黒犬

馬場秀和


 まがりくねった山道を自転車で走り、もうすぐ林を抜けて一気に視界が開けるというところで、目の前にいきなり黒犬が現れた。

 もう少し距離があったなら、ハンドル操作で楽々かわせただろう。逆にもっと近ければ、とっさにブレーキをかけて事なきを得たはずだ。しかし、実際にはそのどちらでもなく、遠すぎず近すぎずの微妙な距離であったため、野々村は反射的に両方の回避行動をとってしまった。つまりハンドルを大きく切りながらブレーキレバーを、それも前輪のそれを、強く握ったのだ。

 自転車はものの見事に転倒し、野々村は土がむき出しの未舗装路に叩きつけられた。買い物かごに入っていた焦げ茶色の鞄が勢い良く道端の草むらに飛び込んでゆく。幸い怪我はなかったようだが、就職面接のために用意した一張羅のビジネススーツが土埃まみれになってしまった。何という不運だろう。あと少しで目的地というところで、まるで妨害するかのように黒犬が現れるなんて。

 野々村はうめき声をあげながら立ち上がった。黒犬はじっと野々村を見つめている。その赤い眼が彼の一挙一動を見張っている。攻撃してくる気配はないが、油断は出来ない。野々村は幼いころ黒犬が人を喰い殺すのを目撃している。しかも、その現場はここからさほど離れてはいないのだ。

 警戒しながら、倒れた自転車のハンドルにそろりそろりと手を伸ばす。黒犬は尾をちらちら振っていたかと思うと、不意に消えてしまった。周囲を見回しても、もうどこにもいない。今しがたまでそこにいた獣の痕跡をとどめているのは、周囲に漂っているかすかな硫黄臭だけだった。

 このあたりの黒犬はいつも不意に現れ、勝手に消える。野々村はため息をつきながら立ち上がり、背広の汚れをはたいて、鞄を拾って、自転車を引き起し、山道をとぼとぼ押し歩き出した。もう自転車に乗る気は失せていた。いずれにせよ、目的地まではあとほんの少しなのだ。

 ようやく雑木林が終わったかと思うと、そこは低い崖の上。その先には素晴らしい眺望が開けている。眼下に広がる色とりどりの屋根が、夏の終わりの陽光に照らされ巨大なモザイク画を作り出している。まき散らされた光の粒が、いつまでも動き続ける不可思議なパターンを作り出し、それは崖のすぐ下に広がる草地の果て、その先で木々がまばらに生えているあたりから始まって、浜辺までうねるように続き、そこからは青と緑の広がりに形を変え、そうして気がつけばそこは入り江だ。

 さらに遠くを見渡すと、海はそのまま白い滲みへとつながり、その曖昧な領域を介してさらに上に、空へ空へと伸び上がってゆく。

 視界をさえぎるものは何もなく、入江の光景は、海の照り返しと空のマーブルは、ビー玉を内側から眺めたかのようにどこまでも膨らんでゆき、見る者をその足下から幻惑するのだった。

 野々村はしばらくその光景にみとれてしまう。海から吹き寄せてきた強い風が、崖にぶつかってその短い斜面を駆け上り、彼の髪をくしゃくしゃに乱す。かすかな潮騒。途切れることのない、そのささやき。見慣れた景色のはずだった。子供の頃はいつもここで遊んでいたのだから。しかし十五年ぶりに目にした光景のインパクトは、野々村の記憶にあるそれをはるかに凌駕していた。

 いつもの夢のなかでは、この眺望もただ漫然たる背景としか感じられない。子供の頃の記憶が忠実に再生されているためだろう。そうか、野々村は思う。そして頷く。自分はもう大人になったのだ。故郷の景色が素直に美しいと感じられるほどに。

 野々村は振り返る。なだらかな山腹の斜面に広がる広大な更地は、かつて駐車場だったことを彼は知っている。すぐ手前に立っている錆だらけの看板には「立入禁止」と書いてあるはずだが、歳月のために色あせてしまい、もはや文字の判別もつかない。その向こうにある建物。もともとは純白に塗られた木造二階建ての、コロニアルスタイルペンションだと言い張っていたのはオーナーだけで、誰もがやたらと奇矯な民宿だと認識していた、すでに廃屋になって久しい、崩れかけたその建物。

 「眺望荘」だ。ついに、ここに戻ってきたのだ。


 紀伊半島の南、長峰山脈の末端が小さな入江に接しているところ。この町も、かつては漁業で大いに栄えたものだと、そんな昔話を語る老人もだんだん数が少なくなってゆく。若者たちは奈良へ伊勢へと山を越えてゆき、その多くが戻ってはこない。町は死んだわけではないが、山風と海風のあいだにたゆたい、ひたすらまどろんでいるようだった。

 窓から見える絶景、山海の珍味、そして家族としてのおもてなし。それが眺望荘の陳腐な売り文句だった。他には何の観光名所もない海辺の丘の中腹に孤立しているという立地条件の悪さにも関わらず、高度経済成長期には、眺望荘もずいぶん賑わっていたらしい。春から夏にかけてハイキング客が、秋になると偽月目当ての好事家たちが、特に何の営業努力をしなくても自然と集まってきたという。

 客の出足が遠のき始めたのはいつ頃のことだったか。最盛期には五人いたという従業員を一人減らし、二人減らし、たちまちオーナー夫妻だけで切り盛りするしかなくなった。自然と手が回らなくなった客室は閉ざされ、物置部屋になってゆく。やがて照明が切れたり電器製品が故障したりといった不具合が多発するようになり、駐車場にとめた自動車のバッテリーがすぐにあがってしまうトラブルが間断なく起きたため、とうとう廃業に追い込まれてしまった。自分が小学四年生の頃だったと、野々村はそう記憶している。

 敷地は地方自治体が買い上げたものの、折しも襲ってきた不況のあおりで再開発の見通しも立たない土地の競売に応じる者がいるはずもなく、更地に整備する予算すらも捻出できないまま、かつては増築を重ねた建物が潮風に吹かれ崩壊するまま捨ておかれ、今では駐車場跡にも雑草が繁茂している。色あせた立入禁止の看板とともに、そのまま全てが草の海に飲み込まれつつあるようにも見えた。

 眺望荘の裏庭。建物と林の間にひっそりと隠された、潮の香りを含んだ海風がはるばるやってきて気まぐれに渦をまく、その裏庭に今、野々村は立っていた。ここに戻ってカナちゃんの屍骸(遺体と呼ぶべきだろうが、子供の頃はシガイという言葉しか知らなかった)が今もそこにあることを確認しようと、今まで何度もそう決意した。けど出来なかった。

 怖かったのだ。警察とかそういう問題ではない。現場を再訪すれば、何らかの超自然的な、タタリとかケガレとか、そんな言葉から連想される嫌な嗅いが、髪の毛にこびりついてきそうな気がして、それで「あれは子供の頃の空想だった」という自分でも嘘だと分かりきっている設定に全てをしまいこみ、ふたをしてきたのだ。

 今、こうして実際に来てみると、ここは夢の中に出てくる広大な草原でも何でもなく、コの字形に増設された眺望荘に三方を囲まれ、残る一方を林にふさがれた、ただの狭い空き地に過ぎない。

 野々村は必死に記憶を探った。屍骸は、いや遺体はどこに転がっているのだろう。幼い日の記憶も、しばしば起こる夢の追体験も、実際の光景とは何のつながりもなく、まるで手がかりにならない。

 いや、遺体が残っているはずはない。もちろん誰かが発見して通報したのだろう。幼い日の野々村には、誰もそのことを教えてくれなかったというだけのことだ。しかし、そうは言っても、子供が野犬に喰い殺されたというのに学校で誰もそのことを噂しない、あるいは食卓で両親が話題にしない、などということがあり得るだろうか。

 ではやはり遺体は誰にも気づかれないまま今もここに放置されているのか。カナちゃんは神隠しにあった、ということにされたのだろうか。この山では、昔から神隠しが多い。だとしても、あの日カナちゃんと一緒に出かけた野々村に、誰も何も質問しないというのはおかしい。カナちゃんの両親だって、一人娘が行方不明だというのにそのまま引っ越してゆくはずがない。だとすると・・・。

 「誰? そこで何をしているの」

 背後から叫ぶような詰問するようなきつい声がかけられ、その厳しい口調が、物思いにふけっていた野々村の頬をはたく。振り向くとそこに、事務服を着用した生真面目そうな女性が、不審感をありありと漂わせながら立っているのだった。

 野々村はとっさに「怪しい者ではありません」とひとまずそう答えてから、実は怪しい者ではなかろうか、などとうっかり内省しそうになり、今はそういうことを考えてる場合ではないのでは、というか就職面接に来たというのにこの状況はかなりまずいのではないか、いっそ訳のわからない観光客のふりでもして逃げてしまった方がいいか、いやそれでは面接に来た意味がない、などとさらに思考は横ずれしてゆく。

 「ここは立入禁止です。あなた、いったい誰ですか」

 「あ、野々村です。野々村浩一と申します。局現科学センターの就職面接に来たのですが、その、場所が分からなくて探しているうちに、あの、だ、大丈夫ですか」

 話している途中で、女性の顔色が見る見るうちに青くなり、パニックの表情が浮かび上がってきたのだ。そして喉の奥からくぐもった音を立てたかと思うと、その場にしゃがみ込んでしまった。

 驚いた野々村が、大丈夫ですか、声をかけながら駆け寄ろうとすると、女性はかぼそい小さな悲鳴を上げて両手を振り回し、全力で拒絶しながらあとずさる。両のこぶしを握りしめ、それを顔にしっかりあてがって、荒い息を何とか鎮めようと努力しているようだ。

 こういう場合、どうすればいいのだろうか。うかつに近づいて危害を加えるつもりかと誤解されても困る。でも無遠慮に遠ざかって逃げる気と解釈されるのも嫌だった。それから、今は自分の都合よりも相手のことを気づかうべきではないかと思い、しかし事情がよく分からないのだからそれは無理で、いやもしかして、これは突発事態に対する反応を見る試験ではないだろうか、馬鹿げた考えすら脳裏に浮かんできて、これは野々村の癖なのだが、いざというとき様々な雑念が重ね塗りされてホワイトノイズとなり、実質的に何も考えられなくなってしまうのだった。

 しばらく困惑しながら見守っていると、やがて女性は深いため息をつき、深呼吸しながら立ち上がった。顔色はまだ悪いが、事務的というか、他人との関わりを出来るだけ避けたいという防衛的な、冷やかな態度が戻ってきた。野々村の顔を見ないようにしながら、そっけなく告げる。

 「失礼しました。目に塵が入ってしまいました。ここら辺は潮風が強いので」

 どう考えても嘘だが、あえてそのような見え見えの嘘をつくことで、お互いの失態はなかったことにしましょうという、ある種の共犯意識を強要する、そんな彼女の意図を読み取って、野々村は質問を飲み込んだ。

 野々村としても、就職面接に来て、わざわざ立入禁止の場所に踏み込んで、何やらぶつぶつ言いながらうろつき回っているのを見なかったことにしてくれるというのなら、文句があろうはずもない。

