「尾瀬」
の伝説
「尾瀬」の表記 「尾瀬」の語源
尾瀬氏の伝説 尾瀬と日本四大姓
奥州安倍氏と尾瀬
「尾瀬」の表記

 尾瀬という地名が初めて記録に見られるようになったのは、会津松平家初代藩主、保科正之が編纂した「会津風土記」(寛文6年 1,666年)といわれています。同記録には小瀬沼という記述があり、奥州(福島)と上野(群馬)の境界とされています。表記は「尾瀬」ではなく、「小瀬」となっています。
 これ以前は「さかひ沼」と呼ばれ、やはり国境となっていたためそう呼ばれていたと思われます。

 一方、安永3年(1,774年)の「上野国史」には、「沼峠 駒ヶ岳ノ東に在り 上野越後陸奥の界ナリ 山上にアリ尾瀬沼ト云フ・・・・・」という記述がみられます。また、慶應4年(1,868年)の「奥羽国群分色図」(作者:景山致恭)には、「駒ヶ岳」の東に「尾セヶ原」という表記があります。
 この駒ヶ岳は現在の越後駒ヶ岳と思われますが、尾瀬ヶ原や尾瀬沼は正確には越後駒ヶ岳から南東に位置しています。
 このことから会津(福島)では昔から「小瀬」といい、上野(群馬)では「尾瀬」と呼んでいたと思われます。

※保科正之は、徳川秀忠の子だが、母が側室ゆえ武田信玄の娘見性院に養育され、信州高遠の城主保科正光の養子となった。三代将軍家光は正之を実弟として、最上山形、続いて会津の城主とした。保科正之は名宰相と謳われた人。
※景山致恭(かげやま むねやす)は江戸時代の学者。「奥羽国群分色図」は大政奉還の翌年に編纂された。(地図は復刻版として人文社が発行しており、書店でも購入できます。)。
 では、"尾瀬"という呼称は、何に由来するのでしょうか。
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「尾瀬」の語源
尾瀬の名前の由来はいくつかの説があります。主なものはの3つです。(ヘブライ語説はおまけ)
地勢説
 「瀬」には「川の水が浅く人が歩いて渡れる所」という意味があります。尾瀬は「生瀬」(おうせ)のことであり、浅い水湖中に草木が生えた状態である湿原を意味する「生瀬」が転じて「尾瀬」となったといわれています。
尾瀬氏説
 平家追討の合戦で敗れた尾瀬大納言(尾瀬三郎房利)が落ちのびて永住して尾瀬氏となったなどの落人伝説です。
安倍貞任「悪勢」説
前九年の役で滅んだ奥州安倍貞任の子が逃げ込み、付近の部落を襲って、「悪勢(おぜ)」と呼ばれ、転じて尾瀬となった説
ヘブライ語
 ささやきOt(otoオト)+あふれるseph(sefeセフェ)=Otsephオトセフェ=あふれ流れる=尾瀬
 瀬の語源がセフェであり、「音」も"Ot"から出る。また別の考え方をすると、オセェOsehe=尾瀬 エソォYesoho=蝦夷 アソォAsoho=阿蘇 アソォの原義は毛の多いこと クマソ=クマ(黒い)+アソ(毛の多い)熊の語源はこの黒いものから出る。原住民のクマソ、エゾは毛むくじゃらという意味から出ている。(実業之日本社 昭和51年版 ブルーガイドブックス「尾瀬」 西丸震哉著から引用)
※ヘブライ語
旧約聖書に用いられた古代ヘブライ語、もっぱら文字言語としてユダヤ教徒に使われた中期ヘブライ語のあと、一九世紀末に日常語として復活したのが現代ヘブライ語で、これはイスラエルの公用語の一つ。
※イスラエル十部族と日本
 紀元前七二二年、北イスラエル王国は強国アッシリヤ帝国に占領され、北王国イスラエルの十部族の人々の行方は、歴史的にはっきりわからないものとなっている。(いわゆる「イスラエルの失われた十部族」)
 ラビ・マーヴィン・トケイヤー著「日本・ユダヤ封印の古代史」(徳間書店刊)では、この十部族が日本に渡来していたことの検証を試みています。
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尾瀬氏の伝説
 尾瀬氏については、会津、越後、上野それぞれに伝承があり、様々な人物が登場します。
尾瀬三郎藤原房利の物語
 奥只見の銀山平には、尾瀬三郎房利の像が立っています。像の説明書きに下記のような物語が記されています。
 尾瀬三郎は左大臣藤原経房の次男で名を房利といい、二条天皇に若くして逝かれた皇妃をめぐって、平清盛と恋のさや当てを演じて、清盛の策謀により、越後へ流された。
 数名の従者を連れて湯ノ谷の山に分け入った三郎が、やがて道が険しくなり、馬から下りて歩き始めたところが、現在の湯之谷村の折立で、あまりの難路に、三郎一行があたりの木々の枝を折々超えたのが、枝折峠(しおりとうげ)だという。
 苦難の末に尾瀬にたどり着いた三郎は、燧ヶ岳山麓の岩窟を住処として、都への帰還を画策していたが志ならず尾瀬で果てた。
なお、枝岐の中土合公園には、尾瀬大納言像が立っています。  
尾瀬大納言藤原頼国の物語
 一方、湯之谷村の伝承に、尾瀬大納言藤原頼国の話しがあります。後白河天皇第二の皇子高倉宮以仁王は平氏追討令を全国の源氏に発し、挙兵をうながしました。(これが後に平家滅亡のきっかけとなる。)しかしただちに平氏側に企ては発覚し、奈良街道井手の里にて三十歳で討死したとされています。しかし、伝説では、ひそかに再起を計るべく、源頼政の弟(越後の源頼之)をたよって従者と共に御潜行の旅につきました。高倉宮以仁一行は上州沼田より中沼山に入ったころ、負傷した従者の一人尾瀬中納言藤原頼実は病気で息を引き取ります。一行は沼の麓の湿原に塚を築き「尾瀬院殿大相居士」と改名し、手厚く葬りました。この時以来中沼山の地名を“尾瀬”と呼ぶようになったといいます。
 一行は沼山峠を越え、越後へ向かいますが、供をしていた藤原頼国は、弟頼実の眠る尾瀬のふもとに留まることを決意し、以仁皇も願いを聞き入れ、これより尾瀬大納言藤原頼国は尾瀬平に住むこととなりました。
※銀山平 「伝之助小屋」HP 銀山平今昔から
尾瀬氏の滅亡
 片品村史によれば、治承2年(1,178年)ごろ(高倉宮の逃避行で尾瀬を通行した時期)、尾瀬中納言という人があったといいます。それから時が経ち、正中2年(1,325年 正中の変の後)、時の尾瀬城主尾瀬兵衛は、後醗醐天皇に味方したため、北条範貞に亡ぼされました。このとき尾瀬氏はついに滅亡したといいます。
 尾瀬氏の城は、尾瀬ヶ原の牛首だったとの説があります。その近くには、上ノ大堀下ノ大堀、寺ヶ崎等の地名があり、また長蔵小屋の近くの湿原の中に尾瀬塚というのがあって、尾瀬氏の墳墓だといわれています。
※尾瀬ヶ原に残る地名、上ノ大堀川(上田代)、下ノ大堀川(中田代)などは、城の掘の役目をした名残ではないかという説もあります。
※正中の変
 
