『白のクイーンとピンクのユニコーン』


馬場秀和


注:本稿は『UFO手帖6.0』の特集「ジョン・キールとトロイの木馬作戦」のために書かれたものです。




 ジョン・A・キールが提唱したUFO超地球人説(ウルトラテレストリアルズ)。名前はよく知られている割に、少なくとも日本のUFO界隈における評価は、決して高いとはいえないようだ。日本で書かれた一般向け書籍をいくつか読んでみても、超地球人説の紹介にはどこかネガティブな、あるいは困惑したような表現が並ぶ。


「いささかとんでもない仮説」(映画『プロフェシー』パンフレット)

「急進的な異端分子」(『プロフェシー』翻訳者あとがき)

「独自の世界観」(『図解 UFO』)

「キール自身も信じていなかったのではないか」(『UFO事件クロニクル』)


 えらい言われようである。どうやら超地球人説は「キール独自の馬鹿げた思い付き」と見なされているようだ。

 しかし超地球人説は本当に馬鹿げているのだろうか。というか、まあ、とりあえず馬鹿げているのは認めるとして、では具体的にどこがどう馬鹿げているのだろうか。

 本稿はそこを大真面目に考察するものである。


 ではまず「超地球人説とは何か」の再確認からスタートしてみよう。

 実は、これが意外に難しい。というのもキールの著作を読んでも曖昧なほのめかしに煙に巻かれるばかりで「超地球人説とは結局何なのか」がよく分からないのだ。

 そこで、ここでは『UFO超地球人説』の翻訳者あとがきに書かれている次のまとめを出発点としたい。


――――
ESP(超能力)、心霊術、オカルト、ポルターガイストなどを含む全体の一部としてUFOが存在するのだという結論に達する。UFOは外宇宙や地球外からの訪問者ではなく、地球上のわれわれと異なる時空連続体に住む超地球的存在のしわざによるのだ、というのが著者の主張である。
――――
『UFO超地球人説』(ジョン・A・キール:著、巻正平:翻訳)
「訳者あとがき」より


 これをみると、超地球人説は二つのパートから構成されていることが分かる。前半の「UFOは超常現象全体の一部」が背景となるオカルト観、後半の「UFOは(地球外起源ではなく)超地球的存在のしわざ」というのがキールが独自に追加した部分、いわばキールアドオンである。

 これを踏まえて、本稿ではまず「超地球人説の背景となるオカルト観は、決して馬鹿げてはいないし、キール独自の主張でもない」ということを示す。その上で、独自に追加されたキールアドオンが、なぜ馬鹿げているように感じられるのかについて考察する。

 なお、本稿において、記号の添え字 n は任意の自然数(1,2,3,……)を表し、0 は含まないものとする。




1.白のクイーン


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 アリスは笑いました。「やってみてもむだです」とアリス。「ありえないことは信じられないもの。」
「まだまだお稽古が足りないのね」とクイーン。「わたしがあなたの年ぐらいだったころには、毎日三十分はお稽古しましたよ。そう、朝ごはん前に、ありえないことを六つも信じたことだってあります。」
――――
『鏡の国のアリス』(ルイス・キャロル:著、河合祥一郎:翻訳)
「第5章 ウールと水」より


 人類が太古の昔から超常現象を体験してきたことは間違いない。だがその説明理論は多くの場合ごく単純なものであった。つまり「超常現象は悪魔のしわざである」といった理解で事足りていたのである。悪魔、あるいは各文化圏においてそれに相当する魔物は、人間を堕落させるために、信仰心を弱めるために、または単に自分の楽しみのために、超常現象を起こして人間を翻弄するのだ。

 だが時代が下り自然科学が発展するにつれ、このような説明は次第に受け入れ難くなってゆく。代わって普及したのは、因果律に基づく説明だった。ここでいう因果律とは「どんな現象(結果)にも(物理的な)原因が存在する」といったものだ。

