【リングには魔物が住む】:「プロレス中継とオペラ」

@:まずは以下の何気ないオフィスで良く耳にする場面を黙読してください。

【Marco。】「今日は残業しないで、早く家に帰ってビデオが見たいです。」
【上司】「いい年してビデオなんて、、、。まったく最近の若いやつは、、。」
【Marco。】「家で何したって本人の勝手でしょ!」
【上司】「ビデオって、いったい何を見るのだ?英会話とかゴルフ・レッスンかなんかか?」
【Marco。】「それはちょっと、、、。あのー。オペ、、、。何だって良いでしょう。」
【上司】「ぺー、とは何だ、ぺーとは! 」
【Marco。】「プ、、プロレスです。」


A:Marco。のレシタティーヴォー1>>
 確かに当時、1992年頃の日本では、テレビの衛星放送が普及し始めたばかりの頃でありました。"BS"なる名前は聞きませんでした。マニアックな方々は、中華鍋のようなアンテナと専用チューナーを取り付けて、一般人の見ることは出来ない番組を見ていました。その、「一般人視聴禁止番組」とは何であったのでしょうか? 夕方のゴールデンタイムには、バレー・ボールやサッカーなどのスポーツ独占中継でありました。これらの番組にはMarco。さんは全く興味が無かったのです。当時の一般放送は、夜11:30ぐらいで全ての番組が終了してしまっていたと思います。ただ、衛生放送だけは、深夜から朝まで放送をしていることを、新聞の番組表で知りました。深夜番組表には、「F−1・レース」、「ロックコンサート」、「プロレス中継」そして、「歌劇:ニーベルンゲンの指輪」がありました。

 Marco。さんはチューナーを持っていなかったのですが、会社の先輩と後輩がチューナーを持っていました。彼らがビデオに録画していたものは、100%「プロレス中継」でした。また、こうして深夜に録画されたビデオは会社の中でかなりの人気で「回し鑑賞」されていました。Marco。さんは、そんな彼らの行動を見て、新聞の番組表を見ては、オペラの録画を彼らに交代で頼んだものでした。それまではモーツァルトやワーグナーのオペラの曲について多少の予備知識はあったものの、テレビですらオペラを見たことの無いのが当時のMarco。さんでした。そんな中で、ふと知人に誘われて逗子の市民合唱団が、ベートーベン第九を演奏するついでに、歌劇:「フィデリオ」の序曲を神奈川フィルと松尾ヨーコさんの指揮によって、中学校の体育館らしきところで演奏するのを聴きに行きました。テインパニの音だけが記憶に残り、「ベートーベンもオペラを創ったのか?」と思い、フィデリオのCDを買いましたがほとんど聴いていませんでした。

 やっとのことで、録画してもらったオペラのビデオを見ようとしたのですが、中身は「プロレス中継」でした。もともとテレビの録画なぞやったことの無いMarco。さんでしたので、テープがどこに売ってるのかも知らなかったので、「撮り直しのテープ」に録画してもらったのですが、操作を誤ったらしくオペラは録画されずに、プロレスが写っていました。しかし、ビデオの使い方もあまり知らなかったので、「そのうちオペラの画像が写るはずだ!」と思いだまってプロレスを見ていました。「なるほど、プロレスにもテーマソングがあるのかあ?」歌にあわせて、レスラーが登場する。そしてまた、レスラーには善役と悪役がいて、それぞれにファンがいるのです。日本古来の演劇で「庶民受け」するものは、すべからく勧善懲悪でなければならないと思っていたMarco。さんの固定観念が崩れるところに「新しい発見」がありました。またテレビの解説者によると、「ショービジネスとしてのプロレスは、観客が喜んでなんぼのものだ。強いものが一瞬にして勝ったのではつまらない。ストーリーを演じることが大切だ。」とありました。

