エイリアンクラフト

馬場秀和


 帆船→謎の飛行船→幽霊ロケット→空飛ぶ円盤、と進んできたUFOの歴史。あるいは、同じ種族だと思われる遭遇ケースがほとんどない上、1G重力下で苦もなく歩き回り、大気を平気で呼吸し、現地語を話し、世界の危機について陳腐なお説教をたれる搭乗員たち。

 これらのことを真面目に考えれば、いわゆる「エイリアンクラフト説」=UFOは宇宙人の乗物である説、にはかなり無理があることがすぐ分かってしまいます。

 しかし、やはりボク達は「UFOの正体がエイリアンクラフトだったらいいのに」とか「買ってもいない宝くじが当たればいいのに」とか「自分が世界でたった一つの花ならいいのに」などと考えてしまいます。願ってしまいます。それが人間というものなのでしょう。

 そこで、今回はエイリアンクラフト説について考えてみましょう。

 さて、科学者は「宇宙人」のことを地球外知的生命体と呼びます。それはもう、こちらが「つまり宇宙人のことですね」と突っ込んだとしても、頑として「違う違う。地球外知的生命体、略して“チキガイ、イタイ”じゃ」などと言い張るのです。嘘です。本当はETIと呼びます。発音はエタイだと思います。

 で、エタイが知れない話(SETI:地球外知的生命探査)について書かれた本は多いのですが、私が調べた範囲では、ほとんど必ず「ドレイク方程式」の話から始まっています。うんざりしてきますね。

 確かにドレイク方程式は重要ですが、何というか、あれは単に議論を整理するための指標に過ぎないと思うんですよね。例えていうなら、複雑な問題について討議するために専門家会議を開くとき、テーマ(イシュー)毎に作業部会1、作業部会2、というように小会議を設置して見通しよく議論する、そんな感じ。議論を整理する上では非常に有効ですが、何というか、こう、妄想を生まないのですよ。

 我々の目的は妄想力を鍛えることにありますから(そうか?)、ドレイク方程式のことは忘れて、ここは一つ、「ファクトAとフェルミのパラドクス」から始めてみることにしましょう。

 まず、「ファクトA」ですが、これはマイケル・ハートという研究者が書いた論文の中で使われた用語で、要するに「現在、地球にエタイは来てない」という “事実”を指します。

 こう言うと、UFO信奉者の皆さんは反発することでしょうが、まあ落ち着いて下さい。科学の議論においては、誰も反証(物証)を出せない否定命題(何かが無いという命題)は、とりあえず議論を進める上で前提としてよい、という約束事があります。否定命題を議論の余地なく証明することはまず無理なので、話を進めるためにそういう約束事がどうしても必要になるのです。

 科学者は、こういう意味で“事実”(ファクト)という用語を使うわけです。日常的な意味の“事実”とは微妙に異なるので、あまりカッカしないで下さいね。ってか、この程度のことをわざわざ“ファクトA”などと仰々しく呼んで論文にするのはズルイと思う。

 さて、フェルミのパラドクスとは何かと申しますと、「ファクトAは不思議なことであり、きちんとした説明が必要だ」という指摘のことです。かのエンリコ・フェルミ先生が言い出したとされています。

 なーんだ、と、がっかりしないで下さい。普通の人は、ファクトAを見ても、「この程度のことをわざわざ“ファクトA”などと仰々しく呼んで論文にするのはズルイ」くらいにしか思いません。それを「これは不思議なことだ。説明が必要だ」と見抜いたところに、フェルミ先生の慧眼があるわけです。

 なぜ不思議なのか、どうして説明が必要なのか。それは、次のような推測が「自然」と見なせるからです。

  1. 我々が存在している以上、宇宙には他にも知的生命体が存在しているはず

  2. すでにあらゆる星系が探査されるだけの時間は経過しているはず

  3. それなのに“ファクトA”が成立するのはおかしい

  4. つまり、1.か2.のいずれかが間違っているのだろう

  5. であれば、どちらがどう間違っているか、きちんと説明する必要がある

 フェルミのパラドクスについては、前述の1.を否定して解決する立場もあります。つまり「この広い宇宙に存在する知的生命はわれわれ地球人だけだ」と主張する立場です。でも、これだと何となく居心地が悪いと思いませんか? 「地球人だけが特別」と主張するのは、何だか、ためらいがある。何となくジコチューでココロガセマーイ感じがする。多くの科学者もそう考えました。

