『精神投影説とその拡張』


馬場秀和


注:本稿は『UFO手帖9.0』の特集「真夜中の円盤仮説」のために書かれたものです。




 UFOの正体にまつわる諸説のなかで、精神投影説は比較的マイナーな説である。UFO仮説リストが作られるときには、付け足しのように最後に置かれることが多い。だが不思議なことに、提唱から70年近くの歳月が過ぎ去った今も、古臭い珍説奇説として忘れ去られることはなく、支持するUFO研究家も少数派とはいえ後を絶たない。

 精神投影説の魅力は、他のメジャーな説、特に地球外起源説(UFOは異星人の乗物だという説)では説明が難しい、がゆえに無視されがちな、UFO体験の不可解さに焦点を当てていることだ。

 UFO体験の不可解さとは何だろうか。

 まず異常なまでの目撃数と多様性、という問題がある。報告されるUFOはあまりに数も種類も多く、地球に来ているとされる異星人は多種多様すぎるのだ。巨大昆虫やアメーバ、脳味噌からロボットまで、外見からしてバラバラな搭乗者と、ひとつひとつ動きも形も色もデザインも異なる無数のUFOが報告されている。一説によると地球では平均して8秒に1回、UFOが目撃されているという。本物の異星人遭遇事例はそのごく一部だとしても、それでも膨大な数になる。これだけ多くの種族がみな大挙して地球にやってきているというのは不自然だし、長年に渡って繰り返し恒星間文明とのコンタクトが行われていながらいまだに何の発表も物証もない、というのもさすがに納得しにくい。

 他にも地球外起源説が抱えている問題は多い。目撃された異星人たちは地球の大気を呼吸し、地球の気温も気圧も重力も苦にしないで行動する。不可解なことに彼らは目撃者にとって馴染みのある言語を話す。ただしその内容は支離滅裂なたわごとか、陳腐なお説教か、いずれにせよそこには有意義で検証可能な重要情報は何ひとつ含まれない。地球の技術では作れない超テクノロジーの産物を残すこともない。彼らの幼稚で自分勝手で意味不明な言動、あるいは壊れたマシンのようなぎこちなさ、それは高度なテクノロジーを持つ恒星間文明世界からの来訪者のものとはとうてい思えず、むしろイマジナリーフレンドのそれを連想させるものがある。

 目撃者との関係にも不審な点が多い。異星人の乗物は目撃当時に想像されていた「近未来の乗物」のカタチを模倣する(エニグマ飛行船→ファントム航空機→ゴーストロケット→円盤型宇宙船)。異星人の外見には、目撃者が映画やTVドラマで見たことのある「宇宙人」のイメージが強く反映されている。特定の目撃者に執着して繰り返しコンタクトしてきたり、呼び出しに応じて都度現れることすらある。こうした異星人たちの姿・形・行動をコントロールしているのは誰なのか。はるか彼方の星にある作戦指令本部だろうか。いや、明らかに目撃者自身の想像力なのだ。

 そして目撃者の側にも不可解な点は多い。長時間に渡るコンタクトをしたのに、持っていたカメラで撮影することを「思いつかなかった」と証言する目撃者。時間の流れがおかしくなり、夢のなかにいるように感じたという目撃者。コンタクトが始まると音が消え、周囲はなぜか無人となり、目撃者はすみやかに変性意識状態に入ってゆく。遭遇相手はもとより目撃者の反応も、異常な行動、不可解な言動、記憶障害、妄想的イメージに満ちている。

 こうした不可解さを地球外起源説で説明しようとすると、恣意的なその場限りの仮説をどんどん積み重ねてゆくはめになる。認知記憶干渉テクノロジー、政府との密約、物証を隠蔽してまわる秘密組織、UFO情報を攪乱する心理操作特務機関。実のところ地球外起源説を真摯に考えるなら、ある程度の妄想的陰謀論や不可知論を抜きにすることは難しい。地球外起源説を支持するには「宇宙には無数の星があるんだから、きっと宇宙人はどこかにいると思いまーす」みたいなカマトトでは済まされず、陰謀論やパラノイアの泥沼にあえて踏み込む覚悟が求められるのだ。