 因果律は自然科学の基礎となるもので、多くの場合、とても有用だった。例えば、疫病を「呪いや瘴気のあらわれ」と捉えるのではなく、「原因となる何かが物理的に存在し、それが病人から健康な人に移動することで、病気という結果が起きるのだ」と考える。すると、原因すなわち“病原体”の正体が分からない段階でも、とりあえず「原因-結果」連鎖を阻止すれば発症を防ぐことができると予想される。実際、手洗いによる防疫は、病原体の正体が明らかになるよりもずっと前に提唱されたのである。

 超常現象の研究においても因果律という世界観は強固な基盤となった。あらゆる超常現象の背後には、それぞれ対応する原因が(客観的・物理的な意味で)実在している、というわけだ。

 未知の原因Cが存在し、それが超常現象Aを引き起こす。このような考え方を本稿では便宜的に「自然科学的オカルト観」と呼ぶことにする。これをあえて形式ばって記述すると、次のようになるだろう。


【自然科学的オカルト観】
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 この世には複数の未確認実体Cn(C1, C2, C3, ……)が客観的・物理的な意味で実在しており、それが超常現象An(A1, A2, A3, ……)の原因となっている。適切に分類するなら、CnとAnは1対1に対応する。そしてこの「Cn-An」ペアが構成する鎖素子は互いに独立している。

 超常現象研究の目的は、Cnの実在をひとつひとつ証明し、その性質と、それがAnを引き起こす過程を明確にすることである。こうすることで、Anは超常現象ではなく「新たに解明された通常現象」になるであろう。

 最終的にはすべてのCnが理解され、すべてのAnが通常現象となり、この世に真の意味での超常現象はなくなる。これが超常現象研究の究極目標である。
――――


 例えば、C1を「地球に来ている宇宙人」だとすると、A1は「UFOやその搭乗員との遭遇事件」ということになる。同様に、C2を「ネス湖に棲息する未知の大型動物」だとすると、A2は「ネッシー目撃事件」になるというわけだ。「Cn-An」ペアが構成する鎖素子は互いに独立しているというのは、つまりネッシーはUFOを飛ばしたりはしない、ポルターガイストの活動とビッグフットの生態は無関係、という意味である。

 これはごく自然な発想だし、合理的な考え方だといってもよい。想定通りCnの実在がひとつひとつ証明されていったなら、自然科学の輝かしい勝利とみなせるだろう。

 ところが困ったことに、いくら超常現象の研究を続け、事例Anの調査を精力的に進めても、なぜかCnの解明にはつながらなかった。事例Anに関する調査報告書が何十件、何百件、ときに何千件も積み上げられようと、Cnの実在が証明されるどころか、その実態はどんどん曖昧になってゆくばかりだった。宇宙人も、ネッシーも、ビッグフットも、超能力も、妖精も、何もかもである。

 それに加えて、研究が進み事例が増えるにつれて、複数の超常現象に共通する問題が明らかになっていった。「Cn-An」ペアが構成する鎖素子は互いに独立しているはずなのに、あちこちの分野でなぜ同じ問題にぶつかるのか。研究者は大いに悩むことになったのである。ではその共通問題について見てみよう。


 まずは「オフタイム問題」。

 ちょっと考えてみてほしい。地球に赴任してきた宇宙人の皆さんは、UFOに乗って飛び回っている(ときおり着陸して船外活動に従事する)とき以外の時間、つまりオフタイムには、いったいどこで何をしているのだろうか。

 もちろんUFOを定期的にメンテナンスして、燃料だかエネルギーだかを充填する作業は必要だし、そのために巨大な整備工場があるだろう。搭乗員やスタッフの生活を支える居住施設も必須だ。指令本部、医療施設、教育訓練施設、文化娯楽施設等も、むろん必要になる。ガス・水道・電気・通信などインフラも整備しなければならない。UFO事件の発生件数、頻度、継続状況から推測して、地球には少なくとも数万人の宇宙人が恒常的に暮らしている秘密都市がなければならない。

