魔術師(上・下)

ジョン・ファウルズ著
小笠原豊樹訳
河出文庫 本体各951円
『コレクター』で有名なジョン・ファウルズの長編小説。
 初めに白状しておくと、『コレクター』を読んだ直後に購入したものの、しばらくは読まずに放置していた。きっかけは、松浦寿輝の本である。あいにく、該当する本が見あたらないので引用はできないが、『魔術師』という小説が非常に魅力的に紹介されていた。それで、本棚から引っ張り出して読みはじめたのだ。ちなみに、もうひとつ白状しておくと、『コレクター』と『魔術師』以外のファウルズの作品は読んでいない。
 今まで読んだそれほど多くはないミステリの中では、この『魔術師』が最も好きな作品である。ミステリ、と表現することに異論があるかもしれないが、これは紛れもなくミステリだと思う。

 小説はすべて主人公ニコラス・アーフェの「私」という一人称で語られる。彼はイギリスの中産階級に生まれ、オクスフォードを出て私立中学の教師になったが、その環境に閉塞感を覚え、新たにギリシャのフラクソス島で英語教師としての職を見つける。それと時を同じくして、ニコラスはアリスンというオーストラリアの女性と知り合い、恋愛関係になる。

 あの日、テイト美術館の陳列室に立っていたときのことを、今でも記憶している。アリスンは私に軽く寄りかかり、私の手を握り、甘いものをしゃぶっているような独特の表情で一枚のルノアールを眺めていた。私は突然その場で私たちが一つの肉体、一つの人格と化してしまったような感覚に襲われた。その瞬間、アリスンが消えたならば、私は自分の半身を失ったように感じたに相違ない。その頃の私ほど頭脳的かつ自己陶酔的でない人ならば簡単に分かったのだろうが、その死に似た恐ろしい感覚はただの愛であった。私はそれを欲望と取り違えた。そしてすぐ車で家に帰り、アリスンの服を剥ぎとった。

 しかし、ニコラスのギリシャでの就職が決まり、二人は別れることになる。ニコラスは徹底的に利己的な男として描かれている。

 いつのまにか鼻歌を歌っていたが、それは悲しみを隠そうという健気な試みではなく、単に唄を歌いたいという、胸が悪くなるほど剥き出しの欲望だった。

 そして、ニコラスはフラクソス島に渡る。そこでコンヒスという老人と知り合い、次々と奇妙な体験をすることになる。奇妙な体験、というのは具体的にはコンヒスが語った過去の出来事がニコラスの周囲で再現される、ということである。例えば、夜中にイギリスの軍行歌がどこからか聞こえる、すでに死んだはずの人物と出会うなど。ニコラスは徹底した現実主義者なので、はじめからそれらの出来事をコンヒスの演出と決めてかかっている。一方のコンヒスは霊魂は存在すると断言し、ニコラスの追求にも自らの手の内を明かそうとはしない。しかし、どんなにコンヒスが韜晦しようとも、ニコラスにとっても読者にとってもすべての出来事の裏で手を引いているのがコンヒスであることは明白である。謎は、なんの目的でコンヒスがそんなことをしているのか、に絞られる。
 ところが、この小説はそう単純にはことが進まない。コンヒスの手駒として動いていた人物の裏切りと告白により、ある程度事態が明白になったかと思うと、それすらも演技だったりする。現実と虚構の境目が曖昧になる、というのはある種のメタフィクション作品を表現する際によく使われる言葉だが、この『魔術師』が優れているのは、その現実/虚構の階層にほとんど底がないことであり、それを表現するのにメタフィクション的な技法を一切使っていないことにある。
(以下、続く)

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