hatsubou nyuuinn tenninn 【 発病  入院  転院 】 《 項  目 》

〔発 病=運命の日〕
〔名古屋大学医学部付属病院〕へ入院〕
〔愛知医大付属病院(愛知医大)へ転院〕


【発 病=運命の日】 2001年(平成13年)2月9日 出張先の東京から帰宅、入浴後「ホッ」としてソファーに掛けてテレビを見ていた。
知らない間に寝ていたらしい。  「大きな鼾(いびき)を掻いていたよ。 疲れているんだね!」と、目を覚ましてから妻から聞いた。
何と無く体がだるかった(疲れて力が入らない状態)ので、早めに床に入った。
翌朝、庭に出て毎日続けている「自己流体操」をやった。 
何か調子がおかしい。それでも15分程度か?、いつもと同じ様に「体操」を終えた。
朝食後(九時頃か?) テレビを見ていても やはり何と無く調子がおかしい。
妻に「何か体の調子がおかしいよ」と言ったものの、 当日 妻は子供達とデパートへ行く予定になっていたので
〈大した事では無く、少し休めば回復するだろう〉と家で横になっていた。 夕方近くに妻と子供達が帰ってきた。 
安静にしていても「何となく変だ。体に力が入らない。」という状態<が続くので、やむを得ず・・・・・。
「その日」に 次女夫婦に病院へ連れて行って貰った。 
名古屋大学医学部付属病院(名大病院)へ行った。 
この病院は名古屋周辺では比較的有名な病院で、設備も整っていると聞いていた。   
近くにも「春日井市民病院」、「徳洲会病院」、「瀬戸陶生病院」など総合病院は有ったが、
設備の整った病院が良いだろうと「名大病院」にした。
容態を説明し診察を受けた。  勿論その時点では、「歩行」、「会話」、「手足」などは平常通りであった。
10メーター程歩いたが、まっすぐに歩けた。
受診の結果は「具体的症状が見られないので様子を見ましょう。 
何か有ったら、又 救急車ででも来て下さい。」という事で、CT、MRI等の検査も無く 錠剤を一錠くれただけで帰された。
その時受診したその医師から一言「良かったら病院に泊まっていってもいいですよ!」と軽く言われた。 
具体的説明も無く、況してや 「脳卒中」について知識も無く、入院するような準備もしていなかったので、
「様子を見ましょう」と言う言葉で帰ることにした。
帰りにみんなで帰路の途中にある中華料理店「浜木綿」で食事をした。 
「具体的症状が見られない」との言葉で、多少元気が出たのでビールを飲んだ。
その次の日(2月11日=建国記念日振替休日)の朝、いつもの様に 「体操」はしたが、やはり何と無く体の動きが悪く、
その後しばらくして 更に容態が悪くなり 歩くのも不安定になってきた。 
再度 「名大病院」へ娘婿の車で走った。

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(名古屋大学医学部付属病院) 
〔名古屋大学医学部付属病院〕へ入院〕
名大病院へ着いた時には、既に歩くことが困難に(トイレには歩いて行ったが・・・・・。) 
なっており、 診察室へは車椅子で入った。
昨日受診した医師は「休日の当直の医師」でこの日は居なかった。
専門(神経科)の医師ではなかったようだ。  即 入院となった。
(余談ではあるが、六十歳になって初めての入院である)内科の病棟に入院した。 
ベッドには自分で上がった。
その日から、点滴と投薬が始まった。  
点滴が始められた時点では、 未だ 両手、足とも麻痺は無く、意識もしっかりしていた。
その夜中近くなってからである。   右手足から力が抜けていき自力で起き上がることが
困難になった。  だが 意識ははっきりしていた。
「大変な事になったのでは?」と その時思った。
しかし 「脳卒中」についてあまり知識が無かったし、まさか自分が「脳卒中」になろうとは思ってもいなかったので、
正直なところ、  その時点では、余り 深刻には考えていなかった。