 こういう話をしていると、意地の悪いUFO研究者がやってきて「ゴミ出しはどうなってるの?」とか突っ込んでくるのだ。


――――
「だれがゴミを回収するんだろう?」
 みんなは驚いて私を見つめた。
 墜落した円盤や政府による秘密隠蔽について議論するときには、ある種の暗黙のエチケットを守らなければならない。(中略)質問はつねにエイリアンの哲学的態度や、彼らの宇宙での目的といった、高尚な話題についてでなければならず、彼らの存在に伴う現実的な話題は避けねばならないのだ。
「ねえ、的を射た疑問だろう? だれがゴミを集めるのかなあ?」私はくり返した。「君たちはいま、ニューメキシコの下にマンハッタンくらいの大きさの街があるといったよね。彼らは水も必要だろうし、個体の廃棄物も出すだろう。あたりの環境に大きな変化が起こるはずだ。その形跡はどこにあるんだい?」
――――
『人はなぜエイリアン神話を求めるのか』(ジャック・ヴァレー:著、竹内慧:翻訳)
「第3章 エリア51」より


 ねえ、的を射た疑問だろう。要するにこういうことだ。真面目に考えれば考えるほど、宇宙人は目撃されるとき(オンタイム)には間違いなく存在しているのに、そうでないとき(オフタイム)にはどうも存在しているとは思えなくなってくるのだ。

 同様のことは、ネッシーについてもいえる。目撃事例の継続性から考えて、ネッシーは世代交代を続けられるだけの規模の群れ、具体的には数十頭の群れで棲息しているはずである。ところがネス湖にはそれだけの頭数の大型動物の群れを支えるだけのバイオマス(食料)がないことが分かっている。つまりネッシーは目撃されるときには元気に泳いでいるが、それ以外の時間は死んでいる。少なくとも捕食も新陳代謝も繁殖もしていない。

 それから、体重100Kgを超える大型動物は毎日毎日大量の排泄物を出すはずなのに、ビッグフットは排泄物を、それをいうなら唾液の付着した食べかけ食料など検査の対象となる物証を残さない。医学や脳科学がいくら進歩しても超能力をつかさどる脳の部位や器官は見つからない。そういった器官は超能力が発動するときだけ出現し、それ以外のときは消滅しているとしか考えられない。

 こうして研究すればするほど、どのCnにも「超常現象Anを引き起こしているとき(オンタイム)には存在するのに、そうでないとき(オフタイム)には存在していない」という困った性質が備わっていることが明らかになってゆく。こうなると、Cnは「客観的・物理的に実在している」という前提はひどく怪しくなる。

 「文化追随問題」について考える際にも、Cnの実在性への疑念は無視できなくなる。ここでいう文化追随とは、超常現象の形が、目撃者の知識や文化的背景の影響を受ける傾向のことだ。

 例えば、大昔のUFOは空飛ぶ帆船の形をとっていた。そこから錨が下され、搭乗員が降りてきて、水を要求するのだった。近代になるとUFOは飛行船の形となり、そこから搭乗員が降りてきて水を要求した。さらに後には幽霊ロケットとなり、やがて宇宙船(円盤)の形になり、そこから搭乗員が降りてきて、水を要求するのだ。

 このようにUFOには、目撃者が想像する“ちょっと未来の乗物”の形をとる習性がある。搭乗員も、妖精、異邦人、外国の発明家、金星人、外星人、というように、時代ごとに目撃者にとって納得しやすい距離感をとりつつ変遷してきた。どうやら私たちは、どこかの星の工場で建造され製造番号がつけられた乗り物やその操縦免許証を持ったパイロットたちと遭遇しているのではなく、目撃者の想像力にあわせて外見を変幻自在に変える現象を体験している、ということになりそうだ。

 一方、UMA目撃事例の地理的分布を調べていた研究者は、結果に困惑気味だった。UMAが実在する未確認動物であれば、目撃事件の分布は地形や気候や生態系と相関するはずである。ところが実際には、目撃されるUMAの種類は、その土地の住民の文化的背景と顕著に相関していたのである。

 キリスト教文化圏で目撃されるUMAは巨人とドラゴンが圧倒的に多い。例えばビッグフットとネッシーがそれだ。巨人とドラゴン、といえばもちろん聖書に登場する二大モンスターである。一方、日本におけるUMA目撃数のトップは、いくらヒバゴンやクッシーが頑張っても、やはりツチノコ。そしてツチノコの由来は日本神話(『古事記』『日本書紀』)に登場する土着神なのだ。このように目撃されるUMAの姿は、地元住民の基層文化(神話、宗教)に追随している。

