間ノ岳・北岳 (南アルプス) 登山報告書
1999年: 10月 23日(土)−24日(日)

時刻(行) <10月23日(土)> 晴れ
時刻(帰り) <10月24日(日)> 超晴れ
<交通の記録: 高速料金:往復¥4700、 燃料代:往復(410km) ¥3200 17:30 歩き続ける事11時間の果て、駐車場到着。顔洗う。真っ暗
4:30 緑が浜発:0km 17:40 奈良田へ向けて出発(悪路)
  18:33 塩島温泉旅館で入浴
134号経由―厚木―津久井―中央高速 19:20 入浴終えて出発   225km?
5:48 談合坂S/A 20:13 国道300号(本栖みち)261km
6:15 朝食後 談合坂S/A 発 甲府昭和 I/C 出る 21:00 富士入り口I/C    301km
8時頃 竜王にて買いだし 21:06 富士I/C入る     307km
9:10 広河原 到着     185km 22:00 厚木I/C出る     396km
9:20 歩き始める 22:30 緑が浜到着:     412km

往路計:185km、正味4時間

有料道路 相模湖-甲府昭和: ¥1900

復路計:227km、正味4時間 
有料道路 富士宮-富士    ¥ 200富士―厚木:   ¥2600

 【CL所感: 油断の成せる業】

 過去にもこの山域には、文化の日の周りの連休を利用して2度程訪れたことがある。北岳までは、何度も来ていたが、間ノ岳までは毎回計画はするものの辿りつかなかった。毎回天候には恵まれていて今回も同じく快晴であった。登山道の入り口へと続く「南アルプス街道」や駐車場の回りの紅葉は例年の半月遅れぐらいであろうか。まだまだ、夏の終わりのままであった。終わり行く20世紀のトレンドグラフの右端で、微かに見せた季節の抵抗かそれともただの気まぐれか? 月日の経過を自らの身体の衰えに喩えるのが最近の無意識下の習性とすれば、何とも心強い風景であった。
 しかしながら、何時もと大きく違っていたのは、登山道の積雪の量であり過去に比べて少し多かった。いつもは、(と言うよりは初めて、あるいはその年の初めの冬山のと意気込みから)冬山フル装備で来ていたものだった。そうは言っても、登ってみては気合の入れすぎに気付く事が多かった。アイゼンは実行動の為の使用には不要で、よせば良いのに頂上で夕食を作る時だけにしか使わなかったと記憶している。今回は、「たぶん使わないだろう」と思い金物は持って行かなかった。何度か登ったという慣れと「近場だから」との油断の為に予想外の困難に見舞われたが何時ものように「運の良さ」に救われた山行であった。また5年ぶりに履くカビの生えていた登山靴は、塗りたくっていた油カビが剥げて、輝きを取り戻していた。(因みにカビ防止には除湿よりもファブリーズが効く。
 今回の計画の完了により、南アルプスの主峰の積雪期の登頂は、南部の悪沢岳(兎岳)を残すのみとなった。こちらも付近へは何度も着たが、いつも到着しなかった山である。今年中に完了か?
 

<行程記録: 第1日目: 10月 23日 (土):快晴: >
時刻 高度(m) POINT
9:20 1700 広河原駐車場出発。 センターで水を汲む
9:50 一本。大樺沢ルートを行く
11:10 2050 一本。 岩崩れを避ける為にルート川の右岸・左岸の木橋を渡る
11:40 2200 二俣到着。昼食(おにぎり)       
12:10 昼食後、八本歯のコルへ出発 
13:10 八本歯のコル手前にて、足場が凍結の為、直登を断念
14:30 2200 二俣へ戻る。下山者に「これから登るのですか?」と不思議られる。
15:30 2550 一本。雪で肩の小屋へ辿りつけない時を考え下山するか考えたが進む。
16:30 2800 一本。真正面に甲斐駒ケ岳が夕日に焼ける。左に仙丈ケ岳、右に鳳凰三山、もっと右に富士さんが君臨していた。もう、どうなっても良い。膝までの新雪が始まる。
17:10 3000 日が暮れる直前、肩の小屋到着。宿泊者20名程度
夕食 甘酒、おにぎり、卵スープ

