シリーズ 超常読本へのいざない 第7回


『古代竜と円盤人』


馬場秀和




 超常本の堆積物に分け入って、肯定派、否定派、懐疑派、そのスタンスを問わず超常現象が好きな読者ならきっと誰もが気に入るに違いないお値打ちものを紹介する「シリーズ 超常読本へのいざない」その第7回。今回は、怪獣と円盤の怪しい関係に迫る二冊です。




 まずは皆さんおなじみオカルト論争の話題から。ごく簡単に図式化するなら、それは次の二つの主張の対立だといえるでしょう。

a. 宇宙人遭遇事件は真実だ。ゆえに地球には宇宙人が来ている。

b. 宇宙人遭遇事件は嘘か誤認だ。ゆえに地球には宇宙人は来ていない。

 ところで、オカルト界隈には上記どちらでもない主張があることをご存じでしょうか。それは次のようなものです。

c. 地球に宇宙人は来ていないが、宇宙人遭遇事件は真実だ。それはネッシー目撃などと同種の「現象」なのだ

 真=いる vs. 偽=いない、という二項対立は圧倒的に分かりやすく、したがってc.のようにねじれた主張をする人がオカルト番組にゲストとして招かれることはまずないでしょう。しかし、こういう意見の専門家は、実は少なくないのです。

 ここでは、c.のような立場で書かれた著作のうち、1970年代に発表された準古典的なものを取り上げます。個人的に最もお勧めなのは、1970年に発表されたジョン・A・キール著『トロイの木馬作戦』(邦題『UFO超地球人説』)ですが、こちらは特集で紹介されているので割愛し、その影響を受けたと思われる二冊を紹介することにします。




『古代竜と円盤人』(F・W・ホリデイ、和巻耿介:翻訳)


 少なくとも人類は1万5000年の永きに亘って、ドラゴンと円盤の存在を知っていたばかりか、両者を誰にもわかる方法で象徴的に結びつけてきたのである。この概念の寿命の永さは、人間が抱いた思考の中で際立っている。これほど永い伝統を持った考え方はほかにないのだ。いずれ判ってもらえることだが、あらゆる文明はこの考え方を中心に作られてきた。



 原題"THE DORAGON AND THE DISC"。

 原著の発表は1973年。同年に大陸書房より『古代竜と円盤人』の邦題で翻訳版が出版され、1997年に『奇現象ファイル』と改題の上でボーダーランド文庫(角川春樹事務所)から文庫版が出版されました。

 まず何といってもタイトルに惹かれます。原題が”D&D"なのもシャレがきいていますが、邦題『古代竜と円盤人』のインパクトたるや。キールの『四次元から来た怪獣』と並んで、個人的お気に入り大陸書房オカルト本タイトル大賞受賞ですよ。

 それに比べるとボーダーランド文庫版の方はそれぞれ『奇現象ファイル』『不思議現象ファイル』という正直ぱっとしないタイトルに変えられてしまった上、油断するとすぐにどっちがどっちだったか分からなくなるというのが悲しい。どこか豪気な出版社が「オカルト古典叢書」などと銘打って大陸書房版タイトルで復刊してくれたりしないかな。

 それはさておき、本書は基本的にはネッシー本です。ただし有名どころの目撃事件を並べてお茶を濁しがちな類書と違って、本書は著者であるホリデイ氏が調査し、インタビューし、そして自ら目撃した事例が収録されているのが素晴らしい。その調査範囲はネス湖にとどまらず、アイルランドの湖沼地帯にまで及び、そこで直接聞き取った貴重な目撃証言や、自ら実施した怪獣捕獲作戦の顛末など、オリジナル情報に満ちています。まずはネッシー本としてだけでもお勧めしたい。

 しかし、本書を他に類を見ない特異なオカルト本にしているのは、その先の展開。怪獣の謎を追ってゆくうちに、著者ホリデイ氏は奇妙なことに気づくのです。


 怪獣について、もしアイルランドから何か得ることがあったとすれば、かれらは池ぐらいの大きさの水中に長期にわたって出入りできることが明らかになったということだ。しかも、かれらは棲みついている鱒の数を減らすことなく、そうやっているのである。つまり、魚を捕食しているという証拠はないということだ。こういう考え方を進めてゆくと、ネス湖の場合にも疑問が出てくる。


