「尾瀬」の表記 | |
![]() これ以前は「さかひ沼」と呼ばれ、やはり国境となっていたためそう呼ばれていたと思われます。 一方、安永3年(1,774年)の「上野国史」には、「沼峠 駒ヶ岳ノ東に在り 上野越後陸奥の界ナリ 山上にアリ尾瀬沼ト云フ・・・・・」という記述がみられます。また、慶應4年(1,868年)の「奥羽国群分色図」(作者:景山致恭)には、「駒ヶ岳」の東に「尾セヶ原」という表記があります。 ※保科正之は、徳川秀忠の子だが、母が側室ゆえ武田信玄の娘見性院に養育され、信州高遠の城主保科正光の養子となった。三代将軍家光は正之を実弟として、最上山形、続いて会津の城主とした。保科正之は名宰相と謳われた人。 ※景山致恭(かげやま むねやす)は江戸時代の学者。「奥羽国群分色図」は大政奉還の翌年に編纂された。(地図は復刻版として人文社が発行しており、書店でも購入できます。)。では、"尾瀬"という呼称は、何に由来するのでしょうか。 |
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「尾瀬」の語源 | ||
尾瀬の名前の由来はいくつかの説があります。主なものは![]() |
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地勢説 | |
「瀬」には「川の水が浅く人が歩いて渡れる所」という意味があります。尾瀬は「生瀬」(おうせ)のことであり、浅い水湖中に草木が生えた状態である湿原を意味する「生瀬」が転じて「尾瀬」となったといわれています。 | ||
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尾瀬氏説 | |
平家追討の合戦で敗れた尾瀬大納言(尾瀬三郎房利)が落ちのびて永住して尾瀬氏となったなどの落人伝説です。 | ||
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安倍貞任「悪勢」説 | |
前九年の役で滅んだ奥州安倍貞任の子が逃げ込み、付近の部落を襲って、「悪勢(おぜ)」と呼ばれ、転じて尾瀬となった説 | ||
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ヘブライ語説 | |
ささやきOt(otoオト)+あふれるseph(sefeセフェ)=Otsephオトセフェ=あふれ流れる=尾瀬 瀬の語源がセフェであり、「音」も"Ot"から出る。また別の考え方をすると、オセェOsehe=尾瀬 エソォYesoho=蝦夷 アソォAsoho=阿蘇 アソォの原義は毛の多いこと クマソ=クマ(黒い)+アソ(毛の多い)熊の語源はこの黒いものから出る。原住民のクマソ、エゾは毛むくじゃらという意味から出ている。(実業之日本社 昭和51年版 ブルーガイドブックス「尾瀬」 西丸震哉著から引用) ※ヘブライ語 ※イスラエル十部族と日本 |
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尾瀬氏の伝説 | ||
尾瀬氏については、会津、越後、上野それぞれに伝承があり、様々な人物が登場します。 | ||
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尾瀬三郎藤原房利の物語 | |
![]() 尾瀬三郎は左大臣藤原経房の次男で名を房利といい、二条天皇に若くして逝かれた皇妃をめぐって、平清盛と恋のさや当てを演じて、清盛の策謀により、越後へ流された。なお、枝岐の中土合公園には、尾瀬大納言像が立っています。 |
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尾瀬大納言藤原頼国の物語 | |
一方、湯之谷村の伝承に、尾瀬大納言藤原頼国の話しがあります。後白河天皇第二の皇子高倉宮以仁王は平氏追討令を全国の源氏に発し、挙兵をうながしました。(これが後に平家滅亡のきっかけとなる。)しかしただちに平氏側に企ては発覚し、奈良街道井手の里にて三十歳で討死したとされています。しかし、伝説では、ひそかに再起を計るべく、源頼政の弟(越後の源頼之)をたよって従者と共に御潜行の旅につきました。高倉宮以仁一行は上州沼田より中沼山に入ったころ、負傷した従者の一人尾瀬中納言藤原頼実は病気で息を引き取ります。一行は沼の麓の湿原に塚を築き「尾瀬院殿大相居士」と改名し、手厚く葬りました。この時以来中沼山の地名を“尾瀬”と呼ぶようになったといいます。 一行は沼山峠を越え、越後へ向かいますが、供をしていた藤原頼国は、弟頼実の眠る尾瀬のふもとに留まることを決意し、以仁皇も願いを聞き入れ、これより尾瀬大納言藤原頼国は尾瀬平に住むこととなりました。 ※銀山平 「伝之助小屋」HP 銀山平今昔から |
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尾瀬氏の滅亡 | |
![]() 尾瀬氏の城は、尾瀬ヶ原の牛首だったとの説があります。その近くには、上ノ大堀、下ノ大堀、寺ヶ崎等の地名があり、また長蔵小屋の近くの湿原の中に尾瀬塚というのがあって、尾瀬氏の墳墓だといわれています。 ※尾瀬ヶ原に残る地名、上ノ大堀川(上田代)、下ノ大堀川(中田代)などは、城の掘の役目をした名残ではないかという説もあります。 |
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尾瀬と日本四大姓 |