<行程記録: 第2日目: 10月 24日 (日):超快晴: >
時刻 高度(m) POINT
5:40 起床。
朝食 ラーメンに餅、コーヒー
6:50 3000 肩の小屋出発。登山道凍結、アイゼン無しでは、非常に危険
7:30 3192 北岳頂上到着、一本
8:25 北岳山荘到着、一本。すれ違った登山者によると昨日の宿泊者20名
9:00 3052 中根岳到着。その後、ニセピークを2箇所通過
10:00 3189 間ノ岳山頂到着
10:55 3052 中根岳戻る。
11:30 北岳山荘戻る。
昼食 カロリーメイト
12:55 3192 北岳頂上戻る。鳳凰三山を見ながら感慨にふける。
13:30 3000 肩の小屋戻る。 雑嚢を背嚢に仕舞う。 13:50出発
14:10 一本@白根御池小屋の分岐。
14:40 2500 一本。雪の下りは歩きやすい。この後は最悪。
15:25 2200 二俣の分岐到着
16:00 2000 橋を渡るところで一本
17:00 1700 入り口の分岐(白根御池小屋への)で座り込む、もう限界。
17:30 広河原駐車場到着。真っ暗。
17:40 着替える間も無く、奈良田へ向けて出発

【まず最初の危機:八本歯のコル】
 広河原の駐車場を出発してから登山道へ入りまず最初の分岐点は、「白峰御池小屋経由」か「大樺沢ルート」の選択である。これまでの山行では同伴者のトイレ休憩を考えて毎回小屋経由で登っていた。また樹林帯の中の「土の道」の踏んだ感触も懐かしさを求めた為も好みの理由であった。しかし今回は何故か分からぬが、「沢沿いの音」と「光」を求めたのではないかと、今になって理由を考えてみる。そう言えば深海魚である「秋刀魚」もそうではなかったのか?「睡眠不足が自律神経の発達を阻害し、延いてはストレスにつながる。」とする最近の流行の学説を1歩進んで考えてみるに、今回の自分の行動は以下の何れかに分析できるのではないか?
l 使用頻度の減ってきた「野生のカン」は、その存在を示す為に大脳が指令を送る前に行動させた。
l 「天気が良いから」と安心しきった大脳はいかなる危機信号も受け付けなかった。

 やがて二俣に到着。ここで二度目の大きな分岐である。この9月の雇調金の連休の時に浜辺で読みまくった、新田次郎をはじめとした数々の古本の山岳小説に登場してきた、「北岳中央稜のフィックスザイル」の単語が頭に浮かんだ。深く考えずに直進を続けた。荷物は軽いのであるのに呼吸が急に荒くなってきた。傾斜がキツイのと足場が悪い為である。カールの中をゆくトレイルで、北斜面であるため日の当たりが悪く、昨日降ったと思われる新雪で頂上まで真っ白である。次第に岩が大きくなって行き、花崗岩の一枚岩(多少の足場はあり)では縦に裂けた溝を頼りに登りつづける。「しかし、これが一般登山道であろうか?道に迷ったのではないか?またしても野生のカンを無くしたのか?」との思いが脳裏を過ぎり、不安のためか心臓の鼓動が早くなるのを感じる。それと同時に、「必死に登る」時の例の感情が、感性が蘇ってきた感触も出てきて何とも言えない充実感もあった。足場を確認しながらや指掛かりを探しながら3点支持を続け、高度を稼いだ。もう頂上(稜線)まであとわずかである。呼吸を整える為に平地を見つけて背嚢を降ろして休んだ。


 日陰であるせいか気温は低い。先ほどまでの夏空の雰囲気はもう無かった。最後の登りルートを目で追った。小さな赤い布とその横に、派手な黄色の確保の跡を発見。寒さがもたららした不安の為か、「ザイル無しでは登れないのでは?」との不安ではなく、「こんな時に、アイゼンもピッケルも持たないで無謀な計画だ!」と責められるのが頭を過ぎり再び心臓の鼓動は再び高まった。このまま登り続けたとして、最後に「登れない」と分かった場合に同じ道を下るのは登るよりも危険である。積雪量は当然ながら上に行くにつれて深くなっている。荷物を置いたままで、ルートの下調べをしてみる。岩に張りついた氷は足で蹴り落しても僅かに残っている。大きな岩場を登りそして下ろうとする時に、同じ道を探して下るのは余ほど注意していなければ出来ない。別の道を下る場合は、足場がある事は滅多に無い。また滑りやすい岩場は「登れても下れない」ことは多くある。「どこかに一般道のような出口があるのでは?」と左右の尾根を探してみるが見当たらない。しかも今回はツェルトも持ってきていない。迷った場合のビバークも危ない。遂に決断、「撤退」である。まさか、こんなところで使うハズなど無いであろうと持っていた、「非常用の脱出用の細引き:4mm−20m」を背嚢から取り出し慎重に岩場を降りた。

