『惑星とプラムプディング』

―地球空洞説をめぐる論争史―


馬場秀和




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俺はガキの頃、不安や孤独を感じた時――星を見上げた。“エイリアンは いるのかな?”と。俺は間違った方向を見ていたんだ。地球外生命体が現れたのは、太平洋の底からだった。
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  『パシフィック・リム』(ギレルモ・デル・トロ監督、松崎広幸:字幕翻訳)

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探求すべきは、外宇宙ではなく、「内」宇宙なのだ。真に未知なる唯一の惑星は地球だ。
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  『内宇宙への道はどちらか?』(J.G.バラード、木原善彦:翻訳)






 地球空洞説――すなわち地球内部には巨大な空洞がありそこには別世界が広がっているという考え――に関するありがちな誤解は、その提唱者たちが同じ側に立っている仲間だと見なすことだろう。これほど真実から遠いイメージもない。実際には、地球空洞説をめぐる最も熾烈な論争は、常にその支持者たちの間で繰り広げられてきたのである。

 本稿では、二つの地球空洞モデルをめぐる論争を中心に、400年にわたる地球空洞説の歴史をひもといてゆく。地球空洞説はいまだ完成された理論というにはほど遠く、これからも論争は続いてゆくに違いない。




【ケプラーとハレー 初期の提唱者たち】

 私たちの足元、大地の奥底に、別世界が広がっているという考えは、決して近代の産物ではない。地下深くに「地獄」あるいは「死者の国」が存在するという世界観は、世界各地の神話伝承においてごく普遍的に見られるモチーフである。

 しかし、そのような宗教的概念とは別に、純粋に科学的な見地から最初に地球空洞説を唱えたのは誰だろうか。おそらくそれは、ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーそのひとだといえるだろう。1618年、ケプラーは『コペルニクス天文学大要』において、地球を含む諸惑星が「同心状の複数の外殻」によって構成されている可能性を指摘したのである。

 続いて1692年、ハレー彗星の発見で知られる英国の天文学者エドモンド・ハレーは、地球磁場の変動パターンを説明するために、地球が三つの地殻から構成されているという説得力あるモデルを提唱した。同心球状の三つの地殻が同一地軸のまわりを異なる速度で回転していると仮定することにより、地表で観測される磁場の変動をうまく説明できるのだ。

 ちなみに地球空洞説に対するハレーの貢献はこれにとどまらない。複数の球殻間は「輝くガス」で満たされ充分な熱と光が供給されている、というアイデアを最初に提唱したのもハレーである。こうして地球空洞はただの暗黒ではなく、未知の動植物が棲息しうる別世界だというイメージが固まっていったのである。

 さらに1716年に発表されたハレーの論文では、極地で観測されるオーロラは、地球内部を満たす「輝くガス」が漏出したものではないか、と指摘している。後に重要なポイントとなる「極地の穴」も、曖昧な形とはいえ、すでに18世紀初頭にハレーによって提唱されていたという事実は記憶にとどめておきたい。

 地球空洞説の初期提唱者たちは、決して奇人変人や妄想狂ではなかった。ヨハネス・ケプラー、エドモンド・ハレーを筆頭に、スイスの数学者レオンハルド・オイラー、スコットランドの物理学者ジョン・レスリーなど、科学史に名を残すそうそうたる科学者たちがこぞって地球空洞説を支持したのである。地球空洞説は異端ではなく、自然科学の本流ど真ん中から生まれたアイデアだった。


【シムズの奮闘 極地の穴をめぐる冒険】

 ケプラーやハレーの主張は先駆的だったが、しかしそれらはあくまで科学者コミュニティの内部で議論され、専門家にのみ知られていたものである。地球空洞説というアイデアを一般大衆にまで広げたのは、間違いなくジョン・クリーヴズ・シムズの功績だった。