1,324年(正中元年) 後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕計画が事前に発覚して首謀者が処分された事件
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尾瀬と日本四大姓

 日本四大姓とは、源、平、藤原、橘の4つと言われ、奈良時代から平安時代にかけて公卿になることの出来る名門の姓とされていました。
 檜枝岐には、平野、星、橘の3つの姓が非常に多いと言われています。平野家は平(たいらの)が転じたもの(檜枝岐は平家落人部落という伝説もあります。)、星家の姓は藤原金晴が住み着いたのが始まりで、星の里の地名をとって「星」と言い、藤原の流れを汲むものと言われています(家紋は九曜星)。また、橘は、永禄12年(1,569年)、織田信長に攻略された治田城主、楠七郎左衛門橘正具(たちばなまさとも)の次男、楠助兵衛橘好正が落ち延びて来てからとされています(家紋は御前橘)。なお、この楠助兵衛橘好正は、楠正成の9代目の孫に当たると言われています。
 このことから檜枝岐には、日本の四大姓のうち、3つが集まっていることになります。
 一例として、比較的古い歴史のある山小屋の開設者を挙げてみましょう。
長蔵小屋:平野 長蔵(明治43年沼尻、大正4年尾瀬沼東端)
弥四郎小屋:橘 弥四郎(昭和7年4月)
温泉小屋:星 段吉・エン夫婦(昭和7年)
 昭和32年頃から山小屋が数多く建てられるようになり、現在尾瀬ヶ原と尾瀬沼併せて17軒あります。ちなみに各小屋の主人または支配人の多くは、星、平野、萩原という姓です。福島県側に星、平野姓が多く、群馬県側に龍宮小屋の初代「萩原善作」氏など萩原姓が多くなっています。
 武家の萩原姓のルーツのひとつとして、村上源氏(村上天皇をルーツとする系統。ちなみに清和源氏は清和天皇をルーツとし、桓武平氏は桓武天皇をルーツとする。)の系譜という説があります。
 ひょっとすると、図らずも平氏と源氏の子孫が尾瀬に集まってしまったことになるのかも知れません......