【概略コース図】

地図の通り
  
【肩の小屋まで、そして小屋にて】
 八本歯のコル手前から二俣へ無事もどって辿りついたのが14:30。すれ違う下山者に「これから登りですか?」と意味ありげな質問をされて説明に困ってしまう。確かに現在の自分の所在位置は周りの人に心配されても致し方ない所にあった。せっかく早起きして出てきたのに、これでは寝坊して渋滞にハマって昼から登り始めたようなものである。下から見上げても肩の小屋付近の積雪の青さは、小屋までもたどりつけないかも知れない不安を駆り立てる。「御池小屋の宿泊として間ノ岳は諦めて、またしても北岳だけとするか?」との安全策が考えられた。一瞬の判断を迫られたが、風が無かったことから、"GO-ON"の結論に達した。

 2時間ほど歩きつづけると、御池小屋から上ってくる登山道と合流した。ここからは膝までの深さの雪が続くが、ステップは踏み固められているために然程の危険は感じなかった。更に10分程登りつづけると、稜線に出ると同時に夕日に焼けた甲斐駒ケ岳が真正面に姿を現した。「もう後へは戻れない。」と言い聞かせると、その場で暫くの休憩をとり千丈が岳の左に沈む日没を確認した。ペンライトを首にかけて、残光だけで歩きつづけると黄緑色のテントを発見。小屋はすぐそこである。残光が無くなる直線に肩の小屋到着。ストーブの匂いに安心する。

【肩の小屋より北岳を越えて間ノ岳まで】
 計画の遂行に一部の望みを抱きつつ、朝早起きしようと思って早くに就寝したものの、起きたのは辺りが明るくなってからであった。朝焼けの景色をファインダーに納めようとたくさんの人々が小屋の外に出ているところであった。「昨日、二人の登山者が間の岳まで行った。」と小屋の管理人の言う言葉に、ほとんどの人は「この雪道では自分の体力では行けない。」との声がほとんどであった。「間の岳を目指してきたが、このまま下山」の組がほとんどであった。また、予想通り、今回をシーズンの終わりとして来年の5月連休から再びここから再開という「北岳リピーター」も多かった。誰一人、これから北岳を越えようという者はいなかった。

 靴紐を結びスパッツをつけた後、小屋の外へ出た。背嚢より雑嚢を取り出し、水と行動食、地図と磁石と財布を持って雪道を登り始めた。とりあえず北岳、と思い小屋のすぐ南に始まる登山道を歩くのであるが、早朝の気温は何気ない一般道を一番危険なコースに変えていた。アイゼンさえあれば何の事も無いのであるが、振り返って考えるに、小屋のすぐ脇のこの道が一番滑りやすく、そしてまた滑った場合に下まで転げ落ちるのは確実であり、転落したあとの復帰も一番困難な場所であると思われた。とにかく緊張。風が無いことが事の深刻を隠すようであった。

 北岳頂上より、眼下に見える北岳山荘を越えて中根岳から間の岳に至る真っ白な稜線が光っていた。南斜面にあたる北岳山荘への下りは急斜面ではあるが行きは少なかった。また山荘の先は積雪は多いものの急斜面はなさそうであった。「ひょっとすると行けるかもしれない。」という考えが頭を過ぎった瞬間から、「xxxまでは何時に到着。」との時間計算が頭を離れなくなった。この先は、自らを「コーカサスの捕虜」の登場人物に見たてての歩行ラリーの状態となった。「日の暮れるまでに歩いた分だけが自分の農地になるが、日の暮れるまで戻らなければ死ぬ。」と、2つの小ピークを越え間の岳に辿り付いた。正面には、朝の紫色を未だ少し残した荒川三山が広がっていた。かつて雷鳥の白い姿をファインダーに納める為だけに通った山々であるが北岳から北を見る景色よりもずっと美しい風景である。確かに、「ここだけあれば他には行く必要は無い。」と初めて行った時に決め付けた若かりし頃の判断は、あながち間違いだったとは言えない。