 1779年、米国ニュージャージー州に生まれたシムズは、その生涯の大半を軍人として過ごした。勇猛果敢であったシムズは陸軍大尉にまで昇進し、米英戦争で活躍した後に退役。その後は悠々自適の生活を送る、はずであった。しかしいかなる運命のいたずらか、シムズは残る人生のすべてを地球空洞説に捧げることになる。

 1818年4月10日、シムズは「回報」第一号を書き上げ、大学・役所・政治家・科学者などさまざまな相手に送りつけた。ご丁寧にも自身の正気を証明する医師の診断書を添付した上で。その後も「回報」はいくつも発行され、それらは後に地球空洞説の裏付けとして持ち出されることになる論拠の多くをすでに網羅していた。磁気変動、海流、魚や動物の季節的移動や回遊、そしてもちろん極地で観測される謎の光、オーロラである。

 シムズが主張した地球空洞説は、ケプラーやハレーと同じく同心多重地殻モデルだった。地球を構成する複数の地殻が同心球状に配置され、同一の地軸を中心として周回している。極地には地球内部に通じる穴が開いている。この極地の穴から差し込んでくる太陽光が、地殻間を満たしている大気で屈折を繰り返し、地球空洞の「地表」を照らす。これにより、地球内部における動植物の棲息が可能になるのだ。

 1820年、シムズは講演ツアーに出発した。各地をまわって精力的に講演を行い、地球空洞説の普及につとめた。シムズは地球空洞説を主張するだけでなく、聴衆に対して極地探検の必要性を熱心に説いた。わずかな出資で、極地の穴を通して探検船を地球内部に送り込むことが出来るのだ、と。

 大衆は地球科学の難解な議論にはさほど興味を示さなかったが、冒険、新たなフロンティア、未知なる世界、そしておそらくは米国の領土拡張、といったトピックには強く惹きつけられたのである。政治家のもとに大勢の市民から嘆願書が寄せられ、1822年、ついに上院議員リチャード・ジョンソンが地球空洞説を検証するための極地探査という議案を議会に提出するに至った。同種の議案はその後も何度か提起されたが、残念ながらすべて棚上げにされている。

 極地探検プランは大いに賛同を得たが、彼の理論そのものは多くの場合、嘲笑されることになった。シムズは勇敢な男だった。どんな批判や嘲笑にも怯むことなく、奮闘を続けた。しかし、度重なる講演ツアーによる疲労と厳しい批判はシムズの気力と体力を大いに削り、彼は次第に衰弱していった。1829年、シムズはこの世を去った。

 振り返ってみると、シムズは地球空洞説の大衆化に成功したといえるだろう。極地探検というロマンチックな空想に支えられ、地球空洞説は一般に広く知られるようになったのだ。

 その後、シムズの支援者、そしてシムズの息子が、それぞれ講演内容をまとめた書籍を出版したおかげで、彼の理論は生き延びることになった。ちなみに、シムズの息子は後にドイツに渡って空飛ぶ円盤の開発に取り組んでいる。シムズは多くのものをあとに遺したのである。


【ガードナーの反撃 論争のはじまり】

 ケプラー、ハレー、シムズたちが提唱した地球空洞説は、すべて同心多重地殻モデルを採用していた。太陽を複数の惑星が周回する様子になぞらえて、これは「惑星モデル」と呼ばれている。

 シムズの死去からほぼ一世紀の後、1913年。米国イリノイ州に住むマーシャル・B・ガードナーが、著書『地球内部への旅』において、地球空洞説の別モデルを提起した。1920年に改版されたこの本のなかで、ガードナーは多重地殻モデルをきっぱりと否定している。地球は単一の地殻から構成されており、内部にはこれまた単一の巨大な空洞が広がっている。空洞の中心には小型の太陽が輝いており、ここから熱と光が供給されるのだ。

