シリーズ 超常読本へのいざない 第6回


『超常現象のとらえにくさ』

馬場秀和





 それを信じたい人には信じるに足る材料を与えてくれるけれど、疑う人にまで信じるに足る証拠はない。超常現象の解明というのは本質的にそういう限界を持っている。


ウィリアム・ジェームズ




 超常本の堆積物に分け入って、肯定派、否定派、懐疑派、そのスタンスを問わず超常現象が好きな読者ならきっと誰もが気に入るに違いないお値打ちものを紹介する「シリーズ 超常読本へのいざない」。その第6回。

 今回のテーマは超常現象のとらえにくさ。とかく超常現象には自己隠蔽効果がつきもの。複数の目撃者がいたり、ときには明瞭な痕跡まで残されていたりするのに、なぜか決定的な証拠は手に入らない。ここぞというタイミングでカメラは故障し、録音は謎のノイズでかき消され、物証は必ず行方不明になる。待ち構えていると何も起きない。あきらめて機材を片づけたとき、すかさず何かが起きる。まるで悪ふざけを楽しんでいるようなこれは、いったい何なのか。

 超常現象を取り上げた本はいくらでもありますが、超常現象の「とらえにくさ」そのものをメインテーマとした本はそれほどありません。ここではドキュメンタリー作家と超心理学者がそれぞれ超常現象のとらえにくさに正面から挑んだ二冊をご紹介しましょう。



『オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ』(森達也)



 多くの怪しい人に話を聞いた。そのうえで書くけれど、彼らが意識的に隠そうとしているというよりも、現象そのものが人の視線を嫌うという印象を僕は持っている。
 ただしこの認識自体が、そもそもオカルティックであることは自覚している、安易な擬人化に没するべきではない。それは科学的アプローチと相反する。その自覚はある。自覚はあるけれど、そう思いたくなるような体験を何度もしてきたことも確かだ。さらにオカルトは、ときおり観察者たちに媚びるかのように振る舞うこともある。言葉にすれば「見え隠れ」だ。まるで性悪女のように、オカルトは観察者を翻弄する。隠れたかと思うと小袖の先をちらりと見せ、思わず目を凝らせば、また姿を消す。特に検証とか実験とかで意気込むときに、この現象は顕著になる。そんなことの繰り返しだ。だから前に進めない。とはいえ後ろにも下がれない。結局はぐるぐる回るばかり。常にどっちつかずで曖昧なままなのだ。

角川文庫『オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ』(森達也) p.20

 追求すればするほどわからなくなってゆくオカルト現象の、そのわからなさに迫ったルポルタージュ。2012年4月に角川書店より単行本が出版され、2016年6月に文庫化されています。

 直視されることを嫌う。でもまとわりつく。見つめようとすると視界から逃げる。探索をあきらめかければ視界の端に現れる。ある/ない、本物/捏造、といったレベルで語られがちな不可解な現象の本質に、講談社ノンフィクション賞受賞作家が切り込んでゆく。先入観を排し、ひたすらオカルト界隈にいる人々の話を聞いて回る著者。

 超能力者に取材し、恐山のイタコに会う。オカルト探索サイトの管理人と対談したかと思えば、怪談実話本の著者と一緒に心霊スポットを訪ね、週刊誌編集長と共に墓場へ。超心理学の研究者と一緒にダウジング実験に参加し、TVのオカルト番組プロデューサーと話し、霊視を受け、永田町の陰陽師にインタビュー。UFOを呼ぶ儀式に立ち会い、メンタリストに翻弄され、臨死体験者が作った「太古の水」を飲む。

 次から次へと“業界”の著名人が登場し、境界へ、さらに異界へと、著者を導いてゆきます。それなのに、どこまで踏み込んでも、取材の過程で驚くような体験をしても、やっぱり「わからない」オカルト現象。その「とらえにくさ」「割り切れなさ」から逃げられない。



