金印

馬場秀和


 大阪周辺でパーツ屋が集まっている場所というと日本橋界隈が有名だが、梅田は阪急古書のまち近くにも小規模なパーツショップ通りがある。古書店街を抜けて、かっぱ横町ディープ中心部に向かう途中で、つと御堂筋線方面に折れる。五分も歩けば、真昼の洞穴めいた純喫茶や、廃墟のような雑貨店に紛れ込むように、個人経営の小さなパーツショップがぽつりぽつりと点在している。日本橋あたりの大規模店の品揃えはもとより望むべくもないが、何ともあっけない値段で意外な掘り出し物が転がっていることも茶飯事で、高校生のころ私はここら辺に足繁く通ったものだ。嫌なこと、つらいことも、ここまではついてこないような気がした。

 なかでもお気に入りだったのは「むかしや」という店だ。観光地に並んでいる無個性な土産屋のような小さな店で、引き戸を開けて入るとなかは薄暗く、カビ臭い空気がどんよりと重く沈み込んでいる。天窓から日が斜めに差し込み、ライトアップされた埃の乱舞が客を迎える。入ってしばらくはそれしか見えない。しばらくして目が暗がりに慣れてくると、ようやく店の様子が分かってくる。入ってすぐ左手の雛壇に小型の商品が手書きの値札といっしょに雑然と並べられている。正面には、がっしりした金属製の棚に展示されているやや大きめの商品。右手には、何かに飽き飽きしたような顔で畳敷きに座って古書を読んでいる店主。昔ながらのパーツ屋だ。今ではこういう店はもうどこにも残ってないだろうと思う。

 「むかしや」の店主は、やや太り気味の中年女性だった。名前は知らない。私は単に「むかしやのおばちゃん」と呼んでいた。機嫌のむらが大きく、店に入ってきた客に対していきなり「くんなっ」とののしらんばかりの愛想のない態度をとるのに、ものを買おうかどうしようか迷うそぶりを見せるや、いきなり饒舌に売り込みを始める。その豹変ぶりが見ていておかしかった。

 雛壇に並べてある商品は、いずれもごくありふれた小さなものばかりで、そこにはパーツ屋というよりむしろ駄菓子屋の雰囲気が漂っていた。駄菓子ほどではないにせよ、値段も驚くほど安かった。おそらく、パチもん、つまり偽作がかなり混じっていたのではないだろうか。私がそう言うとおばちゃんはいきり立って、畳敷きの背後にある骨董品のように古めかしい、あれは何というのか、漢方薬の材料を保存しておくための小さな引き出しが整然とならんでいる巨大な壁面薬箪笥から札をがしゃがしゃ取り出してきて、うちのはみんなほんまもんや、鑑定札もちゃんとついとる、といってそれを突き出すのだった。

 私がこの店で金印を見つけたのは、たしか高校二年の秋のことだった。雛壇に並んでいる恐竜土偶やバグダッド電池、アッシリア水晶レンズ、南アフリカ太古金属球といった定番商品に混じって、ひっそりとそれが並べられていたのだ。片手のひらに握り込める大きさの黄金直方体で、からみあう二匹の蛇(あるいは龍)を模したつまみがついている。商品を乗せてある台紙には実際に印を押した跡があり、かろうじて「親」「魏」「倭」「王」の四文字が読み取れた。親魏倭王?

 「おばちゃん、これひょっとして卑弥呼の金印とちゃうか」

 「おばちゃん、ゆうなっ。せや、正真正銘、ヒミコの金印や」

 「あほな。それやったらまじ国宝やで。それが何でこないなとこにあんねん」

 「こないなとこ、ゆうなっ。ちゃあんと鑑定札もついとるわ」

 おばちゃんは面倒くさそうに壁面薬箪笥をごそごそ探っていたかと思うと、黒ずんだ勘定台の上に木札をぽんっと投げてきた。

 鑑定札は、日本遺物鑑定協会の認定証付きで、きちんとしたものだった。金印が発掘された日付や場所、由来、年代測定結果、考古学上の意義、そして裏面に解説がついている。発掘場所は奈良と和歌山の県境に位置する小さな古墳らしい。解説を読むと、邪馬台国の女王たる卑弥呼に対し魏より授けられし金印と見なされている、と。うええっ、マジですか。