 複数の超常現象Anに共通して文化追随が見られるとなると、それぞれの原因Cnが「独立している」「物理的に実在している」という前提は受け入れ難くなってくる。むしろ超常現象Anとは、体験者の知識や文化的背景に合わせて外見を変える現象だ、という方が説得力がある。

 そして最後に「白のクイーン問題」。

 『鏡の国のアリス』のなかで、「ありえないことは信じられない」と当然のことを言ったアリスに対して、白のクイーンは「それは修業が足りないから」と言い放つ。そして自分は幼いころから練習してきたから「朝食前にありえないことを六つも信じたことがある」と謎のマウントを取ってくるのだ。

 修業を積んだ白のクイーンなら、幽霊も、超能力も、妖精も、タイムスリップも、テレポートする黒犬でさえ、何でも信じることができるだろう。しかし、数はやはり問題だ。報告されている超常現象のカテゴリ数、すなわち n の最大値はおそらく数十、あるいは百を超えるかも知れない。しかもその数は時代と共に増えているのだ。

 確かに自然科学は万能ではないし、私たちは傲慢にならないよう自戒しなければならない。それでも、今日のように発達した自然科学が、少なくとも日常的なスケールにおいて何がどうして起きるのかだけでなく何がどうして起こりえないのかを基本法則から説明できる段階に達して久しい自然科学が、ここまで多くの説明不能な事実を見逃しているなどということが、本当にあり得るだろうか。さらに問題なのは数だけではない。Cnのなかには、もしも実在するなら、自然科学の体系が根底から破壊されるほど高いレベルで「ありえないこと」がいくつも含まれているのだ。

 これほど多くの高レベル「ありえない」Cnの実在を前提にするというなら、それは事実上、これまでに積み重ねられてきた自然科学の成果をすべて虚妄と主張するも同然ということになる。ここまでくるとそれは寛容さでも謙虚さでも開かれた心でもなく、単に不誠実で無責任な態度ではないだろうか。

 超常現象研究を科学にするという気高い志を持って打ち立てられたはずの自然科学的オカルト観が、皮肉なことに、実質的に自然科学を否定する立場に近づいてゆく。これは深刻な問題だった。

 「オフタイム問題」「文化追随問題」「白のクイーン問題」。

 だがこれらの難問にぶつかっても、実のところ、ほとんどの研究者はあえてそこから目をそらすことを選んだ。というのも、もしもCnが実在しないと認めるなら、それに対応するAnの報告はすべて嘘か間違いということになり、実際に現場でAnの数々を調査してきたベテラン研究者ほど、そんな結論は受け入れがたかったからだ。

 しかし、少数の研究者はこう考え始めていた。Anの真実性とCnの非存在は、必ずしも矛盾しないのではないか。宇宙人やネッシーの目撃事件がまったくの真実でありながら、しかし宇宙人もネッシーも実在しない、この二つを両立させることは出来ないものだろうか……。

 ときは1960年代後半。超常現象研究界にはパラダイムシフトが近づいていたのである。




2.ピンクのユニコーン


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「この手の事例は、おそらくひとかたまりの現象として捉えるべきなんだよ。(中略)体験する出来事がどれだけ派手だろうと、“現象”であることに変わりはない──多分な」
「それじゃ、現実と区別できないですよね?」
「複数人が同時に体験するとなると、なおさらだな。(中略)外的な知覚表象が、知覚したままの存在でないとしたら、認知のプロセスで何か妙なことが起こってるんだ」
――――
『裏世界ピクニック ふたりの怪異探検ファイル』(宮澤伊織)
「ファイル4 時間、空間、おっさん」より


 1970年代は人文科学にとって革命の季節だった。複数の研究分野において地殻変動にも匹敵する大きな動きが相次いだのである。それらをまとめると「実証主義に対する解釈主義の台頭」ということが出来るだろう。