 こうして待ちかまえると現象はなかなか起きない。人目を避ける。隠れようとする。ところが完全には隠れない。小出しにする。そして焦点を合わせようとすると消える。特に珍しいことではない。もうすっかり(悲しいくらいに)馴れてしまった。
 その意味では、木原たちが数日前に来たときに現象が起きなかったということも納得できる。そういうものなのだ。待ちかまえられると透かしたくなる。観察されることを嫌う。機材に故障を起こす。だからオカルト(隠されたもの)なのだ。

角川文庫『オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ』(森達也) p.156

 いわゆるオカルト現象に対する著者の立ち位置は、肯定派でもなく、否定派でもなく、かといって懐疑派でもありません。あえていうなら、困惑派ということになるでしょうか。ひたすら困惑し、迷い続けるのです。



 基本的には否定する。怪異だの心霊だのと呼ばれる現象のほとんどは、勘違いかトリックの類だと思っている。
 ただし「基本的には」だ。すべてではない。勘違いやトリックだけでは説明しきれないことがときおりある。ときおり起こる。多くの超能力者たちにかつて取材をして、その後も彼らとずっと付き合いのある自分の実感だ。

角川文庫『オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ』(森達也) p.167

 肯定するには根拠がなさ過ぎ、否定するには体験し過ぎている。だからいつまでも断定できず、ひたすら迷い続ける。著者はそんな曖昧な苦しさから逃れようとするかのように取材を繰り返し、さらに混迷を深めてゆきます。



 否定と肯定とが入り交じった感情でずっとオカルト的な現象に興味を持ってきた僕としては、「結局はトリックやイカサマだから」式のわかりやすい理路を当然のように主張されると、何となく不安になる。指の隙間から何かがこぼれ落ちているような感覚だ。とても微少だけど、でもとても大切な何かが欠落している。
 ただし、「よりによってそのときに」や「たまたまカメラが別の方向を」式の話法が、このジャンルにとても多いことは確かだ。(中略)ジャンルそのものが意思を持つのか、大きな意思が人から隠そうとするのか、あるいは人が無意識に目を逸らそうとしてしまうのか、それとも所詮はトリックやイカサマばかりだからなのか、それは今のところわからない。

角川文庫『オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ』(森達也) p.49

 取材を進めるうちに次第に境界に近づいてゆく感覚が生々しいのも本書の魅力でしょう。客観的に取材しよう、対象から距離を置こうとしながらも、気がつけば“巻き込まれていた”という実感がこもっています。

 日常がするりと滑って異質なロジックに支配されている領域に踏み込んでしまう感覚。視てしまった、体験してしまった者が感じるという、あの気分。それが濃厚に立ち込めていて、読んでいて何ともいえない異様な興奮を覚えます。



 見えては隠れる。「捉えにくい」のではなく、「捉えられる」ことを明らかに拒絶している。
 でもならば、拒絶するその主体は誰なのか。あるいは何なのか。超能力者その人なのか。彼らを包囲する僕たちの潜在意識なのか。天空から下界を見つめ続ける何らかの意思主体なのか。(中略)
 説明できないことや不思議なことはいくらでもある。確かにそのほとんどは、錯誤かトリックか統計の誤りだ。
 でも絶対にすべてではない。淡い領域がある。曖昧な部分がある。そこから目を逸らしたくない。見つめ続けたい。

角川文庫『オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ』(森達也) p.359、360

 全体的にはシリアスですが、あまり深刻になり過ぎないようにとの配慮からか、随所にユーモラスな文章が散りばめてあり、楽しく読むことが出来ます。単純にオカルト業界インタビュー集としても興味深く、またある種の伝奇ミステリ、あるいは異色冒険譚として楽しむことも出来ます。

 肯定/否定の論争に飽き足らず、オカルト現象のまわりに漂っている、あの“気配”あるいは“気分”に不可解なほど魅了されてしまう、という方には特にお勧め。骨太のオカルト取材本です。



『超常現象のとらえにくさ』(笠原敏雄:編)



