第5弾: 石転び沢(飯豊山)& 月山 テレマークスキー

1999年: 5月 21日 (金)−23日(日)

参加者 : (C−隊) CL Marco。 (茅ヶ崎市緑が浜)、knabe (横浜市保土ヶ谷区)、彼ー1 (横浜市菅田 )(G−隊:彼ー2)

<交通の記録: 高速料金:往復¥14000、 燃料代:往復(1200km)¥10000>

時刻(行)  <5月21日(金)> 時刻(帰り)  <5月22日(土)>
緑が浜ー(横新)−鶴見 16:20  梅花皮(かいらぎ)荘 入浴500円   -17:15
12:02  1号館の8号倉庫より山岳部の4人用ダンロップ・テント借用 17:35  道の駅白い森おぐに 夕食 550 km  -18:35
12:10  3号館駐車場出発   40km 21:10  姥沢駐車場 幕営 669 km
12:20  生麦のテクノウェーブ・ビルにて彼ー1さんを拾う <5月23日(日)>
12:40  生麦の麒麟・ビアビレッジにてゆっくりと昼食 17:00  寒河江市民浴場 入浴100円 713 km  -17:50
13:40  首都高速・大黒入る 18:55  国見SA 夕食 802km -19:40
15:50  銀座・常磐道経由で東海村到着 21:45  日立南太田IC 1004km
16:40  JUSCOで買出しを済ませ、時間調整に銭湯を探すかどうか彼ー2さんに電話 22:00  東海 1012km
17:30  東海 G研権現山寮駐車場で着替え・車内の整理 23:30 首都高速・鶴見通過(渋滞ゼロ)    1150km 
17:50  東海 G研権現山寮発 212 km 23:50  菅田の彼ー1家到着
20:35  福島飯坂IC 405km 24:00  天王町寮でknabe降ろす
22:50  飯豊山荘 幕営 516 km 24:45  緑が浜到着:新月、波高し(明日は雨)          

【CLのMarco。余談】 <A:この度の日本列島を覆い尽くした移動性の高気圧は色々のものをもたらした。>

「子供の頃はいろいろのものが見えた。」と、この所感を書き始めるならばシャボン玉の向こうに見える海の波や、団地の窓から見える放火魔と新聞配達の自転車の音が脳裏に重なる風景かもしれない。「見えますか?」

1.この4月は開闢依頼、業務上の妨げは全く無かったのであったが、週末ごとの悪天候により、巻機山などのテレマークが全て中止となった。その反動を補うに十分な内容が今回の計画であった。数々のプロジェクトの断念の末に辿りつくところ、それが「成功」というものであるならば今回の成功は何の疑う余地も無い。

2.しかし、思いなおしてみるに4月の悪天候は実は我々には幸いであったかもしれない。

3.「天気が悪いから」との理由で己の体力の衰えの真実は隠されていた。

4.「ここまで来れただけで満足」といった思いも、一点の曇りも無い空の下では 「稜線まで達するのは無理」と自分に言い訳が思いつかなかった。 また、「ここで辞める」と決心するだけの勇気は無かった。まるで4年間、辞めようと 思いつづけた体育会出身者が会社に入ってまで学生時代の活動を続けるのに似ていた。 映画、「屋根の上のバイオリン弾き」のラストシーンにも少し似ていた。

5.標高差1000m以上の登磐は過去4年間行ってはいなかった。600mが限界と勝手に 決め込んでいたのが実情である。今回はこれを打ち砕く快挙であった。

6.「八甲田に比べると飯豊も月山も非常に近い!」と考えるのもGWの山行の賜物かもしれない。

<工程記録: 5月22日 (土):快晴:石転び沢:北股岳@2024.9m>

時刻   高度(m)   POINT
6:45   406  飯豊山荘
     450  温身平
8:05   650  雪渓とりつき シール装着 スキー登行開始      ―8:20
8:50   860  石転びの出合
9:15   1050  一本                        - 9:30
10:45  1470  北股沢出合 昼食 スキー登行終了 -11:20
12:05  1850  十文字鞍部 -12:30
12:45  2024.9  北股岳      -12:50
13:00  十文字鞍部   -13:20
13:55  雪渓末端 滑降終了    -14:00
15:15  飯豊山荘       -15:55
 