 これまで客観的に実在するという前提となっていた数々の研究対象が、実のところ、異文化理解不足、ジェンダー偏見、認知バイアス、政治的圧力、権威主義などによって、研究者が属するコミュニティのなかで形成されてきた思い込みに過ぎないという報告あるいは告発が相次ぎ、多くの研究分野が大きく揺さぶられることになった。


――――
 とりわけ1970年代以降は、それまで主流であった「実証主義」的な方法論への批判から、「解釈主義」など、個性記述的な方法論を支持する学派が、人類学、社会学、政治学などで活気づき、一大勢力を作りました(「言語論的転回」とも呼ばれる)。そのような経緯ゆえ、社会科学内部の多様性は増しています。

 実証主義(positivism)においては、自然科学とほぼ同じように、社会現象は研究者の意図にかかわらず事実として実在すると捉えられます。そして研究者は、研究対象を客観的な立場から、価値中立的に捉えられるという仮定のもとで調査を行います。(中略)

 対して、解釈主義(interpretivism)では、ほぼその逆の考え方を取ります。すなわち、世の中の社会現象は、我々の知識や解釈と独立には存在しておらず、認識し解釈することが事実を作り上げていくとみなすのです。そのため、自然科学的な中立性で人間社会を捉えることはできないとの理解がなされます。
――――
星海社新書『文系と理系はなぜ分かれたのか』(隠岐さや香)より


 このような「社会現象は我々の知識や解釈と独立には存在しておらず、認識し解釈することが事実を作り上げていく」という解釈主義のテーゼは、超常現象研究界にも大きな影響を与えたのである。

 これまで基本的に「人間とは無関係に起こる自然現象の一種」と捉えられてきた超常現象は、次第に「体験者の認識と解釈によって作り出される社会現象」と見なされるようになっていった。超常体験者はたまたまそこに居合わせた傍観者ではなく、超常現象というものを構成する中心的な役割を果たしている、と考えられたのである。

 未知の原因が超常現象を引き起こす、のではなく、超常体験者が解釈によって「原因」を社会的に作り上げていく。このように考えるとき、超常現象は「自然科学の研究対象」から「人文科学の研究対象」に変わったといえるだろう。そこで主要な関心事となるのは、体験者による超常現象の「解釈」、そこに含まれる「オカルトミーム」、それを拡散する「マスメディア」、それら全体から構成される「文化的フィードバックループ」、といったものである。

 今日から振り返って見れば、これは「あらゆる超常現象は全体としてひとつのもの」「超常現象は体験者から独立した事象ではなく、体験者の無意識の働きが投影されているもの」というチャールズ・フォートやカール・ユングらによる古典的オカルト観の上に、解釈主義、メディア論、ミーム学など、70年代から盛んに論じられるようになった概念を盛り込んでアップデートした新しい波だった、ということになる。

 本稿ではこれを便宜的に「人文科学的オカルト観」と呼ぶことにする。ただしその詳細は研究者によってまちまちであり、これが定説というような確固たる統一見解はないようだ。ここでは分かりやすさを重視して、あえて後の時代の議論も織り込んだ上で整理しておこう。


【人文科学的オカルト観】
――――
 この世にはときおり超常現象A0が起きる。それは体験者の解釈によって変幻自在に姿を変えるものである。

 超常現象A0の体験者は、無意識のうちに、自身の知識や文化的背景として持っているオカルトミームCnを使って、自身にとって納得しやすい形やストーリーを持った超常体験Anを作り上げる(「解釈」する)。超常体験Anとは、体験者の「解釈」を反映した超常現象A0の具現化であり、あくまで実際に起きている現象なので、複数の目撃者がいたり、物理的痕跡を残すこともある。

 超常体験Anが報告されると、それはマスメディアによって多くの人に伝搬され、同時にそれに含まれるオカルトミームCnも複製され拡散される。十分に普及したCnは、映画やドラマなど娯楽作品に題材として取り上げられるなどして大衆文化に根付き、現代の神話として機能するようになる。

 その後に超常現象A0を体験する者は、よりオカルトミームCnと整合性の高い超常体験Anを作り上げる(「解釈」する)。このようにマスメディアを介したCn-Anの文化的フィードバックループによりCnはますます大衆の想像と期待に沿った形になってゆく。すなわち人為淘汰によるミームの“進化”が起きる。