 われわれの研究領域公認の目標は、サイを解明、予測し制御することである。ところが、公式の研究が百年近くにもわたって続けられてきたにもかかわらず、サイは相も変わらず神秘のヴェールに包まれている。事実、サイはわれわれの追求の手をきわめて巧妙にすり抜けてきたように見える。それがあまりにみごとに行なわれるため、サイの周辺に不明瞭な部分をある程度残そうとする力が裏で働いているのではないか、と考えてしまうほどである。あたかもサイは秘密を持っており、それを保持し続けようとしているかに見えるのである。

春秋社『超常現象のとらえにくさ』(笠原敏雄:編) p.199

 追いかければ逃げる、あきらめたら起きる、でも決して証拠を残さない。

 「決定的な証拠が得られない」という条件が整っているときにしか発現しない、それこそが超常現象の最も顕著で普遍的な特徴です。再現性が低いとか、発生条件が厳しいとか、そういった通常の概念ではとうてい説明できないほど、超常現象の「とらえにくさ」は本質的かつアクティブな効果らしい。

 本書は、サイ現象(透視、テレパシー、念力などのいわゆる超能力)を中心に、この超常現象の「とらえにくさ」に関係する代表的な論文を網羅的に収録した超心理学の基礎文献集というべき大作。1993年7月に春秋社より単行本が出版されています。

 まず印象的なのは、この「とらえにくさ」効果そのものを具体的に報告している論文です。



 何らかの検証や管理を行おうとすると、こうした現象はいつも減衰ないし消滅した。浮揚中の物体を撮影しようとするとカメラが“攻撃”され叩き落とされるか、不可解な故障を起こすかした。念力は“追いつめられる”と、記録装置を使いものにならなくしてその支配から逃れることを“決意”するように見える。あるいはまた、その記録装置に一時的な故障を“見つけ”その機会に乗ずることもある。

春秋社『超常現象のとらえにくさ』(笠原敏雄:編) p.422

 いざとなればカメラを物理攻撃することも辞さない超常現象。ここまでやっかいで強情な対象を研究する超心理学という分野においては、研究者は誰もがこの「とらえにくさ」への対処に苦慮しています。



 超常現象にとらえにくさという特徴のあることは、昔から研究者にはよく知られていた。また、そのためにこそ決定的証拠が得られないことも十分認識されていた。そこにJ・B・ラインが登場する。ラインがデューク大学で開始した統計的、定量的サイ実験は、ラインの創始になるものではなく、それまでの研究法を洗練させたものにすぎないが、いずれにせよこの方法は、超常現象のとらえにくさをある意味で巧みに回避した実験法となった。これは、個々の実験データのどれがサイによるものなのかを不明瞭化し、“どこか”に超常現象が潜んでいることが推定されるような形態のデータを、すなわちサイの存在の“状況証拠”を提出する実験法なのである。

春秋社『超常現象のとらえにくさ』(笠原敏雄:編) p.8

 巧みに逃れる超常現象に「あえて逃げ道を与える」ことで、その痕跡をとらえようとする、実にもどかしい超心理学研究。「なぜもっと白黒はっきり決着がつく実験をしないのか」と批判するのは簡単ですが、すでにお分かりの通り、超常現象はそういう状況では決して起きないのです。曖昧さや不正が入る余地を残すことでしか超常現象をとらえられない、そしてもちろん批判者からはそこを徹底的に叩かれるという、あまりといえばあまりの困難さ。そのようにして研究を続けた超心理学100年の歴史を、研究者たち自身はどのように評価しているのでしょうか。



 もし同協会(アメリカ心霊研究協会)の目的が「超心理学的ないしは超常的と呼ばれる現象の研究」であったとすれば、その目的が達成されたことは疑う余地がない。超心理学的探求は、同協会の100年の歴史とともに、間断なく前進を続けてきた。その探求は、他の分野の科学が享受している研究資金その他有形の援助を受けては来なかったし、科学界全体からは名目的に受け入れられている状況にすぎないけれども、努力を要するこの課題を遂行するのに必要な犠牲を進んで払う、勇気ある自立的研究者が存在しないことは一度たりともなかった。

