団塊世代の60年

馬場秀和


 社会学等において狭義にいうところの“団塊世代”とは、1947年から1949年までの三年間に生まれた人々を指す。ただし、この言葉は、やや侮蔑あるいは揶揄の響きを含むことが多いため、公式な論文や報告書では“第一次ベビーブーム世代”という用語を用いるのが一般的である。なお、否定派、あるいは懐疑派の文献では、“全共闘世代”と呼ばれることも多い。

 日本では、1947年から1951年までの五年間に、実に1000万人以上もの新たな人口が生まれたのである。前述した狭義の団塊世代は、そのうち800万人を占めている。これだけの短期間に、これだけの人間が産まれたことは、日本史上かつてなかった出来事である。おそらく今後も永久にないことだろう。団塊世代は、まさに空前にして絶後の巨大ジェネレーションなのだ。

 団塊世代については、肯定派・否定派・懐疑派など様々な立場から書かれた、一般書籍を含む多数の資料が手に入る。しかしながら、まことに残念なことに、特定の結論に誘導するために恣意的に選ばれたエピソード(事例)の羅列に過ぎないような粗雑な書物も、また多いようである。

 個々の事例について知ることも大切だろう。しかし、事例というものは、歴史という大きな文脈に照らして見たときに、始めてその意義と位置づけが明瞭になると、著者はそのように考えるものである。

 このような理由から、本稿では、個々の事例についての説明は最小限にとどめ、むしろ「団塊世代をめぐる60年の歴史の流れ」の概観をまとめることに専念した。読者が、大雑把な歴史の流れを感覚的に把握しておくことで、個々の事例を調べるときに「それが歴史に対してどのような影響を与えたのか、どのように影響を受けたのか」という観点から深く理解する一助となるなら、本稿の目的は達せられたことになるだろう。

 なお、本文中では、さらに詳しく学びたいと思う読者のために、特に重要な事例あるいは固有名詞について、カギカッコ『 』でくくって示してある。まずはこれらを手がかりに、さらなる学習を進めていって頂きたいと思う。


【1947年 誕生】

 新聞に初めて「団塊世代」という言葉が登場したのは、1947年6月24日のことである。この日、パイロットでもあるケネス・アーノルドが、分娩室に高速で運び込まれる9人の妊婦を目視した。これが、今や伝説となった『ケネス・アーノルド事件』である。

 彼は、自分が目撃した光景について「彼女たちは、一団の塊となって次々に産婦人科に搬送されて来た」と語ったのだが、新聞記者はそれを記事内で「団塊の世代が生まれた」と表現し、結局はこの言葉が世間に定着したのである。

 ここで注意しておかねばならないのは、もともとのアーノルドの証言においては、“団塊”という言葉は搬送の様子を描写したもので、生まれてきた世代の特徴を指していたのではないことである。だがこの言葉は、大衆のイメージを刺激する強い力を持っていた。

 アーノルド事件の翌月には、原油価格の急上昇による社会的パニックが生じている。株価が墜落し、国債が回収された、という噂が駆けめぐり、人々はトイレットペーパーの買いだめに走った。これがオイルショック、あるいは『ロズウェル事件』である。このとき墜落したものの正体は、“高高度経済成長ターゲット”に過ぎなかったと発表され、パニックは納まった。少なくともこの時点では。


【1948年 三大クラシックス】

 1947年からの三年間、まさに集中的に、赤ん坊が出産された。この現象は、後に“第一次ベビーブーム”と呼ばれることになる。(出産は特定の年に集中する傾向があり、これらの年は“ブーム”あるいは「フラップ」や「ウェーブ」などと言われることも多い)

 1948年に世間を騒がせた事件のうち、『三大クラシックス』と呼ばれるようになったケースは、後に団塊世代が背負うイメージを、既にこの時点において余すことなく体現していたと言えるだろう。

 最初の事件は、『マンテル大尉事件』と呼ばれている。1948年1月7日、激しい高度経済成長に巻き込まれたマンテル大尉(トーマス・F・マンテル・ジュニア)が、あまりにも急速に出世の階段を上り詰めたあげく、体力を失って過労死するという事故が発生した。