 「面接はあそこ、駐車場の向こう側に仮設した事務所で行います。こちらへどうぞ」

 さきほどのパニックの気配はきれいに消え失せ、女性は無表情に歩きだす。髪は極端なショートカットに切り揃えられており、後ろから見ると若い男のように見えた。年齢は、率直にいってよく分からない。二十代の後半か、三十代の前半、そのあたりだと見当をつけたものの、その立ち振る舞いから感じられる自然な威厳を考慮すると、もっと年上かも知れなかった。

 「あの、えーと」

 「藤田です。藤田とお呼びください」

 「じゃ、あの、藤田さん」

 「何でしょうか」

 「藤田さんはセンターの職員なんでしょうか」

 野々村を先導して駐車場跡を横切っていた、藤田と名乗った女性は、困惑したような、ちょっと面白がっているような、微妙な表情で野々村の質問に答えた。

 「わたくし、ここの責任者です」


 夏の終わりのどこか放心したような日差しの下、眺望荘の前に広がる駐車場跡の片隅に、三つの、三棟というのが正しいのだろうが建物というより家具のように見えて仕方ない、いかにも急ごしらえのプレハブ小屋が建っていた。眺望荘に、というか眺望荘の裏庭に気をとられるあまり、さっきは気づかなかったのだ。

 向かって右端のプレハブ小屋の前に「社団法人 局所現象科学センター 和歌山支局 仮事務所」という、いかにも急ごしらえの立て看板がある。藤田さんはその横をぐるりと回り込んでドアを開け、中に声をかけた。

 「就職希望者がお見えになりました」

 野々村の方を振り向いて、部屋に入るよう手招きで促してくる。野々村は黙礼してから、事務所の中に足を踏み入れた。

 殺風景な印象を与える部屋だった。スチール製の事務机や書類ロッカーがいくつか並んでいるだけで、他にはほとんど何もない。壁には時計と数冊のノートがかけられており、部屋の片隅のテーブルにはペットボトル入りの飲料水と紙コップその他。カセット式ガスコンロと薬罐、マッチの徳用大箱。打ち合わせ用の小さなホワイトボードがある。

 事務机の上には、文房具と大量の書類、事務ファイル、専門書らしき厳めしい背表紙の本が何冊か簡易ブックスタンドに立てかけられている。プレハブ小屋の仮事務所だということを考慮に入れてもなお、およそ潤いというものに欠ける部屋だった。ただ窓がやたらと大きく採光性に優れているため、室内はあっけらかんとした明るさに満たされていた。

 野々村は「ここは何かがおかしい」と直観的にそう感じた。何がおかしいのか。素早く部屋中を見回すが、その理由が分からない。だが、どこか変だという確信はますます強まるばかりだった。

 窓辺の小さなテーブルに向かっている男がいた。熱心に本を読んでいる。野々村が入ってきたことには当然気がついているはずだが、本から目を離そうとしない。

 「こちらは野々村浩一さん。就職希望者です。面接をお願いします」

 藤田さんがそう声をかけたが、男は上の空といった様子でページをめくる。

 「もうちょっと待って。あと少し」

 「わけぎさん!」

 藤田さんが厳しい声でそう呼びかける。後に「葱」と書くのだと教えてもらったが、そのときは字面が想像できなかった名字を持つ、その人は大げさに驚き、本を取り落としてしまった。

 「なな、何ですか。今ちょうど大切な・・・」

 藤田さんの刺すような視線に威圧され、葱さんの言葉は尻すぼみに消えていった。

 葱さんは昔のいわゆる文豪を連想させる古風な、いかにも学者めいた顔だちをしている。ほどよくだらしない服装、灰色が目立つぼさぼさの髪、他人と目を合わさないよう左右に泳ぐ視線。引退した大学の助教授あたりのシルバー再就職組ではないかと野々村は思った。

 「はじめまして、野々村浩一と申します。よろしくお願いします」

 「どうも。葱良平です。葱と書いて、わけぎ、と読みます。わきげ、じゃないよ」

 ある種の学者や研究者にありがちな子供っぽい口調、というよりそのような態度により社会的責任を回避できるのではないかと期待している、むしろそういう意味で子供っぽい口調で、葱さんは話すのだった。野々村は愛想笑いをして、それから軽い自己嫌悪を感じた。

 「ボクは何というか改まった面接とかそういうの緊張しちゃって駄目なんで、とりあえず一緒に来て下さい。作業の様子を見て判断します」

 「わけぎさん。センターの就労規則で決まっていることですから」

 「はいはい、分かりました。形式的なことは後でちゃんとやるから、まずは一緒に働ける人かどうかを確認する方が大切でしょ。民間では常識ですよ」

 「三時までに済ませて下さい。手続きが色々とありますので。当支局の定時は五時です。忘れないように」

 「へーい。分かりやした」

 葱さんは悪びれもせず、へらへらした笑顔でそう答える。

 「じゃ野々村クン、一緒に行こうか」

 「はい、お供します」

 まるで逃げるかのように、二人して事務所から外に出た。並んで歩く。背丈はちょうど同じくらいだ。

 「藤田さんてさあ、小学校の担任の先生みたいだよね。男なんてみんな子供扱いでさ。ちょっと目を離すと、ランドセルからでっかいガマを取り出して、ケツに爆竹三本突っ込んで、ねじり合わせた導火線に火をつけてから教卓の上に放り出すに違いない、なーんてそんな風に思ってんだよ、あれは」

 その妙に具体的なたとえは何ですか、というか誰がやったんですか。野々村は突っ込みたかったが、そこをぐっと我慢して曖昧に頷く。


 二人はそれぞれ自分の自転車にまたがり、山道を下って行った。目的地は麓近くにある中学校。野々村の出身校だ。そこの体育館わきの倉庫にある机を運び出すので手伝ってほしいと葱さんに言われたのだ。

 夏休みのせいで校庭は無人だった。午後の強い日差しに白く焼ける校庭は、何だか化石の発掘現場のように見えた。開きっぱなしの校門を入ってすぐわきに自転車をとめ、体育館あたりまで歩く。鍵はかかってないらしく、倉庫のドアは簡単に開いた。中からカビと汗の匂いがほとんど暴力的な密度でわっと拡散してゆく。

 「勝手に開けちゃっていいんですか」

 「あ、大丈夫。うちは文部科学省の配下だし、そのへん大丈夫」

 何がどう大丈夫なのかよく分からなかったが、黙って指示された机を運び出すことにする。金属パイプを溶接して組み上げて合板の天板を乗せただけの、どこの教室にも並んでいるシンプルな机だ。そのほとんどすべてに落書きがある。わざわざ苦労して穴を掘ってそこに消しゴムのカスを丁寧に詰めてあるものもいくつか。

 二人でバケツリレー方式で外にどんどん並べてゆく。合計二十脚。野々村はふと、これを校庭に「9」の形に並べたら面白いだろうか、と想像してみた。昔そういう事件があったのだ。

 葱さんが倉庫の隅から大型台車を二台持ち出してきた。次は二人で机をそこに積み上げる。けっこう危ない高さまで積み上げたので、崩れないよう荷造り用のひもで無理やりっぽく固定して、ようやく作業完了。押してみると、これがけっこうぐらつく。台車の持ち手を両手でがっしりホールドして、精神集中してゆっくり押さないとひっくり返してしまいそうだ。

 「どこに持ってゆくんですか」

 「事務所前の駐車場跡までだよ」

 ということは、この台車を押して、あの未舗装の山道を登ってゆけと言うのか。ありえないでしょう、それは。

 「自動車に乗っけて運んだ方が安全なんじゃないでしょうか。近所で軽トラを借りることも出来ますよ」

 「んー。まあ、こういうことはすべからく気合だから」

 意味不明なことを口にしながら葱さんは自分の台車をゴロゴロと押してゆく。野々村もあきらめてその後ろについてゆく。たぶん、これは試験なのだ。何の試験なのかよく分からないが。我慢強さだろうか。何事もすぐに諦める姿勢だろうか。もしかして、そういう資質が求められる職場なんだろうか。それは大いにあり得るような気がした。

 散々苦労してようやく二人が駐車場跡までたどりついたのは、そろそろ夕刻も近づき、日も陰ってくるころだった。すでに風が涼しい、というよりひんやりとして肌寒い。台車から机を下ろすと、葱さんは一枚の紙を野々村に渡した。見ると、駐車場跡を描いたとおぼしき地図に、小さな長方形がいくつも書き込まれている。それぞれの長方形には、A、B、C、という具合にアルファベット記号が付いていた。

 「地図の通りに机を配置して、それからそれぞれの机の右上隅に記号を書いて」

 ポケットから取り出した油性マジックペンで手近な机の右上に大きく「A」と記入し、それを地図のAと書かれた長方形の場所に運びながら、葱さんはそう言うのだった。

 すべての机を地図通り配置し、AからTまでのアルファベットを記入した頃には、野々村はぐったりしていた。無秩序としか思えないパターンで駐車場跡いっぱいに散らばった机を眺めてみる。上空から眺めたら、まるで離れたところから散弾を打ち込んだ的のように見えるに違いない。「9」や「SOS」といった明確なメッセージはどこにもない。

 いきなり葱さんがパチパチと拍手して、今日の作業はこれにて一件落着、お疲れさまでしたあー、と叫んだ。疲労困憊した野々村も、なかばやけになって一緒に拍手する。それから葱さんは、ちょっくら相談してくっから待っててね、と言い残して先に事務所に戻ってしまった。

 しばらく待っているとやがて事務所のドアが開いて葱さんが顔を出し、ところで野々村くーん、インスタントコーヒー、ティーパックの紅茶、冷やしてないメッコール、どれにするう? やけに馴れ馴れしい声でそう尋ねてくる。

 野々村が事務所に戻ったときには、壁掛け時計が示す時刻はすでに四時をかなりまわっていた。藤田さんが「ご苦労さまでした」と言いながら、カセット式ガスコンロのつまみをひねり、マッチをすって火をつけた。ぼうっ、と青白い炎があがる。そこに水を入れた薬罐をかける。

 「紙コップや使い捨てスプーン、砂糖、ティーパックなどの備品は、ここの引き出しに入っていますから、自由に使って下さって構いません。あと、眺望荘の炊事場を改装して使用できるようにしてありますので、水道やトイレはそこを使って下さい。今日はそろそろ暗くなってきましたので、また明日、案内します」

 「わかりました」

 「それから、これが野々村さんの業務日誌です」

 言いながら、藤田さんは一冊のノートを手渡してくれた。ぶらさげるための紐付きで、表紙に大きく「野々村浩一」と端正な手書き文字でそう記されている。

 「毎日、退所前に必ずその日の作業内容や考えたことを記録して下さい。ただし、日誌は公式文書として保管され必要に応じて閲覧されますので、あまりプライベートなことは書かないように。書き終えたら、所定の場所にかけて下さい」

 藤田さんが壁を指さす。見ると壁掛け時計の下にL字型金具が三つ並んでいて、左から「藤田奏」「葱良平」と書かれたノートがぶら下がっている。一番右の空いている金具に「野々村浩一」のノートをかけろということだ。

