『断片的なもののUFO学 ガイダンス』


馬場秀和



 とりわけ1970年代以降は、それまで主流であった「実証主義」的な方法論への批判から、「解釈主義」など、個性記述的な方法論を支持する学派が、人類学、社会学、政治学などで活気づき、一大勢力を作りました(「言語論的転回」とも呼ばれる)。そのような経緯ゆえ、社会科学内部の多様性は増しています。

 実証主義(positivism)においては、自然科学とほぼ同じように、社会現象は研究者の意図にかかわらず事実として実在すると捉えられます。そして研究者は、研究対象を客観的な立場から、価値中立的に捉えられるという仮定のもとで調査を行います。(中略)

 対して、解釈主義(interpretivism)では、ほぼその逆の考え方を取ります。すなわち、世の中の社会現象は、我々の知識や解釈と独立には存在しておらず、認識し解釈することが事実を作り上げていくとみなすのです。そのため、自然科学的な中立性で人間社会を捉えることはできないとの理解がなされます(中略)。そして、数量的データには出てこない人々の解釈や信念について、インタビューや言説分析などを通じて理解を深める手法が重視されます。

星海社新書『文系と理系はなぜ分かれたのか』(隠岐さや香)p.217





 ベティとバーニーのヒル夫妻が宇宙人に誘拐されたという有名な「ヒル夫妻誘拐事件」。その報告によれば、宇宙人たちはベティの歯を引っ張って、それが外れないことに驚愕したそうだ。バーニーの歯(入れ歯)は外れたのに、なんでなんで? と大興奮して騒いでいたと、ベティは、笑いながら、そう証言している。

 この事件が語られるとき、「針状の器具を用いた妊娠検査」については言及されることが多いのに対して、入れ歯はたいてい無視されるようだ。なぜだろうか?

 おそらくそれは、〈妊娠検査〉や〈スターマップ〉といったものは宇宙人による誘拐という不気味なストーリーにふさわしい「核心的なもの」と感じられるのに対して、入れ歯大興奮の件はまったくそうではなく、何というか、全体のトーンをかき乱す「断片的なもの」だからだろう。

 では、ニューメキシコ州ロズウェルに空飛ぶ円盤が墜落したという「ロズウェル事件」を見てみよう。証言によると、墜落した円盤の破片は風に乗って広範囲に撒き散らされ、現場から車で一時間ほど離れた場所で開催されていたロデオ大会の会場にまで降り注ぎ、お祭りに浮かれ騒ぐ人々の周囲できらきらと輝いていたという。どれだけ大量の破片が落下したのかを示す重要な情報。にも関わらず、これもまた無視されがちな証言だ。浮かれ騒ぐ人々の周囲できらめく金属片、という明るく陽気なイメージは、ロズウェル事件のストーリーや雰囲気に合わない「断片的なもの」なのだ。

 では、こういうのはどうか。四本脚のUFOがプロペラを回して飛び去っていった。地面が濡れているから(UFOから下ろされた)タラップまで自力で跳べと宇宙人に指示された。「君はチューリップに水をやりすぎている」と宇宙人が忠告してきた。犬が青い色になって溶けた。UFOが飛び去った後、17羽のヒヨコが行方不明になった。

 UFO事件には、こうした、ジグソーパズルの余ったピースのように、どこにも置き場がなく、瑣末で、どうにも扱いに困る、したがって無視されがちな、奇妙な要素というものが、しばしば登場する。これらがUFO事件における「断片的なもの」である。

 UFO研究家たちは、「断片的なもの」について、いったいどのように考えているのだろうか?

 本稿では、「断片的なもの」に対するUFO研究家たちの反応を概観し、それがUFO学とは何か/何であるべきかという問いに対する各々の立場に強く依存していることを明らかにする。さらに「断片的なもののUFO学」というタイトルの含意について、若干の解説を試みたい。




【実証主義UFO学 ――関心対象はUFO】

 まずUFO研究家の立場を、いささか乱暴ながら、大きく二つに分類してみよう。実証主義者と解釈主義者である。もちろんこれは人類学や社会学などで使われている枠組みをそのままUFO学に当てはめただけの便宜的なものに過ぎないが、ざっくり把握する上では有効だと思う。

 実証主義者は、UFO事件(の少なくとも一部)を引き起こしているのは未知の物体であり、その物体は客観的に実在する、と確信している。そして、UFO研究の対象はその実在する物体に他ならない、と考えている。