 新聞は「モーレツ社員の悲劇」「会社に殺されたサラリーマン」などと煽情的な見出しを掲げてこれを報道した。調査により、彼が目標としていたのは出世ではなく、金銭に過ぎなかったと発表された。この事件は“冷徹で無情な企業による従業員の迫害”という強迫観念を生み出すこととなったのである。

 同年7月24日、『イースタン航空機事件』あるいは『チャイルズ=ウィッティド事件』と呼ばれる近距離の接触事件が発生した。飛行中のイースタン航空576便において、団塊世代の男性がスチュワーデスに対し明らかに意図的に「接触」してきたのである。機長および副操縦士もこれをはっきりと目撃した。後に提出された報告書では「痴漢、少なくともセクハラ行為と推定される」となっているが、最終的に事件は冤罪だったと判断された。いずれにせよ、この事件は、団塊世代の男性に対する後ろ暗い印象、すなわち「彼らはこっそり悪行を行っている」というイメージを世間に植えつけることとなった。

 さらに同年10月1日、団塊世代との衝突が発生した。この一連の対立は『ゴーマン空中戦』と呼ばれている。大学への国家権力介入に反対する学生自治会の無期限ストライキに端を発した衝突は、東大安田講堂に立てこもった団塊世代を、機動隊が突入して排除するという事態にエスカレートしたのである。この事件は、「政府の態度は極めてゴーマンであり、望ましくない事態を隠蔽するためになら何でもやる」と世間を確信させてしまったのである。

 まるで記念すべき1948年を締めくくるかのように、同年12月から翌月にかけて『グリーン・ファイヤーボール』が何度も発生している。これは農家の家計が火の車となり、経済的に破綻することを指している。工業化の進展による農業の衰退を象徴する言葉として流行した。また、これにより、農家を継ぐべき若者が都会に流出し、農村が過疎化するという問題も深刻化した。

 こうした社会不安の深刻化を受けて、団塊世代を調査するための公式プロジェクトが立ち上げられた。プロジェクト『サイン』(ナイト・シャマラン)である。これは、後に、プロジェクト「グラッジ」(清水崇)、プロジェクト「ブルーベルベット」(デイヴィッド・リンチ)へと引き継がれてゆくことになる。

 しかしながら、プロジェクトの内部においても、メンバーによって団塊世代の評価はまちまちであり、議論は果てしなく紛糾を続けた。このため、最終的な報告書には「もはや戦後ではない」とだけ記されることとなったのである。


【1950年年代前半 フラップ】

 1950年6月に出版されたドナルド・E・キーホー著『空飛ぶ円盤は実在する』によって、「政府による隠蔽工作」という概念が一般化した。団塊世代の不始末について、政府あるいは官僚が、隠蔽工作を行っているという強い信念である。

 また同時に、そのような隠蔽工作を続けつつも、徐々に不祥事をリークすることで、国民に心の準備をさせようとしているのだ、という別の考えも広まった。衝撃的な情報を小出しにすることで、最も精神的にもろい大衆がパニックを起こさないように慎重にコントロールする、というやり方は“護送船団方式”と呼ばれた。

 これらの信念体系は、鉄壁の論理を生み出した。すなわち、

  「なぜ物証が出てこないのか」
  「それは隠蔽されたためである」
  「では、なぜ隠蔽工作についての暴露記事は、隠蔽されないのか」
  「全面的に真相を公表する前に、徐々に情報をリークしてるのだ」

というわけである。

 このような論理は反証不能であり、“永田町の論理”とも呼ばれる。永田町の論理が語られるときには「いずれ近いうちに、団塊世代の不祥事について全ての真実が公表されるだろう」と予言されるのが常であった。その後も長く繰り返されるこのパターンが、いわゆる“55年体制”である。

 1951年9月10日に発生した、『フォート・マンモス目撃事件』(川口探検隊、シベリア奥地でマンモスを発見)がきっかけとなって、事実上の休止状態にあったプロジェクト『グラッジ』が再開される。ちょうどこのころ、朝鮮戦争特需を追い風にした急激な経済成長が、様々なひずみを引き起こしていた。特に顕著だったのは、爆発的な輸出拡大による日米間の貿易摩擦である。