 「この封筒に必要書類が入っています。記入して明日わたしに提出して下さい。所定箇所への捺印を忘れないように。どの書類にも必ず二カ所に捨印を押して下さい。それから、こちらは服務規則関連の文書なので目を通しておいて下さい。詳しくはそこに書いてありますが、当事務所の就業開始時刻は午前八時三十分です。遅刻しないように」

 「あ、はい」

 「それから、当事務所の敷地内に携帯電話、ゲームマシン、音楽プレーヤーなどのデジタル機器を持ち込むことは禁止されています。これは計測器に対する電波干渉を防ぐためです。絶対に持ってこないで下さい。服装規定は特にありませんが、常識的な範囲で作業しやすい格好で来て下さい。何か質問はありますか」

 ぱっぱと手際よく事務用大型封筒や文書ホルダーを手渡した、というか押しつけた藤田さんは、一息ついて野々村の顔をじっと見つめてくる。まるで映画館や劇場のアナウンスのような事務的な口調にも関わらず、声や表情にはかすかな焦りや緊張感、そして微妙な戸惑いのようなものが浮かんでいた。何か尋ねたいことがあるのだが、言い出せないでいる、そんな感じだ。

 「あの、質問というわけではないんですが」

 「はい。何でも」

 「就職面接はいつなんでしょうか」

 藤田さんはあっけにとられた顔で硬直してしまう。背後では葱さんが爆笑していた。


 野々村は夢を見ていた。いつもの夢だ。浩一は小学五年生で、カナちゃんとの待ち合わせ場所である郵便局に向かって走っている。いつもこのシーンから夢は始まり、そして記憶の通りに展開する。それは夢というより、追体験と言った方が正確かも知れない。

 これが夢であることははっきりと認識している。いわゆる「明晰夢」と呼ばれるものだ。野々村は明晰夢以外の夢を見ることがない。というか、夢を見ながらそれが夢であることに気づかない、などということがどうしてあり得るのだろうか、それが分からない。明晰夢しか見ない野々村にとっては、他人が夢を見ているときどのような意識状態にあるのかは想像もつかないのだ。

 夢の中で、野々村の主観は、小学五年生の浩一(コウちゃん)と、それを観察している野々村の二つに分裂している。浩一としての自分は、記憶の通りに感じ、考え、行動する。展開は映画のように完全に決まっているのだが、そのことに浩一は気づかない。一方で、野々村としての自分は、これから夢がどう展開するのか完全に分かっている。それは過去に自分が体験したそのままだからだ。

 浩一が遅れたのは、途中で忘れ物に気づいてあわてて家に戻ったせいだ。大切な宝物。この特別な日には絶対に必要なもの。それを浩一は腰に回してぎゅっとしめる。小さな声で「装着っ」とつぶやいてみる。

 「なあに、その変な腰巻き」

 カナちゃんが明るくけらけら笑いながらそう言う。夢の中で、カナちゃんはいつも同じことを言う。それは実際にカナちゃんがそう言ったからだ。でも浩一としての自分はそのことを知らない。そしてかつて実際に答えたのと同じ答えを返す。

 「腰巻きじゃないよ。これ、仮面ライダー変身ベルトだよ。敵がいるかも知れないし」

 「だってコウちゃん、変身できないでしょう」

 「仮面ライダーは変身しなくても強いんだよ。変身して強くなるわけじゃないんだけど、ヒーローであるために変身するんだ」

 「なにそれ。変身する前の方がハンサムだし、カッコいいでしょう。変身しちゃったら、あれ、要するに怪人バッタ男でしょ。気持ち悪いじゃない」

 「違うよ。違うよ」

 浩一は懸命に説明しようとする。言葉を探す。これは大切なことなのだ。カナちゃんには絶対に分かってほしいのだ。

 「仮面ライダーが変身するのは、どんなに恐ろしくても自分の正体からは逃げないという決意を示すためなんだ。ただ強いだけじゃなくて、本当の自分を受け入れる覚悟がある者がヒーローなんだよ」

 「へーえ。じゃあコウちゃんはヒーローなんだね」

 「そうだよ」

 浩一は得意気にベルトを見せびらかす。野々村としての意識はその子供っぽさ幼稚さに辟易するが、過去を変えることが出来ないのと同様、夢の展開を変えることも出来ない。

 カナちゃんは高校二年生で、浩一の近所に住んでいる。一人っ子だった浩一は、勝手にカナちゃんを自分の本当のお姉さんだと決めつけて、懐きまくったのだった。カナちゃんもやはり一人娘で、そんな浩一をコウちゃんコウちゃんと呼んでかわいがり、「弟」として扱った。

 浩一は小学校から帰宅するとすぐにカナちゃんのうちに遊びに行き、カナちゃんが帰って来るまでじっと待つのだった。それから一緒にあちこちに遊びに出かけて行く。あちらのご両親は笑顔で受け入れてくれたが、今にして思うとずいぶん迷惑をかけたような気がする。

 浩一が小学五年生になった年、カナちゃんのうちが岐阜に引っ越すことになった。引っ越しの数日前に挨拶にきて玄関口に立ったカナちゃんと両親を前にして、浩一はお姉さんと一緒にギフに行くと言い張り、何と説得されようが聞く耳もたず、ついには自分の父親から思いっきりぶたれ、玄関脇の傘立てを押し倒してわあわあ泣きわめくという醜態をさらしたのだった。

 結局、カナちゃんが「とりあえず明日はずっと一緒に遊ぼうね。岐阜に来るかどうかはそのあとで相談しよう」と言ってその場をおさめ、浩一はようやく泣き止んだ。気分としては達成感(というか、ごね得感)でいっぱい。もうこれでカナちゃんが遠くに(ギフという場所がどこなのかは想像もつかない)行ってしまうという理不尽な話はなくなったのだと、そう確信していた。

 明日はコウちゃんが行きたいところに一緒に行こう。それから、その後で素敵なプレゼントをあげる。コウちゃんが私のことずっと忘れないように。カナちゃんが優しく言ったので、浩一はもう有頂天になって、じゃあ山のお化け屋敷(閉鎖されて間もない眺望荘のことだ)に探検に行こうよと提案し、そうして昼過ぎに郵便局で待ち合わせることに決めたのだ。

 仮面ライダー変身ベルトを「装着」した小学五年生にしては子供っぽいコウちゃんと、明るい桜色のワンピースを着た高校二年生にしては大人っぽいカナちゃんが、並んで手をつなぎ山道をのんびりと歩いてゆく。姉弟というより、下手をすると親子に見えかねない二人だった。

 雑木林を抜けて低い崖の上に出ると、その見晴らしにカナちゃんは歓声を上げる。

 「わあ、すっごい綺麗。こういう景色も、もう見られなくなっちゃうのかぁ」

 その口調がなんだかひどく大人びて聞こえるのが、浩一は気に入らない。どういうわけか無性にいらだちが募る。浩一には、この眺望もただ漫然たる背景としか感じられない。

 「プレゼントって何?」

 わざとぶっきらぼうな声で尋ねたが、カナちゃんは笑って「あとのお楽しみ」と秘密めかしてそうかわした。浩一は子ども扱いされているようで何だか腹立たしかった。

 廃屋となった眺望荘には簡単に入り込めるだろうと浩一は考えていた。鍵はかかってないはずだ。無人の家になんで鍵をかける必要があるだろう。だがもちろん、眺望荘の建物には厳重に鍵がかけられ、黄色に黒文字で「立入禁止」と書かれたステッカーがご丁寧にもドアや窓に一つ一つ張ってあった。

 「窓ガラスを割って入っちゃおうか」

 「駄目よ。ヒーローがそんなことしちゃ」

 カナちゃんの言うことはもっともだったので、浩一は建物の裏手に回ってみることにした。眺望荘は一方に口を開けた「コ」の字形をしていて、建物と林にはさまれた草地が中庭というか裏庭となっている。そこに面した窓には鍵がかかってないかも知れない。

 浩一が背伸びして裏庭側の窓(むろん鍵はかかっていた)からかつての客室を覗き込むのに夢中になっていたとき、背後でカナちゃんの悲鳴が上がる。びっくりして見回すと、林の中から現れた数頭の黒犬がゆっくりとこちらに向かって近づいてくるのだった。

 黒犬たちは怒っていた。異様に興奮していた。その恐ろしい眼は赤く赤く輝き、腹の底に響くぞっとするような唸り声をあげながら、姿勢を低く保ち、いつでも飛び掛かる態勢に入っている。カナちゃんが逃げ出した。パニックに陥った浩一も叫びながら走り出す。背後から黒犬たちの吠え声がどんどん近づいてくる。追われる恐怖に駆り立てられ、死にもの狂いで走り続ける。

 全力疾走を続けてそろそろ息があがってきたころ、いきなり足元が崩れたような感触。あっと思ったときには身体が草地に叩き伏せられていた。続いて背中に衝撃。黒犬が飛び掛かってきたのだ。手足をがむしゃらに振り回すが手応えがない。圧迫感に意識がもうろうとなる。胃袋が縮みあがるような、ぞっとする吐き気の大波に押し流される。

 ショックのあまり気を失っていたのだろう。気がつくと草地に伏せたまま。周囲はぼんやりと薄暗い。近くに黒犬たちが立っている。今はもう落ち着いているようだ。こちらを見ている黒犬はいない。仲間の一頭が獲物を引きずってゆくのをじっと見守っている。

 獲物はカナちゃんのシガイだった。

 カナちゃんが死んでいることは疑いようもない。半分以上も食いちぎられた首を、黒犬は口でくわえたまま四肢をつっぱって強引に引っ張っている。ひねるたびに千切れかけた首から勢いよく血が吹き出し、草地を血の色に染めてゆく。それは赤ではなく、真っ黒に見える。すでに黒犬も周囲の草地も血まみれだが、陰惨というより、とてつもなく不条理な光景に感じられる。胸を圧迫する生嗅さ。血のにおい。そして血のにおい。空を見上げ、血のにおい、絶叫する。


 夢はいつもここで終わり、野々村は目を覚ます。そこは下宿の部屋だ。この夢はだいたい数カ月から半年に一度は見る。必ず同じ展開、記憶にある通りに進展し、例外は一度としてなかった。野々村浩一は決してヒーローにはなれない。

 まだ夜明け前だったが、もう眠れないことは分かっている。今日は出勤初日だから寝坊するわけにはいかない。起きよう。野々村は目ざまし時計のアラームセットを解除した。

 夢に繰り返し見るラストシーン直後の記憶は抜け落ちている。両親から聞いたところでは、浩一は一人で家に帰ってくると気持ちが悪いといって布団を敷いて寝てしまったそうだ。カナちゃんのことは黙っていた。夜になって高熱が出たため、そのまま数日間ずっと布団の中で過ごした。その間にカナちゃんのうちが引っ越して行ったことを知ったのは、かなり後になってからだ。

