【 リハビリ・鹿教湯病院へ 】

《 項  目 》

〔鹿教湯(かけゆ)病院(長野県)へ転院〕
〔鹿教湯病院でのリハビリテーション〕
〔鹿教湯病院退院〕
〔マンションの購入〕


〔鹿教湯(かけゆ)病院(長野県)へ転院〕

4月に入った或る日、愛知医大の「神経内科部長」が病室に来られ・・。
「貴方はまだ若いから もっとリハビリを頑張って 少しでも良くなる努力をしてみてはどうか!。
もし その苦労をする気が有るのなら・・・・・・、  長野県にリハビリテーションに力を入れている「鹿教湯病院」と言う病院があるので、
入院できるかどうか? 一度調べみては・・!」と、アドバイスを頂いた。
調査してみると、「鹿教湯病院」は「リハビリセンター鹿教湯病院」と名乗っているほど、
「脳卒中」、「整形外科疾患」等を主体としたリハビリテーションに力を注いでいる総合病院であった。 
確か 信州大学と関係のある病院である。
アドバイスを頂いた神経内科部長も信州大学出身である。
又 同室の人で、今回が脳梗塞で三回目の入院という七十才前後の男性の方から、一回目の発病の時「鹿教湯病院」へ
入院したことがあり、 『食事は不味(まず)く、リハビリは厳しいが、少し走れるまでに回復した。 
又 リハビリでは有名な病院で、関東の方からも多くの人が来られている。 
肝っ玉母さんで有名な女優の「京塚昌子」さん、俳優の「千秋 実」さんも来られていた』とも話してくれた。 
余談だが 入院してから聞いた話として、元総理大臣の「田中角栄」氏が入院する予定があり、 新しく特別室を造った、とも聞いた。
愛知医大の「神経内科部長」のアドバイスを受けて、早速 妻と次女が「鹿教湯病院」に行ってくれた。 
それによると患者の病状の程度によって受け入れるかどうかを決めると言う事であった。 
愛知医大で準備した書類を含め必要な書類を提出し、リハビリ室 病棟などを見学して帰った。
帰った妻から話を聞いてみると、愛知医大と同じ位に立派な病院で病室もゆったりしており、
リハビリ室も大きく設備も整っているように見えた・・・・、 と 感触を話してくれた。

鹿教湯病院は「松本市」から車で30〜40分の所にある「鹿教湯温泉」の、略 中心に在る。 
鹿教湯温泉を訪れる人は、一般の温泉客に加えて 「鹿教湯病院」へ来られる人も多いと聞く、比較的小さな温泉の町にある立派な
病院である。
この病院は、東病棟、西病棟、それと南病棟があり、合わせて450近い病床を持っている。
入院患者に、入院患者の家族、見舞い客、医師、理学・作業療法士、看護士、介護福祉士、栄養士(食事関係)、病院事務員etc、を
合わせると、大変な人数になる。
病院関係者がこの比較的小さな温泉街全体に何がしかの係わりを持ち、影響を与えているのは間違いない。 
町の人達は、患者にも親切で協力的であった。
2〜3日して鹿教湯病院から「平成13年4月12日から入院するように」と回答があった。

4月11日の朝 娘夫婦の車で愛知医大病院を退院、その足で「中央高速道路→長野自動車道路」を走り「松本IC」へ、
そこから「鹿教湯温泉」迄行った。
その日は「かんぽの宿鹿教湯」に泊り、翌日4月12日から鹿教湯病院に入院した。
松本から山の方に入って行くのであるが、だんだん山深くなり 山の頂上付近にはまだ残雪があり、
何だか「何処かへ護送されて行く」感じで心細かった。 と 同時に何故か寂しい思いがした。
車椅子での入院である。  南病棟の5Fに入室した。
南病棟は新館で、廊下、病室は広く、ゆったりと造られている。
3〜7階が病室になっており、 各階共一人部屋×5、 二人部屋×6、 四人部屋×7、 それに食堂・デイルーム、 リハビリテーション室、 
浴室、 スタッフルーム、が備わっている。  
一階は講堂、 二階は検査室と売店・「いこいの広場」、 八階は、温泉「湧くわくの湯」と屋上広場になっている。 
近代的な病棟である。
この時点で、発病以来約二ヶ月を経過していたが、まだ 後遺症(右半身麻痺)の改善は全く見られなかった。 
それでもまだ「リハビリに努力すれば、以前の様に歩けるようにだろう?」と期待していた処がある。   (不勉強も甚だしい) 