 大型動物が棲息するにはあまりにも小さく、必要な量の餌がとうてい得られないような湖、というか池であっても、怪獣は出現する。では目撃されていないとき、彼らはどうしているのだろう。

 さらにホリデイ氏は「怪獣現象はわざととらえられないように生じているのではないかと思わせるような状況」に注目します。


 以上の報告でも判るように、モラー湖の怪獣はネス湖のそれとまったく同様に奇妙な動きをしていることは明らかだ。つまり観察物を記録するためのカメラも役に立たなかったし、かりに役立ったとしても、撮影者が不運に見舞われて機を逸するということになった。(中略)いかに捉えにくいかをまざまざと教えてくれるのは、その絶対的な瞬間にカメラが働かなくなるという場合だった。もしこれがある種の作用によって――事実、そうであるとしか思えないのだが――生じたことだったら、怪獣現象を一般の器官的動物と切り離してしまわなければならない。


 本書に登場するネッシー目撃事件のなかでも最も印象的なケースのひとつが、複数の監視カメラに見張られている水域のごく狭い「死角」領域、カメラにうつらないまさにそのピンポイントにネッシーが出現したというものです。なぜネッシーはこうまで巧みにカメラを避けることが出来るのか。

 怪獣が出現したときにかぎって故障するカメラ。カメラを持っていながら精神的に麻痺したようになって撮影できない目撃者。決定的な写真が撮られてもなぜか行方不明になるフィルム。多数の奇妙な事例を考えあわせて、ホリデイ氏は何かがおかしいことに気づきます。自分が追っているのは湖底に潜む未知の動物ではなく、全く別の現象ではないのかと。


 一方で、彼は、怪獣が大きな質量――船をひっくり返したり、オールを折ったりするほどの――をそなえた器官的動物であるとする出来事に頷かされる。
 同時に他方では、先に述べたように奇怪な現象を写そうとしたり、またそのフィルムを手に入れようとしても常に失敗に終わると、この現象は全然動物とは関係ないものではないのか、かりにあったとしても、他のいかなる生物にもまったく有り得ない因果関係の母体になっているものではなかろうかと考えるようになる。この二つの考え方は怪獣現象を生体的なものとしてとらえようとどうどうめぐりをしている人々を困惑させる。


 ネッシーは未知動物だという常識的な考えと、何か真に異常な現象が起きているという奇怪な考えの間で悩むホリデイ氏。そして彼はついに、ネス湖やアイルランドの湖で起きている現象と、よく知られている他の現象との顕著な類似性に気づきます。そう、UFO現象です。


 怪獣現象とUFO現象をひとつずつ比べてゆくと、多くの類似点が出てくる。両者共に形や色がさまざまに変わる。信頼するに足るそれぞれの目撃者が、怪獣の色は白、黄色、赤、緑色、黒だったと私に証言しているし、私自身も黄色と黒の実物を見ている。怪獣もUFOも共に普通の動物、たとえば犬などを大いに興奮させる。さらに両現象の物体は高速で移動すると伝えられている。(中略)疑いもなく怪獣から得られた音波反響と、これまた同様に疑いもなくUFOから得られたレーダー反応とは対をなしている。(中略)
 以上、考えてみるに、怪獣とUFOはなんらかの形でつながっているのではないかということを研究すべき段階にきている。現象本体の追究を挫折させようとする異常な原因の続出が、両現象を通じて報ぜられているのである。


 もしもネッシーがUFOと同じく「目撃され、探知機にエコー像を残すものの、実体は決して捕獲されない」オカルト現象だとすれば……。

 この仮説からスタートして、ホリデイ氏は古代文明の遺物に刻まれている紋様に注目します。そこにしばしば描かれている円は、考古学者がいうような「目」や「太陽」のシンボルなんかではない、これは明らかに「空飛ぶ円盤」じゃないか。そして同じくらい頻繁に登場する怪物のモチーフ、これは「ドラゴン」だ。そう、古代人は円盤とドラゴンが同じものだと知ってたんだよ、そして人類のあらゆる文明はこの考えを中心に作られてきたんだ!

