シリーズ 超常読本へのいざない 第2回

『写真のボーダーランド X線・心霊写真・念写』(浜野志保)

馬場秀和


 超常本の堆積物に分け入って、オカルトや超常現象が好きな読者ならきっと誰もが気に入るに違いないお値打ちものを紹介する「シリーズ 超常読本へのいざない」。その第2回です。

 今回は、いわゆるパラノーマル写真について考察する『写真のボーダーランド X線・心霊写真・念写』(浜野志保)を取り上げます。

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私たちは写真を見るたびに、そこに写し出された何かと否応なくつながることになる。それは、かつてカメラの前に存在したものかもしれないし、そうではないかもしれない。あるいは、この世のものかもしれないし、異世界のものかもしれない。けれどもそれは、一枚の写真になった途端、私たちの世界の中に確実に存在するものになる。かくして写真は、私たちの世界と写真のなかの世界をつなぐ国境地帯(ボーダーランド)となるのである。
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単行本p.246

 他愛もない心霊写真、模型を吊るしただけのUFO写真。レタッチやCGが普及した現代においてもなお、「この世ならざるもの」が写っているパラノーマル写真を目にしたときに私たちが感じる、あの不可解な、ざわつく感覚。あれはいったいなんなのか。

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 確かに、写真というメディアは、私たちの目に見える世界をそのまま写し取っているかのようだ。しかし、私たちの目に〈見える〉世界と、写真に〈写る〉世界の間には、埋めがたい隙間が常に開いている。本書は、そんな〈見える〉と〈写る〉の隙間を通して、写真が本来持っている魔術的な力を再確認する試みである。
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単行本p.13

 〈見えないもの〉を、確かに〈存在する〉ものとして現実世界に定着させる装置、写真。オーラ写真、心霊写真、妖精写真、写真ダウジング、そして念写。パラノーマル写真の歴史を丹念に追うことで、写真が本来持っている魔術性に迫る一冊です。様々なパラノーマル写真の流行を時代順に見てゆくとともに、その時代背景、先行する超常写真や他のオカルトとの関連性などにも目配りし、幅広い視点で「写真とオカルト」の関係性を探求してゆきます。


第1章 見えないから写す――写真と流体

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18世紀から19世紀にかけて、目に見えない磁気や電気や光線が、人々の身の回りに、あるいは身体の内に溢れていった。世界を満たすこうした不可視のものと19世紀前半に登場した写真というメディアが結び付いて生まれたのが、流体写真の試みである。
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単行本p.57

 ライヒェンバッハの「オド写真」、ダルジェの「V線写真」、オホロヴィッチの「Xx線念写」などの事例を通じて、人体から放射されている目に見えないエネルギー(今でいうオーラ)を可視化しようとする「流体写真」の流行。それはいったい何を意味したのかを探ります。


第2章 写して見せる――降霊術としての心霊写真

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幽霊の存在を介してこの世とあの世がつながるのと同じように、写真はそこに写し出されたものに実体を与え、私たちの目の前に存在せしめる。その被写体が実際に存在したものであるにせよ、詐術や想像の産物であるにせよ、写真に写された途端、それは確かにそこに存在するものになるのである。
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単行本p.126

 幽霊やエクトプラズムが写っている写真。心霊写真はどのようにして生まれ、発展していったのか、その歴史を概観します。幽霊からの手書きメッセージが写真に写る「サイコグラフィ」についても、この章で扱われます。


第3章 見えなくても写る――妖精写真とカメラ的想像力

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 コティングリーの妖精写真に関していえば、〈見える〉と〈写る〉の話をするだけでは不十分である。なぜなら、写真に写っていたのは妖精そのものではなく、妖精を描いた絵画だったからである。(中略)写真のなかに絵画を持ち込んだことは、単なる少女たちの気紛れの産物ではない。写真術の黎明期に、写真と絵画は互いに対立しながらも、根本的には未分化の状態にあった。
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単行本p.154、157

 特に妖精の存在を強く信じていたわけでもないコナン・ドイルが、いわゆる「コティングリー妖精写真」を熱心に擁護したのはなぜか。妖精写真が持つ意味を、写真史の文脈から再解釈します。


第4章 写らないものを見る――カレンベルクの写真ダウジング

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これまで繰り返し述べてきたように、写真術はその誕生直後から、写真に〈写す〉ことによって目に見えないものを〈見える〉ようにしてきた。ところがカレンベルクの写真ダウジングは、写真にとらえられていながらなおも〈見えない〉何かを、ダウジングという別の技術を介して〈見える〉ようにする。強力な可視化装置であるはずの写真の内にさえ、〈見えない〉何かが潜んでいるというのが、カレンベルクの根本的な考えである。
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単行本p.195

 写真を使った振り子ダウジング。それは、撮影対象と関わる「何か」が、目には見えないまま、物理的実体としての写真に封じ込められている、という画期的な概念をもたらしました。呪われた写真、祟りなす写真、今なおリアリティを失わない忌避写真のイメージがどのようにして形作られていったのか、その歴史的経緯を明らかにします。


第5章 写っても見ない――テッド・シリアスのポラロイド念写

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ポラロイド・カメラを使用すれば、事前・事後のカメラやフィルムへの細工を防ぐことができる。従来のような単純な偽造は困難になり、結果的に写真の利用価値が高まるかもしれない。つまり、心霊研究者であるエーラーにとって、シリアスによる念写の真偽は、シリアス個人の特殊な能力の問題であると同時に、心霊研究の領域における写真というメディアの地位回復に関わる問題でもあった。
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単行本p.204

 他人が持ち込んだポラロイド・カメラとフィルムを用いて、監視されている場で「念写」を行って見せたテッド・シリアス。その念写実験は、撮影プロセスそれ自体が降霊会としての性質を持っていたことを明かにします。


 個人的には、まずは「オド写真」や「サイコグラフィ」など、知らなかった話題が次々と登場することで大いに興奮。また、ダウジングとホメオパシー、ファンタスマゴリアと心霊写真など、通常はまったく異なる文脈で扱われている話題の隠微な関係性が指摘されることにも感銘を受けました。オカルトというものは、それがいわゆる通俗オカルトであっても、常に地下水脈で互いにつながっているものです。

 心霊写真に関する研究書はいくつかありますが、それを含む様々なパラノーマル写真を歴史的に俯瞰した一冊として、また写真が私たちの文化に与えた影響や、その魔術性について、さらにはオカルト業界において(証拠としては今日ほぼ無意味なはずの)写真がなぜあれほど重視されるのか等、写真術の起源にまで遡ってきちんと考えてみたいという方、などにお勧めです。



超常同人誌『UFO手帖 創刊号』に掲載(2016年11月)
馬場秀和


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