【間ノ岳より北岳へ再び戻って頂上のベンチ】
 肩の小屋を朝7:00に出て北岳を超えて間ノ岳までを往復し、本日再び北岳頂上のベンチに腰をかけてゆっくりと休む。
風も無く、また前方の風景を遮る一片の雲も周りには見当たらなかった。北側に向かって座ると真正面には鳳凰三山が広がる。正面の景色を前に過去の山登りの記憶を振り返ってみる。脳裏には時系列がはっきりと思い浮かぶ。10年程昔の11月に、八ヶ岳登山において初めて関東地区にも雪が降るという事実を体験した。その後、雪の感触に釣られる様に、2度3度とその冬の富士山に足を運んでは自分なりの雪山についての自信を持った。その翌春の5月連休を利用して南アルプス北部での、一気に1週間以上もの単独行(雪の早川尾根の縦走)を計画した。昭文社のエリアマップを買ったのもこの山域が初めてであった。夜叉人峠に車(当時の愛車:いすず117クーペ)を止め南御室小屋を目指して歩き出したときの事、荷物の重さが尋常ではない事に初めて気がついたものであった。米の炊き方も、調理の仕方も知らなかったあの頃は20食近いレトルト米を持ち、テントは山岳部の3人用のダンロップの外張り付きテントであった。(当時、自分で買った個人装備はザックと雨具だけであった。)肩にはザックのストラップの跡が蚯蚓腫れになるほどに、くっきりと浮かび上がっていた。


 出発地点での汗ばむ程の春の陽気も標高を繰り上げるにつれて、北国の冬景色へと一日歩くだけで変貌していた。南御室の小屋を通過して白鳳峠にさしかかる頃には、腰までの雪の中を一人でラッセルしていた。地図には赤字の太字で登山道がくっきりと描かれているのだが、目の前には道などどこにもない。あるのは、雪、雪、雪の一面だけである。未だ新田次郎の小説を読んでいなかったその頃は、「ホエブスの使い方とテントの張り方さえ知っていれば、どこでも何日でも生きて行ける。」と思いこんでいた時代であった。腰まで食い込む新雪も、一日中歩きつづければ寒さも平気であり、夏道の半分ぐらいの歩行スピードは達成できるものと思い計画を立てていた。高度計もGPSも持っていなかったあの頃、自分の存在位置を知らせるものは疲労感とそれにともなう満足感、そして空腹感だけであった。こぎ疲れれば雪を掘ってお湯を沸かしてはお茶を飲んだ。だんだんと休む回数が増えてくる内に、「ラッセル」という言葉よりも「除雪作業」の合間に休憩してお茶を飲んでいる自分を認識しはじめていた。一日中掘りつづけて、いったいいくらすすんだのであろうか。やがて滑落。木に引っかかって一命は取り止めた。鳳凰小屋へと暖をとるために戻り、全身の青あざを見るときの気持ち悪さはなかった。イメージとしては日露戦争前に、津軽海峡の冬季封鎖を想定して、青森から弘前へ八甲田山を越えての縦走による軍事教練を行った陸軍の話も多少重なっている。新田次郎の小説「八甲田山 死の彷徨」の中(あるいは高木勉の「八甲田山より生還した男」)でも、弘前から青森へ向かった連帯は全員無事であった事実が語られているが、この時も早川尾根を甲斐駒ケ岳側から夜叉人峠へ向かっていた自衛隊のPartyは縦走を終えて生還していたと言う事実も後で小屋の人ので知った。


 この山行記録については「雲海22号」以降の一連の記録が残ってはいるが、5行で手短に説明すると以下の順番であった。鳳凰小屋で遭遇したアメリカ人と半年後に北岳での再会を約束した。半年経って11月の北岳には5月のアメリカ人に加えてもう一人来た。そのもう一人とはその半年後に八ヶ岳に登った。そのあと足を怪我して現場に行って、本国に帰ったアメリカ人とはスイスでの再会を約束して2年後に出会った。その後、転勤でアメリカに行ったら、また出会った。以上

【登山を終えて帰り道:身延線について】
広河原から奈良田へと向かう道は、相変わらず悪路であった。狸にフクロウが道の真中に立ち止まっている夜景も相変わらずであった。道路の舗装工事もゆっくりとは進んでいるようであった。