 な、なんだってー!!

 ところでUFO神話に詳しい皆さんなら、このように「真実に気づいてしまった研究者」にその後何が起きるのかをよくご存じのことでしょう。

 そう、黒服の男たちがやってきて「気をつけたほうがいい。このまま研究を続ければ、正気か、悪くすると命を失うことになる」などと“警告”をよそおった脅迫をしてくるのです。逆にいうと、もしネッシー研究者がそういう脅しを受けたなら、それこそがUFO現象とネッシー現象が同質のものだという確固たる証拠になるはず。そして、信じがたいことに、実際にホリデイ氏のもとにその手の“警告”が……。


 謎の追究に三十年以上も没頭しているアメリカのジャーナリスト、ジョン・A・キールは“謀略”説を唱えている。彼は私にこう警告した。
「ネス湖調査には万全の注意を払いたまえ。われわれは“先方の”ルールでおこなわれているに違いない一連のゲームに引きずりこまれているのだ。こっちのルールをつくろうとしたり、基本形をこわそうとする者は、正気を失うばかりか、一命を失うこともある」


 キール、お前かぁー!

 というわけで、現場で未知動物を追っていたはずの堅実な研究者が、怪獣と円盤の怪しい関係に気づいてしまい、いきなりキールからデニケンまで突っ走ってゆくライブ感あふれる異色のオカルト本。前述したようにネッシー本としても面白く、また70年代に広まったオカルト観の新しい波に研究者がはまってゆく過程を内側から記録したレポートとしても、興味深く読むことが出来ます。




『フェノメナ 幻象博物館』(J・ミッチェル、R・リカード、村田 薫:翻訳)


 不思議な飛行物体、陸や海の怪物、宇宙人などは、夢の中に現れる原型的存在であり、また、あらゆる神話やおとぎ話に登場する。が、ときにそれらは、幻象となって現れ、目撃した人間に衝撃と驚きを与える。(中略)幻象界の実在を裏付けるようなゆるぎない証拠がきわめて稀れであるという特徴は、本書に収載した諸幻象の記録にいちじるしく表れている。あるいは、その特徴こそが、幻象界をうかがう最良の手がかりかもしれない。おそらくその背後に何か意図が秘められているのだろう。



 原題"Phenomena: A Book of Wonders"。

 原著の発表は1977年。1978年に創林社より『フェノメナ 幻象博物館』の邦題で翻訳版が出版され、1979年にはカバーデザインを変えた『新装版 フェノメナ 幻象博物館』が出版されています。1987年には北宋社より『フェノメナ 怪奇現象博物館』として出版されました。

 本書は多種多様な奇現象、いわゆるフォーティアン現象を集めたカタログのような一冊。収録されている奇現象のごく一部を並べてみると次のような感じです。

 岩の中から生きたまま出てきたカエル。サンダルで踏みつぶされた三葉虫の化石。空から降ってきた奇妙なもの。屋根をすり抜けて落ちてくる小石。涙を流す聖母像。光る人。電気を発する人。自然発火する人。見えないものから攻撃された人。繰り返し雷に打たれた人。野獣に変身する人。騒霊(ポルターガイスト)。謎めいた動物の屠殺。奇怪なロープ魔術。タイムスリップとテレポート。不可解な失踪。不思議な発光体。空中浮遊。念写。稲妻の閃光で焼き付けられた画像。壁に浮き出てくる顔。呪われた物品。砂漠を勝手にうろつく岩。ありえそうもない偶然の出来事。海で失くし戻ってきた指輪。妖精写真。魔物的黒犬。いるはずのない場所で目撃される大型獣……。

 子どもの頃、書店にはこういう奇現象や奇譚を集めた本がいっぱい並んでいたし、また子ども向け雑誌でもこういう記事は定番で、いつもドキドキしながら読んでいました。何もかも懐かしい、と思う方にお勧めの一冊。

 本書の面白さは、UFOやネッシーなどメジャーなオカルトトピックよりも、むしろ空から降ってくる奇妙なもの(いわゆるファフロツキーズ)といった通好みの奇現象に多くのページを割いていること。

