こんなタイトルをつけるほどたいした経歴はもってないのですが、
今までどんな風に音楽に関わってきたかを書いてみました。
幼児期 小学生時代 中学生時代 高校生時代
大学生時代 社会人時代 結婚後
年 齢 | 事 柄 |
〜3歳 | 母がいつも歌ってくれた童謡を聞いて育ち、家にあった古いオルガンを見よう見まねで触る。(思い出の曲:「子鹿のバンビ」「ちんから峠」「森の小人」) |
4、5歳 | ヤマハ音楽教室幼児科に通う ここで初めてアンサンブルの楽しさを知る。 (TOPへ) |
6歳〜 | 近所の個人のピアノ教室に通う。先生がかなり厳しい人だったので、基礎をしっかり学ぶことができ、後々役に立った(7年間お世話になる)。6歳の終わり頃に、ヤマハグレード試験9級を受け、試験官の先生に誘われ、翌年ヤマハ教室ジュニア科に通うことになる。 |
7歳〜 | 個人レッスン+ヤマハジュニア科。ジュニア科のレッスンが楽しくてたまらなかったのを覚えている。ここで、作曲の楽しさを覚え、同年、初めての作品をコンクールで弾く。また、ジュニア科発表会にて自分の曲を、クラスのみんながアンサンブルしてくれて、感動する。 また、この頃観に行ったヤマハの映画で、西村由紀江さんがチェコで演奏している様子をみて大感激し、憧れの人となる。 家ではよくピンクレディーの曲をピアノで弾き、友達を踊らせていた。 また、父が映画音楽ファンで「ロミオとジュリエット」は週末のテーマ曲のようなものだった。 日曜日夜7時半からの世界名作劇場の主題歌などもよく弾いていた。 |
9歳〜 | ヤマハジュニア科卒業の年、またもや発表会にて自分の作品をみんなが演奏してくれることになり、いい思い出となる。そして、終了後専攻科(作曲専門コース)に進むことを決める。 |
10歳〜 | 専攻科に進み、オリジナルコンサート(JOC)で初めて関西大会に出場できた。同時期に出て、エレクトーン部門でトップに輝いた山下千尋さんが、後に、テレビ朝日の「おはよう朝日です」に出ることになる。 |
11歳〜 | 学校と作曲との両立に悩み始め、家の引越しなどもあって、専攻科をやめることになる。しかし、学校で行事のたびに伴奏をさせてもらい、ヤマハで得たアンサンブルのコツが、伴奏という形で役にたった。 |
12歳〜 | 小学校の卒業を控え、漠然と自分の進路を考えるようになった。それまで、音大に行きたいと思っていたが、うすうすと家の経済状況から無理だと感じるようになり、それまでの強い思いを捨てるのにいろいろと葛藤した1年だった。 (TOPヘ) |
13歳〜 | 前年の引越しに伴い、近所の声楽家の先生にピアノを習うことになる。2学期からは、コーラス部に入り、伴奏専門になることから、ますます自分のピアノと歌声とが合わさった時の快感がたまらなくなってくる。 |
14歳〜 | 文化祭のために、国語の教科書の詩に曲をつけ、初めての合唱曲を作った。今振り返ってみると、歌いにくいパートがあったりで、よくみんな歌ってくれたものだとありがたく思う。 また、ピアノの先生が大阪音大出だったことから、憧れの大阪音大の推薦演奏会に出して下さった(演奏曲:シューベルトの即興曲)。さらに、音大への道をあきらめきれずにいた私の気持ちを知ってか知らずか、先生が大学関係の偉い先生(というイメージしかないのだが・・)を紹介して下さって、1回だけ演奏を見てもらった。今の実力なら短大には行けるけど、音大を受けるならもう少し頑張りなさい、といわれ、ちょっぴり悔しかったが、それでも嬉しくて仕方なかった。一気に音大が近くなった気がしたから。でも、両親とも音大行きは大反対で、私の夢はこの頃すべて打ち砕かれた。 |
15歳〜 | 高校受験+コーラス部活動に専念したかったので、ピアノのレッスンを中断。中学校では、この年から入学式でコーラス部が校歌を歌うことになったので、早速校歌の編曲(女性三部合唱)し、伴奏も作る。<後に、教育実習で母校の音楽の授業をのぞいたら、当時書いた楽譜をそのまま先生が使ってくださっていて、涙がでそうになった。> (TOPヘ) |
16歳〜 | 高校にて音楽部に入る。そのかたわら、ミュージカルをし、音楽担当をすることになって、勉強そっちのけで、好きな楽譜書きに没頭していた。 個人のピアノレッスンは再開したものの、音大への道が閉ざされてからは、普通の練習を真剣にする気がなくなり、また、勉強&ミュージカル活動に重きを置きたかったので、ピアノはやめることになった。 |