 超常現象研究の目的は、このようなAnとCnとマスメディアから構成される文化的フィードバックループが具体的にどのように機能しているのかを個々に解明することである。

 原則としてA0自体は研究対象にはならないが、人類の多様なオカルト文化がどのようにしてA0から生じるのかを理解することが、超常現象研究の究極目標である。
――――


 例えば、宇宙人が地球に来ていなくとも、宇宙人との遭遇というオカルトミームC1が大衆に共有されているなら、宇宙人遭遇事件A1は実際に起きる。そこに登場する宇宙人遭遇ミームC1には人為淘汰による“進化”が働くから、当初はロボット型だったりアメーバ型だったりカエル型だったりと混乱していたC1の姿も、宇宙人遭遇事件A1が繰り返されるうちに、次第に人気と知名度の高い姿(例えばグレイ型)に収斂してゆく。

 このようなオカルト観を受け入れると、これまで悩んできた問題があっさり解決することに一部の研究者たちは気づいた。

 「オフタイム問題」は、そもそも宇宙人もネッシーもミームすなわち複製単位となる情報に過ぎないので、オフタイムに物理的に存在しないのは当然のことである。だがミームは強力だ。現実に起きるAnの形を左右するという意味で、オカルトミームCnは、少なくともオンタイムには、存在しているのと同じ影響力を持つ。

 「文化追随問題」もCnというミームを反映させてAnの形が決まるという構造から説明できる。超常現象の外見が、目撃者の知識や文化的背景の影響を受けるのは当たり前だ。というより、文化追随こそまさに人文科学的オカルト観の強い根拠のひとつだといってよいだろう。

 そして「白のクイーン問題」。もちろんオカルトミームCnの数はいまや問題ではない。それは人類のオカルト文化の多様性を示しており、多い方がむしろ望ましい。より重要な論点として、多数の高レベル「ありえないこと」を仮定しなければならない自然科学的オカルト観に比べて、人文科学的オカルト観の方が恣意的な仮定が圧倒的に少ない、ということがいえる。後者が仮定しているのは超常現象A0の存在、ただひとつだけだ。思考節約の原理からすると、はるかに優位だといえるだろう。

 こうして、一部の研究者たちは、ただひとつの仮定A0を置くだけで、ついにAnの真実性とCnの非存在を両立させることに成功したのである。その意義を理解した他の研究者たちは、雪崩を打って自然科学的オカルト観から人文科学的オカルト観へとパラダイムシフトした、かというと、実はそうはならなかった。多数派の研究者たちは、まさにそのひとつの仮定、A0を痛烈に批判したのだ。

 A0は反証不可能な万能仮説であり、したがって無意味である。「うちの納屋には見えざるピンクのユニコーンがいる」という主張と、どう違うというのか。

 ちなみに「見えざるピンクのユニコーン」は反証不可能な主張の戯画として、主に有神論者やオカルト信者を批判あるいは揶揄する文脈で用いられるたとえである。ピンクのユニコーンは見えないがピンク色で、触れないという属性があり、重さや体積を測定できないという本質を持ち、そして確かに実在している。それを否定するならエビデンスを示せ……。

 反証不可能な「見えざるピンクのユニコーン」であるかどうかはともかくとして、やはり因果律を無視して何の原因もなく起きる超常現象A0という考えはどうにも居心地が悪い。新しい波を受け入れた研究者も、A0を擁護したいという感情に駆られてか、A0を引き起こす原因C0を提唱するようになった。

 そもそもA0そのものがかなり思弁的な仮定であるのに、さらにその原因C0となると、ほぼ寓話という位置づけにならざるを得ない。C0がたとえ馬鹿げているとしても、それは寓話としての説得力が欠けているだけで、もともとのオカルト観=人文科学的オカルト観が馬鹿げているわけではないことをここで強調しておく。

 では、これまでに提唱されたC0の数々をざっと見てゆくことにしよう。

 まず、C0は私たちの内にあるという説。しばしば「集合的無意識」「精神投影」といった用語が用いられる。A0は人類全体の集合的無意識C0が生み出す超常現象のアーキタイプであり、個々の超常現象は目撃者の無意識がA0に精神投影されて形作られたAnである、といった主張がなされることが多い。