 当時、邪馬台国の位置をめぐる論争、いわゆる「邪馬台国論争」が、今日では想像も出来ないほどヒートアップしていたのだ。書店に行けば「邪馬台国コーナー」が特設されており、テレビでは繰り返し邪馬台国特集が組まれていた。有力な説として九州説と機内説があり、それぞれの論者が激しいバトルを繰り広げていた。それはもはや考古学や歴史学の議論ではなく、それぞれの土地の面子がかかった領土問題のようなものになっており、そして領土問題が常にそうであるように、事実や道理や土地の価値とは関係なく、それまでに争いにつぎ込んできた血と汗こそが対立をあおる燃料となっていたのだ。

 論争に終止符を打つためには物証が必要だった。邪馬台国の遺跡が発掘されるのが一番だが、「卑弥呼の金印」が見つかればそれで充分だ。『魏志倭人伝』には、三世紀の中頃、邪馬台国の卑弥呼を「親魏倭王」と認め、金印を授けたという記述がある。卑弥呼の死後、金印が大陸に返却されたとは考えにくく、それは今も日本列島のどこかに眠っているはずだ。発見される可能性はゼロではない。現に、『後漢書』倭伝に記述された、倭の奴国王に与えられし金印が、江戸時代に九州の志賀島で実際に発見され、今では国宝となっている。親魏倭王印、通称「卑弥呼の金印」も、いずれどこかで見つかるかも知れない。その発見場所こそ、かつて邪馬台国があった場所なのだ。

 そういったことは高校生の私もよく知っていた。邪馬台国論争はホットな話題であり、若者向けの雑誌でもしばしば特集されていた。私は大阪出身なので、むろん畿内説びいきだった。もし今、私の手にある小さな金印が「卑弥呼の金印」だというのなら、そしてそれが奈良だったか和歌山だったかで発掘されたのであれば、それは機内説の決定的な証拠になる。足が震えてきた。

 「おばちゃん、これまじで国宝ちゃうんか。邪馬台国の場所もこれで決まりや」

 「おばちゃん、ゆうなっ、つーてるやろ、このガキが。しつけもようせん親の顔が見たいわ」

 おばちゃんは私の手から鑑定札を乱暴にひったくって、一カ所を指さし、「ここ見てみい」と言う。そこにはこう書かれていた。

  「年代測定の結果:紀元前一万二千年頃」
  「考古学上の意義:無価値。時代錯誤遺物」

 私はがっくり肩を落とした。紀元前一万二千年。邪馬台国や魏どころか、漢字すら存在しない太古の昔だ。

 「惜しいなあ。ほんまもんやったら国宝やのに」

 「ほんまもん、ゆうとるやろがっ。何度も言わせんな。鑑定札もちゃんとある。ただ、年代がちょっと違うとるだけや。そやけどこれは正真正銘、ほんまのオーパーツやねん」

 おばちゃん、鼻息が荒いで。

 もちろんおばちゃんは正しい。だからこそこの金印は、こんな場末のオーパーツショップに置かれているのだ。


 アステカの水晶ドクロ、コロンビアの黄金ジェット機、コスタリカの石球、三葉虫を踏みつぶしたサンダルの足跡。時代を間違えているとしか思えない場違いな工芸品、それらを総称して「オーパーツ」と呼ぶ。考古学においては「時代錯誤遺物」とも呼ばれ、学術的には無価値とされる。

 しかし、オーパーツには莫大な経済的価値がある。古今東西を問わず、人々はオーパーツの不思議さに魅せられ、その神秘を我が物にしたいという欲望に駆られてきた。どの時代においても、権力者にとってオーパーツを所有することには重大な意義があった。それは自らの権力を正統化するものであり、その統治に「時代を超越したパワー」が備わっている証だと見なされてきたのだ。

 とりわけオーパーツ収集に熱心だったのは、西洋では英国、東洋では中国であった。

 英国は世界中のオーパーツを集めて保存することを、大英帝国の権利であるのみならず、神聖な義務だと見なした。植民地に赴任した役人の最も重要な任務は現地におけるオーパーツの収集であり、帝国の庇護のもと博物学者やアマチュア研究者たちが世界中を回って、珍しい時代錯誤遺物を集めては故国に持ち帰った。それら膨大なオーパーツ・コレクションはあまたある博物館に収められたが、もちろん個人の所有物になったものや、商人に売られ海外に密輸されたものもまた数限りない。