 カナちゃんの遺体はどうなったのだろう。発見されて大騒ぎになったという記憶はない。家でも、学校でも、近所でも、子供が野犬に喰い殺されたという話題が出る気配はなかった。自分からカナちゃんのことを口に出す勇気はなかった。眺望荘に足を運んで現場を確かめようと何度もそう思ったものの、いざとなると怖くなって、つい先送りしてしまう。

 やがて地元の高校を卒業した野々村は、名古屋の大学に進学して、そこで独り暮らしを始めることになった。その頃からだ。あの夢をときどき見るようになったのは。いつか、帰省したときにでも現場に行って確かめようと思いつつも、いっそ眺望荘の敷地が再開発されてビルだか何だか建ってしまえばあきらめもつくのに、とも思うのだった。

 しかし景気の波に取り残された眺望荘の廃屋は取り壊されることなく残り続け、野々村が大学卒業後に小さな出版社に就職してからも夢はときどきやってきた。何もかもが中途半端なまま、カナちゃんの供養というやり残した仕事が野々村を苦しめる。このままカナちゃんをあそこに放置したまま忘れてよいのか。よいはずがない。それではひとでなしだろう。ヒーローにはなれなくても、ひとでなしのままでいたくはなかった。

 就職して数年後に出版社はあっさり倒産してしまい、野々村は退職金相当のそれなりの手当てをもらって、何をどうするという当てもなく、何となく帰郷した。既に両親は亡く、生家も人手に渡っている。六畳一間の安下宿を借りてひとり住まいを始め、貯金を少しずつ切り崩しながら、ときどきバイトで補充して。

 そうこうしているうちに、眺望荘のあたりに政府の研究施設が建てられるらしいという噂が流れた。しかも従業員を募集しているという。一も二もなく応募した。カナちゃんが死んでから十五年の歳月が流れている。そろそろ決着をつける頃合いだろう。


 出勤初日。午前中の作業は、昨日配置した机の上に黒箱を乗せるところから始まった。三つ並んでいるプレハブ小屋のうち、中央と左が物置として使われていて、葱さんが中からたくさんの黒箱を運び出してくる。

 葱さんの手書き文字で「ブラックボックス」と記されたその黒箱は、がっしりとした金属製で、大きさは昔のビデオデッキほど。かなり重い。中央に自爆スイッチを連想させる赤いボタンが一つあり、その下に二桁の番号を書いた白いテープが張られている。全ての黒箱は重さも外見も全く同じ。ただ番号だけが違う黒箱が二十箱、駐車場跡の地面に積み上げられた。

 「じゃ、これを指示通りの机に乗せて。間違えないように」

 葱さんが昨日とはまた別の紙を手渡してくる。机を表す長方形に、今度はアルファベットに加えて二桁の数字が書き込まれている。机Aに黒箱07。机Bに黒箱19。机Cに黒箱12・・・。

 昨日の台車運搬に比べると格段に楽な作業なので、黒箱を対応する机に次々と運びながら野々村は質問してみた。

 「この黒箱は何なんですか」

 「計測器だよ」

 「何の計測をするんですか」

 「それが分からないのがミソ。この箱の中に、電池、時計、たくさんのマイクロ計測器、自動制御プログラムが内蔵されていて、スイッチを入れたら後は全自動で計測結果がログとして不揮発性メモリに記録され続ける。スイッチはトラップ機構になっていて、押したら最後、箱を破壊しない限り止めることは出来ない。どの箱も完璧に電磁遮蔽されているから、外部から記録を消去したり書き換えたりするのは無理なんだ。正式名称はブラックボックス。ちなみにボクの発明だよ。大発明だよ」

 それほどの大発明には思えなかったが、一応感心してみせる。

 「すごいですね」

 「うん」

 葱さんは得意気に黒箱を持ち上げて、はしゃいだ声で続ける。

 「ブラックボックスの外箱はがっちり溶接され封印もしてあるから、痕跡を残さず開けることは出来ないよ。いくつかダミーも混ざっているけど、どれが本命試験用で、どれが対照試験用で、どれが重り以外には何も入ってないダミーなのか、ボクにも分からない。もちろん、ここじゃない別の場所でも、こことそっくり同じ手順で対照試験が行われてる。これは大規模なダブテなんだ」

 「だぶて?」

 「ダブル・ブラインド・テスト。二重盲検法というやつだよ」

 「ああ、新薬の臨床検査で使われる手法ですね」

 「ダブテは何にでも使える基本的なテクニックだよ。この場合、ボクらはどれが本命の計測器か分からないままテストを遂行して、そのまま全てのブラックボックスを中央総研に返す。この実験を計画した総研の連中は、開けた痕跡がないことを確認してからブラックボックスを破壊して、中の記録を取り出して分析する。奴らはどれが本命でどれが対照か全て知っているし、スイッチが押されてから現地のどこにどのくらいの時間置かれたか、実験スケジュールも完全に把握している。だって実験計画を立てたのは自分たちなんだからね。そうやって、ここで起きている局所現象の性質を定量的に把握するんだ」

 「どうしてそこまで厳密にやる必要があるんですか」

 「一つには、ボクや野々村クンが出来心を起こしたり、買収されたりして、検査結果に影響を与えようとする恐れがあるからだな。あとはISO国際規格で、局所現象の公式な検査手順においては、ミクロPK汚染の可能性を排除することが求められている、というのもある」

 「誰がどういう理由で僕らを買収するというんですか」

 葱さんはいたずらを隠している子供の表情で、さーあね、と空々しくとぼけてみせる。

 「ここで起きている局所現象がボクらの想定通りなら、その経済的価値はそれこそ想像を絶するものだよ。藤田さんなんか、ここが日本の、いや東アジア全域の産業中枢になるとか言ってるし。検査結果が肯定的に出たら、ここら一帯の土地価格なんか坪あたりビルが立つほどの値段になるだろうね。もちろん、その前に国が買い上げて確保ちゃうけど」

 「それ、冗談ですよね」

 「まじ、まじ、大まじ。だからこそ藤田さんはキャリアを投げ捨ててここに来たんだし。おっと、配置は完了だね。じゃ、これから一分以内に全ての箱のボタンを押して、試験をスタートさせることにしよう。準備はいいね、一分以内だよ。ちゃんとボタンがホールドされるのを確認してね。じゃ、いくよ。5、4、3、ははっ、1、どん」

 野々村は忙しくなる。最初の黒箱のボタンをぐいっと押し込む。言われた通りカチリという手応えがして、ボタンは押し込まれたままになる。急いで次の箱、その次の箱。最初は楽勝だと思えた仕事だが、次第に苦しくなってくる。一分間に二十箱、ということは、三秒に一箱。

 「残り三十秒」

 葱さんは古めかしい懐中時計を眺めながら大声を出して野々村をあおる。ボタンを押す。カチリ。通り過ぎた場所に押し忘れボタンがあることに気づいて焦る。戻るか。とりあえず先にあちらのボタンを押してしまうか。

 「残り十五秒」

 野々村はボタンを押す。カチリ。ボタンを押す。カチリ。周囲にある黒箱はもう全てスタート済だ。カウントは十七。あと三つ。見逃しがあった。どこだ。あと三つ。

 「残り五秒」

 葱さんの声は何だか楽しそうだ。野々村は必死に探す。あと一つ、あと一つ、あった。あそこのボタンがまだ押し込まれていない。ダッシュする。

 「じゃーん。ぎりぎりセーフだった。これで検査は無事にスタートしたよ」

 葱さんは年代物の懐中時計をポケットにしまいながら、手帳に何かを記入する。たぶん時刻だろう。野々村は額に噴き出してきた汗を、尻ポケットから取り出したハンカチでぬぐった。

 「それで、いったい、この黒箱は何を計測しているんですか」

 「だから秘密だってば。実作業をする人がそれを知らないことが肝心なんだ」

 「じゃ、ここで起きている局地現象というのが何かも教えてくれないんですか」

 「局地現象じゃなくて局所現象。もちろん教えられない」

 「自分で推理したら、正解かどうか教えてくれますか」

 「いいよ。当てずっぽうじゃなくてちゃんと根拠を示してくれたら、正解かどうか教えてあげる」

 「分かりました。考えてみます」

 「考えてみたまえ。さて、黒箱はこれから一千時間に渡って自動で検査を続けることになる。ただし定期的に配置を交換することになっている。規則により、つーかこの規則もどうかと思うけどね個人的には、検査内容をよく知っているボクや藤田さんは検査が完了するまで黒箱に手を触れてはいけないことになっているんだ。だから、この作業はどうしても野々村クンがやらなければならない。そのためにキミを雇ったんだよ。いいね」

 「はい」

 「よし。じゃ今日の作業はここまで。事務所に戻、ってこれ何?」

 二人の間のそれまで何もなかった空間に、いきなり黒犬が現れたのだ。これほど近くで黒犬を見たのは初めてなので野々村も驚いたが、葱さんはもっと大仰に、なひゃあ、みたいな情けない声を出して腰を抜かし、地面に尻餅をつく。

 野々村は棒立ちのまま、葱さんは地面に座り込んだまま、二人とも黒犬をまじまじと見つめていたが、黒犬は視線を気にもかけず、好奇心あらわに周囲の机や葱さんのズボンの裾をふんふん嗅ぎ回っている。

 しばらくして、どうやら満足したらしく、黒犬はたったと眺望荘の方へ走っていった。そして二人が見ている前で唐突に消えた。葱さんはぽかんと口を開けて、黒犬が消えたあたりを凝視している。周囲には硫黄の臭いがかすかに漂っている。

 「びっくりした。びっくりした。ここら辺の野犬はいつもああなのかい」

 葱さんは恐る恐る立ち上がりながら、野々村の方をふり振り向いて、そう尋ねた。

 「ええ。昔からこの山の野犬は『送り狗』と呼ばれていて、旅人が山道を歩いているとあとをつけてきて、転ぶのを待つと言われてます。転んだらたちまち襲われるという話もあれば、餌をあげたら道案内してくれたという話も伝わっています。それに昔からこの山では行方不明者、いわゆる神隠しが多くて、よく『送り狗に引かれた』なんて言い方をするんですよ」

 「ああ、それに類する民間伝承は日本全国にあるね。送り狼とか。でも、何もない空中から突然出現したり消えたり、というかあれはテレポートアニマルというやつかな、とにかくそこら辺は英国の黒犬伝説そっくりだよ」

 「英国にも『送り狗』の言い伝えがあるんですか」

 「あるとも。イギリス、特にスコットランド地方では、どこからともなく現れる黒犬の目撃譚が数多く伝えられているよ。何人も殺された事件もあれば、霧に巻かれ迷子になっていた旅人を黒犬が道案内したという報告もある。何の痕跡も残さずふっと消えたという証言もあれば、爆音や閃光とともに消えて硫黄臭が残った、なんていうのも多い」