項目へ戻る
項目へ戻る



〔鹿教湯病院でのリハビリテーション〕

鹿教湯病院には平成13年4月12日から10月7日まで約6ヶ月間入院した。
同病院のリハビリテーションには、「理学療法科」(PT)、「作業療法科」(OT)、「言語療法科」(ST)、と「臨床心理科」、「義肢装具科」がある。
「臨床心理」は、入院当初「臨床心理科医師」との面談があり、その時の会話と質問の回答等より、「その患者に精神的ダメージが有るか?
どうか?」が診断される。  有ればその程度を見て「治療が必要かどうか」を判断する。
幸い 私の場合は、「治療の必要なし」との、診断結果であった。
「言語」についても、多少の障害は有るが「リハビリの必要なし」であった。

「理学療法科」(PT)は、麻痺側の上肢のマッサージはしてくれるものの、殆どは下肢の機能回復のためのリハビリである。
私の担当の療法士は二十歳代の独身の男性「I田先生」であった。  優秀な先生らしい。
麻痺した右足の状態を確認して、リハビリの内容が決められた。
リハビリの時間は一回が約40分、発症6ヶ月までは土、日以外の毎日である。
最初の頃は、足のマッサージと「関節曲げ」、「寝た状態での腰上げ」、「立ち上がり訓練」、「膝を少し曲げての中腰維持」、などである。 
その次に、「伏せて寝た状態での膝曲げ」(これは思った以上に辛い)、「膝歩き」、「立ち膝からの足上げ」等が加わった。 
いよいよ歩行訓練も始まった。
愛知医大で作った装具は膝下までの装具であるが、I田先生の判断で「そこ迄の装具は必要ない」という事で、
足首から下の装具「オルトップ」にした。

( オルトップ ) クリック拡大
愛知医大で作った装具は7万2千円(保険で本人負担は0)もしたが、「オルトップ」は1万2千円(自己負担)と安かった。 
7万2千円の装具は合計10回位使っただけである。 
退院の時に、鹿教湯病院に寄付してきた。
「オルトップの良い点」は、普通の靴を履くことが出来ることである。
オルトップを購入したついでに、マジックテープで止める革靴を買った。 (自分で靴の紐を結ぶことが出来ない) 
準備が整ったので、いよいよ本格的な歩行訓練である。
先生に助けられながら歩き始めたが、足が上がらず、つま先が突っ掛かり、思う様に足が前に出ない。 何日もそんな状態であった。
勿論 初めの頃は、リハビリ室への往復は車椅子である。 この頃には、自分で車椅子の運転が出来た。

鹿教湯病院に入院して一ヶ月(発症から三ヶ月)の頃、復職の可能性について神経内科担当部長、理学療法士とも相談した。
又 周りの人達から回復状況も聞いた上で自分なりに判断した。
その結果 現在の仕事(合成ゴムの営業)から判断して、今の状態では「復職は無理である」との結論を出した。
現在の会社は、二年前 それ迄38年間勤めた会社を停年一年前で退社し、
改めて、三年契約で入社したオランダに、本社のある化学会社でる。
契約満了まで、あと一年を残したところで発病した。
そんな事を考えていた頃、会社のTopが見舞いに来られた。
「この状態では復職は無理だと思います。これ以上皆様にご迷惑をお掛けできないので、退社したく考えます。」と率直に話した。
そのTopは「そんな事は心配しないで、リハビリに努力して下さい。」と逆に励まされた。
結果的には大変ご配慮頂き、契約通り平成14年3月末日迄 いままで通りの待遇で会社に席を置くことが出来た。
非常に感謝している。

