シリーズ 超常読本へのいざない 第4回


『バンヴァードの阿房宮 世界を変えなかった十三人』

(ポール・コリンズ:著、山田和子:翻訳)

馬場秀和


 超常本の堆積物に分け入って、肯定派、否定派、懐疑派、そのスタンスを問わず超常現象が好きな読者ならきっと誰もが気に入るに違いないお値打ちものを紹介する「シリーズ 超常読本へのいざない」。その第4回です。

 地球空洞説、N線、青色光療法。オカルトや疑似科学の業界における有名どころの話題については、皆さんもよくご存じのことでしょう。しかし、これらを最初に提唱したのは誰なのか、どんな人が、どんな経緯で、一世を風靡することになったのか。そこまではよく知らないということが多いのではないでしょうか。

 今回は、そのあふれる情熱と信念によって世界を変えようと奮闘し、ほぼ完全なる失敗に終わった人々を扱った一冊をご紹介します。必ずしも超常本というわけではありませんが、超常的なものに挑んだ勇敢な人物が何人も登場します。人生を賭けて追求したテーマがたまたま事実無根の妄想だった、という結果をもって彼らを責めるのはいささか気の毒ではないでしょうか。

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 歴史の脚注の奥に埋もれた人々。傑出した才能を持ちながら致命的な失敗を犯し、目のくらむような知の高みと名声の頂点へと昇りつめたのちに破滅と嘲笑のただ中へ、あるいはまったき忘却の淵へと転げ落ちた人々。そんな忘れられた偉人たちに、僕はずっと惹かれつづけてきた。(中略)思うに、僕たちは、“忘れられた人々や事物”のキュレーターなのだろう。こうした人々や事物に目を向ける余裕のある人間が誰もいなかったらどうしよう――そんな思いに駆られて、僕たちは、失われた人々や事物を追いつづけているのだ。
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単行本p.9、10

 というわけで本書は、「その時、歴史は動かなかった!」という帯のアオリ文句の通り、その偉大な業績にも関わらず歴史に名を残せず忘れ去られてしまった人々の本です。

 取り上げられているトピックは、世界最長のパノラマ画、シェイクスピア未発見原稿の偽造、ニューヨークの空圧式地下鉄、地球空洞説、N線、青色光療法、シェイクスピア=ベーコン説、史上初の宇宙人ブーム、など。

 総勢13名の「世界を変えなかった偉人」が登場。学者、芸術家、文学者、実業家、俳優、詐欺師。職業や業績は様々ですが、いずれも魅力的な人物ばかり。その栄光と挫折の物語はどれもエキサイティングです。ここでは、オカルトや疑似科学に関連した4名をご紹介しましょう。


3. 空洞地球と極地の穴(ジョン・クリーヴズ・シムズ)

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 地球は回転しているから、遠心力が回転軸を中心にして物質を外側に追いやり、結果、極地に穴が生じる。そこから、シムズのような勇敢な精神の持ち主が中に入り、地中世界を探検できるというわけだ。内部は多重球体になっているとシムズは考えた。(中略)シムズは、この理論であらゆる現象が説明できると考えていた。磁場の変動、ガンやカリブーやニシンの神秘的な渡り・移動・回遊。海流でさえも、ギリシア神話に登場する海の怪物カリュブディスさながら、地球上の各地の海が一方の極地の穴になだれ込み、もう一方から奔出してくるからだとして説明される。
(中略)
 シムズの名は次第に広く知られるようになっていったが、しかし、ほとんどの場合は嘲笑を介してのことだった。シンシナシティでは、地元の数学者トマス・マシューズが、“頭の中だけのたわごとの山”を書いたと言ってシムズを笑いものにした。回報を書けば書くほど、シムズは愚弄された。そして、愚弄されればされるほど、シムズは怒りを深め、決意を新たにして書きつづけた。
(中略)
 1829年、シムズは、人類史上最大の発見がみずからの手からこぼれ落ちてしまったという思いを噛みしめながら、この世を去った。
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単行本p.100、103、113

 私たちが住んでいるのは地球の外殻に過ぎない。その内部は空洞になっており、そこには未知の存在が棲息している。北極と南極には巨大な穴が開いており、そこを通って地球空洞へと行き来することが出来る。こういった「地球空洞説」のアイデアを一般大衆に広めたのは、ジョン・クリーヴズ・シムズだといってよいでしょう。彼の奮闘ぶりを知ると、たまたま地球が空洞でなかったのはシムズの責任じゃない、と思わず擁護したくなります。