 「すごい。そのまんまじゃないですか」

 野々村が感嘆の声を上げると、葱さんは嬉しそうな顔になり、調子に乗って、得意気に腕組みなどして、眉をひそめた額に指二本をもっともらしく当てながら続けるのだった。

 「えーと、十五世紀だったか十六世紀だったか、イギリスの教会に出現した黒犬が参列者を何人か喰い殺して、教会の扉を引っかいて傷をつけてから消えたという記録がある。そのかぎ爪の跡は今も残っているそうだ。こういう謎めいた黒犬の目撃は、英国では二十一世紀の今日まで引きも切らず続いているよ。そう言えば最近の海外ニュースでも、子供を襲った黒犬が両親の目の前で消えた、という事件が報道されていたなあ」

 「その英国の黒犬とこの辺に出没する『送り狗』は、同じ種類の動物なんでしょうか」

 「さあね。向こうの黒犬は人狼伝説とも結びついていて、黒犬にかまれた人が狼になったとか、逆に黒犬が犠牲者の記憶を吸い取って人間に化けたとか、どうも魔物として扱われてるくさいよね。黒犬が人語をしゃべったという証言も多いし、そもそも、消えた後に硫黄臭を残す、というのも悪魔のイメージを連想させる。そういや、送り犬だって、日本じゃ妖怪扱いか。ふむ。興味深い類似だよね」

 葱さんはしばらく腕組みをしたまま何やら考えている風を装って歩き回っていたが、やがてそれにも飽きたらしく、ポケットから取り出した懐中時計をちらりと見て言った。

 「まあ黒犬だろうが、ツチノコだろうが、ヒバゴンだろうが、何が出ようと検査の邪魔さえしなければ気にすることはないよ。さあ、事務所に戻って弁当を食おうじゃないか」

 さすがにヒバゴンが出たら検査の邪魔でしょう。というか比婆山に出るからこそのヒバゴンで、ここらに出たらそれはヒバゴンとは呼べないのでは、などと野々村は思ったが、むろん黙っていた。


 午後のスケジュールは新人教育に当てられている。教師は藤田さんだ。ホワイトボードの前にすっと良い姿勢で立ち上がり、無言で「局所現象科学とは」と書き始めたその後ろ姿は、確かに学校の先生という雰囲気だ。その小柄できゃしゃな背中から感じとれる生真面目でちょっといかめしい感じに、野々村は漠然とした好感を持った。

 事務机に向かって座った野々村の前には、『局所現象と斉一性の破れ』といった専門書から、『サイトスペシフィックとは何か』という一般向け新書、そして『日本における局所現象科学の展望と課題』という文部科学省の刊行物まで、ざっと五、六冊の書籍が積み上げられている。教科書として渡されたのだ。

 「野々村さんは局所現象科学についてどのくらいご存じですか」

 「あの、ほとんど知りません。常温核融合とか、そういうのですよね」

 「そうです。日本では常温核融合ばかりが知られており、局現科学全般に関する認識が欧米に比べて著しく遅れています。欧米の大学なら正規カリキュラムに取り入れて当然と見なしているこの時代に、まだどこかキワモノ的な学問として敬遠する風潮が強いのです。このままでは、長期的に見てわが国の国際競争力に対する大きな足かせになりかねない、という危機感を、まずは共有して下さい」

 「は、はあ」

 共有して下さい、と言われても。

 「詳しくはそこにある本を読んで頂くとして、今日は私から概要だけ説明します。職員全員が局現科学に関する基本的情報、その歴史と科学における位置づけ、経済上の利用価値、世界と日本における局所現象開発の現状について、最低限の知識を持っていることが当センターにおける規範となっておりますので、野々村さんにはそのあたりきっちり理解して頂きます。よろしいですね」

 「は、はあ」

 理解して頂きます、と言われても。

 藤田さんの熱意、というか押しの強さに戸惑いながら、野々村は曖昧に頷くしかなかった。実のところ野々村がこの職場にいるのはカナちゃんの遺体を探すためであり、業務知識には特に興味がなかった。短期アルバイト感覚で就職しただけなのだ。そんな野々村の事情とは無関係に、藤田さんはホワイトボードになぐり書きをしながら、まくし立てるように力を入れて解説するのだった。

 そもそも十七世紀以前においては、自然科学はすなわち局現科学だったと言ってよいでしょう。そのころの博物学や自然史学では、珍しい生物や珍奇な現象こそが研究と記録の主要な対象とされていました。探検家が遠い異国の地から持ち帰った、特定の場所でしか手に入らない貴重な標本や目撃譚を集め、分類し、記録すること。それこそが自然科学の営みだったのです。

 そういった局所現象研究を捨て去り、すべての時間と空間に対して共通に、斉一に適用される法則によりすべての事象を説明できるに違いないという信念こそが、まさしく近代科学の出発点となりました。すなわち、リンゴが木から落下するときの動きと天体の運行は全く同じ法則で説明できるという、当時としては革新的なアイデアから、近代科学は生まれたのです。

 しかし、それゆえに近代科学は「斉一性」という前提に合わない事象は全て無視することになりました。再現性のない事象、特定の場所でしか起こらない事象、他の科学者により追試できない事象は、斉一性を満たさないがゆえに研究対象としてこれを認めない、というある意味大胆な割り切りによって、自然科学はそれから数百年に渡って大成功をおさめることになります。

 あらゆる時空場において斉一的に成立するはずの自然法則が、特定の場所で破れることがあり得るという、いわゆる「サイトスペシフィックな斉一性の破れ」が注目されたのは、そうです、常温核融合の発見によってです。

 一九八〇年代の終わり、英米二人の学者が、パラジウムとプラチナの電極で重水を電気分解するというごく簡単な方法で、試験管の中で核融合が起こることを発見したのです。もしこの現象が斉一性を持っているなら、つまりいつでもどこでも起こる現象であるならば、飛躍的に安価なエネルギー源として利用できることになります。

 しかし、追試の結果は散々でした。いくつか例外はあったものの、最初に報告された研究所以外では、この現象を再現できなかったのです。常温核融合は斉一性を欠いた事象、つまりその研究所でのみ起こる局所現象とされ、自然科学の研究対象にあらず、と判定されました。そのままだったら、おそらく常温核融合はあっさり忘れ去られてしまったに違いありません。

 この状況を劇的に変えたのが、現在のクールフュージョン社の前身にあたる小さな地域電力会社でした。彼らは苦境に陥っていた研究所を、そこで働いていた科学者たち込みでまとめて安く買収し、そこに常温核融合プラントを敷設しました。彼らが売り出した格安電力は驚くほどの商業的成功をおさめ、これにより次世代電力網の整備が飛躍的に進み、さらには電力小口売買ビジネスを促進する法律、いわゆる「スマートグリッド法」の成立へとつながったのです。

 クールフュージョン社の成功は、まさに「斉一性の破れ」こそが経済的価値を生み出すという事実をはっきりさせました。そもそも経済的な価値とは何でしょうか。それはつまるところ希少性です。そして特定の場所でしか起こらない、斉一性を欠いた事象、局所現象こそが真の希少性なのです。

 常温核融合は最初に発見された米国ユタ州の研究所でしか起こらず、他の場所における再現性はありません。自然科学から否定される原因となったその特性こそが、経済的にはこの上ない価値をもたらしました。競合他社が他の場所に常温核融合プラントを建設することは全く不可能なのですから。特許で保護する必要すらありません。

 斉一性を欠いた現象は自然科学の研究対象ではない、といくら科学者や科学哲学者たちが主張しても、それは負け犬の遠吠えめいて聞こえました。科学の定義がどうあれ、現実にマネーを生み出すものが人を、人だけでなく研究助成金も、引きつけるのは当然です。若い研究者たちは雪崩をうって局所現象の研究に取り組みました。

 この新しい科学は「サイトスペシフィック・サイエンス(局所現象科学)」と呼ばれました。しばしば3S(スリーエス)と略されることもあります。これに対して従来のような自然科学、あらゆる時空場で普遍的に成立する法則を探求する伝統的な科学は「斉一性科学」と呼ばれるようになり、しかもこの言葉は何となく古めかしい、時代後れ、といった響きをまとうようになったのです。

 米国の常温核融合に続いてヒットを飛ばした局所現象は、フランスにおける「N線」でした。これは二十世紀初頭に発見されたものの、フランス以外では誰も追試に成功せず、再現性がないことから見捨てられた放射線です。それが二十一世紀になってフランス固有の局所現象として一躍脚光を浴びることになったのです。

 N線には細胞の賦活化という重要な特性があり、レンズにより適切に集中されたN線を生体に浴びせることにより、再生医療が実現できるのです。フランスのナンシー大学跡地に設立された「エヌレイ・メディカル」は、世界最大の再生医療センターとなっています。ここでしか生じないN線を利用した治療により、傷を跡形もなく治癒させることから失われた四肢の再生、臓器の細胞レベルでの再構成まで、患者は奇跡的とも言える再生医療の恩恵を受けることが出来るのです。もちろんエヌレイ・メディカルの予約を取れるのは、世界有数の金持ちだけですが。

 ロシアは局所現象を芸術分野に応用しました。いわゆるサイトスペシフィック・アートです。最も有名なのは「ポリウォーター」でしょう。これは特殊な状態にある水で、分子が通常の水素結合よりはるかに強い分子間引力により重合し、水繊維となっているのです。これもまた二十世紀中頃に発見されていながら、結局は局所現象として無視されることになった物質です。

 ロシアの「ポリウォータークラフトワークショップ」では、水繊維を使って多種多様なウォータードレスが編み上げられています。ポリウォーターは液体のまま重合しているため、水繊維はナイロンと同じくらいの強度がありながら、流体としての性質を保っています。これにより、流れる水そのものを衣服として身にまとうことが出来るわけです。

 服のあちこちに取り付けられた微小ノズルから少しずつインクを放出することにより、モデルが着用した流体ドレスの上を様々な色合いが流れ、拡散し、入り交じり、魅惑的な模様がリアルタイムに作り出され、絶え間なく変化し続けます。才能あるウォータードレス・デザイナー作品のダイナミックな美しさはまさに「着用する流体芸術」であり、その魅力ゆえ、年に一度開催される「ポリウォーター・ファッションショウ」には全世界から観客が詰めかけるのです。

 さらに、ポリウォータークラフトワークショップには各国の芸術家や技術者が集まり、水を素材とする彫刻、流水建築、流水家具、あるいは流水とポリアイス(重合氷)だけで作られたフルードロボットなど、水を自由自在にあやつることでしか実現できない新しい作品を制作しています。

 もちろん、作品や製品を持ち出すことは出来ませんが、たとえ持ち出しても一瞬にしてただの水たまりになってしまうでしょうが、しかし、写真や映像に映すことは可能です。こういったポリウォーター映像作品、いわゆる「ブルーフィルム」の権利を独占することで、今やロシアは莫大な外貨を稼いでいるのです。

 局所現象がサイトスペシフィックだからといって、その利用も局所的だとは限りません。例えばオレゴン州の重力異常地点、いわゆる「オレゴン渦動」においては、現在ダークエネルギーの国際共同研究が進められています。「ディーンドライブ」機能地点に大型マスドライバーを設置して衛星打ち上げに利用するという国際計画も進められています。もっとも後者については兵器転用が可能なことから反発の声も強く、先行きは不透明ですが。

 翻って日本における局現科学の現状を見てみると、今のところお寒い限りとしか言いようがありません。一部の私立大学を除き、大学での教育体制は整っていません。そもそも局現科学を包括的に教えられる教師がいないのです。

 応用に関しても体系的なアプローチは皆無と言ってよい現状です。「不燃ゴミへのフロギストン(熱素)強制注入による可燃ゴミ化」の技術が実用化され、新型ごみ処理施設が稼働を開始したというニュースはご存じでしょう。あれは埼玉県が自主的に推進したもので、政府や国としての支援はありませんでした。むしろ規制を楯に、妨害しかけたくらいです。

 埼玉県のフロギストンごみ処理場にしても、山口県のキルリアン画像診断クリニックにしても、宮崎県の百匹目猿学習塾にしても、いずれも局所現象の応用としては小粒です。海外のように国家レベルの構想もありません。これではまずいということで、文部科学省が経済産業省の支援も得て局現科学センターを立ち上げたのですが、活動に必要な予算は限られているのが実情です。

 この状況を打破するためには、ホットスポットと呼ばれる大物の局所現象を見つけることが肝心です。潜在的に莫大な経済価値を持つ局所現象が国内で発見されれば、関係省庁も政治家も権益確保のために動くでしょう。こういうときの素早さはお家芸ですし。

 野々村さん。私たちはここがそのホットスポットだと考えています。それを立証するのが今回の検査プロジェクトの目的なのです。ですから野々村さん、あの、野々村さん? 起きて下さい。起きて下さい。お・き・て・く・だ・さ・い! はい、じゃありませんよ。眺望荘に行って顔を洗って来なさい。今すぐ。い・ま・す・ぐ・にっ。ああ、もう!