 この立場は直観的に分かりやすく、「俺たちの使命はUFOの正体を暴くことだ」というストレートな力強さが魅力的だ。

 実証主義者からすると、有望な事件を厳選して徹底的に調査しその真相を解明する(UFOの正体を明らかにする)ことがゴールなのであって、膨大な数におよぶ瑣末なUFO事件を広く調査する必要性は薄い。ましてや「断片的なもの」にこだわる理由はなく、むしろそんなものは無視すべき雑音だと見なす傾向が強い。南山宏氏はこう語っている。


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 ついでに同じUFO研究家でもある訳者自身の立場からいわせてもらうなら、UFO情報をミソもクソも――といういい方が下品すぎるなら、シグナルもノイズもいっしょに受け入れるキールの姿勢にいささか疑問を感じる。人間という不正確きわまる観察装置を通してしかUFO情報の大半を入手できない以上、データとして認める前にまずは真実度の高い情報(シグナル)と偽情報や誤情報(ノイズ)を厳しく峻別して後者を捨ててからでなければ、正しい判断は下せないはずだからである。
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ヴィレッジブックス『プロフェシー』(ジョン・A・キール:著、南山宏:翻訳)
p.390「訳者あとがき」より

 この立場は明快だが、しかし科学的手法という観点からしても、実は本質的な困難を抱えている。というのは、証言の裏付けとなる客観的証拠がほとんど得られないこともあって、何が「核心的なもの」(シグナル)で、何が「断片的なもの」(ノイズ)なのかの判断は、結局のところ地球外起源仮説(UFOの正体は異星人が乗った宇宙船だという仮説)の文脈と整合しているか否かで決まってしまうことがあまりにも多いからだ。妊娠検査が「核心」なのに入れ歯大興奮は「断片」と見なされてしまう理由はそこにある。

 これはつまり、これから証明しようとする仮定に沿ったデータだけを採用し、それと矛盾する「馬鹿げた」データは捨てる、という態度である。いうまでもなく、これには科学的な研究手法として非常に危ういものがあるのだ。ハイネックはこう語っている。

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 残念ながら、好みに合わないとか、前提概念に一致しないからというだけで、データを省略することは許されない。だが、私たちはほかのUFO体験の話には耳をかそうと思っても、搭乗者の目撃報告となると、つい尻ごみしてしまう。それはなぜか? 未知の飛行物体の目もくらむような光を浴びて、路上の車が止まってしまったという報告と、その飛行物体から二、三人の乗員が降りてきた、という報告とが、不思議さとばかばかしさの点で、どれほど違うというのか?(中略)
 要するに、私たちには、UFO現象のある部分を受け入れ、ある部分を切り捨てることはできないようである。現象全体を研究するか、さもなければ、まったく無視するかだ。
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ボーダーランド文庫『第三種接近遭遇』(J・アレン・ハイネック:著、南山宏:翻訳)
p.238、244

 では、地球外起源仮説にこだわらず、報告に含まれるあらゆる要素を公平に取り上げて真剣に分析することが科学的な態度なのだろうか。入れ歯も、ヒヨコも、ストロベリーアイスクリームも?

 科学的であろうとすればするほど、UFO報告に含まれる「断片的なもの」に振り回され、「核心」と「断片」を公平に扱おうとすればするほど奇怪で意味不明な沼に迷い込む。そしてUFOの真相解明というゴールからどんどん遠ざかってゆく……。

 実証主義UFO学は、このジレンマを抱えたまま、ずっと真摯な努力を重ねてきたのだ。だが、どこかで道を間違えたかのように迷走した挙げ句、研究対象の正体どころかその実在性すら明らかにすることが出来なかった。それは真っ当なものだったが、UFOのような「真っ当でないもの」を相手にするには、あまりに真っ当過ぎたのではないだろうか。



【解釈主義UFO学 ――関心対象はUFO報告】

 1970年代、行き詰まりの様相を見せ始めていた実証主義UFO学に対するカウンターとして登場したのが、解釈主義UFO学である。これは同時期に人文科学の諸分野で起きていた大きな動き(実証主義に対する解釈主義の台頭)の一部と見なしてよいかも知れない。