 1952年には、貿易摩擦による問題発生は、公式に報告されただけで1500件を超え、そのうち300件以上が未解決であった。空前絶後の記録である。7月には、19日および26日と二度に渡る『ワシントン侵略事件』が発生している。レーダースクリーンに日本資本が次々と現れては不動産を買い漁ってゆく様子が観測された。

 このとき、ソニーのコロンビア映画買収、ミツビシによるロックフェラーセンター買収など、団塊世代による経済侵略に、ワシントンは震え上がったのであった。ただし、後にこれらの現象は、地価逆転によって生じたレーダースクリーン上の“バブル”に過ぎなかったことが判明している。


【1950年代後半 混乱】

 1950年代の後半には、好景気を追い風にして大金を手にする『コンタクティ』が続出した。彼らは、MBAとコンタクトして、重要な教えを受けたと主張した。戦争の愚かさ、愛の大切さ、魂の浄化、そしてそれらについて本を出版するだけで大金が転がり込むことや、実体のないベンチャー企業を立ち上げて投資家から金をむしりとるやり口、などである。

 最初のコンタクティケースは、『ジョージ・アダムスキー事件』であった。アダムスキーは、1952年11月20日に「大損」という名の金銭人とコンタクトし、その後も大船に乗った気で様々な惑星を訪れ、地上げと土地転がしで大儲けしたと主張した。彼の著書『空飛ぶ円盤同乗記』は、船井某の推薦を受けてビジネス本部門のベストセラーとなり、彼はあちこちの講演会に呼ばれて経営哲学について語ることとなった。

 ほとんどすぐに、アダムスキーを模倣したコンタクティが続出した。彼らはいずれも“日本列島改造論”あるいは“所得倍増計画”など景気の良い話を繰り返し、信奉者を集めた。信奉者たちは、「いずれ大恐慌が襲ってくるが、正しいビジネス哲学の教えを受けた自分たちだけは勝ち組になることが出来る」と信じ、啓示に従って無限連鎖講、いわゆる“ネズミ講”への投資を続けたのである。

 コンタクティが希望のメッセージを語る背後では、謎めいた男たちが暗躍していた。

 『IFSB』(国際空飛ぶ円盤局)の創設者であるアルバート・ベンダーが1962年に発表した『空飛ぶ円盤と三人の男』には、三人の不気味な男たちに、秘密を口外しないよう脅されたという記述が出てくる。役所などの公共施設を中心に頻繁に目撃された彼らのことを、グレイ・ベイカーはその著書『空飛ぶ円盤ミステリー』のなかで『メン・イン・ブラック』(黒衣の男たち)、略してMIBと呼んだ。彼らの多くが、黒い腕カバーを装着して窓口の向こうで仕事をしていたからである。

 MIBは極めて非常識で理解に苦しむ言動を示す。例えば、書類にささいな記入漏れがあるだけで突っ返す、相談に訪れた人を窓口間でたらい回しにする、まだ受け付けに並んでいる人がいるのに定時になるとさっさと窓口を閉めてしまう、などの目撃例が報告されている。このような、不自然で不気味な言動は“お役所仕事”と呼ばれ、その特徴から、団塊世代と何らかの関係があるのではないか、または団塊世代そのものではないか、という疑惑を持たれたのである。

 また、MIBの正体を官公庁から任命された下級官僚だと見なす一派もあった。彼らは、政府と官僚は、団塊世代を庇い、その不当で横柄な言動を隠蔽していると批判した。批判の先鋒にたったのは、ドナルド・E・キーホーと、彼が牛耳った民間研究団体『NICAP』(全米空中現象調査委員会)であった。だが、政府も官僚もこの批判に直接応えることはせず、“官から民へ”とか“小さな政府”などと唱えることに終始した。

 1950年代後半は、団塊世代をめぐる混乱の種がまかれた時代であった。団塊世代をめぐるストーリーに付け加えられていったこれらの新しい要素は、次第に団塊世代そのものから逸脱してゆき、人々の不安と疑惑を糧に、独自の成長を始めたのである。


