『円を測る』


馬場秀和


注:本稿は『UFO手帖7.0』の特集「フォーティアンでいこう!」のために書かれたものです。




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 もしも森羅万象すべての背後に何かひとつの秘密が隠れているのなら、どこから調べ始めるかは問題ではない。星々でも、需要供給の法則でも、カエルでも、ナポレオンでもよい。円はどこから測っても円である。
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チャールズ・フォート "Lo!" 1931




 私たちは世界について、あるいは世界の「外」について、どのように認識してきたのだろうか。

 その歴史的変遷をたどってみると、いつの時代にも、どこの地域でも、そこには影のようにつきまとうひとつの強力な信念が存在したことがわかる。それは、どうやら文化や宗教の違いを越え、すべての人類が共有している普遍的アイデアのように思える。そのアイデアとはこうだ。私たちの世界に隣接しているが交差することはなく、ただごくまれに両者が接する時と場所に現れる不思議な生き物や奇現象を通してのみ、おぼろげにその存在を感知できる、そんな他界がある。

 このような信念は、太古の昔から、ずっと人類とともにあった。同時にそのような他界そのものを見ることや測ることは出来ない、ということもまた普遍的常識であった。誰もがそう思っていたのだ。あるときひとりの男が現れ、「円はどこから測っても円である」"One measures a circle, beginning anywhere." と宣言するまでは。

 男の名はチャールズ・ホイ・フォート。二十世紀初頭に活躍した奇現象研究家として知られている。

 しかしフォートというこの男、いったい何を言ったのか。「円はどこから測っても円である」とは、どういう意味なのだろう?




【円】


 まず正方形を想像してほしい。直線(正確には線分)と直角だけから構成された、文字通りスクエアな、きっちりとした図形だ。ちなみにこの場合、正方形とはその外周を指すものとし、外周に囲まれた内側の四角い領域は正方形には含まれないものとする。そして、この正方形を「現実」のメタファーとして使おう。すなわち、私たちが認識できる森羅万象のすべてが、この正方形の上にあるものとする。それらは確固たる再現性を持つ物理法則によって支配され、すべての事象は因果律に沿って整然と展開してゆく。例外はなく、逸脱もない。正方形の上で起こる事象のどれをとっても、原因は正方形の上にあり、結果もまた正方形の上にある。これが現実。私たちのユニヴァースである。

 次に円を想像してみよう。さきほどの正方形の内側に位置し、その各辺の中央に内側から接している、つまり正方形に内接している、そんな円だ。円もその円周だけが構成要素であり、円周に囲まれた丸い領域は含まれないものとする。こうした円を考えてみると、四つの接点を除き、円と正方形が共有する部分はない。つまり正方形の上にいる私たちからは、円は見えない。認識できない。その円周上で起きる事象は、因果律とは別の仕組み(それはたとえば共時性あるいは非因果的連関などと仮に呼ばれているものかも知れない)に支配されており、物理法則からの逸脱はたやすく、そして奇妙な偶然の一致が頻発する。私たちには観測できないこの円、それが他界、オルトヴァースである。

 ではこの円=オルトヴァースについて、フォートは何を言ったのだろうか。

 興味深いことに、フォートの言明は、少なくとも幾何学的な意味ではまったくの真実である。円は無制限の回転対称性を持ち、その円周上の点はすべて対等だ。したがって、確かに、どの点から円を計測しても結果は変わらない。それだけではなく、円を構成する部分(円弧)を計測すれば、たとえそれがどんなに小さな断片であったとしても、円全体のサイズや中心点の座標を完全に特定することが出来る。つまり円は全体とその任意の部分が情報的に等価なのである。どの断片をとってもそこには全体の情報がすべて含まれている。これは円だけが持つ際立った特性だ。

 もしオルトヴァースが円と似た特性を持っているのなら、その断片、すなわち正方形(現実)との接点で起きる奇現象をきちんと計測しさえすれば、それは円の全体を計測したことに等しい。私たちは正方形の上にいながら「円を測る」ことが可能なのである。これこそがフォートが気づき、伝え、実践したことだった。

 ゆえにフォートは奇現象を収集した。たとえそれが「空からカエルが降ってきた」といった一見些細に思えるものであっても、そこには円を構成するあらゆる情報が含まれている。人が自然発火する。遠隔地に瞬間移動する。物品が勝手に動き回る。互いに無関係に思える逸脱事例を集め、地図上に配置し、時系列に沿って並べ、報告に含まれる奇妙な偶然の一致を抽出する。そこに円を見いだすために。