2月13日、「MRI」、「CT」、「脳波」等の検査が行われた。  家族と私の弟がその説明を聞いた。
「MRI検査」の結果、左脳の中心部分(約2.5 cm)に梗塞が見られる、即ち 【脳梗塞】であると診断された。
その他に『頚動脈の動脈硬化』が指摘されている。 
又  「後遺症は残ります。 リハビリで何処まで回復するか?、ですが・・。」との説明もあった。
その時点では、それ以上の「具体的な原因」等の説明はされなかった。
後から振り返ってみると、2月10日(最初に行った時)、少しでも「脳卒中」の疑いが有れば ? (医者から見れば有ったと思う?)。 
最低必要な検査をして、 また 内容を説明した上で  何としても入院させ早めの治療をしてほしかった。
そうすれば多少軽く済んだかもしれない? 
私が不勉強であったのと、当日の担当医師の誠意の無い診療が悔やまれる。
【何故 強引にでも即入院を奨めてくれなかったのか!】 と今でも時々思う。
大学病院(学生の教育、医療技術の研究・向上、新技術の開発等が真の目的であるのは解るが)、 患者には、悪いところである。  
今、 ここに名大病院を頼って信頼して来ている無知の患者が居るのに・・・・・。
「休日診療であったから」かも知れないが・・・・?  
信頼しきって来ている病人を軽くあしらう部分が何処かに有るのでは・・・・?と  失礼ながら思った。
「脳梗塞」になった原因はいろいろ考えられるところだが・・・。
比較的若いときから血圧が高く、既に 三十代後半頃から「降圧剤「を飲み始めていた。 
会社の健康診断でも、 毎回 「血圧が高い」、「コレステロール値が高い」、「蛋白が出ている」etc 、指摘を受けることが多かった。
その都度、「摂生して下さい」、 「酒の量は適量に」、「タバコの量を減らして下さい(一日10本程吸っていた)」、
「塩分は控え目に」、「野菜を多めに」、「油っこい物はあまり食べないように」など・・・。 注意されていた。
健康診断直後は、多少 気にするもの、だが 何時も 言われる事で〈どの医者も言う言葉だ〉ぐらいに考え、
実際のところ、余り 深刻に考えていなかったのは、事実である。 
降圧剤を服用する以外に具体的な改善はしていなかった。
色々 前兆は有ったものの、 これだけ 自分の人生に影響するような大病「脳梗塞」になろうとは予測もしていなかった。
自分が「脳梗塞」になって、 はじめて その当時の事を振り返り、深刻に受け止め、心底反省しているのである。
それではもう遅いのです。  現在 健康な人でも、又 何か兆候のある人、医者から指摘を受けている人は、
特に真剣に健康に取組んで下さい。 今日から遣(や)ってください。
もう一度言います。「取り返しのつかない病気に掛かってから反省しても、もう遅いのですよ!」
自分は「脳梗塞」という大病になり、人生が大きく曲がってしまいました。  
自分や家族の「将来の」、「老後の」、楽しみ、計画、希望、夢など、変えざるを得なくなりました。
私自身、孫を抱いたり、風呂に入れたり、何処かに連れて行ったり、又 家の手伝い、等も思うように出来なくなりました。 
行動範囲が十分の一ぐらいに落ちてしまいました。 
右手で字も書けません。    非常に残念でなりません。   
だから 皆さん健康維持には本当に真面目になって下さい。