![]() 檜枝岐には、平野、星、橘の3つの姓が非常に多いと言われています。平野家は平(たいらの)が転じたもの(檜枝岐は平家落人部落という伝説もあります。)、星家の姓は藤原金晴が住み着いたのが始まりで、星の里の地名をとって「星」と言い、藤原の流れを汲むものと言われています(家紋は九曜星)。また、橘は、永禄12年(1,569年)、織田信長に攻略された治田城主、楠七郎左衛門橘正具(たちばなまさとも)の次男、楠助兵衛橘好正が落ち延びて来てからとされています(家紋は御前橘)。なお、この楠助兵衛橘好正は、楠正成の9代目の孫に当たると言われています。 このことから檜枝岐には、日本の四大姓のうち、3つが集まっていることになります。 一例として、比較的古い歴史のある山小屋の開設者を挙げてみましょう。 長蔵小屋:平野 長蔵(明治43年沼尻、大正4年尾瀬沼東端)昭和32年頃から山小屋が数多く建てられるようになり、現在尾瀬ヶ原と尾瀬沼併せて17軒あります。ちなみに各小屋の主人または支配人の多くは、星、平野、萩原という姓です。福島県側に星、平野姓が多く、群馬県側に龍宮小屋の初代「萩原善作」氏など萩原姓が多くなっています。 武家の萩原姓のルーツのひとつとして、村上源氏(村上天皇をルーツとする系統。ちなみに清和源氏は清和天皇をルーツとし、桓武平氏は桓武天皇をルーツとする。)の系譜という説があります。 ひょっとすると、図らずも平氏と源氏の子孫が尾瀬に集まってしまったことになるのかも知れません...... いずれにしても、このことは、知行地を授ったり、更迭されたり、あるいは落ち延びて来たかして、公卿や武士が尾瀬に入り込んだ可能性を物語るものと思われます。 |
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奥州安倍一族と尾瀬 | ||
尾瀬氏伝説は前九年の役で滅んだ安倍氏も有力な一人として挙げられます。 | ||
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片品村史の伝承によれば、康平五年(1,062年)安倍の一族、尾瀬次郎定連は、都で朝延に仕えていましたが、ある時勅勘を蒙り、都を落ちて故郷(奥州)へ向う途中、尾瀬のあたりで何者かに襲われて道を断たれ、主従五十
騎が自害して果てました。 また、年号不明ですが、安倍貞任が亡んだ後、その子が燧岳に城を建てて籠りました。しかし、年貢を納めてくれる者がないので、附近の部落へ押し かけて財宝を奪いました。そこで悪勢(おぜ)と呼ばれ、それが尾瀬氏となっ たと言われます。 ※奥州安倍氏 |
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片品村史の伝承によれば、八幡太郎義家が前九年の役で、安倍貞任を滅ぼし、弟の宗任を捕虜として、都へ凱旋する時、奥州から利根郡を通りました。ところが安倍の家来たちが、主人宗任の身を心配して、大勢の者がどこまでも後からついてきます。いくら追い返そうと思って叱ってもむだでした。そこで義家は一策を案じて、安倍の家来たちにいうには、 「その方たちが主人の身を案じて、ついてくる心根はまことにふびんである。だが追々都へも近づくことなれば、朝廷に対しても恐れ多い。この地は奥州と都との半ばの地なれば、ここにとどまって結果を待て、宗任については、自分が必ず赦免(しやめん)を願うであろう」 恩情ある義家の言葉に、宗任の家来たちも相談して、何事もお主のためと、一同この地にとどまることとなり、やがて所の民となったといいます。 |
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陸奥話記には、康平六年二月十六日、貞任、経清、重任の首三級を獻(献)ず。京都は壮観となす。とあり、安倍の頭領貞任以下、弟の宗任、重任など主立った安倍氏は滅ぼされたこととなっています。 しかし、平家物語の剣の巻に「宗任は筑紫へ流されたりけるが、子孫繁盛して今にあり。松浦党とはこれなり」とあるほか、太平記には「源義家の請によりて、安倍宗任を松浦に下して領地を給う」と記載されています。さらに鎮西要略によると「奥州の夷・安倍貞任の弟・宗任、則任を捕虜と為し、宗任を松浦に配し、則任は筑後に配す。宗任の子孫・松浦氏を称す」と出ています。 また、青森県には、十三湊(とさみなと)と呼ばれる日本の中世から近世にかけて存在した湊があります。(太宰治の小説「津軽」にも登場します。)地元の伝承では、安部貞任の末裔といわれる安藤氏が、鎌倉時代より津軽に十三湊を築いて本拠として水軍を整備し、交易により奥州藤原氏の繁栄を支えたと言われています。 このことから、貞任や宗任の子は各地に落ちのびたと思われ、安倍一族の者が尾瀬に逃れた可能性はあります。 ※陸奥話記 |
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![]() 「奥州安達ヶ原」は、近松半二・竹田和泉らの合作による、源氏に滅ぼされた奥州の安部一族の壮絶な復讐のドラマを描いた時代物浄瑠璃です。宝暦十二年(1762)大阪・竹本座初演。 この芝居は前九年の役後の安倍貞任・宗任らの再挙のための苦心を題材に、能『うとう善知鳥』の世界と安達原の鬼女伝説を配したフィクションです。 安倍氏との関連があるという意味で、参考までに載せてみました。 ※安達ヶ原
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