 では、前述の2.を否定してはどうでしょうか。つまり「あちこちの星にエタイ文明が存在するのだが、まだ誰も地球にやってきてないのだ」と主張するのです。これは、いかにも自然な気がしますね。

 ところが、これを真っ向から否定したのが、かのフランク・ティプラー先生です。ティプラー先生は「ノイマン探査機を使えば、わずか200万年で銀河系全体を探査できるはずだ」と言い出したのですね。

 ノイマン探査機とは、要するに惑星探査を目的に作られたノイマン・マシンです。ノイマン・マシンというのは、自己複製能力を備えたロボットのことで、最初にそのようなロボットが作れることを示したのが、かのコンピュータの父(というか、ありとあらゆるクールなアイデアの父)ノイマン先生だったというわけです。

 今では「自己複製するロボットを作ることが出来る」と言われても、当たり前じゃん、と思うでしょうが、DNAの複製メカニズムをズバリ予想していたという点で、やはり先駆者というのはスゴいのですよ。

 ノイマン探査機による惑星探査の手順はこうです。自己複製するロボット(というか宇宙船)を、どこでもよいから近くの恒星系に送り込みます。探査機は、惑星を見つけてそこに着陸し、知的生命を探します。見つかれば、故郷に向けてその旨の連絡を送ります。「知的生命を発見。コンタクトを試みよ」と。さらに、ノイマン探査機は、自己複製して次々に自分と同じ宇宙船を建造します。そして、それらをあちこちの恒星系に送り込みます。

 この手順でゆくと、最初は1隻だった探査機が、みるみるうちに増えてゆきます。最初の探査機も、次の探査機も、その次の探査機も、着陸した惑星の資源が枯渇するまで延々と自己複製を続け、次々に探査機を送り出し続けます。利子が利子を生む複利計算みたいなもので、ごく短期間のうちに事実上無数の借金、じゃなくて探査機がうようよと銀河中に広がってゆきます。確かに、ティプラー先生がおっしゃるように、200万年あれば銀河中のあらゆる恒星系にノイマン探査機が訪れる計算になります。

 200万年というと長いような気がしますが、宇宙規模で考えれば極めて短期間だということに注意して下さい。例えば、地球が誕生してから50億年、生命が誕生してから40億年、人類の祖先となる猿人が立ち上がってから300万年。ほら、200万年なんて、あっという間でしょ?

 少なくとも「銀河のどこかに、既にノイマン探査機を送り出したエタイ文明はあるのだが、まだ探査機は地球にまで到達してないのだ」と主張するのは無理があります。これで、前述の2.を否定するのは、かなり難しくなります。「エタイ文明は存在するが、ここ100億年くらい、誰もノイマン探査機のアイデアを思いつかず、ただ電波望遠鏡によるSETIとか地味にやってるだけ」というのは、ちょーっと考えにくいからです。

 こうして、1.を否定するのも釈然とせず、2.を否定するのも難しい。では“ファクトA”をどう説明すればよいのか。これが「フェルミのパラドクス」というわけです。

 さて、どう見ても当たり前で自然なことだと思えた“ファクトA”が、実は意外に不自然で、きちんと説明することが難しいということが分かりました。

 そこで、“ファクトA”はやっぱ間違ってるんじゃない? と考えてみましょう。すなわち、どこかのエタイ文明が送り出したノイマン探査機は、既に地球に到着し、今も着々と自己複製しているのだが、我々はそのことに気づいてない、と仮定するのです。

 なぜ気づかないか、というのは簡単です。ティプラー先生が議論した頃に想定していたノイマン探査機は、巨大な宇宙船とそれを建造するための工業ロボット群でした。しかし、今日のナノテクノロジーの発達を見れば、十分に進んだ技術文明が送り出すノイマン探査機が、分子レベルの微小機械(ナノマシン)であることは、ほぼ間違いありません。探査機は小さければ小さいほど少ない資源とエネルギーで動作しますし、分子レベルで組み立てる方が自己複製も容易で、どんな組成の惑星でも(どんな重力の惑星でも)複製可能だからです。