 次に、この世界というか現実はもともとボクたちが思ってるようなものじゃないんだよ、という説が色々ある。例えば「マルチヴァース干渉」説においては、この現実とは異なる現実が無数に存在しており、ときおり部分的に交差することがある、その交差領域に入った人が超常体験をするのだという。

 この方面で話題になることが多いのは「シミュレーション仮説」だろう。この現実は、私たちの意識を含む森羅万象すべてが、より上位の現実において稼働するコンピュータ上で走っているシミュレーションに過ぎない。そして、すべてのソフトウェアがそうであるように、森羅万象シミュレーションにもバグがある。そのバグが顕在化したとき、デーモン(メモリ上に常駐してバックグラウンドで動作するプロセス)がそれを修復する。その修復過程に巻き込まれた意識が超常体験をするのだ。

 かつて「超常現象は悪魔のしわざである」という理解で事足りていた私たちが、数百年におよぶ科学とテクノロジーの急激な発展の末に、ついに「超常現象はデーモンのしわざである」という世界観にまで到達したのかと思うと、人類の輝かしい進歩に感銘を受けざるを得ない。

 そして、C0は私たちに対して外から仕掛けられた意図的干渉だという説がいくつかある。よく知られているものとしては、ジャック・ヴァレの「コントロール・システム」や、それから、そうだった、ジョン・キールの「超地球人説=ウルトラテレストリアルズ」を忘れてはいけない。


――――
 とどのつまりキールは、こうした怪現象・怪事件はみな、人間には見えない何者かが超自然的な力で仕組んだり、“その時、その場所でそう見える”幻覚を起こさせたりして、われわれ人類をひそかに操っているのだと、論理的に結論づけた。そしてその“見えない何者か”の正体こそ、じつは人類の誕生以前からこの地球上に存在しながら、可視光線スペクトルの領域外にいるため人類に気づかれていない“超地球起源”(ウルトラ・テレストリアル)の知的生命体だという、いささかとんでもない仮説に到達したのである。
――――
映画『プロフェシー』パンフレット
コラム「原作について 不思議な事実が織り成す禍々しい虚構(フィクション)の世界」(南山宏)より


 要するにキールの超地球人説とは、本稿の用語を用いて再定義するなら、人文科学的オカルト観をベースに、超常現象A0の「原因」としてのC0を想定して、それをウルトラテレストリアルズと名付けたもの、なのである。なお前述した通り「人文科学的オカルト観に含まれるのはA0までであり、C0は付け足された寓話に過ぎない。従ってC0が馬鹿げているからといって人文科学的オカルト観が馬鹿げていることにはならない」ということを改めて強調しておきたい。

 というわけで、お疲れさま。ようやく超地球人説に戻ってきた。それでは、ここまでの話をまとめてみよう。

 「あらゆる超常現象は全体としてひとつのもの」「超常現象は体験者から独立した事象ではなく、体験者の無意識の働きが投影されているもの」といったフォートやユングらによる古典的オカルト観の上に、解釈主義、メディア論、ミーム学など、70年代から盛んに論じられるようになった概念を盛り込んでアップデートした新しい波が、超常現象研究界に打ち寄せてきた。超地球人説の背景となっているのはこのようなオカルト観であり、それは複数の研究者に大まかに共有されていたもので、キール独自の主張ではない。またそれは、批判はあるにせよ、決して馬鹿げたものではない。馬鹿げているものがあるとすれば、それはキールが付け加えたキールアドオンである。

 では、キールアドオンはなぜ馬鹿げていると感じられるのだろうか。落ち着いて考えてみよう。

 まずネーミング。命名意図はおそらく、UFO研究界で主流を占めている地球外起源仮説(エクストラテレストリアル)に対するアンチテーゼであることをはっきり示すために「テレストリアルズ」という言葉を用いた上で、干渉してくる連中は「可視光線スペクトル領域外にいる」という主張を盛るために、紫外線(ウルトラヴァイオレット)のウルトラを冠し、出来上がったのがウルトラテレストリアルズというわけだ。主張を的確に盛り込んであり、インパクト抜群で、良い命名だとは思う。とは思うんだけど……。