リハビリ(PT)に戻ろう。  鹿教湯病院に来て1ヶ月になるが、まだ殆ど歩けない。
杖を突いて自分の足でリハビリ室へ来られる人を羨ましく思った。
それでも5月末頃になると、リハビリ室から廊下にも出られるようになった。 合計で100メートルぐらい歩いたこともある。 20〜30分掛かった?
この頃、I田先生から5Fの廊下に限り「単独歩行可」の許可が出た。
許可が出る以前でも、廊下まで車椅子で出て、手摺りを持ちながら歩く練習をしていた。
段々 手摺を持たなくても、杖だけで歩けるようになった。
妻が「栗本慎一郎」氏の闘病(脳梗塞)記録の本を買ってきてくれた。 それによると毎日6000歩を目標に歩いたと書いてあった。
万歩計を娘がプレゼントしてくれた。 私も毎日6000歩を目標にした。 
処が問題は、私の歩き方では万歩計が正確にカウントしてくれないのである。 
〈10歩 歩いても、万歩計は4であったり、5であったり、7であったりする。
病棟の中央にトイレと倉庫、看護士さん達の休憩室があった。 そこの廊下を一周すると約40メーター?。 
その時は私の足で一周約130歩。 毎日6000歩を目標にしたが、初めのうちは、とても歩けなかった。 
それでも暇さえあれば、出来るだけ歩くようにした。
おかしなもので、雨の日は廊下が湿っているためか「つま先」が突っかかって歩きにくい。 
そんな程度の歩き方である。
リハビリ室では、階段を登る練習もした。
また しばらくして、5Fだけではなく「院内歩行」が許された。 
その次に、旧館に造ってある「スロープ」(1Fから3F迄、片道40〜50m)の上り下りもするようになった。 
最初の頃は往復で三十分位掛かったと思う。
6月の終わり頃 院外歩行訓練をした。 病院の駐車場から出発し、病院周辺の道路、 一度だけ バス道路にも出た。 
勿論 I田先生が付き添ってである。 下を向いて道路を見ながら必死に歩いた。 周りの景色はあまり目に入らなかった。

7月1日から単独での「院外歩行」が許された。
病院から約300メーター位のところに「文殊堂」(龍の天井絵が有名)という古い寺がある。 
そこへは往復もするが、一キロぐらいの周遊道路もある。 朝早く出て朝食までに戻ってくるのである。 
夏であったから6時前から出発するのである。 
毎朝大勢の患者さんが歩いていた。 
杖無しの人、杖を突いて非常にゆっくりな人、比較的恰好良く歩ける人、そうでない人、等々である。
「文殊堂」以外にも「五台橋」、「みどり橋」、「馬頭観音」、「諏訪神社」、「秋葉神社」、「月見堂」、「権現社」、など。
歩いて行くことのできる所が有った。
退院間近に病院で仲良くしていた人(伊那市の上田さん=脳出血)と「諏訪神社」へ行ったことがある。 
往復3`メーター程である。  時間は掛かったが何となく満足感があった。 彼の脚力の方が私より少し上だった。 
毎日のように彼と一緒に歩いた。 
退院して約2年になるが、今も彼とは交信している。

「作業療法科」(OT)は、主に上肢のリハビリである。
私の担当の作業療法士は、その年(平成13年)3月卒業のホヤホヤの女性の療法士(K先生)である。 
新卒には見えないテキパキした治療であった。
リハビリに入る前、「麻痺側の右手の状態」、「視界範囲」などの確認があった。
右手については、感覚はほぼ正常であるが運動機能は全くゼロ、「視界の範囲」は、概ね 正常と診断された。
右手中心のリハビリになるが、利き手交換の必要性から左手での機能訓練もあった。 
しかし「左手(健手)については、時間を掛け 必要に応じて自分で努力するのでリハビリは右手に集中してほしい」と頼んだ。 
勿論 左手の機能訓練もしたが、主に右手のリハビリに集中して貰った。
リハビリの内容は、患側の肩、腕、等のマッサージの後、次の様な訓練が有った。(記憶しているものを書いておこう)
・患手(右)に健手を添えて、プラスチック輪(輪投げ用)のハンガー掛け、雑巾掛け、腕回し、手首の曲げ伸ばし、 
・寝た状態で右肘を伸ばし、そこで止める 止められたら肩を中心に腕を回す、今度はその状態から肘を曲げ又伸ばし繰り返す、
・四つばいで前後左右へ体重移動、
・棒体操、: 棒を肩幅に持ち腕の上げ下ろし、肘の曲げ伸ばし、
・杖を使った運動、: 腰掛けて患手で杖を持ち 立てた状態で維持、又 肘の曲げ伸ばし、徐々に横に開く、 などである。
その他に、マットからの立ち上がり方、風呂の入り方の指導も受けた。
8月10日までは毎日、それ以降は10月7日に退院するまで週二回のリハビリを受けた。 
しかし 上肢の方は殆ど回復が見られなかった。
だが ここで受けたリハビリが、その後何がしかの回復に繋がるかも知れないと淡い期待を持っている。