17歳〜 | 音楽部を退部し、ミュージカル活動に専念する。ミュージカル仲間とは放課後集まって、いつも歌を歌っていた(宝塚関係の歌や、音楽の教科書の歌)。 (TOPヘ) |
18歳〜 | 高校卒業後は、主にミュージカルを見に行くばかりで、楽譜を買ってきては家で弾くといった状態だった。 |
19歳〜 | 大学の同じクラスの男の子たちがバンドを組むことになり、ピアノが弾けるということでキーボードを担当させてもらった。学祭で演奏するが、バンドというもの自体初めてで、ビートルズや尾崎豊など今まで公の場で弾くことのなかった曲に触れ、新しい世界が開けた。とても楽しかった。「音を楽しむ」という原点を、バンド仲間に教えてもらった気がした。 |
21歳〜 | 友人に誘われて、某大学の合唱団の伴奏手伝いに。久々の緊張感と心地よさがたまらなかった。 (TOPヘ) |
22歳〜 | 勤めていた学校の校歌募集があり、早速作って大学合唱団にまで歌ってもらったが、難し過ぎる、と却下されてしまった。 |
23歳〜 | 手伝いに行っていた某大学合唱団の卒業演奏会で伴奏をさせてもらう。教会のオルガンを弾くことになり、それまで触ったことがなかったので、近くのいくつかの教会に練習させてもらえないか頼んだところ、唯一快く了解してくださったところがあり、仕事が終わったあと、数回練習しに教会へ行った。一人で弾く教会のオルガン・・・とても贅沢な時間だった。また、牧師さまの優しい心遣い(冬だったので私が行く頃には必ず暖房を入れてくださっていた)に感謝の気もちで胸がいっぱいになった。 |
24歳〜 | 職場の同僚に誘われて、久々に合唱団へ入団。今回はまったく伴奏はせず、もっぱら歌う方。合唱でまともに歌うのは、初めてだったがとっても楽しかった。コンクールにもいろいろ出ることができ、いい経験だった。 (TOPヘ) |
25歳 | 結婚を前に合唱団は退団。夫の要望でもあったので、いまひとつすっきりしない気持ちが残った。(本当は続けたかった。。。) でも、新婚旅行で行ったチェコのホテルのバーで、日本の曲を3曲ほど弾かせてもらった(「もみじ」「夏の思い出」「七つの子」)。周りにいた外国の人々が「ブラボー!」と叫んでくれて、音楽のすばらしさを共有できるうれしさで、胸がいっぱいになった。 また、このころ、ブライダルピアニストを目指してレッスンを受けるようになった。あと数ヶ月で、シーホークホテルでデビューできるという時に、妊娠のため、やむなく断念。 |
27歳〜 | 出産後、あるタウン誌で、「福岡市内にあるアクロス福岡の開館5周年記念コンサートにて、九州交響楽団と歌うメンバー募集!」の記事を見付けた。オーディションありだったので、随分迷ったが、思い切ってうけにいき、合格。半年間の練習を経て、数年ぶりに、大きな舞台に立つことができた。その感動は言葉では言い表せない。子どもを夫に預けたり、リハーサルや本番の時には託児所に預けたりして行ったが、独身の時には味わえなかった喜びを舞台に立った時に感じた。 それからしばらくたって、あるつてで、中学校の校歌を吹奏楽バージョンへのアレンジ依頼があり、意欲満々でうけたものの、吹奏楽の経験がないために、とても難しかった。 それ以外は、子どもを後ろに乗せて自転車こぎながら歌ったり、夕飯作りながら歌ったり、友達の結婚式で歌ったり弾いたり、また、帰省のたびに友人と歌&ピアノをあわせるくらいだった。 |
31歳〜 | 娘がヤマハ音楽教室の幼児科に通うようになり、1週間のなかで音楽を子どもと楽しめる時間がもてて、最高の気分!だが、予想以上に娘がついていけず、私まで落ち込みモードに。あまり娘には期待しないでおくことにした。 引っ越しをして、新しく住み始めた町が音楽がとても盛んだと知り、ぞくぞくしてきた私。早速、ホールでピアノが弾ける催しに参加する。また、市の臨時合唱団にも登録したものの、諸事情から参加できなくなる。 幼児科を終えた娘は、ヤマハで聴音が苦手というコンプレックスを抱き、ピアノを拒否していたのに、7歳になって再び始めたいと言い出したため、ある程度までは私が教えることに。 しかし、やはりピアノが娘の性格にあわないのか、どうしても続けられず、無理強いはしないことにした。 今は、私だけが自分で弾きたい時に弾いて楽しんでいる♪ |
音楽は私の命ある限り、手放せません。いろんな形で関わっていたい。でも、でも、やはり、いつの日か、憧れの音大に行って作曲や編曲を学びたいと思うのです。 そして、いつまでも人々の心に残るような美しいメロディーやハーモニーを残して死ねたら本望だなと思うのです。 (TOPヘ) |