 箱19を机Hから机Jへ移動。箱07をJからMへ。箱13をMからTへ。野々村は黒箱を運び続ける。黒箱の配置パターン変換は素早く完了させなければならない。箱05をTからRへ。数日おきに行われるこのパターン変換作業が肉体的には最もきつい。黒箱はけっこう重いのだ。配られた紙に書かれた指示に従って駐車場跡を走り回らされる。箱09をRからBヘ。夏の終わりの日差しが容赦なく照りつけてくる。

 「おーけー、それで完了。第六パターンでの測定フェイズに入るよ」

 葱さんが時刻を記録する。これも決まりきった手順だ。日によっては、いくつか黒箱を物置に戻し、それまで物置に仕舞い込んであった新しい黒箱と交換して、新たにボタンを押して起動するという手順がはさまることもあった。

 黒箱の交換や配置パターン変更が終わると、後はそれなりに楽な仕事だ。葱さんが行う土地測量や定点観測を手伝い、市街地まで食料その他もろもろの買い出しに行く。そして自転車に積んで山道を登って帰ってくる。これで午前中の仕事は終わり。

 昼休みになると、野々村はコンビニ弁当を素早く食べ終わってから眺望荘の裏庭に行く。そしてカナちゃんの遺体を探す。今のところ収穫なし。

 午後は授業。藤田さんが出した課題について、下宿に帰ってから教科書や参考書を読むなりネットにアクセスするなりして調べ、自分の考えをまとめてレポートに書いてくるというのが毎日の宿題で、授業ではそのレポートについてディスカッションすることになっている。重要な情報源はたいてい英語で書かれているので、宿題をこなすのは大変だ。

 夕刻になると全員出席の、といっても三名だけだが、ミーティングが行われる。藤田さんは当初「デブリーフィング」と呼んでいたが、葱さんが非公式に命名した「おひらき会」の方が呼び名として定着していた。

 その後、それぞれ業務日誌の記入を開始し、書き終わった順に帰宅する。いつも葱さんが最初、次が野々村、藤田さんは難しい表情で何やら真剣に書きつけているので野々村は怖くて声がかけられず、小声で「おさきに」とつぶやいてからノートを壁にかけ、急ぎ足で事務所を出て行く。

 おおむね毎日がこの繰り返しだった。

 必死になって走り続けているうちに一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、気がつけば一カ月が過ぎ去っていった。検査プロジェクトは特に支障もなく順調に進んでいる。あれから二度ほど現場に黒犬が現れたが、特に悪さもせずあたりを嗅ぎ回ってから消えるだけだった。

 この一カ月に渡って毎日少しずつ調べたものの、眺望荘の裏庭にはカナちゃんの遺体はないようだった。黒犬が背後の林の中に引きずって行ったのだろうか。林は下生えが繁茂していて、一人で昼休みにちょっと捜索したからといってどうなるものでもなさそうだったが、野々村は当初はいちるの望みから、後には惰性というか習慣になって、毎日の捜索活動を根気よく続けていた。


 走り回って赤いボタンを押しまくったあの日から一千時間が経過し、めでたく検査は終了した。もうミクロPK汚染防止とやらの配慮は必要なくなり、葱さんと野々村、それに藤田さんも手伝って、黒箱に目立つ黄色の検査完了シール(日付、期間、場所、担当者、連絡先などが記入されている)を張り、リヤカー数台(このときに備えて数日前から用意してあった。台車で山道を下るのは御免だったからだ)にきちんと積んで、三人で波止場にある倉庫まで運んだ。

 季節はすでに秋になっていたが、まだまだ日中の気温は高く、全ての黒箱を倉庫の棚に納め終わったときには、三人とも汗だくになっていた。中央総研と契約している運送会社のトラックが引き取りにくるまで三人で見張っていようと葱さんが言い出し、驚いたことに藤田さんも賛成した。

 近所のコンビニで軽食と飲物(アルコールは駄目だと藤田さんが釘をさした)使い捨て食器の類を買ってきて、倉庫の中でささやかな打ち上げ会を行うことになった。

 殺風景な倉庫の中が、何とも言えない奇妙な高揚感のようなものに満たされた。葱さんは「あー、やっと終わったあーっ」と浮かれて飛び跳ね、腰をくねくね揺する変なダンスをしたかと思うと、柔道の受け身の型を何度も何度も練習するという意味不明なはしゃぎ様だった。それを見て藤田さんも、まるで何かのたがが外れたように、明るくけらけらと子供のように笑い転げた。

 野々村もハイになって、倉庫床に仰向けに転がって涙が出てくるほど笑った。もう何がおかしいのか分からないが、コンクリートの床に転がると背中がひんやりとして気持ちがいい。葱さんは受け身の練習に飽きたのか、そのまま床に大の字に寝ころがる。藤田さんも、立て膝を両手で抱え込み、いわゆる体育座りの姿勢をとる。修学旅行の夜のような、親密で、くだけた雰囲気が三人を包み込んでいた。

 「野々村クン、ご苦労サマでした。何の検査をやってるのか、わけも知らされずに仕事するのは不満だったろうけど、黙々と働いてくれて本当に助かったよ。この人が、カタイこと言うからさあ」

 「わたしが言ったんじゃなくて、規則でそうなってるでしょう」

 「あーもう、名誉毀損とセクハラで訴えられるようなことを言いたくて仕方ないよう」

 「言ってみなさいよ」

 「せんせーにしかられるからやだ」

 「いくじなし」

 「あの、今まで黙ってたけど、何の検査か気づいてましたよ」

 野々村がそう言うと、葱さんと藤田さんはぎょっとした顔でこちらを見た。葱さんはいきなり上半身を起こし、藤田さんは体育座りから横座りの姿勢に移った。

 「だって、わけぎさんが、考えてごらん、って言ったじゃないですか」

 「言ったよ。で、野々村クンの考えは。聞かせてよ」

 「ここらで起きている局所現象は、SLI、つまり街灯干渉じゃないでしょうか。ブラックボックスは、電子機器がどう故障するかを調べるためのものでしょう」

 聞いていた二人が思わず顔を見合わせる。

 「こりゃ驚いたな。正解だよ」

 街灯干渉。ストリートランプ・インターフェランス(SLI)とは、特定の場所に置いたとき、あるいは特定の人物が近づいたとき、電子機器や電器製品に原因不明の故障が起こるという現象だ。街灯に関する報告が多いためにこう呼ばれているが、故障する機器は街灯に限らない。いくら新品に交換してもすぐに切れる電球、動かなくなる家電、エラーを起こす電子機器。徹底的に調査しても原因不明のまま、繰り返し起こる故障。それらは、総称してSLIと呼ばれている。

 「野々村さん。気づいたのはいつ頃ですか。業務日誌には書いてませんよね」

 「あえて書きませんでした。気づいたのは一週間くらい前です。事務所の壁掛け時計が少し遅れていたので、針を進めようとして壁から外してみたら、今どき珍しいゼンマイ式でした。そう言えば、わけぎさんの懐中時計もやたら古めかしいんですが、ねじを巻くやつじゃありませんか」

 「うん。そう。その通りだよ」

 「もともと、あの事務所は何だか変だという感触が最初からあったんです。そのときになってようやく理由が分かりました。あそこには、事務所にはつきものの電子機器や電器製品が全くありません。電話、パソコン、プリンタ、ファックス、コピー機、それどころか照明すらない。すぐ近くの眺望荘までは電気も電話線も来ているのだから、工事のときにちょっと引き込むくらい簡単なはずなのに」

 「必ずしも簡単ではないけど、まあ言いたいことは分かるよ」

 「電源や電話線の問題じゃないんです。カセット式ガスコンロは電子着火式じゃなくてマッチで火をつけるタイプだし、車の乗り入れは全面禁止。これはおそらく点火プラグかバッテリーのせいでしょう。携帯電話も持ち込み禁止。計測器に対する電波干渉を防ぐため、と藤田さんはおっしゃいましたが、計測器であるブラックボックスは完璧に電磁遮蔽されています。ということはつまり、あれは嘘の口実ですね」

 「ええ。そうよ」

 「そもそも眺望荘が廃業に追い込まれたのも、原因の一端は照明や電器製品や自動車に起きる不具合の多発でした。それを考えると真相は簡単に分かりました。ここで起きている局所現象は、電子機器や電器製品を故障させてしまうものに違いない。調べてみたら、まさにそういう現象がありました。街灯干渉、SLIです」

 「うーん。ちょっと考えれば誰にでも分かることだとは思っていたけど、まさか野々村クンが気づくとはなあ。想定外だったよ。素晴らしい。立派」

 それ、少しも褒め言葉じゃありません。心の中で突っ込みつつも、野々村は続ける。

 「でも分からないのは、どうしてSLIなんて地味な局所現象がホットスポットになるのかということです。莫大な経済価値がSLIのどこから出てくるのか、いくら考えてもそれが分かりません」

 「んー。まあそうだろうな。じゃ、ボクが説明したげよう。もういいでしょ?」

 藤田さんがうなずくのを確認して、葱さんは早口でまくしたてた。ずっと説明したくてうずうずしていたのだろう。

 「ここらで起きているSLIは極めて正確で、そう、局所再現性が高いんだ。MTBF、つまり平均故障間隔時間って言うか、まあぶっちゃけ製品のスイッチを入れてから故障が起きるまでの平均寿命だと思っていいけど、それがここら辺では劇的に短くなる。ただ短くなるだけじゃなく、その短縮率、SLIレシオが安定しているんだ。ここがキモだよ。正確なSLIレシオを測定するのも今回の重要な目標の一つだけど、まあ1800から1900の間だと見積もられている。話を簡単にするために2000だとしておこう」