名大病院に約一ヶ月間入院している間に、担当医師が三人も代わったので、
どの医師から どんな話を聴いたか定かではないが、 「自分の足で歩けるようになるかも知れない」と話があった。
確か 「手」の事は説明が無かったと思う。
今でも、「思考能力」は正常であると思っている。 「言語障害」は、初めのうちは気付いていなかったが、今は少し話し難(づら)いところがある。  
ベッドの上で胡坐(あぐら)を掻(か)いて、又 足を投げ出して、座っていることは出来た。
人によっては、座っていることもできなくなる。
発病当時、本当のところ、少しの間入院していれば、出社できる考えていた。 
入院の次の日(連休明けの2/12日)、妻に 会社 他 必要な所へ連絡(電話)をしてくれる様頼んだ。
「連絡場所」、「連絡内容」、「話し方」などは、 私が指図した。
点滴は数日間昼夜続けられた。   イライラしていた。
意識は常にしっかりしていたが、立てない、歩けない、右手が動かないである。 
ベッドの上に坐って会社関係のことを考えたり、外を眺めたり、各ベッドに備え付けのテレビを見たりしていた。
出来ない事はトイレである。 小便の方は溜めておくタンク付の容器を使うことで処理出来たが、
(大の方)はナースコールして看護士さんに頼むしかなかった。
食事は患者全員各病室で食べた。 
付添いの人や自分で運ぶことの出来る人は 、食事の上げ下げ 、お茶の手配などは、自分ですることになっていた。 
私は出来ないので、その都度 担当の人にお願いした。 
何も気を遣うことはないのだが、自分で出来ないことでも 人に頼む事が何と無く「嫌(いや)」で、変に気を遣った。

名大病院は名古屋の都心に近い「鶴舞公園」駅のすぐ前にあった。 
住いのある駅(高蔵寺)からその駅までJR中央線で約二十分である。
その時 妻は中心街「栄」にある「松坂屋本店」内に勤めていたが、 毎日 病院へ通ってくれた。

何日かして点滴が終わり リハビリテーション(リハビリ)が始まった。 点滴中でもベッドの上で腕の上げ下げ程度のリハビリは二、三度あった。 
リハビリ室へは看護士さんが車椅子で連れて行ってくれた。
理学療法(PT)と作業療法(OT)が有った。
PTは主に「足」のリハビリである。  最初のうちは 殆ど マッサージだけである。
何日かして立たせてくれたことがある。 全然立っていられなかった。 
平行棒のところで体を支えてもらい歩いてもみたが、足首が伸び、爪先が拘縮(尖足状態)して全く歩くことは出来なかった。 
OTは主に「手」のリハビリである。若いきれいな女の先生であった。  
この病院でのOTのリハビリ治療は、四、五回程度であった。 
テーブルの上を乾拭き(からぶき)する様な動作である。
麻痺して動かない右手をタオルの上に乗せ その手に正常な左手を添えて左右に動かし、
両手で雑巾掛けをするような動作を繰り返すのである。 
その他では 左手での紐の蝶結び(利き手交換)、両手でのプラスチック輪をハンガーに掛ける動作などであった。