4. N線の目を持つ男(ルネ・ブロンロ)

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 ブロンロは、フランス科学アカデミーの紀要1903年3月23日号に「新種の光について」と題する論文を寄せ、新しい放射線を発見したことを全世界に向けて発表した。ブロンロの新発見のニュースはまたたくまに世界中の物理学界と医学界に広まった。
 この新しい放射線は、ブロンロの生地であるナンシーにちなんでN線と名づけられた。続いて同年3月と4月に行なった実験で、ブロンロは、N線がいくつかの極めて興味深い特性を持っていることを示した。
(中略)
 ブロンロの研究生活はN線一色となった。彼は驚異的なペースで論文を発表しつづけ、1904年を通じて《アカデミー紀要》には毎月、表と写真をきっちり備えた新論文が掲載された。それはブロンロひとりにとどまらなかった。1904年前半に《アカデミー紀要》に掲載されたN線関連の論文は実に54本。一方、同じ時期のX線関連論文はわずか3本しかない。
(中略)
 少なくともフランスでは、ブロンロの発見の重要性に対する疑義は、1904年8月26日付けの科学アカデミーのレターによって完全に払拭されることになった。ブロンロはルコント賞を授与され、5万フランの賞金とフランスで最も偉大な物理学者たる栄誉を受けるに至ったのだ。
(中略)
 それはまったくのところ、興趣のかけらもない方法だった。ウッドは、手をひと振りするだけで、フランス最大の科学者を破滅に追いやったのだ。(中略)ウッドの真相曝露を受けて安堵した大勢の科学者たちから、自分たちもこれまでN線を見るのに失敗していたと認める告白の大合唱が上がった。
(中略)
 N線は、出現した時と同様、あっという間に世界中の研究室の硫化カルシウムのスクリーンから消え去った。きっと、天国のどこか、その亡霊のような輝きにもっとふさわしい場所に行ってしまったのだろう。しかし、地上にはひとりだけ、N線の存在を絶対的に確信している人物が残っていた。ほかならぬ発見者のブロンロである。
(中略)
 彼は以後の人生を、二年間のN線の大嵐に翻弄され破滅した人間として過ごさなければならなかった。ずっと人目を避けた生活を送ったブロンロだったが、昔の仲間である物理学者たちの間では、彼が正常な精神を失いつつあるという噂がささやかれていた。そして、1930年、ブロンロはこの世を去った。
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単行本p.122、128、133、137、139、142

 新種の放射線の発見、それに続く大ブーム。多くの研究者がN線の存在を確認し、大量の論文が発表された。しかし、まるで刑事ドラマのような決定的な反証により、N線は存在しないことが明らかにされる。栄誉の頂点からの完璧な失墜。常温核融合、ポリウォーター、そしてSTAP細胞。繰り返される幻の大発見、その短くも輝かしい歴史。


11. 青色光狂騒曲(オーガスタス・J・ブレゾントン)

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 それは確かに万能薬だった。それからほどなく、プレゾントン自身の息子が腰の神経を痛めて、突然歩けなくなった。息子は毎日、青いガラスの下に座って、腰と背骨に冷たい光線を浴びさせられた。三週間たつと、彼はすっかりよくなった。  この成功に老准将は自信を持った。次のステップははっきりしていた。彼は可視光線の青色光を特許登録することにしたのである。(中略)1871年9月26日、フィラデルフィアのA・J・プレゾントンの「植物と動物の成育を加速させる考案」に対して合衆国特許119242号が与えられた。
(中略)
 実のところ、大半の科学雑誌は『青色光の影響』の書評を載せることも新刊リストに上げることもしなかった。よくあることながら、真面目な科学者たちは、内容のあまりのばかばかしさに、こんな本はすぐに世の中から消え去ってしまうだろうと考えたのだった。
 全部数があっという間に売り切れとなった。
(中略)
 『青色光の影響』が主張するところでは、青色ガラスは、痛風から脊髄膜炎、麻痺、肺出血にいたるまで、ありとあらゆる疾患を治すことが可能だった。1877年に第二版が出る頃にはすでに一大青色光フィーバーが起こっていて、自分の家を持っている者はこぞって青色ガラスを備えたサンルームを増設し、内装業者は青いカーテンと青い壁紙の注文に追われた。ニューヨーク市の流行の最先端である健康スパは、常連客たちが、単にサンルームを作るだけでなくサンルームの全体を青色ガラスにせよと要求した結果、建設業者との間でガラス工の争奪戦を演じていた。
(中略)
 プレゾントン准将が、自分が火をつけたこの熱狂の炎から利益を得ることはほとんどなかった。プレゾントン准将の企図は純粋な博愛精神に基づいたものであり、自身は全人類に青色光の恩恵をもたらすことしか考えていなかった。(中略)オーガスタス・プレゾントンの研究はあくまで善意に発したものだった。彼は青色ガラスの力を信じるのをやめたことはなかったし、研究と科学書の読書を放棄することもなかった。
(中略)
 結局のところ、プレゾントンの青色光は、ほかの大半の実験的な治療法と同じ理由で、永遠の忘却の淵に落ちてしまったのだ。
 その理由とは――実際には何の効果もなかったからである。
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単行本p.341、342、346、348、352、364