春秋社『超常現象のとらえにくさ』(笠原敏雄:編) p.42


 超心理学という新しい科学は、今や定量的段階の入口に辿り着き、次の角を曲がれば超心理学のファラデーやマクスウェルが待っているところまで来ている。これから100年から300年の間に超心理学は、データベースや理論や応用において、今日の電磁気学と同じくらい洗練された段階に達するであろう。

春秋社『超常現象のとらえにくさ』(笠原敏雄:編) p.201

「目的が達成されたことは疑う余地がない」「次の角を曲がれば超心理学のファラデーやマクスウェルが待っている」。たいそう勇ましい言葉が並びます。ですが、スーザン・ブラックモアの手にかかれば、評価はこれこの通り。



 100年にも及ぶ長きにわたって研究が続けられてきた現在、超心理学に関してひとつだけはっきりしていることは、進展がほとんどなかったという事実ではないかと思う。サイに関して真の意味で再現可能な現象はひとつだけある。つまり、その非再現性である。この事実を真剣に受け止め、サイ仮説を基盤に置いた研究法がことごとく失敗してきたという事実をわれわれは認めなければならない。(中略)
 伝統的超心理学は、今や危機に瀕している。おそらくは、しばらくの間、退縮と保身とを続けることであろう。そして最後には、サイ仮説以外のものを残すことなく終止符を打つことになろうが、その段階でもまだ、非再現性だけは生み出し続けることであろう。

春秋社『超常現象のとらえにくさ』(笠原敏雄:編) p.184、186

 さすがブラックモア、辛辣そのもの。ですが、曖昧な状況証拠しか得られないようにあえて設計された実験を繰り返しても、批判者を納得させることは難しいというのは確かでしょう。

 では、この「とらえにくさ」にどのように対処するべきか。

 ひとつの興味深い戦略として「天然モノの超常現象だからこれだけ手強いのだ。養殖モノなら何とか手懐けることが出来るのではないか」という試みがあります。有名な“フィリップ実験”がこれに相当します。



 トロント心霊研究協会の会員グループが1972年に「“幽霊”を作りあげる試みを行う決定をする」までの経緯について述べている。このグループは、“フィリップ”という名前の、オリバー・クロムウェルの時代に暮らした架空のイギリス貴族を創作し、詳しい生活歴を作りあげた。グループは毎週集まり、瞑想的な方法を用いてフィリップの幽霊を創りあげようとした。(中略)まもなく現象を起こすのに成功した。テーブルが動いたばかりか、申し分ないほどの叩音も発生したのである。また、その叩音を用いて、フィリップという架空の人格と“交信”できることがわかった。

春秋社『超常現象のとらえにくさ』(笠原敏雄:編) p.416


 実験は1972年9月に開始されたが、1973年夏、叩音とテーブルの運動が初めて観察されるまでは、何の現象も起こらなかった。グループのメンバーは、驚嘆すべき忍耐と献身的態度とを示した。四年半もの間、実験を目的とした木曜日の夜の会合に、毎回ほとんど欠かさずに集合したからである。現在でもなおこのグループは、最初に“フィリップ”を創作した八名で構成されている。(中略)
 フィリップはまた、この時期に、さまざまな曲を演奏し、それに合わせて拍子を取るという能力を発揮し続け、そのレパートリーはかなり増えた。また、二月には、数多くの答えが部屋の中にある金属体から返ってきた。ある時には、天井の管に付いているブリキの受け皿の中で“ピン”という音が何度も発生した。ピンという音は、テーブルの金属製の縁や、会席者のパイプ椅子の座席の下側からも聞こえた。

春秋社『超常現象のとらえにくさ』(笠原敏雄:編) p.434

 人間が入念に作り上げた人工幽霊フィリップ君は、明るい場所でも、第三者が見ているときでも、割と親切に心霊現象を起こしてくれたようです。しかし、これだけ懐いていても、やはり決定的な証拠を残すようなヘマはしません。親しき仲にも礼儀あり。超常現象として守るべき一線というものがあるのでしょう。