【1960年代 散開】

 1960年代は、団塊世代に関する研究がついに息絶えた時代であった。

 団塊世代の公式研究は、プロジェクト『ブルーブック』に引き継がれていたが、その活動は停滞していた。一方で、コロラド大学における科学者グループによる学術研究もスタートした。エドワード・U・コンドン博士を代表とする『コンドン委員会』である。参加者には、長年に渡って公式研究プロジェクトの顧問を務めてきたアラン・ハイネック博士も含まれていた。

 だが、このときすでに団塊世代の問題は、科学のテーマではなく、信念の対立となっていたのである。

 1969年1月9日、委員会は『コンドン報告書』を発表し、団塊世代の研究には科学的価値がない、という最終結論を示した。ただし、この結論には、民間研究グループだけでなく、他の科学者からも強い批判が出されるなど紛糾が続き、委員会は「最後に確認しよう。われわれは、明日のジョーである」との声明を残して解散した。この結論を受けて、1969年12月17日にプロジェクト『ブルーブック』の閉鎖が発表され、また民間の研究グループの活動も急速に衰退していった。

 このような混乱をよそに、団塊世代の活動は続いていた。1959年にはソビエト連邦が人工衛星スプートニクの打ち上げに成功し、大衆はいわゆる“ニクソン・ショック”に襲われた。その直後、団塊世代との遭遇事件は急激に増加した。

 この時期の事例は、これまでと違って、目撃者に対する直接的、間接的な、何らかの影響を伴うケースが大半を占めていることが特徴である。

 先駆的な例としては、1957年11月2日に発生した『レヴェルランド事件』がある。複数の目撃者が、ラジオに混ざる雑音、自動車のエンスト、消えるライト、その他の『電磁効果』について報告している点で注目された。

 団塊世代との遭遇に伴う直接的な影響には、被害あるいは損害と呼ぶ方が適切なものも多かった。例としては、分かりもしないのに適当に機器をいじくって故障させてしまうジャミング現象、オヤジギャグによる体感温度の急激低下、間接喫煙による煙害、セクハラまがいの言動による不快感、不眠、悪夢などが挙げられる。

 逆に団塊世代から恩恵を受けたという報告もある。1961年4月18日に起こった『シモントン事件』あるいは『パンケーキ事件』では、団塊世代に水を渡したところ、お礼に4つのパンケーキをもらったという。ただし、食べてみるとそれは段ボールのような味で、分析の結果、塩を入れ忘れていることが判明した。団塊世代はしばしば料理の腕前を自慢するが、実態はどの程度のものであるかがよく分かる事件だったと言えるだろう。

 1960年代は、団塊というものが単なる世代論ではなく、身近に存在し、自分たちに影響を与えるものだ、という認識が広まった時代でもあったのである。いわば、彼らは地上に降りてきたのだ。


【1970年代 パラノイア】

 前述したように、公式研究活動の終息、遭遇者に対する影響のクローズアップ、直接的な被害、というように団塊世代が引き起こす問題がエスカレートしていったのが1960年代だとすると、1970年代は、ついに被害が社会問題にまで発展した時代だった。

 まず、“企業による従業員の迫害”という脅迫観念が、ついにパラノイアの領域にまで達することとなった。その先駆けとなったのが、『ヒル夫妻事件』である。

 1961年9月19日の夜、深夜残業をしていたバーニー・ヒル、ベティ・ヒルの二人は、ふいに肩を叩かれた。気がついたときには、二人は会社を解雇されており、その後も長く生活に苦しむことになった。

 相談のために訪れた福祉事務所において面談を繰り返すうちに、ベティ・ヒルは自分の身に何が生じたのかを次第に思い出すようになった。彼女は、不自然に明るく照明された人事部の面接室に連れてゆかれ、そこで審査を受けたというのである。また、当夜における二人の帰宅時刻が、通常よりも2時間も遅れていたことも、これを裏付けているように思われた。