 解釈主義者は、UFOに関して実在すると確信できるのはその報告だけであり、従って研究対象は報告内容であってUFOそのものではない、と考える。さらに研究対象となる報告には、いわゆるUFO事件に限らず、あらゆる超常的なもの(妖精、天使、悪魔、妖怪など)との遭遇を含めるべきだ、なぜなら遭遇相手とされているものが何なのかは解釈の問題であり、あらかじめ予断を持って一部の報告だけを選択すべきではないからだ、とも考えている。

 この立場は直観的に分かりにくいところがあるので、説明のために、妖怪学に例えてみよう。

 もしも実証主義妖怪学というものがあるならば、「どのようにして〈天狗〉のDNAを採取するか」とか「〈小豆洗い〉は洗った小豆をどうするのか」といった重要課題を解決しようと努力するのかも知れない。だが実際の妖怪学においては、通常、妖怪の実在性は問題にならない。研究者は、妖怪との遭遇がどのように語られ/描かれ/解釈されてきたかを調査する。報告(説話)に出てくる体験の文化的側面を理解しようと試みるのだ。

 解釈主義UFO学においては、これと似たようなアプローチでUFO報告を研究しようとする。UFOや宇宙人が私たちとは独立に客観的に存在しているとは決めつけず、むしろそれらを「ある種の超常体験をベースに、私たちの認識と解釈によって形づくられてゆく社会的構成物」と見なす。そして、なぜそのような超常体験が「UFOや宇宙人との遭遇」と認識され解釈されるのか、それを理解しようとするのだ。ヴァレはこう語っている。

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 典型的なUFO報告の枠組みからは逸脱しているけれども注目に値する話――あまりの突拍子のなさの故に、最初は丸ごと否定してしまいたくなるほどの特異なディテールをもつ話を語ってくれる目撃者――しかも平均的な人々の間にあって何ら偏ったところのない人物を見出すことから、真の問題は始まるのだ。(中略)
 それは、「UFOが物理的な存在か否か」を突き詰めよう、といった問題意識とは全く縁のないものだ。「何者かの顕現」と「それがリアルな存在として在ること」を誤って混同してしまい、いわゆる空飛ぶ円盤の「意味」や「目的」を理解しようとする試みは(それは数多くの人が今日取り組んでいることだが)、妖精についてそのような探求をするのと同様、全く無益なことである。
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私家版『マゴニアへのパスポート』(ジャック・ヴァレ:著、花田英次郎:翻訳)
p.145、191

 個性記述的な方法論を重んじる解釈主義の立場からすると、典型的なものから逸脱した「断片的なもの」についての語りは、無視すべき雑音どころか、むしろ主要な関心事となる。

 解釈主義UFO学は、いくつか注目すべき成果を挙げてきた。いわゆる宇宙人の言動と妖精のそれには本質的な違いが見られない、UFO報告と他の超常現象報告との間には偶然とは思えないような共通点がある、というより解釈が異なるだけでこれらが報告しているのはみな同じ種類の体験ではないか、といったことだ。

 これらの成果は、しかし、研究者を危ういところに連れてゆく傾向がある。UFOとオカルト・超常体験との関連性を調べているうちに、「UFOや宇宙人を形づくっている私たちの認識と解釈は、何者かによってコントロールされている!」と気づき、やがては「典型的な報告、核心的な報告、それらはすべて私たちを騙そうとする策略なのだ!」という境地に至るようなのだ。キールはこう語っている。

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 わたしは典型的な、強情な懐疑家だった。わたしはオカルトを嘲笑していた。(中略)わたしは、UFOに、きわめて科学的なアプローチを試みようとしていたのだが、これはわたしが多くの接触者報告を愚弄していたことを意味する。ところが、経験を重ね、研究が深まるにつれて、急速に考えが変わった。(中略)それらは、われわれの理解能力に合わせて自らを組み立てる変幻自在なもの以外の何ものでもないように見える。無数の乗員たちとの接触は、彼らが嘘つきで、芸術家を気どっていたことを示している。UFOの出現は、だいたいにおいて、単なる古びた悪魔学的現象の小さな変種にすぎないように見える。
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早川書房『UFO超地球人説』(ジョン・A・キール:著、巻正平:翻訳)
p.268、294