 それに対して精神投影説ではこれらはすべてすっきり素直に解決する。なぜなら、UFO体験とは目撃者の心が産み出したイメージ、精神世界のなかで起きていることだから。それぞれのUFO体験は、目撃者が自身の知識と想像力によって作り出した独自の経験だ。それは外宇宙からではなく内宇宙から、無意識の領域からやってくるのだ。

 このようにUFO体験の解釈として、特にその奇妙さ不可解さの説明として、精神投影説には説得力がある。にも関わらずUFO仮説としてマイナーにとどまっているのは、つまり複数の目撃者がいる事件、写真や動画が撮影された事件、レーダーで捕捉された事件、折れた木の枝や不可解な地面のくぼみといった痕跡が残された事件など、UFOの物理的実在を示す証拠をうまく説明できないためだ。これは致命的な欠陥といえるだろう。

 精神投影説の提唱者であるユングはこれについてどのように考えていたのだろう。そしてその後継者たるUFO研究家たちは精神投影説の欠陥をどうやって克服しようとしたのだろうか。

 本記事では、まず精神投影説の原典を再確認し、さらにそれを拡張して主流仮説の地位に持ち上げようと試みたUFO研究家たちの努力の一端を概観する。その流れで、致命的な欠陥を持つこの仮説がなぜ廃れないのかを再考してみることにする。

 では、まず提唱者であるユングの話を聴こうではないか。




【ユング】

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 UFOが尋常でないのは、その心理学的な文脈が尋常でないからである。そして、このような現象を、そもそも解釈しようとするからには、心理学的な文脈に触れないではすまされない。UFO現象の本質的な奇怪さは、われわれになじみの、合理主義的な説明原理の手におえるものではとてもない。
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『空飛ぶ円盤』(C.G.ユング:著、松代洋一:訳)


 カール・グスタフ・ユングは20世紀中頃に活躍したスイスの心理学者であり、いわゆるユング心理学の開祖として知られている。子細は省くがオカルトとも関わりが深く、現在でもオカルト界隈においては「集合的無意識」「アーキタイプ(元型)」「シンクロニシティ(共時性)」といったユング心理学用語が割とふんわりと使われていたりする。

 さて精神投影説の原典といえば、ユングがその最晩年(83歳)に執筆し、生前に刊行された最後の本となった『空飛ぶ円盤』(C.G.ユング:著、松代洋一:訳)である。原著の出版は1958年、翻訳版の出版は1976年、ちくま学芸文庫版の出版は1993年。本記事における同書からの引用はすべてちくま学芸文庫版による。

 一読すれば分かる通り、本書はいわゆるUFO本ではない。ユング心理学の応用例として、いま世界的に流行しているあの不可解な事象を分析心理学によって解釈してみせましょうという、まあユング心理学の臨床的有用性を示そうとする一冊なのだ。

 本書で提唱されている精神投影説とは次のようなものだ。


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 無意識はきわめてドラスティックな方法で、その内容を告げ知らせているといわねばならない。この現象の最も強烈な形が投影、すなわち客体への転移で、このとき客体に現れるものこそ、それまで無意識のなかに秘められていたものである。投影の現象はいたるところに観察される。(中略)そして人々が、人類全体の存亡にかかわりかねないと気づきはじめている今日の世界状況にあっては、投影をうながす空想は地上の組織や権力を超えて天上に、すなわち、かつて運命の支配者たる神々が鎮座していた星宿からなる宇宙空間に、その視線を投げかけるのである。(中略)社会的に信用もあり誠意もある証人たちが、「天上のしるし」を「この眼で」見たといい、人間の理解を超えた驚異を目撃したと語るのである。
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『空飛ぶ円盤』(C.G.ユング:著、松代洋一:訳)


