優しいって」
「そんなことないよ。代わりに、今度の土の曜日、食べたいもの考えておいてね。気合い入れて作るから」
「サンキュ。超楽しみにしてる」
優しく、だけど少し淋しそうに笑ったゼノが、承諾してくれる。ちっともゼノのためじゃない提案なので、罪悪感が疼く。でも、リクエスト権はありがたく受け取っておいた。それでゼノが安心するのを、もう知っているから。
話している間に終了時間を迎えたので、並んで食堂に向かった。夕飯を食べながら、ゲームのこととか他愛ない話もして。気を抜けばゼノの口元に視線がいってしまいそうなのを不自然にならないよう抑えながらではあったが、概ねいつもどおりの対応が出来たと思う。少なくとも、ゼノに不信感を与えることはなかったはず。
廊下でゼノと別れて私室に入り、ほっと息を吐き出した。この調子ならなんとかやっていけそうだと思って。ゼノに対する感情や欲求の全てを隠す必要はなく、ただちょっと親友のカテゴリーから外れるところだけを見せなければいい。
まだ少し不安は残るけれど、なるようになるだろう。ひとつの答えは出たし、留意すべきこともわかっている。何もわからずなんでどうしてと深い霧の中にいるよりは、ずっとマシだ。
そう結論づけて寝支度を整えたカナタは、土の曜日は何をリクエストしようかなと考えながら眠りに落ちていった。
だけど。
「マジごめん、ゼノマジごめん……!」
翌日の明け方、また同じような夢を見て飛び起きる羽目になるとは思わなかった。指の感触がめちゃくちゃリアルだったと認識しているのは、腕相撲のせいだろう。よかった、手袋を外さないでもらって、本当に良かった。改めて昨日の自分の判断は正しかったと、感謝する。
こんな調子で、ほんとに隠しながら親友として上手くやっていけるんだろうか。前途多難すぎる。
それでも、なんとかやっていくしかない。親友としてのゼノまでも、失いたくはないから。バースのことわざにだってある。二兎を追う者は一兎をも得ずと。
「ゼノは親友、ゼノは親友」
自己暗示を掛けるように、呟く。それがどれだけ滑稽かなんて、必死なカナタにはわかるはずもなかった。
こめんと。
カナゼノ38作目!
にしてようやくここまできました!
カナタ、自覚する。
元から親友として大好きなので、
違う好きも両立してるって自覚するには、
まぁこうなるかな……とか言い訳しておきます。
あと、夢ほにゃららについては、まだこの時点では未遂です!
ギリギリセーフ!
(2022.11.7)