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 真のUFO状況を評価したければ、これらの物語もすべて検討しなければならない。自分たちに感情的かつ知性的に受け入れられるエピソードだけを考えていたのでは、何も知ることはできないのである。(中略)その謎のすべての断片について知らなければ、それらを位置づけ、意味のあるものにすることはできないからである。ひじょうに多くの人々が、かなり長いあいだ完全に混乱してきた理由は、すでにあなたにもわかっている。このミステリー全体はわれわれを混乱させ、懐疑的にするために計画されてきたのだ。
 だれかが、どこかで、われわれを笑いものにしているのである。
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早川書房『UFO超地球人説』(ジョン・A・キール:著、巻正平:翻訳)
p.176、210

 解釈主義UFO学は、UFO現象をより広範なオカルト・超常体験の一部として位置づけることに成功した。UFO現象は太古の昔から人類が経験してきた妖精や妖怪など「異界のものたちとの遭遇」の現代的解釈だということだ。それは、確かに地球外起源仮説に対する有効なオルタナティブを提供してくれたが、それでも謎や疑問が解消したわけではない。むしろ、どこにも到達できない問いを投げかけるだけで終わってしまった観がある。いったい、オカルト・超常体験とは何なのか?




【断片的なもののUFO学 ――関心対象は私たち自身】

 「断片的なもののUFO学」という本稿のタイトルについて解説しておきたい。すでにお気づきの読者も多いことと思われるが、これは岸正彦氏の『断片的なものの社会学』という書名をもじったものである。

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 統計データを使ったり歴史的資料を漁ったり、社会学の理論的な枠組みから分析をおこなったりと、そういうことが私の仕事なのだが、本当に好きなものは、分析できないもの、ただそこにあるもの、日晒しになって忘れ去られているものである。(中略)

 社会学者として、語りを分析することは、とても大切な仕事だ。しかし、本書では、私がどうしても分析も解釈もできないことをできるだけ集めて、それを言葉にしていきたいと思う。テーマも不統一で、順番もバラバラで、文体やスタイルもでこぼこだが、この世界のいたるところに転がっている無意味な断片について、あるいは、そうした断片が集まってこの世界ができあがっていることについて、そしてさらに、そうした世界で他の誰かとつながることについて、思いつくまま書いていこう。(中略)

 分析も一般化もできないような、これらの「小さなものたち」に、こちらの側から過剰な意味を勝手に与えることはできないけれど、それでもそれらには独特の輝きがあり、そこから新たな想像がはじまり、また別の物語が紡がれていく。
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朝日出版社『断片的なものの社会学』(岸正彦)
p.6、7、14

 語りの分析や統計データを駆使して、私たちの社会の実態を明らかにしてゆく。そういった社会学の本道を尊重しつつ、そこから外れた「使えない」語りの断片を集めてみる。洞察が得られたり何かのエビデンスになるような「有益なもの」ではないが、瑣末ながら誰かの身に確かに起きた出来事。その集積から、私たち自身について、あるいはそういった「断片的なもの」が集まってできているこの世界について、何かしら理解を深めることが出来るかも知れない。

 UFO報告に見られる「断片的なもの」についても、同じことがいえるのではないだろうか。UFOを研究する上で役立つわけでもなく、ただただ報告されただけの断片。

 「なぜそんなことをしてるの?」と聞かれた途端、真顔になって、それから悲しげな表情を浮かべた黒服の男。路地を走り回っている車輪のない自動車。UFOの胴体に書かれていた〈TL4168〉か〈TL4768〉という番号。目撃されたら月のふりをしてその場をしのいだ偽月。

 こうした「断片的なもの」からUFOの真実に迫ることは決して出来ないだろう。しかし、誰かが目撃した、少なくとも報告した、という意味で、これらが人間の体験や記憶についての記録なのは間違いない。そこから、どうしても超常体験をしてしまう私たちと、それを取り巻く世界について、何かしら理解を深めることが出来るかも知れない。そんな希望を持つのは愚かなことだろうか。

 ヴァレの言葉をもう一つだけ引用して、本稿を締めくくることにしよう。

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 はたして我々は何か「現実にあるもの」を研究しているといえるのかどうかも確信がもてない。なぜなら、我々は「現実とはなにか」を知らないから。ただし、ひとつだけ確信をもって言えることがある。我々の研究はわたしたちがわたしたち自身をもっともっとよく理解するための助けになるだろうということだ。これは意味のない仕事ではない…そう考えるとき、私のこころは大きなやすらぎを得るのである。
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私家版『マゴニアへのパスポート』(ジャック・ヴァレ:著、花田英次郎:翻訳)
p.208





『UFO手帖4.0』掲載(2019年11月)
馬場秀和


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