 幼い頃にテレビ漫画で見た「タイガーマスク」、これがMarco。さんの全てのプロレス知識でした。そして、勝つためには(=TVのアイドルであり続ける為には)、「必殺技」が必要であること、これが一番印象に残った事でした。また同じ頃、ジャンルは違うもののスポーツ漫画として日本中がテレビにかじりついていた番組に「巨人の星」がありました。いじめ(現代の言葉とは意味が異なる)や裏切りを体験した少年主人公が、困難を克服しながら成長して行く。目的達成の背景には「自己犠牲」ともとれる「我慢」とか「忍耐」のような、Marco。さんの辞書には載っていないような壁に飾る言葉があったように記憶しています。こちらも同じように、「大リーグボール」なる必殺技を持って敵に立ち向かう姿がストーリーの全てだったように記憶しています。当時の高度経済性成長の波に乗った日本では、$1=¥360という円相場だけが「必殺技」であったハズなのに、「根性」だとか「カミカゼ」なる言葉に下支えされているとする風潮にも、これらの漫画は役立っていたと思います。
 
 更に、目的を達成し勝者となった場面では、平家物語以来変わることのない「おごれるものは久しからず」の題目の内に、快楽を求める自己に対する葛藤が主人公の気持ちに現れ始めます。「信念とはいったい何か?」、の問いに目覚めるところで物語は最終回となります。

 こういった過去のテレビの記憶をもって「プロレス中継」を観るときに、ひとつの疑問も湧きます。「日本人は変わったのか?」、あるいはまた、「隠れていた本性が表に出ただけなのか?」自分だけが時代遅れなのか?


B:星条旗のパンツをはいた白髪の老人レスラー:ハルク・ホーガン>>
シルベスタ・スタローンが主演する「ロッキー」のシリーズはたくさんありますが、ここではその中で、「星条旗のパンツをはいた白髪の老人レスラー:ハルク・ホーガン?」が出てくる場面を紹介します。外国人悪役レスラー達の反則技の前には、チャンピオンの鉄人レスラーもダウン寸前の場面です。しかし、場外乱闘の末チャンスをつかんだチャンピオンは一気に反撃に出ます。その瞬間、場内は沸き立ち総立ちとなります。アナウンサーを初めとして、観客は全員チャンピオンの応援です。しかしここで問題なのは、彼らは「星条旗のパンツ」に声援を贈っているのであって、レスラーに対してでは無いのではないか? あるいはまた、シュプレヒコールは「星条旗のパンツを見つめる自分に対して」贈られているのではないかと言うことです。(と、ここまで書いたのですが、どこでロッキーと繋がっていたのか忘れました。)私はここで、ベトナム戦争の事が頭の中にはありました。

 確か、「ロッキー3」ではかつての栄光からどん底へ落ち、肉体の老化と肥満とから「ハングリー精神」を無くしていたロッキーが、かつてのライバルの助けを借りて再びトレーニングに励み復活を成し遂げて、「めでたし、めでたし」だったと思うのですが、その後の「ロッキー4」ではファンのみなさんからはブーイングものだったような気がします。まさに「映画としての”タイトル”を失った原作者」は、話題を求めて「米ソの冷戦状態」にまで手を着けるようになりました。ロボットのような計算し尽くされたトレーニングプログラムを受けたロシア人ボクサーに対抗するために、雪山にこもって原始的な生活の中で、まさに「あしたのジョー」のような訓練を続けるロッキーの姿には、アメリカ人のみならず、東洋人も共感できる(かなりレベルの低い意味で)ものがありました。しかし、この時代はベルリンの壁の崩壊による東西ドイツの統一、「ロシア革命とは何だったのか」と考えさせる、湾岸戦争の終結とソ連の崩壊がありました。また職場では、「あいつは嫌いだ」と宣言する事によって、「私はあなたの見方です。」と策略適にアプローチする手管も、「もう古い」とされてきた時代でした。