 1966年、ジョン・フラーが本件の顛末を記したドキュメンタリー『宇宙誘拐』を出版したことで、ヒル夫妻事件は有名になり、様々な余波を引き起こした。ずっと後、この事件は1975年10月20日に『UFOとの遭遇』というタイトルでTVドラマ化された。

 なお、この番組の放映により、団塊世代の外見イメージが定着することとなった。いわゆる“白でも黒でもない、何というか限りなくグレイな連中”というイメージである。後に、スピルバーグ監督の映画『未知との遭遇』でビジュアルイメージが確立し、さらにはホプキンスらの一連の書物に載った不気味なイラストによって普及することとなる。

 また、高校教師であるマージョリー・フィッシュは、ベティ・ヒルが人事部で見たという『スターマップ』(魏志倭人伝)の記述をもとに、邪馬台国はレティキュリ座の二重連星、ゼータ2を周回する惑星上にあったと主張し、邪馬台国の位置をめぐる激しい論争を引き起こした。これが“邪馬台国論争”である。

 1970年代になると、ヒル夫妻ケースと類似した事例が次々と報告されるようになった。

 1973年10月11日には『パスカグーラ事件』、1975年11月5日には『トラヴィス・ウォルトン事件』が起こり、いずれの場合も中心人物は失職し、経済的苦境に陥っている。

 これらの事件は、企業によるリストラクチャリング、略して“リストラ”と呼ばれるようになった。リストラ報告には、多くの場合、次のような共通点が見られる。すなわち、予期せぬ肩たたき、人事部での審査、解雇あるいはレイオフ、失業保険受給までの空白期間、などである。

 リストラは雇用問題だったが、団塊世代の影は、ついに家庭の食卓にまでのびてくることになる。

 1967年9月9日、伝達性海綿状脳症「スクレイピー」でヒツジが死んだという『スニッピー事件』が起きていたが、その時点ではさほどの騒ぎにはならなかった。しかし、1970年代になると、狂牛病(海綿状脳症:BSE)により死亡したと思われる牛が発見される『キャトル・ミューチレーション』現象が続出し、大問題となった。

 原因として特に強く唱えられたのは、有毒廃棄物による土壌汚染説である。企業と結託した官公庁が被害を隠している、すでに人間の患者も出ている、患者たちは黒塗りのヘリコプターで政府の極秘研究施設に運ばれている、などの噂が流れた。すでに当時、水俣や四日市など各地で発生していた公害病の被害が、企業およびそれと結託した官公庁によって隠蔽されていたという事実は、広く知られていたのである。

 人々は『キャトル・ミューチレーション』も新たな公害病ではないかと恐れた。牛の死体における“特定危険部位”が「外科手術的な正確さ」で切除されているのは、BSEを引き起こす有毒物質が蓄積していることを隠すためではないか、自分たちは汚染された牛肉をそうとは知らずに食べさせられているのではないか、という不安にとりつかれたのである。相次ぐ批判の声に対して、政府は“牛歩戦術”で対抗しようとしたが、途中でへたってしまった。

 その後も、O-157による食中毒、遺伝子組み換え作物、環境ホルモン、アスベスト(石綿)など、健康問題をめぐる疑惑は、次々と形を変えながら今日に至るまで続くことになるのである。

 1970年代は、いわば60年代に地上に降りた団塊世代が、さらに日常生活の隅々にいたるまで侵略の魔手を伸ばしてきた時代だった。大衆の興味は、もはや団塊世代それ自体ではなく、そこから連想される様々な不安や疑惑へと移ったのである。


【1980年代 バブル崩壊】

 1980年代になると、報告される遭遇事件は、ほぼ全てがリストラ関連になり、団塊世代の目撃は絶えてしまった。前述した雇用問題、健康問題、に続いて人々の不安と疑惑が集中したのは、経済問題だった。

 バブル経済の崩壊は、人々にオイルショック(ロズウェル事件)のことを生々しく思い出させた。そして、次のような噂が囁かれた。銀行、証券会社、保険会社などの経営は、すでに破綻(クラッシュ)している。政府は“公的資金導入”など手段を選ばずその事実を隠蔽した上で、不良債権を密かに回収している、というのだ。