項目へ戻る
項目へ戻る



〔 鹿教湯病院退院 〕

8月10日で発病以来6ヶ月である。リハビリも週二回になる。
障害の程度は「右上肢機能全廃=2、右下肢機能著しい障害=4、」と診断され、障害者等級は「2級・一種」に格付けされた。
8月の中旬、担当医師から「8月末頃の退院を考えている」と話があった。
その話に対し、その医師に「退院してからの生活の事を考え、現在 家の準備、障害者向に手直し などを進めており、
入居は9月25日以降になる」旨 説明、退院延長を頼み込んだ。 理解頂き 結局 10月7日の退院が決まった。
7月の後半頃から、毎朝の散歩を日課とした。 前述した「上田さん」と一緒に懸命にリハビリに励んだ。
朝の散歩、院内歩行、スロープの上り下り、毎晩の同階にあるリハビリルームでのトレーニング?、など 懸命に頑張った。 
だが 二人共 「期待した程、上達(回復)してない!」と思っていたに違いない。
彼は、私より10日ほど前に入院して、9月末に退院して行った。
この病気は「発症から半年を急性期と言って病状が急速に回復する、それ以降は緩やかな回復になる」と言われている。 
という事は「今後あまり回復しない」と言う事か?
だから 病院は六ヶ月を過ぎるとリハビリの回数も減らすのか? 病院は、出来るだけ早く退院するように勧めるのか?
どれ位の患者数を、どんな所が、何処まで調査して出した結論であろうか。?
退院間近い9月、発病直後の「立てない状態」からすれば、明らかに「杖を突いて非常に遅い歩行」でも歩けるようになっている。
「もう急性期は過ぎたが、まだまだ歩けるようになることを信じて、今後も 一歩でも多く歩く努力をしよう!」と、退院に当って誓った。
退院先は名古屋駅近くの新しいマンションである。 初めて入った。
ベランダから、名古屋駅の「JRタワーズ」が正面に見える7階である。

項目へ戻る
項目へ戻る



〔 マンションの購入 〕
(私の購入したマンション)
私の入居しているマンション 妻が入院中は月二回の間隔で病院へ来てくれた。 
自宅から此処まで来るのに4、5時間掛かるので大変だ。 
6月のある日、妻がマンションの新聞の折り込み広告を持ってきた。
その時 私は何の意識も無く 妻も何も言わず広告だけ置いていった。
それから2,3日して、暇に任せて ベッドの上でそのマンションの折り込み広告を見た。 
名古屋駅近くの高層マンションである。 
その中に「バリヤフリー」の活字を見た。 洋室、和室、各部屋 及び 浴室、トイレ、全部が「バリヤフリー」になっている。
ただ 玄関から廊下に上がる所に8センチの段差がある、と書いてあった。 興味を持った。
その時(入院中)まで、住んでいた名古屋市の隣「春日井市」の自宅は、敷地の広さが90坪近くあり、
道路から玄関までは数段の階段を登らなければならない。 
家は築25年で二階建て、家の中はいたる所に段差がに有り、片麻痺になった自分には、家の中の生活、散歩ほか家からの出入り、
庭の手入れ、 家庭菜園、等を考えると、今まで快適であった家も住みにくい家に感じた。

そんな事を考えマンションの広告を見ていた。
妻は名古屋市出身で、日頃名古屋に住みたいと言っている。 
又 偶々 長女がそのマンションから一`ほどの所に嫁いで住んでいる。 
妻も将来を考えると、長女の近くに住む方が心強いと思うだろう。
私はどちらかと言うと、静かな田舎の方に住みたいと考えていたが・・・。
早速 妻に話しマンションのカタログを取り寄せて貰った。 今までの家にはもう半年近く帰っていないので、何故か未練は感じなかった。 
退院すれば、家の改造を考えなければならない。 こんな事を考えたのだろう。
カタログを見ると何もかも良く見え、結論を出すには時間は掛からなかった。
家の売却・マンション購入の手続、家裁道具の整理・処分、障害者向手直し、引越し、照明器具・カーテン・ベッド等の購入、役所への手続き、
など・・・・・・、 妻には、大変苦労を掛けた。
私は、電話で指図する事と、心配するだけであった。

項目へ戻る
項目へ戻る



← [ 〈発病・入院・転院〉 へ ]  【 〈退院後の生活〉 へ 】 ⇒

戻る