【彼ー2師匠のたまわく】 - 梅花皮荘-飯豊山荘間問題なし。

全舗装になっていた。GW中は雪崩もあったとか。 - 梅花皮小屋新築中。旧小屋解体が始まり、新小屋は8月末から使用可。 - 石転び雪渓の滑降距離は1995年6月18日より短く、1997年6月15日より長かった。 雪質はこの時期の方が滑降向きと思われるが、6月中旬は花が咲いている。

<工程記録: 5月23日 (日):快晴:月山@m:清川行人小屋>

時刻   高度(m)   POINT
7:55   1160  姥沢 駐車場1000円
8:10   1240  リフト乗り場   - 8:15
8:25   1540  リフト降り場上 - 8:35
9:25   1720  牛首コル - 9:35
9:55   1800  雪が切れる スキー登行終了
10:1   1930  カジ小屋 -10:30
10:40  1970  月山頂上小屋 山頂は1984m -10:50
11:10  1360  清川行人小屋 休憩300円(宿泊は1000円) -12:10
12:45  1650  一本 -12:55
13:55  頂上小屋    -14:05
14:20  スキー着
15:05 姥沢駐車場   -15:45
 

【CLとは言いかねるMarco。の吐息】 <B:酒と峠と幕営地とスキー場と彼岸と此岸と乾坤と雲海とWeltanshauung>

 以下の話は、酒を飲まない彼ー2さんにとっては、ペプシかコカ・コーラ、あるいは味の素かキューピーかの類の命題として聞き流して頂きたい。知らず知らずの内に過去の「雲海」に何度か書いた話題でも有る。 

*今回購入した酒は「米鶴」という辛口の一升瓶で美味であった。追加で買った冷酒は値段が高い割には甘くてまずかった。 *どこで買うか、という問題も重要では有るが「現地」にこだわる考えに変わりは無い。

*どの店で買うか、については「知っている店」が一番なのだが新天地には無理がある。

*どの銘柄を選ぶか、については「一番売れているもの」とするのが無難なようである。

*「どこで飲むか?」の質問は次なる問題へ移る。

*「なぜ飲むか?」についてはここでは語らない。 *「幕営地で飲む」の考えに変わりは無い。

*「どこに幕営するか?」あたりからいよいよ本題に入る。

*元来、Marco。のスキー登山の始まりの地、その幕営地とはスキー場の頂上リフトの終点であった。 御岳山、白馬山、神楽峰、斑尾高原、磐梯山などの例を挙げればいくつも有る。

*テレマーク登山がもたらしたもの、あるいはそこに辿るべくして辿りついた我々は、 幕営地をスキー場の駐車場に持ってきていた。これが進化か退化かは議論の対象となる。

*駐車場での幕営は元来の山岳部の活動としては珍しいものではなかった。草津プリンス、ホテルニュー大谷・宇奈月、みどり湖PAなどいくつもあった。

*集合場所としての幕営地、避難場所としての幕営地あるいは帰路のつなぎとしての幕営地などあった。

*しかしここで考えてみたいのは、「山界」と「下界」の境目である。「稜線」をもって境目と考えるのが説得力の有る線である。「森林限界」をもって解脱するとも考えられる。 標高や緯度、季節の差、地溝風の影響などを楽しんでいる内はまだまだ健全な体力による登山であった。

*テントのポールが折れるほどの吹雪の中での幕営。霧氷や樹氷で全てが閉ざされた森。 落ち葉の登山道がシラビソに変わり、巻き道をぐるりと回ってアイゼンを付ける時、「彼岸」は現れるのであった。また夜明け前の凍った登山道や朝焼けの中に浮かぶ富士山も「此岸」には無い風景が現れた。

*「登山には酒など要らない」と思った時代もあった。体力の絶頂期はそうであった。酒に酔うという浅はかな行動は下界においてのみ許される自分の思考に対する暴力であるとも思った。

*しかし、彼岸の世界の標高を一気に1000m以上も下げる酒の役割は、吸湿性レジンで作られている老人向けのオシメの如く、手元から遠ざけることの出来ない1つのエレメントとなっていった。ああ、「汚れちまった悲しみに。」と中原中也は叫ぶ。

*もはや我々に「境目」は無くなったのであろうか?まるで遠近両用目がメガネのように。

*残された「境目」とは、TOPギアでは車が登れなくなり始める頃の「峠」であろうか?