 さらに本書の特徴として、著者たちが「幻象論」と呼ぶ独特のオカルト観を主張していることが挙げられます。


 目撃や遭遇の報告があるにもかかわらず、科学的な証明を得られぬ存在を、私たちは「幻象界における実在」と称する。(中略)物質的実在の次元と心理的な次元の中間に幻象的存在の次元がある。



 鬼火、幽霊、謎の動物、不思議な発光体、黒犬獣、妖精――いずれも本書の各項目の主題である。そして、私たちが幻象界と名付ける、物質的世界と心理的世界の中間に存在する未知の領域の産物である。科学の基盤である物質的世界の観点からは、この種の存在を解明することはできない。現れて目に見えるのは幻象界の影にすぎない。私たちは、その影である超自然的現象を分析して、幻象界の物質界への現れ方を類推しうるのみだ。



 ある幻象に強い関心を抱く者と発現する幻象の間には、不即不離の関係がある。(中略)
 現代の物理学者たちは、古代人の哲学を反芻し始めている。それは、観察という行為そのものが、観察の対象に影響を与えるということである。そして、知覚は強力な創造に他ならない。いいかえれば、知覚の中で主観的現実と客観的現実が結合し、ある認識を創造するのであるが、(中略)客観的現実、心理的現象の境界を明らかにすることは難しく、恣意的で偏狭な方法に拠らざるをえない。この現実と、心理的現象の融合する場は、実質的に探求されたことのない中間領域である。


 宇宙人、ネッシー、妖精、ビッグフット。超常現象において目撃されるものたちは物理的な意味で実在しているわけではなく、存在と非存在の間、著者たちが「幻象界」と呼ぶ領域から、一時的に物質界に投影された影のようなもの。そしてそのような「幻象」がどのような形をとるかには、目撃者の心理が強く反映される。これが幻象論の考えです。

 さきほど「独特のオカルト観」と書きましたが、幻象論はそれほど独特なものではなく、フォートはもとより、同時代のキールやホリデイの主張とも、大まかにいって共通していることに、すでに皆さんお気づきのことでしょう。

 実際、本書にはキールとホリデイの著作から多数の引用がなされています。前述したホリデイの著作にキールとのやりとりが書かれていたことと考え合わせると、70年代における超常現象研究界の片隅で、複数の研究者が互いの成果を参照し合いながら、こういったオカルト観を育てていたことがよく分かります。

 幻象論のようなオカルト観が真実に近いのかどうかはともかく、少なくとも精神衛生上は望ましいものだといえるのではないでしょうか。いざというとき、幻象論はあなたの正気を救うかも知れないのです。

 たとえばあなたが宇宙人に遭遇したとしても、それは決して異星文明の使者などではなく、この物質界に一時的に投影された影のような「幻象」に過ぎません。どんなに宇宙人らしくふるまったとしても、そいつに自意識や記憶はないし、たとえそいつが何を言おうと、それはあなた自身の無意識が反映された“たわごと”に過ぎないのです。耳を貸す必要はありません。

 遭遇している間だけ存在しているかのようにふるまう「幻象」。終われば幻のように消えてしまう「幻象」。あなたの体験がまぎれもない事実であっても、その体験が終了したら、すべてはなかったことになります。その後もあなたを見張っている宇宙人などいないし、それをいうなら湖底に潜む怪獣もいない。あとくされというものがないのです。だからあなたは安心して日常に戻ることが出来ます。そう、退屈かも知れないが、正気にみちた日常生活に。

 少なくとも、次に何かありえないものに遭遇してしまう、そのときまでは。


 私たちは、幻象論がもっとも適切な世界観であると信じている。なぜなら、自然は、狂気さながらに羽ばたく想像力に匹敵するほど異常な要素をはらみ、気違いじみた夢想がどんな理論をつむぎだそうと、それを裏づけるような幻象を現出させてくれるからである。このことを理解していれば、狂人や奇人などにならずにすむのではなかろうか。






超常同人誌『UFO手帖6.0』に掲載(2021年11月)
馬場秀和


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