 フォートは思弁の力をもって、円を、そしてその中心を、測ろうとしたのだ。




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 私たちは子供っぽい迷信は一つも信じていなかったが、科学研究や科学的思考を通じて、われわれが知る三次元空間は、物質とエネルギーから成る全宇宙のごく一部にすぎないと理解していた。さらには、数多くの確かな情報源から得た驚くほどたくさんの証拠から、人間の目から見ると特別悪意のある、とてつもない力が執拗に存在していることが示唆されていた。それは別次元とより密接につながっていて、とはいえわれわれの次元との境界のごく近くに存在しており、だからたまに私たちの前に現れるが、私たちがその存在について理解したくても、充分な視野がないためおそらくはけっして理解できないのである。
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H・P・ラヴクラフト "The Shunned House" 1937




【中心】


 円の中心(それは正方形の中心でもある)に関して、フォートは謎めいた言葉を残している。「私たちは所有されているのだろう」"I think we're property." というものだ。「中心」には、私たちに理解不能な何らかの意志を持った主体がいて、それが私たちを家畜のように「所有」している。そのようにフォートは考えた。

 奇現象の報告を詳細に調べてみると、現象そのものとは別に、「悪ふざけ」を感じさせる奇妙な偶然の一致が頻繁に顔を出す。人名や地名に関するほとんど駄洒落めいた偶然。過去の事件との奇怪な符合。発生地点を地図上にプロットすると現れる不可解なシンボル。無関係な複数の現場に残されていたマークや痕跡の不気味な一致。そういったものの背後に、ひねくれたブラックユーモアを持つ意志の存在を感じることはたやすい。

 私たちには認識できない「中心」にいる何かが、ひそかに私たちを所有し、支配し、コントロールしている。フォートが提示したこのアイデアが、多くの人々を魅了したことは確かである。ラヴクラフトの宇宙的恐怖(コズミック・ホラー)、ラッセルの超生命ヴァイトン、キールの超地球人(ウルトラテレストリアルズ)……。フォートの言葉からは後にたくさんのミームが生み出されてゆくことになる。

 「中心」にいる何かが、そのひねくれたブラックユーモアを発揮しながら奇現象を引き起こしている、あるいはそのような夢を見ている、と想像してみよう。すると、あらゆる奇現象はすべて事象として対等であって、つまり円はどこから測っても円なのであって、「個々の奇現象にはそれぞれ対応する固有の原因があるはずだ」といった発想は、そもそもナンセンスということになるだろう。表面的に異なって見える様々な奇現象は、ひとつの本質を共有する同じ事象なのである。

 フォートの時代には曖昧だったが、現代の話題としてUFOと宇宙人を取り上げてみる。UFO目撃事件も宇宙人遭遇事件も起きる。確かに起きる。しかしその原因は、宇宙船でもないし、宇宙人でもない。それは円と正方形の接点で起きるあまたの奇現象のひとつに過ぎず、その意味では空から降ってくるカエルと同じ事象だ。墜落円盤だろうが蛙雨だろうが、少なくとも正方形の上には原因も結果もない。だから円盤の破片や宇宙人の遺体が今どこにあるのかと問うのは、空から降ってくる前にカエルはどこにいたのかを問うのと同じく、意味がないのだ。もしかしたら「中心」にいる何かが、そういう夢を見ているだけかも知れない。




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 フォートが言ったように私たちを所有している宇宙精神があるとして、それは正気だと決まっているだろうか?
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デーモン・ナイト "Charles Fort : Prophet of the Unexplained" 1970




【正方形】


 フォートがもっとも心血を注いだ活動は、奇現象の収集そのものというより、権威に対する抗議、常識に対する異議申し立てだったといえるだろう。因果律や物理法則から逸脱した事象など起きないと決めつける、現代でいうオカルト否定派を、フォートは敵とみなして執拗に批判した。思弁の力で円を測ろうとするフォートの立場からすれば、正方形に含まれないものは存在しない、なぜなら正方形に含まれないからだ、といった主張が受け入れがたいのは当然だったといえる。

 だがフォートは同時に、現代でいうオカルト肯定派に対しても、容赦なくノーをつきつけた。一見すると、否定派はともかく、肯定派まで敵に回すのは奇妙にも思える。しかし、こう考えてみてほしい。奇現象には未知原因(地球に来ている宇宙人、ネス湖に棲む巨大生物、人間が持つサイキック能力、等)があるという肯定派の主張は、結局のところ、奇現象は既知原因(自然現象の誤認、幻覚、捏造、等)で説明できるという否定派の主張と、その本質において差はないのだ。どちらも奇現象の原因は(それが既知か未知かはさておき)すべて正方形の上に存在する、と主張しているのだから。

