ロンドン塔
館長提供

ロンドン塔は、1066年にウィリアム王によって、 ロンドンを守るためにロンドンの町とテムズ河の双方を見渡せる位置に建てられました。 ロンドン塔は何度も修復や増築を重ねられ、建築当初のロンドン塔はホワイト・タワーと名づけられ、 ホワイト・タワーを取り巻くようにしてたくさんの塔があります。これを全て含めてロンドン塔と、 呼ばれるようになりました。
ウィリアム王が死去しヘンリー1世が即位した際、 グラハム司教のラナルフ・フランバードが最初に幽閉されました。 しかし彼は、彼の元に持ち込まれたロープによって脱出しました。
1244年、ヘンリー3世の囚人となっていたウェールズのグリフィス・アブ・ラウェリン王子がフラ ンバートの脱走をまねて、シーツをつなぎ合わせた即席ロープで脱出しようとしましたが、 シーツが切れて転落死しました。
1275年から1285年、エリザベス1世はアランドル伯フィリップ・ハワードを幽閉し、 ボーシャム・タワーで死去。エッセクス伯ロバート・デバルーは、デルバー・タワーに幽閉された後、 タワー・グリーンにて処刑。
1385年、ジャン2世とその息子の王太子が幽閉され、 1397年から1399年にかけてウォリック伯トマス・ボーシャム、 1415年オルレアン公シャルルも幽閉されています。
1471年、新しいヨーク朝の王エドワード4世は、 ヘンリー6世をウェイクフィールド・タワーに幽閉し、殺害。
1478年、エドワード4世の弟クラーランスは、反逆罪でバウヤー・タワーで、 ワインの大樽の中で溺死という方法で処刑。
1483年、エドワード4世の子、12歳のエドワードとその弟は「ロンドン塔の王子たち」と言われ、 叔父のグロースター公リチャードの庇護のもとロンドン塔で生活をしていましたが、 リチャード3世の即位後行方不明となり、リチャード2世によって殺害されたのでは、 といわれています。
1553年から1554年、カンタベリー大司教トマス・クランマー幽閉。
1585年、ノーサンバランド伯は反逆罪によって領地没収され、 ホワイト・タワー内でピストル自殺。サー・トマス・オーバーベリーは毒殺されています。
1640年から1645年、ウィリアム・ロード幽閉。
1688年から1689年、大法官のジェフリーズ(血の裁判で有名)がセント・トマス・タワー (現在はブラディ・タワー)に幽閉。
1674年にホワイト・タワーの側で二人の子供の人骨が発見され、二人の王子として、 ウェルストミンスター寺院に埋葬されましたが、身元が明らかにされていません。
その他に、アン・ボリーンは、タワー・グリーンで、打ち首。
ウィリアム・ヘースティング卿は、ホワイト・タワーで打ち首。
ヘンリー8世の5番めの妃キャサリン・ハワード、その侍女ロシュフォード子爵夫人ジェーン、 ソールズベリ伯爵夫人マーガレット・ポール達は、当時の処刑場タワー・ヒルで打ち首。
「九日間の女王」で知られている、 16歳のレディ・ジェーン・グレーは、タワー・グリーンにて処刑。
サー・トマス・モアとジョン・フィッシャー司教は拷問によって死去。
エッセクス伯ロバート・デバール(最後の囚人と言われている)も打ち首で処刑。
血塗られた歴史があるロンドン塔は、 アン・ボリーンがロンドン塔の幽霊のうち最も頻繁に出没すると、言われています。

ロンドン塔にてたくさん写真を撮ってきましたが、 写真の掲載は控えさせていただきました。