 この言葉から連想されるものといえば、古めかしいSF、マイナーなバンド、あるいは安っぽいコミックに登場するヒーローチーム、そんなところだろう。宿敵「エクストラテレストリアル」がスピルバーグ監督の大ヒット映画タイトルにまでなったのと比べて、ネーミングで負けているといわざるを得ない。

 次に、「かれら」のやっていることの、しょぼさ。

 腐ってもウルトラテレストリアルズなんだから、世界の命運を背後で操っているとか、人類が真実に気づかないよう裏から操作しているとか、そういう全地球的陰謀に手を染めていることが期待される。

 ところが「かれら」がやっていることといえば、おっちょこちょいのコンタクティにあることないこと吹き込んで大恥をかかせるとか、電話に雑音を混入させて人をイラつかせるとか、ボウルから直接ゼリーを飲もうとして大ひんしゅくを買うとか、やられた人は確かにパラノイア気味になるけど、冷静に見ると、とかくしょぼいのである。

 そして、ウルトラテレストリアルズって、それはキール本人でしょう、というか戯画化されたキールでしょう、という気づき。著作にあることないこと盛って読者を翻弄するとか、UFO研究界に雑音を混ぜて混乱させるとか、奇矯な言動で他人をイラつかせるとか、要するにキールがやってることじゃないですか。

 キールをまだ知らない人はそのネーミングに苦笑し、キールの著作を読んだ人はその行動のしょぼさに脱力し、キールのファンは「お前が言うなー、ってか、お前のことじゃん」と突っ込む。このように、キールアドオンには、キールとの距離感に応じて、それぞれの段階に「あなどられポイント」が的確に用意されており、それが初心者から愛読者まで幅広く「馬鹿げてるなあ」と感じさせる仕掛けとして機能しているのだ。

 ところでキール自身はどう考えていたのだろう。キールアドオンは真剣な主張だったのか、それとも冗談、悪ふざけの類だったのか。

 個人的な見立てとしては、あえて「あなどられポイント」を残して全体を冗談めかした印象にすることで、自身のパラノイアに対抗したのではないかと思う。キールからは、どこかパラノイアと子供じみた悪ふざけが表裏一体となった、きわどさのようなものが感じられる。そこが作家としての彼の魅力ではないだろうか。

 だからキールの訃報を知ったとき、私の脳裏には、その死を悼む気持ちとともに、とてつもなく奇妙な妄想が浮かんだ。もしかしたら彼は死んだのではなく、存在の次元だか位相だかを転移したのではないかと。

 この現実と重なり合っているがスペクトル領域がずれているがゆえに見えざるピンクのキールが、うちの納屋にいる。そこではタイムサイクルが異なるため、こちらの任意の時点と場所に窓(ウィンドウ)を開いて、トロイの木馬を送り込むことが出来るのだ。

 人々がトロイの木馬を見て、UFOだ、謎航空機だ、偽月だ、とそれぞれの「解釈」に忙殺されている隙に、キールはまんまとこちらに侵入してくる。

 面倒なUFOマニアも、うるさい編集者も、辛辣な同業者も、執拗な税務署職員も、パラノイアでさえ、もはやキールを脅かすことはない。今やキールは自由だ。やりたい放題だ。したかったこと、空想して書くだけだったことに、キールは嬉々として取り組む。

 真実と嘘を混ぜこぜにした予言で人々を翻弄し、怪人となって奇矯な言動で他人を混乱させ、四次元から来た怪獣の姿で通りすがりの若者たちをパニックに陥れる。そして、奇怪な、巨大な、赤く光る双眸を見ひらき、物理の基本法則を無視して、新月の夜空をかけ昇る。天頂に明るく輝くふたつの月に照らされたキールは、闇よりもなお深き漆黒の翼を広げ、車を追って夜空を滑空してゆく。いつまでも。どこまでも。

 ここはとり憑かれた惑星、神々のディズニーランド。



『UFO手帖6.0』掲載(2021年11月)
馬場秀和


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