 後に「プラムプディングモデル」と呼ばれることになるガードナーの説は、両極の穴(とそこから漏れてくる光がオーロラとして観測されるという考え)を含めてシムズの地球空洞説によく似ていた。しかしガードナーはシムズのパクリと見なされることを極端に嫌い、シムズを猛烈に攻撃した。シムズを奇人変人と非難する一方、自らをガリレオになぞらえた。

 ガードナーは、シベリアで発見された氷漬けのマンモス、エスキモーに伝わる伝承、といった要素を巧みに地球空洞説に結びつけた。しかし彼の最大の功績は、地球空洞説を彩る魅力あふれるイメージだったといえるだろう。

 頭上に輝く小型の太陽、永遠に続く正午。マンモスから太古の恐竜の生き残りまでが跋扈するジャングル。その奥地に栄えているエキゾチックな文明。極地の穴を通って私たちはそのような未知の世界に入り込むことが可能で、そこには大いなる冒険が待っているのだ。

 エドガー・アラン・ポー、ジュール・ヴェルヌ、エドガー・ライス・バローズなどの作家たちは、それぞれ地球空洞説にインスパイアされた小説を書いている。地球空洞説は地球科学の理論としてではなく、むしろファンタスティックな冒険物語の舞台として普及していったのだ。


【ラザフォードとシュレーディンガー 大爆発と大混乱】

 20世紀になると、惑星形成理論の発展によりシムズの「惑星モデル」にも手が加えられ、より洗練されたものとなっていった。多重地殻は外側から、地殻(外殻)、K殻、L殻、M殻、N殻という名称が付けられ、その中心からの距離についても理論的な予測が立てられた。一方でガードナーの「プラムプディングモデル」には、内部地表の大陸分布図(大雑把にいって地表の陸海が反転したもの)が作成された。

 問題は、結局のところどちらのモデルが正しいのか、ということである。これこそ、20世紀の地球科学における最大の課題であり、専門家から素人研究家まで多数の論客を巻き込んだ一大論争となったトピックなのだ。

 この論争に決着をつけるのは意外に難しい。どちらのモデルにおいても、地球のサイズ、質量ともに同じである。したがって太陽や月に対する地球の動きを観測する限り、どちらのモデルが正しいかを判定することは出来ない。

 ただし、それぞれのモデルにおいて、地殻の厚みには差がある。惑星モデルでは地球の質量が複数の地殻に分散されるのに対して、プラムプディングモデルではすべての質量が単一の地殻に集まっており、後者の方が地殻は分厚いことになる。この差を判別できれば、論争に決着をつけることが出来る。

 理論的には、地表近くで発生した極めて大きな地震波パルスが地下へと伝わってゆき、地球空洞境界で反射して、再び地表まで戻ってくる様子を詳しく観測することで、地殻の厚みを測ることが出来る。しかし、20世紀初頭の測定技術でそれを可能にするほどの大きく明瞭なパスル状の地震波(というかむしろ衝撃波)は天然の地震では生じ得ず、また人工的に作り出すことも無理だった。少なくとも核爆弾が実用化される以前は。

 この難題を解決したのは、英国の物理学者アーネスト・ラザフォードである。彼が注目したのは、1908年6月30日、ロシア帝国領のツングースカ川上流で発生した大爆発だった。この爆発は途方もない規模だったので、そのパルス状の衝撃波が地殻を伝わって散乱してゆく様子を観測すれば、前述のように論争に決着をつけられる可能性がある。

 ラザフォードは世界各地の地震研究所に依頼してツングースカ大爆発に伴う地震波の測定データを集めた。これらを比較分析することで、彼はパルス状の地震波の散乱モデル、今日「ラザフォード散乱」として知られているモデルを完成させた。そして、このモデルに基づいて地殻の厚みをある程度の誤差内で特定したのである。ラザフォードの研究により軍配が上がったのは、惑星モデルの方だった。シムズが正しかったのだ。