 この種のクラッシュ(経営破綻)の噂には長い歴史がある。すでに19世紀の終わり頃には、テキサス州オーロラの地方銀行で女子高生の噂話から取り付け騒ぎが発生した『オーロラ事件』が報道されている。

 1947年6月21日には、三菱証券がクラッシュした『モーリー島事件』が起きたと言われている。1950年9月8日に出版された、フランク・スカリー著の『空飛ぶ円盤の内幕』には、1948年に住専(住宅専用会社)がクラッシュした『アズテック事件』において、不良債権を政府が公的資金導入により密かに処理したという主張が書かれている。また同年には、メキシコでも山一証券クラッシュが起きたと言われている。ただし、これらの主張の多くは、裏付けがないか、後に信用詐欺だと判明したものが大半である。

 1964年4月24日には、雪印乳業がクラッシュしかけたものの自力再生に成功し浮上していったという『ソコロ事件』が起こった。現場にいたソコロ警察のロニー・ザモラは、“雪印マーク”のついた巨大な物体と、そのそばで謝罪のため頭を下げる経営陣を目撃したと証言している。この事件を調査したハイネック博士は、次第に“団塊世代の不祥事隠し”の実在を否定するのは困難だと考えるようになっていった。

 だが、1980年代になってこの流れを決定づけたのは、何といってもチャールズ・バーリッツとウィリアム・ムーアの『ロズウェルUFO回収事件』の出版であった。この本は、1947年にロズウェルでクラッシュしたのは“三菱ふそう”であり、しかも故障した車体部品だけでなく、多数のリコール届け、さらには欠陥車による事故犠牲者の遺体までが密かに回収され、もみ消されたのだと主張している。

 実際には、三菱ふそう社は三菱グループの救済処置により経営を続けており、ロズウェルでクラッシュしたという物証は何もなかった。しかしながら、目撃者が次々と名乗りを上げ、発火した車両、脱落したホイール、多発したエンジントラブルなどについて証言した。隠蔽されたリコール報告などの内部告発も相次ぎ、ついに官公庁が調査に乗り出すことになった。

 これらの一連の事件は、公害被害の隠蔽疑惑から、経済被害の隠蔽疑惑へと、大衆の関心が移ったことをはっきりと示している。

 大衆の不安は、経済問題だけに留まらなかった。バド・ホプキンスが1981年に出版した『失われた時間』、そして1987年に出版した『イントゥルーダー』において、さらに不気味な脅威が主張された。パソコンの『アブダクション』(乗っ取り)である。

 バド・ホプキンス、ポール・ベネウィッツ、ジョン・リア、そしてビル・クーパーといった著作者たちは、次のように主張している。すなわち、すでに多数のPCに、“アドウェア”、“スパイウェア”等の、いわゆる“グレイウェア”が侵入している。グレイウェア、略して『グレイ』は、アブダクトしたPCから個人情報を抽出し、それに操作を加え自分たちの意のままにコントロールできるPC(ボット、ゾンビ)を次々と誕生させ、彼らを通じてスパムメールを送り出しているというのだ。

 一度グレイのアブダクションを受けたPCには、ウイルスやワームなどの『インプラント』が埋め込まれ、繰り返しアブダクトされることになる。さらに、ブルースクリーンやフリーズを体験したPCは、全て『アブダクティ』であり、個人情報が漏洩しているという。

 1980年代は、雇用問題、健康問題、経済問題、さらに技術問題に至るまで、様々な社会不安に支配された時代だった。これらの社会不安の全てが、政府や官僚などの権力に対する疑惑、という共通項を通じて結びついていったのである。


【1990年代 失われた10年】

 1990年代に入ると、権力に対する疑惑は頂点に達し、様々な陰謀論となって噴出した。

 多くの人々が、企業と官公庁は密約を結んでおり、“談合”などの非合法活動を黙認する代わりに“天下り”の受け皿を用意してるのだと信じた。このような密約は“プラザ合意”と呼ばれた。