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 地球にもはや救いを求められない以上、地球以外の領域にそれを探すほかない。そこで「天上にしるし」が現れたり、高次の生物が、われわれの技術知識で粉飾された宇宙船に乗って現れたりする。つまり理由の十分にさだかでない、したがって意識されない不安から、その不安の根拠をさもありそうなあらゆるところに見出そうとする、二次的で不十分な試みが投影となって現れるのである。(中略)底にひそんだ無意識が、合理的な批判にもめげず、しかるべき幻視を伴ったシンボルの噂という形で表面にあふれだし、つねに秩序と解放と治癒と全体性をもたらすものであったあの元型を、ここでもまた活躍させるのである。この元型が伝統的な形姿をとるかわりに、即物的なしかも工学的な形をとったのは、神話的な人格化を嫌う現代にあってまことに象徴的といえるだろう。技術的工学的と見えさえすれば、現代人に難なく受けいれられる。
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『空飛ぶ円盤』(C.G.ユング:著、松代洋一:訳)


 冷戦の時代、核戦争の恐怖。人々は精神的な危機を抱えており、それを緩和するために“完全性を象徴する”円のイメージを外界に幻視する。これが「投影」と呼ばれる心理メカニズムである。昔ならそのイメージは天使の輪、あるいは曼陀羅といった宗教的形状をとったであろうが、今の人々が受け入れやすいように円のイメージはテクノロジーの産物(すなわち空飛ぶ円盤)という形をとるのだ……。おおよそユングの主張はこんなところだろう。

 では、ユングはこれですべてのUFO現象が説明できると考えていたのだろうか。実はそうではない。


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 私の知るかぎり、UFOが肉眼に見えるだけでなく、レーダーにもとらえられ、写真にも写るというのは、多くの観察例に照らして事実に相違ない。(中略)心的な投影がレーダーに映じたか、それとも反対に現実の物体が神話的な投影をうながしたか、そのどちらかしか考えられない。ただ、その際いっておかねばならないのは、たとえUFOが物理的な実在であったにしても、それがそのまま心的投影の原因なのではなく、ただ投影のきっかけにすぎないということである。
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『空飛ぶ円盤』(C.G.ユング:著、松代洋一:訳)


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 なんらかの未知の物理現象がこの神話を生む外的なきっかけであったとしても、それはこの神話の神話たることを少しも損ねはしない。大抵の神話は、流星その他の自然現象をその発生に伴っているが、それで神話が説明されるわけではない。神話は本質的に、もっぱら無意識的な元型の産物であって、心理学的解釈を必要とするひとつのシンボルである。
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『空飛ぶ円盤』(C.G.ユング:著、松代洋一:訳)


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 UFOは実際に物質的な現象であり、未知の性状をもった存在なのである。おそらく宇宙からやってきて、かなり以前から人類に姿をさらしながら、それ以上これといった関係を地球や人類とはもっていない。(中略)第二次世界大戦以後、とくに頻繁に現れているようだが、それは共時的現象、つまり意味上の一致であると考えられる。人類の心的状態と物理的現実としてのUFO現象のあいだには、たがいになんの因果関係も認められない。両者は意味において一致して見えるのである。
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『空飛ぶ円盤』(C.G.ユング:著、松代洋一:訳)


 つまりユングは、物理的なUFO(UFO現象)と心理的なUFO(UFO体験)を分けた上で、両者は因果的に無関係だよ、両者が関係しているように見えるのは偶然、というかシンクロニシティ(意味による偶然の一致)なんだよ、と主張しているのだ。何だか、はぐらかされたような気持ちになる。結局、おまえは物理的UFOについてどう考えているのか。ストレートにそう問えば、ユングはこう答える。