*ここにきて我々には1つの光が挿して来た。「地球の温暖化」である。かつての恐竜の王国が、隕石による氷河期の到来によって滅びたと言う説も、実は体力の限界が真実だったのではないか?

*「進化論」と言ったって、つまるところは「楽な生活」への堕落に過ぎなかったのでは?

*「今週は雨だから行けない。」とかいう言い訳は必ずいつも使えるとは限らない。

*「まだ子供だから。」とかいう言い訳が使えなくなったのはいつの頃からだったろうか?

*「飯豊や月山は遠いから行けない。」という言い訳も高速道路の開通が許してくれなくなった。

*「地球の温暖化で雪が無いから、、、。」これならいつでも使える。

*「5月でなく3月に行けば良い。」と言われると返す言葉が見つからない。

*年を取るとともに狡賢くなる自問自答の山岳生活も新たなる岐路へと差し掛かっている。

*「乾坤一擲」と言われた南アルプスの単独登山の時代には予想ダニしない現実があった。

*しかし、未だ残された道はあった。「道具に頼る生活」である。 板は新しいのに買い換えようかと思った。シアトルで買った中古の$75セットでは限界がある。

*さて、月曜日に早朝出勤してすぐ出張して、火曜日に定期健康診断に言ってみると、 「標準体重以下では有りますが、昨年に比べて3kg体重が増えています。」 「運動不足の傾向が見られます。」、と年老いた女性の医師はのたもうた。 「この、くそババア!何が運動不足だ。ちょっとこの報告書を読んでよ!標高差1000m、 しかも二日間続けて。これ以上何をしろと言うのか?」 続く。

【去って行く、knabe談】

「なぜ、山に登るのか」と聞かれ、「そこに山があるから」と素直に答えた登山家はただ頂上を目指す。「なぜ、山に登るのか」と聞かれ、「そこに斜面ががあるから」と答えたテレマ-カ-は、斜面の終わりを目指す。  いつのころからか、頂上にこだわらなくなってきた。楽しく滑れるところまで登るようになってきた。でも、やっぱり頂上に立つのは気分がいい。今回は山頂まで行く事ができ、成功した登山であった。

【朽ち行く彼ー1談】 石転び雪渓、月山感想文 「コンビニアルペンスタイル」の確立

1.はじめに

春山の定例テレマークスキー山行の案内が来たとき、2年以上も本格的な登山から遠のいている自分にとって、メンバー(彼ー2氏:G研、Marco。、knabe:C隊)の名を見るだけで、参加を躊躇させる気持ちがわいたが、思い切って参加することとした。山行は、恐れていたとおりメンバーの顔ぶれに相応の、私にとっては最盛期の現役時代に選定するコースのようなハードな内容のものになった。なお、今回の山行の特徴は、次に示すように車とコンビニを使った機動力を活かした山行を実施したことであった。

21日:車で横浜から飯豊山麓への移動+食料のコンビニでの調達

22日:日帰り山行+温泉+車で月山山麓への移動+食料のコンビニでの調達

23日:日帰り山行+温泉+車で横浜への帰還 C隊の山岳部は、従来、山でおいしい食事を作り食べることにこだわる人が多かったが、今回は、限られた時間で登ることに力点を置いた攻めの山行形態であると言える。この渡り鳥のような新しい山行形態は、今後「コンビニアルペンスタイル」と呼称し、今年度、取得予定のリフレッシュ休暇(1ヶ月間)の中で実施予定の個人山行に応用していきたいと考える。