 いずれにしても、このことは、知行地を授ったり、更迭されたり、あるいは落ち延びて来たかして、公卿や武士が尾瀬に入り込んだ可能性を物語るものと思われます。
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奥州安倍一族と尾瀬
 尾瀬氏伝説は前九年の役で滅んだ安倍氏も有力な一人として挙げられます。
尾瀬氏と奥州安倍氏
  片品村史の伝承によれば、康平五年(1,062年)安倍の一族、尾瀬次郎定連は、都で朝延に仕えていましたが、ある時勅勘を蒙り、都を落ちて故郷(奥州)へ向う途中、尾瀬のあたりで何者かに襲われて道を断たれ、主従五十 騎が自害して果てました。
 また、年号不明ですが、安倍貞任が亡んだ後、その子が燧岳に城を建てて籠りました。しかし、年貢を納めてくれる者がないので、附近の部落へ押し かけて財宝を奪いました。そこで悪勢(おぜ)と呼ばれ、それが尾瀬氏となっ たと言われます。
※奥州安倍氏
 平安中期まで陸奥国の奥六郡(岩手県北上川流域)に柵(城砦)を築いて独立的な族長勢力を形成していた奥州の土豪。蝦夷の中でももっとも中央に抵抗できる勢力だったが、永承6年から康平5年(1051〜1062)の前九年の役で滅んだ。
 前九年の役は、安倍頼時、貞任(さだとお)親子と源頼義、義家親子との壮絶な戦い。源氏の東国における勢力確保の端緒となった。
安倍氏と義家の伝説
 片品村史の伝承によれば、八幡太郎義家が前九年の役で、安倍貞任を滅ぼし、弟の宗任を捕虜として、都へ凱旋する時、奥州から利根郡を通りました。ところが安倍の家来たちが、主人宗任の身を心配して、大勢の者がどこまでも後からついてきます。いくら追い返そうと思って叱ってもむだでした。そこで義家は一策を案じて、安倍の家来たちにいうには、
「その方たちが主人の身を案じて、ついてくる心根はまことにふびんである。だが追々都へも近づくことなれば、朝廷に対しても恐れ多い。この地は奥州と都との半ばの地なれば、ここにとどまって結果を待て、宗任については、自分が必ず赦免(しやめん)を願うであろう」
 恩情ある義家の言葉に、宗任の家来たちも相談して、何事もお主のためと、一同この地にとどまることとなり、やがて所の民となったといいます。
各地に生き延びた安倍氏
 陸奥話記には、康平六年二月十六日、貞任、経清、重任の首三級を獻(献)ず。京都は壮観となす。とあり、安倍の頭領貞任以下、弟の宗任、重任など主立った安倍氏は滅ぼされたこととなっています。
 しかし、平家物語の剣の巻に「宗任は筑紫へ流されたりけるが、子孫繁盛して今にあり。松浦党とはこれなり」とあるほか、太平記には「源義家の請によりて、安倍宗任を松浦に下して領地を給う」と記載されています。さらに鎮西要略によると「奥州の夷・安倍貞任の弟・宗任、則任を捕虜と為し、宗任を松浦に配し、則任は筑後に配す。宗任の子孫・松浦氏を称す」と出ています。
 また、青森県には、十三湊(とさみなと)と呼ばれる日本の中世から近世にかけて存在した湊があります。(太宰治の小説「津軽」にも登場します。)地元の伝承では、安部貞任の末裔といわれる安藤氏が、鎌倉時代より津軽に十三湊を築いて本拠として水軍を整備し、交易により奥州藤原氏の繁栄を支えたと言われています。
 このことから、貞任や宗任の子は各地に落ちのびたと思われ、安倍一族の者が尾瀬に逃れた可能性はあります。
※陸奥話記
 平安時代後期の作と言われ、前九年の役を描いた軍記物。中央の立場から描く物語が多い中、滅亡した安倍氏側の感情で描いている。軍記物としてはかなり古い書物。作者は不明。一説には「平家物語」の作者と同一ではないかとも言われる。
※松浦党
 平安時代から戦国時代に肥前松浦地方で組織された武士団の連合。水軍として有名で、特に13世紀の元寇にて活躍したことで知られる。(ウィキペディア・フリー百科事典)
檜枝岐歌舞伎と安倍氏(参考)
 檜枝岐歌舞伎で有名な袖萩とお君の母子の像が、歌舞伎舞台へと続く小道の中ほどに立っています。檜枝岐歌舞伎の人気演目「奥州安達ヶ原袖萩祭文の段」。安倍貞任の妻でありながら盲目となって流浪する、萩袖とその娘のお君の悲哀のストーリー。
 「奥州安達ヶ原」は、近松半二・竹田和泉らの合作による、源氏に滅ぼされた奥州の安部一族の壮絶な復讐のドラマを描いた時代物浄瑠璃です。宝暦十二年(1762)大阪・竹本座初演。 この芝居は前九年の役後の安倍貞任・宗任らの再挙のための苦心を題材に、能『うとう善知鳥』の世界と安達原の鬼女伝説を配したフィクションです。
 安倍氏との関連があるという意味で、参考までに載せてみました。
※安達ヶ原
 福島県二本松市付近。安達太良山の麓。