 そう、インドの研究施設で発見されたという『極微UFO』、その正体は、異星から送り込まれたノイマン探査機に違いありません。我々が気づかないのは、それがあまりにも小さいためです。

 しかし、ノイマン探査機は、自己複製するだけでは意味がなく、故郷の星に向かって探査結果を知らせているはずでしたね。「知的生命を発見。コンタクトを試みよ」と。

 ところ~が、さあ、お立ち会い。よーく考えてみれば、なんで十分に進んだ技術文明を持つエタイさんが、「コンタクトを試みよ」なあんて報告する探査機を作るでしょうか。

 いえいえ、そんなのは資源やエネルギーの無駄です。少なくともノイマン探査機(それも微小機械型)を作るようなエタイさんなら、きっと「知的生命を発見。コンタクトさせるように誘導中」と報告するような探査機にすることでしょう。

 すなわち、現地で知的生命を発見すると、その神経系(脳)に働きかけて、「宇宙には他にも進んだ文明があるに違いない」とか「宇宙に出てゆきたい」とか「私は宇宙人の乗物を目撃した」とか「私は宇宙人に会った」とか、そういった妄想、じゃなくて概念や記憶を植えつける、そのような機能を持たせるに違いありません。

 こういう概念や記憶を植えつけられた原住民は、自然と宇宙に興味を持ち、異星文明とのコンタクトの可能性に惹かれ、どうしても(経済的にペイしなくても)宇宙開発が止められず、勢いで技術文明を発達させて、いつの日か自分達もノイマン探査機を作って送り出してしまう、という仕掛けです。ふふふ、おぬしもワルよのう。

 そう。故郷のエタイさんは、ノイマン探査機を送り出した後は、あちこちから返信メール(じゃなくて他の文明のノイマン探査機)が届くのを楽しみに待っていればよいのです。うーん、合理的ですね。

 というわけで、「UFOはボクたちの心の中にある」というのが正しいとしても、実はその背後には宇宙人が関わっているのです。ええそうです。そうに違いありません。そうこなくちゃいけません。前々からワタシ、UFOには宇宙人が関与していると思っていたのですよ奥さん。

 いずれ、我々は地球印のノイマン探査機を送り出すことでしょう。その頃には、周囲の環境に隠れている微小ノイマン探査機を発見し、それを送ってきたエタイ文明について学ぶと共に、これまで目撃され続けたUFO現象についてようやく本当の原因を理解するに違いないのです。おお、きれいにまとまった。

 で、こう考えてみますに、実は「ノイマン探査機」こそが宇宙における知性の本質であり、生命とか文明というのは、それらが自己増殖するのを助けるための手段に過ぎないのではないか、という気がしてまいります。

 つまりですね、この宇宙は、多種多様なノイマン探査機が自己複製して広がり、それぞれのノイマン探査機が土着生命体を刺激して宇宙志向型文明を興させて新たな種類のノイマン探査機を生み出す、そういう場なのだと。これを「探査機プール」と呼びましょう。

 探査機プールにおいては、より沢山の文明を興した探査機が成功してさらに沢山の複製を広げる、という形の自然淘汰が行われています。自然淘汰により、億年単位で見ると、どんどん新たな文明、つまり新たな種類の探査機が生まれる一方、競争に負けた探査機は惑星資源を使い尽くして複製が頭打ちになって消えてゆく。宇宙全体として、文明はどんどん宇宙開発志向、ナノテクノロジー志向に“進化”してゆくのです。全ては、より多く、より早く複製するノイマン探査機のためです。

 というわけで、我々地球人が文明を興したのも、UFOを目撃してしまうのも、どうしても宇宙に憧れちゃったりするのも、全てはノイマン探査機の自己複製のためだったというわけ。これが「利己的な探査機」仮説です。

 いやー、またまた妄想力が鍛えられましたね。ではまた次回。



超常同人誌『Spファイル』1号に掲載(2005年8月)
馬場秀和


馬場秀和アーカイブへ戻る