C:韓国人である力道山>> 
 さだまさしは歌う、「♪僕と親父は街頭テレビの力道山の空手チョップが白熱した頃に、妹の産声を知った♪」Marco。さんはTVの力道山は記憶にありませんが、ニュースなどで戦後の最大のヒーローであり、国民的英雄であったということは知っています。高度成長期のまっただ中に於いて、外国人レスラー達を「得意技」である「空手チョップ」により次々となぎ倒す姿は、貿易摩擦の始まる前の日本に於いては、「元寇」以来の盛り上がりがありました。しかも、その盛り上がりは、少し前に隣の国で起きている「朝鮮戦争」による38°線だとか、「李生蛮ライン」のおかげという認識も意識の中には無かったのではと思います。

 ただ、ここで特筆すべき事は「力道山は韓国人」であったと言うことです。隣の国でありながら、古来より、お互いあまり良い国民感情が無い韓国ですが、力道山が韓国人であるということは当時だって知られていなかった訳では無いと思います。インターネットは無くとも、女性週刊誌などでは格好のネタであったハズだと思います。おそらくは、多くの日本人は、「日本人であることを受け入れた力道山」に対しては、「仲間意識」が働いたのでしょう、「味方」と見なしたのでありましょう。ただ、ここに至るまでには、力道山の中には「力士の世界では通用しなかった日本人」、「成功しても祖国、北朝鮮に戻れない」などの苦悩があったハズと思うのですが、、、。ワーグナーの歌劇:ローエングリンを観る時に、「異教徒を信じられるか」の話から、この問題が頭をよぎります。

 最近は、自分で言うのもなんですが、Marco。さんはかなり、A・トインビーのように中立にものを見れるようにはなってきたと思うのですが、かつての自分を振り返るとともに永遠に離れることの出来ない「日本人」の枠の中から、力道山の苦悩について考えてみたいです。元来、日本の社会に於いては「日本人」と「それ以外」すなわち、「外国人(ガイジン)」の2種類の人種しかいません。アメリカのように、オリエンタル(これはもっと細かく分類)とか、ヒスパニック、ネイティブ・インディアン、ブラック、カウカシアン(白人全般)、等の大分類の他に細かな人種の分類があります。また、ドイツ語の世界には、"weltunschaung"(世界観)なる言葉が良く出てきますが、日本人には「目の前にいるあなた方」だけに世界は存在します。例えば、北アルプスで、「連なる3000m以上の山々のムコウ側には何があるか?」と質問した場合に、アメリカ人やドイツ人は「インドのカラコルム」とか「中国のエベレスト」とロマンティックに答える人が多いのですが、日本人はこう答えます。「北アルプスの西側は名古屋じゃ。」

 要は、「自らの尺度としての母集団に、何時の、何を、どこまで」捉えるかの前提が、「自らの決断への後悔」の結論と結びつけられるか、が一番重要なところであると思います。

 
D:悪役レスラーのテーマ>>
 磁石にN極とS極があるように、電流にプラスとマイナスがあるように、シャンプーに酸性とアルカリ性があるように、プロレスの世界には悪役と正義の味方が居ます。また、「仁義無き戦い」等のやくざ映画の台詞にもあったと思うのですが、「社会には排気ガスが必要じゃ。俺らはその排気ガスじゃ。」とつぶやき、自らの存在を肯定しています。また、中野美代子さんの西遊記の世界では、「乾坤万古」だったかな?確か、「対立しあうもののエネルギーが頂点に達するときに、カオスの中から生物が生まれた。」とする文章があったように記憶してます。また、善と悪の精神が同居する「キカイダー」においては、林光と同レベルのオペラが生きていると思っています。

 ただ、オペラの世界では、これまで観た範囲では、「真の悪役ヒーロー」は居ないのではないかと思ってます。登場人物が多いと制作費がかかってしまうのか、「悪魔に魔法をかけられたxxx」のように、主人公が一人二役で出来るような設定になっているのが多いような気がします。しかし、プロレスには悪役のヒーローがいて、それらのファンがいます。また、日本のプロレスでは悪役も勝ちます。確か、最近柔道のオリンピック選手を引退して、アントニオ猪木にスカウトされて、プロレスの世界に入った若い人で、「小川なおや」さんってのがいました。茅ヶ崎出身で、サザンのコンサートにゲストで出るかも知れないって掲示板に書いてました。