2.東海村:5/21(金)

東海村は、私が25、26才の時、日本G研に2年間出向していた頃、過ごした青春の地である。G研の彼ー2氏とは、かつて住んでいた権現山寮3棟脇の駐車場で待ち合わせをした。10年ぶりくらいに訪れるかつて住んだ寮は、昔のままで、何もかも全てが懐かしかった。余談だが、業務のつながりを目指して出向したのだが、その目的は潰えて、利害関係を越えたG研山岳隊とのプライベートなつながりだけが残っている。今後もこのような関係を大事にしていきたい。

3.石転び雪渓(飯豊山)テレマークスキー:5/22(土)

石転び雪渓の名前を初めて聞いたのは、彼ー2氏の山行報告であった。名前の特異性および規模が大きく豪快な滑りが楽しめる旨の記述があったことから、長く気にかけていた雪渓であった。出発前は、そのような雪渓の滑りを楽しめることだけが視点に入っており、呑気にかまえていたが、出発後、車中等で詳細な話を聞き、この山行の概要が分かるに連れて、体力的および技術的な不安感が増大してくることとなった。話によれば、とりつき点の飯豊山荘から石転び沢源頭の梅花皮(かいらぎ)小屋まで標高差1400m以上、石転び沢源頭直下の斜面は、最大斜度45度の大斜面であるとのこと。日帰りで1400mの標高差を往復する山行は、現役バリバリの最中でもあまり経験が無かったし、なにより、最大斜度45度の大斜面をテレマークで滑降することは、ゲレンデでも経験が無かった。滑りに不安があれば、スキーは途中でデポすれば良いとの話もあったので、体力的および技術的に限界を迎えた場合は、'源頭までいくことはあきらめて、雪渓の途中で引き返す'、'その時の弁解を考えておく'といった情けないことをいろいろ考えていた。 実際に歩き始めて、温身平を過ぎるあたりで、石転び雪渓を含めた飯豊の山々の全体像が見えた時の第一印象は、穂高岳の涸沢に匹敵する大規模な山容であるといったものだった。 谷が雪渓に覆われて、シールを着けてスキー登行に移ってから、石転びの出会いを過ぎ、落石等の土砂で雪渓が覆われて黒くなっている部分を歩いている頃は、体力的に一番きつく、いつ引き返すことを言い出すかばかりを考えていた。しかし、残りの標高差約600m地点で、稜線が見えた時、なぜか急に稜線に立ちたくなり、スキーを脱ぎピッケルを手にして、つぼ足でのキックステップによって、登行を開始した。 スキーでの登行と、キックステップでの登行では、微妙に足の使う筋肉が異なるらしく、キックステップにしてからは不思議と体力的に楽になり、源頭直下の40度を越える標高差400mの急斜面の登りもピッケル片手に何とか歩き通すことができた。源頭の梅花皮小屋からの景色は、今、思いだそうにもあまり、印象に残っておらず、体力の消耗が、脳力?をも消耗させてしまったのだと思われる。事実、小屋に到着後、彼ー2氏、knabeが北俣岳をアタック(私は、今回の目的はスキーであり、ピークハンティングでは無いとの言い訳により辞退)に行く間、尾根上でしばらく昼寝をしてしまった。 さて、本番の滑りである。先に、最大斜度45度の斜面をテレマークで滑ることは、ゲレンデでも経験していないと述べたが、結果はやはり無惨であった。ゲレンデで経験していないことは、本番の山スキーでやること自体、叱られそうなことだが、斜面を攻める気持ちで果敢にテレマークターンに挑んだが、多くは失敗して転倒し、初速がついている分、斜度40度の斜面で滑落し始めたらなかなか止まらず、半分以上を転んで流されクレバス(アルプスのような大きなものではなく1m程度の雪渓の割れ目)等に落ちてようやく停止するような情けない状況であった。標高差にすると約200mは落ちたのではないか。非常にもったいないことであると同時に、石等に激突すれば大怪我をするところであった。もっとも、登行中に雪の状態、雪渓の落石の状態は観察していたので、転んでも大事に至らないことは、把握していたつもりである。念のため。 源頭直下の急斜面を過ぎれば、後はテレマークに最適の20度強の斜面が続いているので、楽しく滑ったが、雪渓終端からとりつき点の飯豊山荘までの道は、消耗しきっており「今日の凱歌に足どり軽く・・・」という谷川小唄の様な状況にはなく敗残兵のような状況で歩いた。