 かくのごとく人智を超える強力な「とらえにくさ」効果。そもそも、いったいこれは何なのでしょうか。



 超常現象がとらえにくい原因は、人間の何らかの総意に基づく抵抗のようなものなのであろうか。つまり、何らかの理由で人類全体が、超常現象の存在を明確にするのを避けているのであろうか。(中略)それとも、人間以外の存在ないし力が、超常現象の実在を明確に知られないようにするため、その証拠を隠蔽しているのであろうか。そうだとすると、一部の人間を引き付けるような形でそうした現象をかいま見せるのはなぜなのであろうか。

春秋社『超常現象のとらえにくさ』(笠原敏雄:編) p.12

 超心理学者の苦悩は続きます。このまま研究を続けても展望が得られない、断念しようとすると気を引くかのように何かが起こる……。



 超常現象は、なぜこれほどまでにとらえにくいのであろうか。それは、大脳の半球優位性に何らかの関係があるのであろうか。それとも、量子力学的な不確定性原理と、ある意味で質的に共通した現象なのであろうか。あるいは、サイに対する恐怖心のために、サイの実在を裏付ける証拠が必然的にとらえにくくなってしまうのであろうか。もしそうだとすると、その恐怖心はどこに由来するのであろうか。あるいはまた、普遍的創造原理のようなものによって説明できるものなのであろうか。
 また、超常現象のとらえにくさにしても、人間の心の本質にしても、その解明は、これまでの科学知識の延長線上にあると考えられてきたが、本当にそう考えてよいのであろうか。(中略)従来の線に沿って研究を続けていても、超心理学や心霊研究が完全に消滅してしまうとは思われないけれども、さりとて、そうした研究を積み重ねて行けば自然と道が拓けるようにも思われない。ではいったい、どうすればよいのであろうか。

春秋社『超常現象のとらえにくさ』(笠原敏雄:編) p.749、751


「ほとんどの石を取り除いたときに残る玉のような何かを、我々は研究対象にしたいと考えています。(中略)グレイだけど、あるほうに賭けるというか。……あるとすれば貴重な研究対象ですから、ここで結論は出したくないという心情です」
「その根拠は?」
「実験中に起きた個人的体験です」
「どんな体験ですか」
 口もとに仄かな微笑を浮かべながら、石川は僕から視線を外す。
「……それはちょっと言えません。弱い現象です。だから科学者としては主張できない。個人の体験で止まっています」

角川文庫『オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ』(森達也) p.331、334

 超心理学の研究者たちの迷い、“体験してしまった”がゆえに断念できない苦しみ。サイ現象を信じる信じないに関わらず、彼らが抱えている苦悩については理解してあげたいものです。

 ところで、こういった問題はドキュメンタリー作家でも超心理学研究者でもない私たちには無関係なのでしょうか。

 そうは思いません。誰だって、どうしたって、人は超常体験をしてしまうもの。その性質について知識を得ることは「超常体験のせいで道を踏み外す、人生を狂わされる」というありがちな危険を避けることにつながるからです。

 例えば、あなたが超常現象を目撃して、他人にそのことを納得させようとしても、なぜか当然あるべき証拠が残っていない、あるいは証拠が行方不明になってしまう、といった体験をしたとしましょう。それを「何者かによる隠蔽工作」と解釈すると、パラノイアに陥ってしまう恐れがあります。そうでなく「証拠が残らないのは、まさにそれこそが超常現象の特徴だから」と納得した方がいいでしょう。

 同様に、あなたが宇宙人と遭遇したとしても、「地球外文明が私にコンタクトしてきた。これから人類文明に大きな変革が起きる」とか真面目に信じるのは危険なのです。遭遇相手が何を言おうと相手にせず、「これは超常現象の一種。だから証拠になるような決定的な影響は絶対に残らない」という立場をとることを強くお勧めします。

 まさにこういうところに、超常現象との健全な付き合い方のヒントがあると思うのです。





超常同人誌『UFO手帖5.0』に掲載(2020年11月)
馬場秀和


馬場秀和アーカイブへ戻る