 19世紀後半に米国で大流行した青色光療法の歴史。思い込みと熱意に支えられた疑似科学療法の提唱、専門家の黙殺、一般大衆の熱狂、次々と発生する便乗商売。現代とまったく同じ構図には、色々と感慨深いものがあります。

 個人的には、青色光療法の提唱者がビジネスパートナーとして選んだのが、永久機関「キーリィ・モーター」で有名なキーリィ・モーター社だったというエピソードが胸に刺さりました。青色光をキーリィ・モーターに注ぎ込み、そこから無限エネルギーと不老不死光線を作り出すという壮大な夢。それが実現していたら、人類の歴史はどう変わったでしょうか。


13. 宇宙は知的生命でいっぱい(トマス・ディック)

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 物質は、その主人たる意識ある存在がいなければ、どこであろうと存在する意味がなく、したがって、すべての天体に生命体が住んでいなければならない。知的生命は、この地球や、その他二、三の惑星にたまたま出現したのではなく、宇宙の自然な状態である。そうではないと考えるのは「不敬で冒涜的で馬鹿げたことだ」。
(中略)
 すべての世界に生命が住んでいるという結論のもと、ディックが最初に目を向けたのが月だったのは当然のことだった。ディックの見積もりでは、イングランドと同じ人口密度だとすれば、月には42億の生命体が住んでいることになる。そして、あらゆる世界にあらゆる段階の生命体がいるというところから、『星々の天上界』ではさらに、同じくイングランドの人口密度を基準にして、可視宇宙の全生命体数が算出されている。
(中略)
 ディックは実際、異星人の知性とモラルは地球人よりはるかに進んでいると考えていた。外惑星の公転運動は長期にわたる不安定なものであり、彗星は定常的ではない軌道を疾走し、土星の環の住人たちは(ディックの推測では)それぞれが異なる速度で運行する複数の環の上で暮らしている。こうした環境下で天界での神の働きを真に認知するには、極めて高度な天文観測を必要とする。そのような科学を発展させるためにも、彼らには間違いなく超人的な精神が求められるはずだ。
(中略)
 無線が登場するよりずっと前の時代にあって、ディックは、人類はいずれ、別の知的生命体と交信する、よりよい方法をいくつも考案するだろうと考えていた。「人間はまだ幼年期にあるにすぎない」とディックは述べる。
(中略)
 彼が亡くなった1857年にはまだ、ダーウィニズムが一般の人々の信念を浸食しはじめるには至っていなかった。だが、後世の人々の目は厳しかった。かつて絶大な人気を誇った著書も、今では見つけることさえ難しく、全著書が一世紀以上にわたって絶版のままになっている。私がUCLAで見つけた1855年版の全集はページがカットされてさえいなかった。これを開いたのは、この140年間で私が最初だったのだ。
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単行本p.399、401、404、413

 月、惑星はもとより、土星の環や彗星にさえ人類よりもはるかに優れた知能とテクノロジーを持つ住人がいると論じ、史上初の宇宙人ブームを作り出した男。大手新聞に載った「月面人発見!」のスクープ記事に大衆が熱狂するなど、アーノルド事件やロズウェル事件より百年も前に宇宙人フィーバーを巻き起こしたその著書は、キリスト教神学をもとに論理的な考察を重ねた真摯なものだった。

 聖書からスタートして、ずっと後のUFO信仰やニューエイジ思想までをカバーする勢いで展開される論旨には驚かされます。19世紀中頃に「多種多様な宇宙人の存在と、彼らとのコンタクトの可能性」という話題がすでに大衆文化の中で大流行していたという歴史的事実は、UFO史の全体像を考える上で見過ごせないのではないでしょうか。それは決して冷戦のさなかに唐突に現れた発想ではなかったのです。



超常同人誌『UFO手帖3.0』に掲載(2018年11月)
馬場秀和


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