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 私は心理学者だから、UFOの物理的な実在性について、何かを言うべき方途は持ち合わせていない。したがって、明らかに存在している心理的側面のみを引き受けて、以下もっぱら心理的な随伴現象だけを扱うことにする。
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『空飛ぶ円盤』(C.G.ユング:著、松代洋一:訳)


 ときどき勘違いされるが、ユングは決して「UFOはすべて心理現象として説明できる」などと主張したわけではない。むしろUFOが物理的に実在していることを認め、消極的ながら地球外起源説を支持さえしていたのだ。とはいえ彼の立場を要約するとこんな感じだ。物理的UFOは実在するだろう、でもそれは自分の興味関心の対象ではない、自分は心理的UFOが持つ意味を分析心理学の手法で読み解くことに興味があるだけだ。

 これを逃げだ、無責任だ、というのは筋違いだろう。ユングは心理学者として自分の領分で仕事をしているだけであり、その立場には一貫性がある。それはわかる。わかるけど、それでも物理的UFOって結局何なの、というのはどうしても気になる。「心的な投影がレーダーに映じた」とかさらっと書いてるけど、それどういう意味?

 ユングの精神投影説を支持するUFO研究家たちは、この仮説を地球外起源説にも対抗できるメジャーな仮説に持ち上げようとした。だが、そのためには物理的UFOというユングが避けた問題を解決しなければならないことは明らかだった。精神投影説をベースに物理的UFOが残す痕跡を説明する。はたしてそんなことが可能なのだろうか。

 心理的UFOについては、心理学者が語ってくれた。では物理的UFOについては、物理学者の話を聴くのがよいだろう。




【量子論】

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 量子力学は、測定装置とは独立して存在するような物理的実在については何も語らず、測定という行為がなされたときにのみ、その電子は「実在物」になる。つまり観測されない電子は、存在しないということだ。(中略)ハイゼンベルクはその考えを、のちに次のように言い表した。日常的な世界の対象とは異なり、「原子や素粒子そのものは実在物ではない。それらは物事や事実ではなく、潜在的ないし可能性の世界を構成するのである」。
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『量子革命』(マンジット・クマール:著、青木薫:翻訳)


 量子論は二十世紀の物理学に起きた革命であり、それは人類の自然観を根底から、そして永続的に、変えてしまった。本記事では、それが精神投影説に与えた影響を理解する上で必要最小限の説明を試みることにする。

 さて量子論の一般向け解説書において、最初の方で紹介されることが多い有名な実験がある。二重スリット実験と呼ばれるものだ。

 極めて細い隙間(スリット)が近接して二つ開いている板を立てる。これが二重スリットである。二つのスリットを仮にA、Bと名付けよう。その背後の離れた地点に感光スクリーンを立てる。感光スクリーンは極めて敏感で、衝突したのが光子ひとつ分の光であっても正確な痕跡が残るものとする。実験環境を真っ暗にして、できれば真空にして、感光スクリーンとは反対側から二重スリットに向かって光子ひとつを放射する。これを実験1としよう。

 実験1の結果はどうなるだろうか。光子はまっすぐ進んでゆき、二重スリットのABどちらか一方を通過し、さらに直進して最終的に感光スクリーンに衝突し、ぽつんと小さな感光点が記録される、……と思えるだろう。ところが、そうはならないのだ。感光スクリーンに残されるのは、干渉縞と呼ばれる縞模様の痕跡で、これは波の干渉が生じたことを示している。強調しておくが、これは光子ひとつが残した跡だ。

 実験1で実際に起きたことはこうである。光子は二重スリットを「波」として通過し、この波は通過後にそれぞれのスリットを起点に広がってゆく(波の回折)。これら二つの波は重なり(波の干渉)、ある地点では波が互いに強めあい他の地点では波が互いを打ち消しあった結果、感光スクリーンには特徴的な縞模様(波の干渉縞)が記録される。つまり実験1ではっきりしたのは、光は、たとえ光子ひとつであっても、波として振る舞うということだ。