 そういうわけでフォートは奇現象を無視する科学者たちを手厳しく批判する一方で、無分別なオカルト信者からも距離を置いた。存命中に創設されたフォーティアン協会にも彼自身は参加しなかった。肯定派も否定派も敵に回した以上、彼は孤立していた。友だちは少なく、生前は大した名声も得られなかった。彼の交流関係は限られており、助けてくれたのはごくわずかな人々だった。図書館と自宅を往復するだけで働かなくても一生食べてゆけるだけの遺産を遺してくれた親族、書籍出版にあたって様々な便宜をはかってくれた大作家、そして身の回りの世話をやいてくれた幼なじみの女の子。たったそれだけだった……。

 ともあれフォート亡き後、意外にも彼の名は忘れ去られはしなかった。数冊の著作と共に、フォートの名前はある種の奇現象研究のシンボルとなり、その後継者たちはフォーティアンと呼ばれるようになった。フォートの死後、百年近くの歳月が流れたにも関わらず、今もなおフォーティアンたちは地道に活動を続けている。




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 フォートの見解をひとことで言い表すとしたら、このようになるだろう。奇跡を信じないことを欲している者は、奇跡を信じることを欲している者よりもなお先入観にとらわれがちで、騙されやすいのだ。
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コリン・ウィルソン "Mysteries" 1978




【測地線】


 現代のフォーティアンたちは、円と正方形が分離された別世界だとはもはや考えていない。むしろ正方形そのものに円の性質が備わっている、と考えている。強引にたとえるなら、正方形は平面に置かれているのではなく、歪んだ曲面上に置かれているのだ。フォートの時代に想像されていた「平面上に置かれた正方形」は、理想化されたイメージに過ぎず、実際の「現実」は、曲面上にあるいびつな正方形なのである。私たちはその上にいるがゆえに、正方形の歪みを簡単には認識できない。

 むろん「確固たる再現性を持つ物理法則によって支配され、すべての事象が因果律に沿って整然と展開してゆく。例外はなく、逸脱もない」そんなイデアを無理に「現実」に当てはめようとすると、曲率によって引き起こされるズレが生じる。そのズレこそが奇現象として観測されるわけだ。局所的に激しく歪んでいるせいで奇現象が頻発する場所や時間もあるが、多かれ少なかれどこにでも歪みはあり、したがって奇現象は、いかなる時、いかなる場所でも起きる。宇宙人はここにはいない、にも関わらず、宇宙人は目撃される。学校や、裏庭や、寝室でさえ。

 私たちの世界は、現実は、フォートの時代に考えられていたようなユークリッド的に整然としたユニヴァースではなかった。それは、それ自体が、オルトヴァースを内包していたのだ。

 しかし、どのように世界認識が変化しようとも、フォーティアンたちの活動は変わらない。ネットの普及は奇現象の調査にも情報共有にも大きな助けになったが、それでも熱心なフォーティアンは今でも図書館に通ってローカルな新聞記事を調べている。説明がつかない奇妙な事件、信じがたい偶然の一致、分類や類型化を拒む不可解な出来事。驚くほどフォートの時代と変わらないまま、奇現象は今なお起き続けている。

 フォートは個々の奇現象について現地調査をしなかった。自分でも信じてなさそうなその場限りの説明を持ち出してくるが、自説をきちんと検証しようとはしなかった。彼の後継者であるフォーティアンたちも同じ姿勢を見せることが多いため、しばしば批判を受ける。しかし、それは不公平、というか的外れというべきだろう。彼らは奇現象の原因(正方形の上に存在すると想定される原因)にはさほど興味がない。彼らは、現実というものが通常考えられているように整然としたスクエアなものではないと信じており、そこには因果律や物理法則では測れない円の性質(曲率)が含まれ、そのために歪みが生じている、と考えている。その歪みは、「あるべき現実」と「実際に起こる出来事」との間に生じるズレ、すなわち奇現象という形でしか観測できないのだ。

 だからフォーティアンたちは奇現象を集める。奇現象を調べる。奇現象を共有する。百年前にフォートがやったように。彼らは、円を測ろうとしているのだ。





『UFO手帖7.0』掲載(2022年11月)
馬場秀和


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