 だが、ラザフォードの論文をもってしても、論争に決着をつけるには至らなかった。すぐさま反論が提出された。各地で測定された地震データは精度のばらつきが大きくそれらを無理やり継ぎ接ぎしても意味をなさない、あるいは地殻の中に薄い空洞が点在し地震波はそこで反射したのだ、などなど。論争はむしろ激しさを増していった。

 オーストリア出身の物理学者エルヴィン・シュレーディンガーは、1935年、論争の混乱ぶりを皮肉って「極地の穴から観測されるまで、地球の内部状態は確定しない」と述べた。地球内部は、複数の地球空洞モデルが「重なりあった状態」にある、という逆理である。このパラドックスは今日でも「シュレーディンガーの穴」としてしばしば引き合いに出される。


【ペンローズとパーマー 地球内部からやってくる円盤】

 20世紀後半。地球空洞説をめぐる論争はあまりに激しかったため、間接的な証拠にもとづく論争の決着はもはや困難、地球内部を直接観察する他に手はない、というところまでこじれていた。そして、まさにそのチャンスがめぐってきたのだ。

 1968年11月23日、気象衛星ESSA-7が撮影した北極の写真に、極地の穴がはっきりと写っていたのである。そこから地球内部の状態を観察すれば、有無を言わさず論争に決着がつけられるはずだった。

 ところが両陣営ともに困惑したことに、穴は真っ黒で、内部の状態はまったく写っていなかったのである。これは非常に困ったことだった。どの地球空洞モデルにおいても、地球内部は何らかの光源により照らされており、そのおかげで動植物が棲息し、またその光が極地の穴から漏れ出てオーロラを作り出すのだった。地球内部が暗黒だという考えは、誰にとっても到底受け入れられるものではなかった。

 衛星写真に写った極地の黒穴は、やがて「ブラックホール」と呼ばれるようになる。はじめてこの呼び名を使ったのは米国の物理学者ジョン・ホイーラーだとされている。「ブラックホール」問題は、地球空洞説に関わるすべての関係者を大いに悩ませることになった。

 1969年、ブラックホール問題に関して、英国の理論物理学者であるロジャー・ペンローズが「地球検閲官仮説」を提唱した。何らかのプロセスにより、地球内部の状態はブラックホールによって隠され、外部から観察できないようになっているという主張である。

 さらに1974年、同じく英国の理論物理学者スティーヴン・ホーキングが、光を通過させないブラックホールがどのようにしてオーロラを作り出せるのかを解明した。このメカニズムは「ホーキング輻射」と呼ばれている。

 1992年、オーストリア生まれの天文物理学者トーマス・ゴールドが、地球内部に棲息している生物の総量を見積もった。結果は驚くべきものだった。地下生物圏に含まれるバイオマス総量は炭素重量換算で何と200兆トンにも達し、海洋を含む地表に棲息する生物全体のバイオマス総量1兆トンをはるかに凌ぐ、というのだ。この見積もりは科学界に大いなる衝撃をもたらした。地球空洞は、命あふれる世界なのである。

 ペンローズの検閲官仮説を大胆に換骨奪胎して独自の理論を提唱したのが、米国のSF雑誌『アメージング・ストーリーズ』の編集長にして、UFO研究家でもあり、後には物質縮小理論の研究者として知られることになるレイモンド・パーマーである。レイ・パーマーはこの仮定上の検閲官を「高度なテクノロジーを持った知的存在」と断定し、極地の穴には未知の技術で作られた不可視バリアが張られている、それこそがブラックホールの正体だ、と主張したのだった。

 不可視バリアとしてのブラックホールは、単に光を通さないだけではなく、表面に氷原風景を映し出すことで、極地の穴そのものを隠蔽しているのだとパーマーは主張した。極地の穴を何か(例えば、そう、空飛ぶ円盤)が通過する一瞬だけバリアはオフになるが、気象衛星ESSA-7が撮影したのはまさにその千載一遇の瞬間だった。だから他の気象衛星が撮った写真には穴が写ってないのだ……。