 では実験2に進もう。実験1に加えて、スリットAのすぐ背後に光センサを置く。この光センサの受光部は微細で、スリットAを通った光は完全に検知するが、スリットBを通った光はまったく検知しないものとする。つまり光子がABどちらのスリットを通過したかを確実に観測できるわけだ。これで実験1と同じように光子を放射すると、何が起きるだろうか。実験1とはまったく異なる結果が得られる。光子はスリットAを通過して光センサに完全に検知されるか、またはスリットBを通過してまっすぐ進み感光スクリーンに衝突して小さな感光点の痕跡を残す。そのいずれかであって、干渉縞はいっさい生じない。実験2の結果が示しているのは、光は、少なくとも光子ひとつの場合、粒子として振る舞うということだ。

 実験1と実験2における光子の振る舞いが異なることを「粒子と波動の二重性」という。量子論の一般向け解説書ではしばしばこの二重性のことを「古典物理では理解できない不可解さ」として読者の興味を量子論へと誘導するのだが、実のところ二重スリット実験が示す不可解さは「粒子と波動の二重性」そのものではない。それはそういうものだと受け入れることも出来る。しかし、光子が「粒子として振る舞うのか、それとも波として振る舞うのか、それが決定されるのはいつか?」ということを考えた途端、事態は不穏なものとなる。なぜなら素直に考えると「未来における観測行為」が光子の「過去における物理状態」を変えてしまうことになるのだが、これはあからさまに因果律に反している。

 実験2で正確には何が起きたのだろうか。光子からすると、二重スリットに到達するまでは実験1と区別できないので、波として二重スリットの両方を通り抜ける。ところがその後、しばらく進むと光センサの存在を感知することになる。つまりこの実験は、光子がスリットAを通ったのかBを通ったのかを観測する実験だったのだ。しかしそうと気づいたときにはもう遅い。すでに光子は波として二重スリットを通り抜けた後なのだから、今さら粒子として振る舞うべきだったと気づいても手遅れだ。いや、そうだろうか。自然は決して諦めない。最小限の努力で矛盾を回避する。すなわち、時間をわずかに巻き戻して、光子が二重スリットを通過する直前に戻す。ここで「未来において、どちらのスリットを通過したのかが観測される」という情報を得た光子は、粒子として振る舞うことを決定し、どちらか一方のスリットだけを通り抜けることにする。これで実験2の結果が実現される。

 このように光子は「“未来においてどのような観測が行われるか”という情報を得て、過去の振る舞いを調整する」「未来の観測結果と矛盾しないように歴史を変えて最小限のつじまじ合わせをする」ことになる。実験者の観点からすると、観測によって、過去を改変することができるというわけだ。

 念のためいっておくが、量子物理学者たちがこの解釈に合意したわけではない。前述のとおり露骨に因果律に反するからだ。その代わり「観測される前の光子は、物理的な意味では実在しないまま(潜在的な可能性のまま)二重スリットを通り抜け、観測が行われたときはじめてその振る舞いが決定され物理的に存在するようになるのだ」という、控えめにいっても奇怪な解釈で何とか因果律の面子を立てようとした。この議論はやがて途方もない方向に転がってゆくのだが、それはまた別の話である。

 後述するように、多くの門外漢は「観測による過去改変」というアイデアをいたく気に入り、自分たちの理論体系に無造作に取り込もうとした。そしてそれはUFO研究家たちの一部も例外ではなかったのである。




【拡張された精神投影説】

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 量子的振る舞いが、マクロのレベルでは情報を光速度以上で、あるいは過去に向かって伝えられるといったパラドックスをもたらさないのならば、素人が、「変なことはただ黙って見過ごせばいいのでは」と言っても許されるだろう。物理学者でさえも多くの人が公然と、あるいは無意識に同様の立場を取っている。(中略)「量子の不気味さはミクロなシステムにしか影響しない」という考えは捨てよう。量子効果は簡単に拡大することができる。
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『量子力学の解釈問題』(コリン・ブルース:著、和田純夫:訳)