 「つまり、ある製品の平均寿命が二万時間だとすると、ここらでは十時間で故障するということですね」

 「そうそう。逆に十時間で故障が起きれば、その製品の寿命は二万時間だと推定できるわけだ。SLIの凄いところは、もしある製品の平均寿命が二千時間なら、必ず一時間で故障を起こすというところなんだよ。統計的な考慮は必要ないんだ。要はここらに置いて一時間で故障を起こした製品は、もし他の場所で使っていれば二千時間で故障を起こしたであろう蓋然性が最も高い。これは二千時間で確実に故障する、という意味じゃないよ。違いは分かるね」

 「わかります」

 「よし。これが製造業にとってどれほどの恩恵か分かるかい。製品の故障率を測定するためには、多くの試験体を用意して、長時間に渡るテストを行わなければならない。手間も時間も試作材料費も、全てが多大なコストとなるよね。しかも結果は統計的に推測できるだけだ。それが、ここで試験すれば、わずか数時間の検査で確実に製品寿命が分かるんだ。これが経済的利用価値その1」

 「その1ということは、他にもあるんですか」

 「あるある。SLIでは製品はもっとも蓋然性の高い故障を起こす。繰り返すよ。ここらに置いた製品が起こす故障は、必ず、最も高い蓋然性を持つ故障なんだ。意味が分かるかい」

 「えーと、何となく。例えば街灯の柱が折れたりケーブルが融けたりするよりも、電球のフィラメントが切れる確率の方が高いから、SLIでは必ず電球が切れる、ということですか」

 「そうそう。言い換えれば、SLIでは必ずボトルネック部分が故障するということだ。品質に問題がある製品には、必ずボトルネックとなる不良箇所がある。それは、電源かも知れないし、モーターかも知れない。駆動部分の材質、高温による変形、半導体の不良、あるいはプログラムにバグがあるかも知れない。数ある可能性の中でもっとも故障を引き起こす蓋然性が高いボトルネックを見つけ出すのは、これは大変なことなんだ。たまたま試験中に生じた故障個所の設計や材料を手直ししてみても、本当のボトルネックを修正しない限り品質は高まらない。ボトルネックを見つけるためには、何度も何度も試験を繰り返す必要がある。これには膨大な時間とコストがかかるよね。そして、またもや、SLIが全てを解決してくれるんだ。ここに置いて最初に起こった故障がすなわちボトルネックなのさ」

 「あ、なるほど」

 「ね、分かるでしょ。ここで製品を検査すれば、短時間に、確実に、故障率が分かる。ボトルネックも分かる。ボトルネックを修正して、またここで検査する。これを数回繰り返すだけで、極めて短期間で製品の品質を劇的に、しかも確実に向上させることが出来るんだよ。コンピュータや自動車など複雑な製品については、開発期間の実に半分以上が、検査、修正、デバッグに費やされている。品質確保のために必要なコストは場合によっては全体コストの七割以上を占めると言われている。それが事実上ゼロに近くなるんだ。ここに製品検査センターを建てればね」

 「野々村さん。近い将来ここに設立されるであろう品質管理施設によって、わが国の製造業は奇跡的な国際競争力を持つことになるのよ。開発期間は半減、コストも大幅圧縮、しかも高品質を確実に保証できるようになる。驚異的だわ。ここから、ものづくり日本の再生が始まる、と言っても過言ではないの。米国はエネルギー、フランスは医療、ロシアは芸術。でも日本は局所現象を利用した安価で高品質な製品によって世界市場を再び席巻することになる」

 「は、はあ」

 話が大きすぎてうまく消化できない。まるで現実感がなかった。

 「というわけで、大ぼら広げすぎて相手にされなかったボクのレポートを、何と本気にしたわれらが夢見る乙女、文部科学省の女傑、藤田女史が今回のプロジェクトを立ち上げて、国民の血税つぎ込んで強引に進めたというわけ。というわけでボクの番はおしまい。次は藤田さんどうぞ」

 「何がどうぞなの」

 「いや告白タイムということで。野々村クンとボクの番は終わったから、次は藤田さんが隠していたことを白状する番だと」

 「わたしは何も隠してません」

 「野々村クンを情実採用したとか」

 「してません!」

 「この人、キミを最初に見たとき、幽霊かと思ってぞっとしたそうですよ、野々村クン。子供の頃につるんでいた幼なじみにそっくりで、その幼なじみは死んだとばかり思い込んでいたんだって。後から履歴書を調べて、やっぱり近所のコウちゃんだ、とか嬉しそうに言ってんの。ちょっと気になる幼なじみの男の子を、情実採用で自分の部下にしちゃう。わああ、ぐっとくるシチュエーションだよね。こう、ぐっとね」

 「わけぎさん、誤解を与えるようなことを言わないで下さい」

 「じゃあ、藤田さんの告白たーっいむ。二人のなれそめなど激白してちょ」

 「あの、すいません。もしかして、あの、か、カナちゃん?」

 混乱して口走る野々村を前に、藤田さんは困惑顔のまま、しぶしぶという感じでうなずいた。

 「ええ、そうよ。コウちゃん。おひさしぶり。そして、ごめんなさい」

 いきなり藤田さんが頭を下げる。野々村はどう反応したらいいのか分からない。


 そもそも、なぜ気づかなかったのだろう。藤田さんのフルネームは事務所の壁にかけられた業務日誌の表紙にはっきりと書いてあったのに。藤田奏。ふじた・かなで。つまり、カナちゃん。

 藤田さんの話によると、あのときコウちゃんが黒犬に襲われるのを見てパニックに陥ったカナちゃんは、彼を見捨てて(助けようという発想はちらりとも思い浮かばなかったそうだ)、必死で走って山道を駆け上ったらしい。しばらくして黒犬もコウちゃんもついて来ないことに気づいたカナちゃんは、てっきりコウちゃんは黒犬に喰い殺されたと思って怖くなり、山を下ってそのまま自宅に戻ったという。結局、コウちゃんがどうなったのか分からないまま、翌日に家族で引っ越してしまった。

 それからずっと後悔してた、藤田さんはそう言った。自分は「お姉さん」として頼られていたのに、幼い「弟」をあっさり裏切って逃げてしまった。ひどいことをした。あのとき死んでしまったにせよ、まだ生きているにせよ、コウちゃんに謝らなきゃ。そう思いつつも、家族全員で引っ越してしまった以上、郷里に戻るよい機会もない。気がかりなまま、歳月は無情に流れていった。

 ここで発見された局所現象の調査責任者に手を挙げ、せっかくそれまで血のにじむ思いで築いてきた、というか、もぎ取ってきたキャリアを投げ捨てるような選択をしたのも、もちろんSLI商業利用の大きな可能性を信じてそれに賭けたという面もあるが、心残りな現場を再訪する絶好のチャンスだという思いもまたあった。何かが手招きしているようにすら感じられたと、藤田さんはそう言う。それは合理的な判断というより直観に従った決断だった。後悔はしないという自信はあった。

 そして事務所に着任してから、とりあえず例の現場を見ておこうと思って眺望荘の裏庭に行くと、そこに何やら怪しい人影が立っている。顔をよく見ると・・・。

 「でたあーっ」

 葱さんがいきなり大声で叫び、藤田さんは思わず両耳に手のひらをぎゅっと当てて、「きゃあああーっ」と悲鳴を上げてしまった。それから怒りのあまりぷるぷる身を震わせた藤田さんは、大笑いしている葱さんに向かって、あんたなんか死んじゃえ、今すぐ送り狗にへそ噛まれて死ね、などと叫びながら、そこらにあるものを手当たり次第に投げつけ始める。半分は照れ隠しのようにも見えた。

 投げるものが尽きたところで、藤田さんは肩で息をするようにぜいぜいあえぎながら、ふと我に帰り、とにかくそういうわけであのときはごめんなさい、野々村に向かって再び頭を下げる。そして、すねたような口調で付け加える。でもコウちゃんってば、全然気がつかないんだもん、ちょっと傷ついたかも。くよくよ気に病んでたのは、こっちのひとり相撲だったわけ? わたしのこと完全に忘れちゃったの? えー、それってちょっと薄情すぎない?

 野々村は混乱の極みにあって、ほとんど硬直している。葱さんが、君たちいい歳してどうのこうのと言いかけたとき、倉庫の外に大型トラックが到着した。扉ががらがらと大きな音を立てて引き開けられ、作業員が何人も入ってくる。倉庫内のはしゃいだ空気は唐突に消え失せ、そこは気ぜわしい作業場所に戻った。

 積み込みが終わってトラックが去ってゆくと、倉庫の中は、がらんとした洞窟のように感じられた。あたりには白けた気分が漂い、何となくそのまま解散ということになった。倉庫を出ると、頭上の空には夕暮れの気配が重く立ちこめ、深緑の海が、その底から海面に向かって盛り上がってくるようなうねりが、秋の深まりを告げていた。

 倉庫のドアを閉め、鍵をかける。夜気が冷えていることに今さらながら気がつく。

 藤田さんは心残りがあるかのように、かけた鍵の具合を何度も確認して間をつぶしている。葱さんは両手を頭の後ろで組んで、ぶらぶらと挙動不審げに歩き回っている。これで本当に終わったのだ、終わってしまったのだという、達成感と寂しさが入り混じった感傷的な気持ちに誰もがとらわれていた。

 明日からは建築会社がやってきて事務所の撤去が始まる。眺望荘を中心とする一帯は、国の臨時保護地域として現場保全が徹底され、三人も立ち入りは出来なくなる。このメンバーが顔をあわせるのも、おそらく今夜が最後の機会だ。野々村には、正規職員としての再雇用、和歌山市内にある支局への転勤という話が提示されていたものの、まだ何とも心を決めかねていた。

 立ち去りがたい気分を抱えたまま、三人は所在なげに倉庫前にたたずんでいる。誰もが何も言い出せないまま、彼らの間には微妙な緊張感が張りつめていた。藤田さんは、まだ倉庫の鍵をぼんやりといじりながら物思いにふけっている。野々村は立ち尽くしている。

 葱さんが、やれやれ仕方ないな、ここはボクが何とかしなきゃな、と言わんばかりの、気取った様子で立ち止まる。無理やり明るい声で「んじゃ、また」と、いつもの挨拶と共に片手を挙げた。毎日、事務所を出て帰宅するときいつもそうしていたように。

 しばらく気の抜けたような間があり、それから藤田さんが、相変わらず倉庫の閉じた扉の方を向いたまま、背中で「お疲れさまでした」と、これまたいつも通りに応じる。挙げた片手を下ろすに下ろせないで困っていた葱さんは、見るからにほっとした様子で手を下ろし、意を決したように歩き出した。遠ざかってゆく。

 残された野々村は、自分もいつも通り「おさきに」と挨拶して立ち去るべきなのだろうか、どうしようか、と迷いつつ、うつむいていた。そのとき、藤田さんが、野々村に背を向けたまま、消え入りそうな小さな声で「あのときのプレゼント、私まだ持ってるのよ」と、つぶやくようにそう言った。本当にただの独白かも知れなかった。