 極地の穴を通って地球内部からやってくる円盤。このアイデアはクリーンヒットだった。そもそもUFO搭乗員が地球のことにあまりにも関心を持ちすぎている、というのはUFO研究家たちの悩みの種だったのだ。はるか彼方、外宇宙からやってきた訪問者が、どうして核爆弾や環境破壊など地球ローカルな話題にやたらとお節介な警告を発するのか。彼ら=検閲官=UFO搭乗員たちの住処が地球内部だとすれば、なるほど筋は通る。

 こうして大衆文化のなかで、かつては恐竜や未開部族がうろついていた地球空洞は、今やナチスの残党、アトランティス文明の末裔、地球を侵略しにきた異星人、太古の昔から人類を監視し密かに操ってきた邪悪な地底人、などが暗躍するパラノイア・パラダイスへと変貌を遂げた。冷戦という20世紀後半の時代背景は、地球内部のイメージまでも変えてしまったのだった。


【イーロン・マスクとファルコンヘビー 地殻を抜けて】

 極地の穴、ブラックホールを迂回して地球内部を観察する方法が一つだけ存在する。地殻(外核)をぶち抜いて空洞までダイレクトに到達するのだ。もちろんこれは誰もが考えることで、実際、20世紀には地殻貫通プロジェクトがいくつも立案された。だが、いずれも頓挫している。技術的にも経済的にもこれは極めて困難なミッションなのだ。結局、その実現は21世紀を待たなければならなかった。

 この野望を達成したのは、米国の実業家イーロン・マスクである。彼が代表をつとめるスペースX社が開発した地殻貫通ドリル「ファルコンヘビー」は、人類史上はじめて地球空洞にカメラを送り込んだ。

 超大型坑道掘削装置ファルコンヘビー、通称「ジェットモグラ」は、現地時間で2018年2月6日に米国フロリダ州ケネディ宇宙センターから打ち下げられた。その長大かつパワフルな円錐形高速回転ドリルを大地に突き立て、地殻をどこまでも下へ下へと堀り進んで行く。ローンチから91時間が経過したとき、管制室でテレメーターを見守っていた人々の目前で、ドリルにかかる負荷が唐突にゼロに落ちた。ファルコンヘビーは地殻貫通に成功し、今や地球空洞に突き出ているのだ。

 ドリルの先端が開花するように開き、中からペイロードが放出された。イーロン・マスク個人が所有する電気スポーツカー、テスラ・ロードスターである。真っ赤なロードスターにはダミーの宇宙服(スターマン)が、さらに重要なことには三台のカメラが搭載されていた。

 これらのカメラによって撮影された映像は、間違いなく歴史に残ることになるだろう。ロードスターの背後に、青白く輝く内殻(K殻)がはっきりと映っている。結局のところ、やはり惑星モデルが正しかったのだ。小型の地球を思わせるペールブルーの内殻、その神秘的なまでの美しさを前にして関係者は一様に息をのみ、論争は鳴りを潜めたのである。

 もちろん、この静けさは一時的なものだろう。すでに修正されたプラムプディングモデル(内殻は一つだけで、K殻の内側には単一空洞と小型太陽がある)が提唱されている。論争はこれからも続いてゆく。

 しかし、一つの区切りがついたこともまた確かである。17世紀に提唱されてから400年近い歳月を経て、ついに人類は地球空洞を直接見ることが出来たのだ。さらなる一連の観測ミッション、そしておそらくは地球内部への有人着陸と、探検が続くことになるだろう。

 こうして私たちは、一度は失ったものを再び手にしたのである。新たなるフロンティア、困難なミッション、大いなる謎と秘密、そして探検と発見がもたらす興奮と熱狂の時代を。そのすべては私たちの足元、すなわち地球空洞にあったのだ。



『UFO手帖3.0』掲載(2018年11月)
馬場秀和


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