 観測による過去改変、観測しようとする意識が(過去の経緯を含めた現在の)物理状態を決定する、といった魅惑的なトピックに対して、UFO研究家の一部は敏感に反応した。彼らはこの議論をマクロな現象(要するにUFO)に大胆に適用した。そして量子論のイメージを援用することで精神投影説の拡張を試みたのだ。

 まず心理的UFO(UFO体験)が生じる。このメカニズムについてはユングの主張をとりあえずそのまま受け入れることにしよう。すなわち何らかの精神的危機下において無意識領域に含まれている元型が客体へと投影されることでUFO体験が起きる。ここまでなら、UFO体験は幻視であり純粋に心理的な現象である。

 しかし、ここから拡張が始まる。精神投影による幻視は量子論的な意味で「観測」として機能する。つまり空間を満たしている潜在的可能性(これを仮にUAPと呼ぶことにしよう)が、精神投影をきっかけに粒子(つまりUFO)として観測されたのである。そこでUAPは「“未来においてUFOが観測された”という情報を得て、過去の状態をそれに合わせて調整する」「未来の観測結果と矛盾しないよう歴史を変えて最小限のつじまじ合わせをする」ことになる。時間が巻き戻される。過去が改変される。それまで潜在的可能性に過ぎなかったUAPが収縮して実在するUFOとして振る舞う、というか振る舞ったことになる。こうしてUFOは複数の人に目撃される。写真に撮られる。レーダーで捕捉される。木の枝が折れ、地面に不可解な跡が生じる。未来の観測結果と矛盾しないよう過去が改変され、何かがUFOとして振る舞ったときに残るであろう痕跡が残る。

 過去改変は原理的に観測することが出来ない。したがって私たちには単純にこう見える。物理的に実在するUFOが様々な痕跡を残しながら飛行し、あるいは着陸し、そしてUFO体験を引き起こしたのだ、と。その後、同じUFOは二度と現れない。そんなものは存在しないからだ。

 念のため強調しておくが、様々な物理的痕跡は目撃者が(例えばテレキネシスか何かで)引き起こしたのではない。それは二重スリット実験において観測者が光子に対して「粒子として振る舞え、このように運動しろ、こういう痕跡を残せ」と念じているのではないのと同様である。“UFOが実体として存在していたら起きたであろう蓋然性の高い事象”が、“実際に起きたという痕跡が残された歴史”、言い換えれば“「観測」結果との矛盾が最も小さい過去”が選択され確定する、ということだ。

 拡張された精神投影説はけっこうイケてる感じがする。UFO体験の不可解さとUFOが残す物理的痕跡(しかしUFO本体は決して捕獲されない)をすべて自然に説明できる上に、ユング心理学と量子物理学というUFO現象とは独立に打ち立てられた理論に裏付けられている。

 さあこれで地球外起源説に対抗できるメジャー仮説への道が拓けた、と確信したUFO研究家もいたことだろう。しかし、残念ながら、そうはならなかった。




【ニューエイジ】

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 フォン・ノイマンは、意識をもつ観測者が量子システムを観測した時点以外では、収縮が起こる証拠はないと論じた。(中略)彼が状態の収縮に与えた重要な物理学的役割と、それをほとんど神秘的な原因に帰したことのコントラストは極めて不自然である。しかし、意識を持つ観測者が状態の収縮に対して神秘的な力をもつという考え方は、ある種の思想家には非常に強くアピールして数十年も生き延びることになる。
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『量子力学の解釈問題』(コリン・ブルース:著、和田純夫:訳)