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(愛知医大付属病院)
〔愛知医大付属病院(愛知医大)へ転院〕 名大病院から入院後一ヶ月も経たないうちに転院を奨められた。
「この病院は緊急患者、重症患者、難病患者を多く治療する病院である。
貴方の病気(脳梗塞)は落ち着いてきており、後は早期のリハビリ治療が重要です。 
早急にリハビリに専念できる病院を探して下さい。」という事であった。
そうは言われても リハビリ病院について何の情報も無く、親戚、友人、知人に聞くしかなかった。 
偶々 妻の勤め先の上司から「愛知医大」を紹介された。
愛知医大は名古屋市の東端「東名高速・名古屋IC」の近くに位置する。
同病院にはリハビリ治療に優れた先生が居り、元中日ドラゴンズの選手がしばしば利用していたと聞いたことがある。
又  この病院は自宅からと娘夫婦の家からも比較的近く(車で約30分)で便利さもあり、
「出来れば入院したい」と問い合わせて貰った。
受け入れてくれるかどうか心配したが、運良く入院できることになった。
名大病院には18日間入院していて、リハビリ治療のため「愛知医大付属病院」へ転院した。  
3月2日(金)、元部下(小野君)の車で移動した。
神経内科の病室へ入院した。名大病院の診断書、経過報告書、MRIの写真等、数日間の薬、引継書を持参し担当医に提出した。 
名大病院と愛知医大病院とは日常的に交流が有るようだ。
リハビリ目的の入院であっても、MRIなどひと通りの検査はしてくれた。 内容は名大病院と略同じであった。
3月5日(月)から同病院の治療が始められた。 必要な検査は別にして 治療は予定通り「リハビリテーション」であった。
早速、「PT」、「OT」、「ST(言語)」、夫々の先生の面接があった。 
面接の内容と麻痺(不具合)の程度によって、私のリハビリのプログラムが決められた。
「ST(言語)」については、先生との会話のやり取りの結果、「多少の言語障害は認められるものの、具体的にリハビリをする必要はない」と
いう事になった。  但し 「口」周辺の筋肉の動かし方を図解した説明書が渡され、自分で毎日訓練するよう指導された。 
説明書の通り毎食前に実行した。 
STの先生は、名前は忘れたが可愛い顔した美人で、リハビリ室等で会うと、 何時も笑って挨拶してくれた。
時折 病室にも様子を見に来てくれた。
「PT」は大柄で25〜6歳の男の「A先生」。  
最初の時 マッサージをした後、「平行棒」に掴まって歩こうとしたが全く歩けなかった。 
右足を出そうにも爪先(つまさき)が突っかかり着地が出来ない。
最初は車椅子から立ち上がるだけの訓練であった。 右手が使えないので これだけでも大変である。 
杖を買った。 数日して 膝下からの「装具」を作ることになった。 
「装具」が出来るまで病院の装具を借りることにした。
その装具を着け、病院で借りた「4本足の杖」を突いて、先生に支えて貰いながら歩いてみた。 
5メーター位?歩けた。  しかし これは本当に歩けたのではない。 
先生に動かしてもらった、と 言った方が正しい。 
その時に左手での「杖の突き方」、「足の出し方」などを教わった。
何日かして装具を着け 4本足の杖を突いて、自力で5m、10m、訓練室内一周、と歩けるようになった。 
ゆっくり、ゆっくり、時間を掛けて・・・。 
最後の頃には先生に付き添ってもらいながら 40〜50m歩けるようになり、リハビリ室の外の廊下へも出るようになった。 
その廊下から病院の周りに植えられた満開の桜を見ることができた。 
病室からも桜は見えるが、リハビリ室から見た桜が妙に記憶に残っている。
4月初旬、注文してあった「装具」が出来てきた。 けれど 愛知医大病院のリハビリでは三〜四回着けた程度である。
何故なら 又 次の週に転院したから・・。 この病院には4月11日まで入院していた。
それでも「My So‐gu」が来て嬉しかった。 病室の廊下の短い距離を一人で何度も歩いてみた。 
思ったほどは歩けなかった。
まだ その時点でも「以前の様に歩けるようになる!」と思ってはいたが、一方「もしかしたら、歩ける様には戻らないのでは?」
という弱気も出始めていた。 必死に歩きながらも 自然とそんな事を考えていた。
「OT」は「S先生」、30才前後のテキパキした女の先生であった。 
はじめは 麻痺側の肩と腕のマッサージをした後、車椅子からの立ち上がり、右手に左手を添えたテーブルの乾拭き運動、
その次に滑車の付いた板に悪い右手をマジックテープで止め肘の屈伸運動等である。 
同じ様な運動が数日間続いた。 中々思うように動かせない。 正直「これで良いのか?」と思った。
暫くして マットからの立ち上がり方、洗面所での歯磨き(左手)、浴槽での座り方、杖を突いて入り口(ドアー)の出入りの仕方、などを
訓練した。
「PT」、「OT」共 リハビリの時間は各30〜40分である。
病室からリハビリ室までは車椅子で行き来した。   初めの頃はヘルパーさんに 連れて行ってもらった。

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