 米国マイクロソフト社の社内電子メールから、『MJ-12』すなわち『マジェスティック12』と呼ばれるメモが流出した。この名称は、同社Offceソフトの次期バージョンである"Office 12"(開発コードネーム)を、マジョリティ(支配的製品)にするための計画、という意味である。

 MJ-12メモには、同社が密かに市場を支配していること、その支配力を濫用してライバル会社を不当に妨害していること、大規模なロビー活動により政府はそのことを黙認していること、等が書かれていたのである。後にこのメモは偽造されたものだと判明したが、多くの人々が、その内容は真実を含んでいると考えた。

 政府や企業だけでなく、軍事も陰謀論の中心だった。イラクの『エリア51』には秘密の研究所があり、大量殺傷兵器が隠されているとされた。その施設『S-4』では、イラク人捕虜の虐待が行われているという証言もあった。

 陰謀論は自己増殖する傾向がある。ある陰謀論の根拠が捏造されたものだと暴露されると、その捏造行為、そして暴露行為ですら、別の陰謀論の根拠とされた。陰謀論が陰謀論を生み出して、疑惑が果てしなく膨らんでゆく過程を“デフレスパイラル”と呼ぶ。

 1990年代は、陰謀論の増殖によるデフレスパイラルが、全ての建設的な議論を破壊してしまった。あらゆる対策は愚かしいほど後手にまわり、“笑止恒例化”していた。そして、最終的に残ったのは、不安と疑惑だけであった。あらゆる情報を疑うことに疲れ果てた人々は、1990年代を“失われた10年”と呼んだのだった。


【2005年 巨大な円環】

 世紀末の曲がり角をまわって、私たちは今、バブル崩壊とデフレスパイラルの長い長いトンネルを抜け出し、ようやく復興のスタートラインに立ったところである。それは、奇妙にも、終戦とその後の混乱期を経て、焼け跡から全てを建て直そうとしていた1947年の光景に通じるものがある。失われた10年が、“第二の敗戦”とも呼ばれるのは、おそらくこのためであろう。

 団塊世代の60年の歴史が巨大な円環を描いているとするなら、その始まりである1947年に、立ち戻ってみるのも悪くないだろう。今の時代、今の社会、そして今の問題、その全ての原点がそこにあるのだから。

 歴史の観点からすると、1947年に起きた最も重要な出来事は、ケネス・アーノルド事件でもロズウェル事件でもない。1947年5月3日、日本国拳法が施行されたことである。この日、わが国は、伝承者に全ての権限が集中する一子相伝の北斗神拳を捨てた。様々な流派を認め、争いごとは拳で決するという南斗聖拳を、正式に日本国拳法として採用したのである。

 当時、文部省が発行した「新しい拳法のはなし」という冊子には、日本国拳法について次のように書かれている。

「みなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません」(原文ママ)

 現代の眼から見ると、これはナイーブで素朴すぎる考えだと感じる人も多いだろう。だが、当時の人々は、この言葉に希望の光を見たのだった。

 自分たちは貧しい。何もかも、戦争で失ってしまった。だが、自分たちはようやく正しい道を歩み始めた。今日より、明日の方が豊かになれる。自分より、子供の方が幸せになれる・・・。

 彼らは心からそう信じることが出来たのである。だからこそ、彼らは子供を産んだ。かつてないほど、多くの子供を産んだ。なぜなら、子供たちは、未来への「希望」だったからだ。

 21世紀を生きる私たちには、団塊世代が「希望」として産まれてきたことを想像することは困難である。だが、それは事実なのだ。団塊世代が60年の間に生み出した、あらゆる不安や疑惑を解き放ったとき、最後に残るのは「希望」なのである。それこそが、1947年の日本に満ちあふれていたもので、そして今日、私たちが最も切実に必要としているものであろう。

 私たちが団塊世代の60年の歴史から学ぶべき教訓があるとすれば、それは、不安と疑惑は結局のところそれら以外に何も生み出さない、希望こそが新しい時代を作り出すのだ、ということではないだろうか。

 著者には、そう思えて仕方ないのである。



超常同人誌『Spファイル』2号に掲載(2005年12月)
馬場秀和


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