 量子論における、意識が物理状態を決定する、といった魅惑的なトピックに反応したのはUFO研究家だけではなかった。古くからある神秘思想や魔法体系の根底には「人間の心には、物理世界に直接干渉してそれを変えるパワーがある」という前提がある。今やそれが最先端の科学すなわち量子物理学によって裏付けられたのだ! もちろん量子物理学者は誰一人としてこの見解に賛同しないだろうが、それは問題ではない。

 ニューソートなどの自己啓発思想や信仰を持つ人々は「引き寄せの法則」「思考は現実化する」といったテーゼが量子物理学によって証明されたと主張した。ある種の社会改革運動、スピリチュアルな人間解放を目指す人々は「それまで決して結晶化しなかったグリセリンが人間の意志を反映して結晶化するようになった」「百匹目の猿が芋洗い行動を覚えた途端にその知識が空間を越えて伝搬した」といった逸話が量子物理学によって説明できると主張した。これらの、ふんわり総称するなら「ニューエイジ思想」は、量子論だけでなくユング心理学の用語も貪欲に取り込んでいった。正直、量子論とユング心理学の用語を好き勝手に濫用すれば、何だって主張できてしまう。

 そういうわけで「拡張された精神投影説」も、ニューエイジっぽい主張のひとつと見なされてしまった。UFO研究家の多くは自分たちのことを(実態はともかく)科学者あるいはジャーナリストだと思いたがり、「ニューエイジの連中」と一緒にされることを嫌う。大半のUFO研究家は「ニューエイジっぽい」精神投影説から距離を置くことになった。結局、精神投影説とその拡張は、メジャー仮説に昇格するために必要な支持を得られなかったのだ。

 こうして量子論の援用による精神投影説の拡張は失敗に終わった。その後も精神投影説の拡張は様々な方向から試みられているが、今のところ地球外起源説に対抗できるメジャー仮説への道は険しいようだ。

 しかし精神投影説は捨て去られはしなかった。それ自身の説得力というよりも、それが示す問い掛けが一部のUFO研究家たちの心に響いたからだろう。その問い掛けとはこういうものだ。私たちにはUFOそのものを研究することはできない。研究対象はUFO報告であり、そこで証言されているUFO体験だ。だとしたら私たちが考えるべきは、UFOが飛来する目的なんかではなく、目撃者にとってUFO体験が持つ意味ではないだろうか。

 UFOの破片、あるいは異星人の遺体、といった物証を探し求めることに血道をあげる研究家はさておき、多くの先人たちが一世紀近く真剣に努力したのに決定的な証拠がいまだ見つからないのは何か方向が間違っているからではないか、と疑うUFO研究家にとって、前述した問い掛けは示唆に富んでいた。UFO現象それ自体はとりあえず棚に上げて、まずは目撃者とその証言を徹底的に調べる。真偽を判定するためではなく、目撃者と体験の心理的社会的な関わり合いという観点で調査する。すると様々な発見があったのだ。

 目撃者の科学知識や文化的宗教的背景、これまでに見たことのある映画やドラマに登場するビジュアルイメージ、生活環境や人生経験、悩み・葛藤・欲求不満、それらがUFO体験に与える影響は否定できないものだった。それらの関係を研究することは、UFO体験というものを理解する上で有意義だった。少なくとも、目撃されたものがどこから来たのか、その任務は何か、今それはどこにあるのか、などと問うよりも、目撃者はなぜその体験をしたのか、その体験は目撃者にとってどのような意味やメリットがあるのか、と問う方が、はるかに良い質問に思えるのだ。




 精神投影説はUFO仮説リストの最後に置かれるマイナーな仮説だ。地位が向上する見込みも薄い。しかしそれは古臭い珍説奇説として忘れ去られることはないだろう。UFO現象の正体が分からないとしても、UFO体験という研究対象を通して、私たちは人間の心という謎に迫ることが出来る。解き明かされるべき秘密は、外宇宙から飛来するのではなく、内宇宙から投影されているのだ。





『UFO手帖9.0』掲載(2024年11月)
馬場秀和


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