4.月山:5/23(日)

前日の大雪渓の滑降に引き続き、2年前に1泊2日で計画(この時は雨で、月山頂上往復に計画を縮小)した清川行人小屋往復コースを日帰りで実行した。コースは、約600mの標高差のある適度な斜度の広い雪面である。思い思いに、気持ちよく滑り、ひとつの山行として充分満足できるものであった。ただし、前日の石転び雪渓との相対比較をしてしまうと、感動が薄れてしまうことは、やむをえないことであろう。これを避けるためには、月山が初日で、石転び雪渓を2日目にする案もあるが、下山後の横浜までの長距離ドライブが控えていることを考慮すると、相対的に楽な月山を2日目にする案の方が、行程が楽なため、適度な妥協点と思われる。 今回の目的の一つに、清川行人小屋の偵察があったので、小屋の設備等についても併せて紹介する。この小屋は、山小屋というよりも、農家を移築した民家を思い浮かべればよい。トイレはもちろん、台所、風呂、個室まで備わっている。無人小屋で、休憩300円、宿泊1000円程度で利用可能だが、後かたづけ等、利用者のモラルに頼って低料金を実現しており、利用に際しては、心したい。小屋は、メインのコースから外れていることもあり、混雑することはないとのことであるが、このような立派な小屋がすいていること自体、北アルプスの山小屋では考えられないことである。このコースならば、年をとっても実行可能なので、今後、1泊2日で清川行人小屋を利用する計画も実施したい。 最後に、このコースの最大の欠点を述べておく。山頂から清川行人小屋までは、標高差が約600mあるが、本コースの場合、滑った後、頂上まで再度登り返さないと登山口に戻れないことである。小屋に1泊後、翌日の天候が崩れた場合、悪天候の中の行動が必要になる。エスケープルートとして夏道を下山する手もあるが、スキーをかついでの夏道の下山は、スキー滑降の楽しみを放棄するばかりでなく、スキーが枝に引っかかって歩きにくいので避けたい。小屋に入る前に、天候が芳しくないと判断される場合は、2年前に実行した計画のとおり、ふもとの日暮沢小屋(無人、宿泊1000円程度)に泊まり、月山頂上往復に計画を縮小することをおすすめする。 5.振り返って 今回の山行を振り返ってみると、 ・テレマークスキーで山スキーが楽しめたこと。 ・体力的にきつかった全コースを踏破できたこと。 ・下山後も腕の付け根の大胸筋以外は筋肉痛にならなかったこと。 等の、評価できる内容もあったものの、 ・特に急斜面のテレマークスキーの安定性に不安が残る。 ・登行中の苦しさに対して、愚痴、ぼやきが多くなり、精神的に弱くなっている。 等の、反省すべき内容も多くあった。 また、別の面で、こんなに楽しい山登りではあるが、仕事、家族および体力等の制約条件がだんだん増える中で、「来年は来れるのだろうか?」「いつまで、続けられるのだろうか?」という漠然とした不安感もある。良きパートナーと共に、1年でも長くこの趣味を続けていきたいものである 最後に、かつては私にも確実にあった山に対するとぎ澄まされた感覚(一例:雪渓の落石は、音もなく静かにシューと落ちてくるが、それをいち早く発見できる感覚)が、無くなってしまっている。したがって、今回のようなハードな山行には、CLをする資格は無くなってしまったが、パーティー構成員として参加することや、一般の山行でのCLをすることは、今回の、3人の現役組と共に行動し、一緒に滑りを楽しめたことでまだまだやっていける自信がついた。今後も山岳部の活動を通じて山を楽しんでいきたい。 以上