 はっとして顔を上げたときには、藤田さんは野々村の反応を待たず足早に立ち去ろうとしていた。その小柄な背中と切り揃えた短い後ろ髪、片意地を張っているかのようなこわばった足どりに、ふと胸をつく痛みを感じた野々村は、とっさに声をかけようかどうしようかと迷った。野々村はいつも迷う。けれど、そのときにはすでに彼女の後ろ姿は深まりつつある夕闇の中にかすんで消えようとしていた。


 海岸通りの交差点で立ち止まった野々村は、まっすぐ下宿へ向かうのを止めて、ぐるぐる渦を巻く思考を整理するために、すこしあたりをぶらついて潮風にあたってみることにした。

 カナちゃんは生きていた。それはいい。問題は、ではあのとき野々村が見た遺体はいったい誰なのか、ということだ。あの場に第三者がいたのか。それとも遺体はずっと前からそこにあったのだろうか。遺体の首からは勢いよく血が吹き出ていた。それは間違いない。前からあった遺体ではない。

 待てよ、野々村の頭はふと冷静になる。カナちゃんが山道を駆け上がって行ったとき、自分はどうしていたのか。夢の中の追体験を思い出す。自分もまた、全力疾走していた。カナちゃんと反対方向に。つまり麓へ。山道を下った。そして息があがってきたころに、いきなり足元が崩れたような感触がして、草地に叩き伏せられたのだ。ということは。ということは。

 遺体が誰のものであるにせよ、そもそも眺望荘の裏庭に転がっているはずはないのだ。この一カ月あまり、ずっとあそこで遺体を探していたのは全くの見当違いだった。あのとき自分は全力疾走して山道を下り、そして、そうだ、あの低い崖から落ちたのだから。

 ようやく真相に気づいて野々村は愕然とする。そうだ。自分はあの崖から、下の草地に落ちて気を失った。それを見た誰かが様子を確かめに崖の下にやって来る。後を追ってきた黒犬たちが崖から飛び下りてきて、その誰かに襲いかかって喰い殺してしまう。直後に気がついた自分は、その恐ろしい光景を目撃することになった。

 だとすると、だとすると。気付くと、野々村は交差点をいつもと反対方向に曲がって、あの崖に向かって歩いていた。もちろんそうだ。遺体は崖の下にあるのだ。おそらく崖から身を乗り出せば見えるところに。毎日、あの崖の上を通って事務所に通いながら、一度としてそのことに気付かなかった。

 明日にでも出直してくるべきだというのは分かっていた。しかし、そうするには野々村は興奮しすぎていた。崖の下に行けば遺体が見つかるに違いない。十五年間ずっと気がかりだった謎が解けるのだ。今夜、決着をつけよう。

 どうしても今でなければならない、今やらなければならない、自分でもよく分からない切迫感に突き動かされ、野々村は崖の下へ向かう。途中でコンビニに寄って、懐中電灯を買った。それと遺体を包んで持ち帰るための大きなビニールシート。持ち帰ってどうするかということは考えなかった。見つけてから悩めばいい。

 草地を崖に向かって歩き続けるうちに、日が完全に暮れてしまった。不運なことに今夜は新月だということに気付いたのは、現場に到着してからだ。頭上に広がる星空をバックにそびえ立つ崖の、黒々としたシルエットが頭上からこちらに迫ってくるように感じられる。虫の声がやかましいほどに響き渡り、足元はほとんど真っ暗で何も見えない。

 野々村は、懐中電灯をつけて左右にゆっくり振りながら、崖の下の草地を歩き回った。草は足首や膝の高さから場所によっては腰の高さまでのびている。懐中電灯の心もとない光は、草のカーペットに黒々とうずくまる影だまりを作るばかりで、とても遺体を見つけることなど出来そうにない。遺体どころか、たとえ黒犬がここらに潜んでいたとしても、見逃してしまうのではないだろうか。

 やがて懐中電灯の光が急に弱々しくなったかと思うと、ふっと消えてしまった。慌てて振ったりスイッチを何度も押し直してみたりするが何の効果もない。どうやら電球が切れてしまったようだ。買ったばかりの新品なのに。もしかして、ここまでSLI効果が及んでいるのだろうか。

 もはや、なすすべはなかった。野々村は暗闇に飲み込まれ立ちすくんでいた。あらゆる方向から降り注ぐ虫の音は感覚を麻痺させ、もう自分がどこにいるのかどちらを向いてるのかも判然としない。遠くでは潮騒がかすかに響き、山から吹き下ろしてくる冷たい風が周囲の草をざわつかせる。

 野々村はあきらめて腰を下ろす。降りかかる虫の音と固い草葉の感触に包み込まれると、もう全てがどうでもいいような投げやりな気分になった。気温はどんどん下がっている。このまま眠ってしまえば、目覚めることなく凍死するだろうか。そうしたら、遺体をカナちゃんが見つけてくれるだろうか。

 そのとき、目の前の草が、白々と輝いていることに気付いた。あわてて周囲を見回す。草地全体が雪景色のように白い燐光を発していた。病室の白いシーツの真ん中に、ぽとりと落ちた虫になったように感じる。それとも、白い結晶の海に漂う小さな胡桃だろうか。純白に輝く草波が山風に吹かれ、ざわざわと白結晶の海を彼方へ彼方へと渡ってゆく。

 頭上を見上げると、そこには満月。黄色でもクリーム色でもない、一点の陰りすらない真円が、偽月がそこにあった。新月の夜にだけ現れるという偽月。この地方では珍しくもない、蜃気楼のようなものだ。だが、これほどまでに、くっきりと明るい偽月を見たのは初めてだ。天頂からまっすぐに降ってくる白銀のスポットライトがあたりを照らし出す。

 最初は、捨てられた古着かと思った。白く輝く草地に、そこだけ闇が取り残されたかのように横たわる黒いかたまり。近づいてよく見てみると、それは古着ではなかった。ぼろぼろの布と燃え残った木片を混ぜて無造作にゴミ集積場に置いたような、それが遺体だということを野々村は知っている。

 手を伸ばして触れてみる。陰惨な気配も恐ろしい感触もなく、それはたき火の跡のように乾いていて、かさかさと音を立てる。この汚れた消し炭のようなものが、人間の骨だというのが信じられない。探っているうちに、遺体に巻き付けてあったものが、がさりと耳ざわりな音を立てて草地に転がる。

 かつては衣服だったに違いない布切れの束や、消し炭のような骨と違って、手に持ってみるとそれは固く、重く、そして手応えがあった。持ち上げて子細に眺めてみる。表面は汚れていて判別がつかないが、形からそれが何であるかはすぐに分かった。仮面ライダー変身ベルトだった。

 本当の自分を受け入れる覚悟がある者がヒーローなんだよ

 じゃあコウちゃんはヒーローなんだね


 草の匂いが土石流のようになだれ込んでくる。草葉の重なり、その湿った根のもつれ、振動する虫たちが分泌する切羽詰まった滴、散在する岩のなまめかしいぬくもり、その下でうごめく小さな節々のあるものたち、吹きつける山風を織りなす雑木林の呼吸、そして彼方の波しぶきまでも、周囲にあるものが一つ一つ、濡れたような生々しい感触を伝えてくる。

 見えている光景を「自分はまさに今そこにいる」というリアルな実感として裏付けていた嗅覚が、今や外界認識の中枢となっていた。あらゆる場所がその境界線を失い、あらゆるものがその輪郭を捨て去り、立体的にまき散らされた嗅像として再配置されてゆく。それぞれの嗅像には色も形もないが、したたるような質感と疎密感がそこにある。嗅ぐことが出来る。

 偽月の光のもと、視覚系から嗅覚系への移行プロセスは着実に進んでゆく。嗅覚の世界こそが真実だった。それに比べれば、これまでの外界認識はテレビ画面と大差ない薄っぺらな絵に過ぎなかった。事実上ないも同然の嗅覚では、どんな眺望もただ漫然たる背景としか感じられない。それは以前から知っていたような気がする。

 頭上には偽月。視覚でとらえた白い真円とは違い、それは今や、硫黄の匂いを放つ嗅像だった。溶岩のように融けながら自転する光。以前なら漠然と「硫黄臭」としか感じられなかった嗅像が、今や溶岩色の輝きを放つ巨大な回転浮遊体としてはっきり嗅知できる。圧倒的な存在感を放つそれは、ゆっくりと移動していた。山頂に向かって。

 遠く、近く、また遠く、懐かしい嗅像が現れた。同族たちが、チェンジリングの帰還を歓迎しているのだ。今や、はっきりと理解している。SLIは単に電子機器を故障させる現象ではない。それは全てをそうあるべき真の状態に戻す、というか人為的に低く抑えられていた蓋然性を解放する現象だ。機器が故障するのは、機能しているよりも故障している方が機器にとってずっと「そうあるべき真の状態」だからに過ぎない。

 嗅覚系の世界が深みとひろがりを増してゆく。今や他の感覚ではとらえることの出来ないものでさえ、この上なくはっきりと嗅知できる。その内部構造も、弾力性も、質感も、表面のぬめり具合も、何もかもが手にとり舌でなめるように鮮烈に感じとれた。嗅野全体が次第に鮮明さを増してゆく。それは、匂いの薄皮を何枚も重ね焼きしたミルフィーユに沈んでゆくような体験だった。

 偽月は回転速度を上げ、急に嗅野いっぱいに広がったかと思うと、次の瞬間には一点へと収縮し、その激しい脈動を繰り返しながら滑るように夜空を飛翔してゆく。

 偽月を追って同族たちが疾走する。跳躍する。旋回する。四肢を思うがままに駆り、蓋然性を解放し、何もかもがそうあるべき状態へと飛び込んでゆく。色も形もない嗅野の大地を走ってゆく。嗅像が重なり合い共鳴しあう海を、臭跡の波紋をあとに引きながら、力強く泳ぎ渡ってゆく。

 遠吠えがあがった。あちらで、こちらで。次々と呼応する吠え声があがる。重なる遠吠えが偽月と大地の間を満たす。その響きが身体を震わせ、ますます猛らせてゆく。

 息を大きく吸い込んで空を見上げとき、ふと誰かの声が脳裏によみがえる。

 あのときのプレゼント、私まだ持ってるのよ

 射し込むような悲嘆が背中を走り、胸に痛みをもたらす。いくど遠吠えをしてもそれを吐き出すことが出来ない。

 あれはいつのことだったか。わざとぶっきらぼうな声で尋ねた。プレゼントって何?

 寂寥はいつか嗅いだあの血のにおいがする。空を見上げ、血のにおい、絶叫する。何度も何度も、遠吠えを繰り返す。四肢を千切れんばかりに駆り立て、力の限り疾走する。何を追っているのか、何に追われているのか、もう分からない。

 プレゼントって何?

 それを知ることはついに出来なかった。



超常同人誌『Spファイル』8号に掲載(2010年8月)
馬場秀和


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