 いっぽう中国においては、オーパーツは歴代皇帝が所有する富と権力の象徴だった。勅命により全国から集められたオーパーツは王宮の最奥部に保管され、多数の専門技術者が管理にあたった。技術者の地位は代々引き継がれ、オーパーツ技術そのものを用いることで、今日でも不可能なレベルの修復や維持を行っていたとされる。オーパーツは「時代に先駆ける」ことの象徴と見なされ、最高に縁起が良いものとされた。このため富裕層は競ってオーパーツを手に入れようとした。オーパーツは風水にもとり入れられ、都市設計から個人宅の間取りに至るまで、オーパーツを適切に配置するための知識が求められた。風水師はまたオーパーツの専門家でもあったのである。

 十八世紀から十九世紀にかけて、英国という巨大なオーパーツ供給源と、中国という同じく巨大な需要が、今でいうグローバル流通という太いパイプを通じてしっかりと結びついた。結果として堤防が決壊したように大量のオーパーツが流出。あるものはインド洋を渡り、またあるものはシルクロードを抜け、土石流となって中華世界へとなだれ込んでいった。

 この動きは、それまでの朝貢体制(皇帝に対し周辺国が貢物を捧げ、これに対し皇帝が希少オーパーツを与えることで成立する貿易体制)を大きくゆるがせた。清朝はオーパーツ密輸を厳しく取り締まったが、それを不満とする英国との間でいわゆるオーパーツ戦争が勃発。これに破れた清朝は、オーパーツ貿易のために各地の港を開放するとともに、英国に対して香港を割譲するはめになった。現在でも、香港オークションこそが世界最大のオーパーツ市場と見なされており、そこで動く金額は世界経済をゆるがす、と云われるゆえんである。

 ひるがえって日本では、長らくオーパーツにさほどの関心は払われてこなかった。庶民レベルでオーパーツ熱が蔓延したのは、ようやく昭和高度経済成長期に入ってからのことだ。さらにバブル経済期になると、降って湧いたようなあぶく銭を手にした成金たちが、見栄のために大金を出して稀少オーパーツを手に入れて見せびらかすという、今から思えばいかにも洗練からほど遠い光景があちこちで見られた。

 ある大会社の会長など、マヤのパレンケ遺跡で発掘された「古代宇宙飛行士の浮き彫り」を大枚はたいて購入し、本社ビルの受付ホール壁面に飾って得意気にしていたが、何と縦横を間違えて横倒しの形で掲示したため、それは少しも宇宙飛行士らしくなく、むしろマヤ文化のありふれたモチーフにしか見えないという失態に気づかなかった、という有名なエピソードがある。恥ずかしい話だ。

 こんな有り様では、日本人はオーパーツの理解に乏しい、観る目がない、と軽んじられたのも無理はないだろう。要するに日本人はカモだと見なされたのである。このため偽造品が大量に出回った。現地の古代遺跡から発掘されたと称する偽造オーパーツを日本人観光客に売りつける商売は、世界中どこでも広く行われていた。観光客向けのカブレラ・ストーンにけっこうな額を払うのは日本人だけ、とも云われていた。

 ちなみに、こういったオーパーツ熱に対して当時の私は冷笑的だった。といっても別にきちんとした考えがあっての批判ではなく、いかにも思慮の浅い若者らしく、成金趣味に対して感情的に反発していただけのことだったが。いずれにせよ、オーパーツを集めて悦に入る連中というのは間抜けか悪趣味だと、そう私は思っていた。いうまでもなく、一つでも心からオーパーツが欲しいと感じた途端、そういった価値観はあっさりと逆転する。私の場合、そのきっかけが金印だったのだ。

 邪馬台国とは無関係なオーパーツだと知って落胆した後、ふと、この手のひらに乗っている小さな金印を「欲しい」と思った。

 いったんそう思うと、誰か他人がこれを所有するという考えには耐えられなかった。自分のものにしなければならない、ただやみくもにそう思った。なぜかは今だによく分からない。多くの人が、オーパーツ熱は不治の病、という。オーパーツには、それを眺めているだけでは飽き足らず、所有欲を激しくかき立てる不思議な力があるのだ。それは歴史を動かしてきた力だ。

 おばちゃんとの凄絶な価格交渉が始まった。それから何週間もかけて私は「むかしや」に通いつめ、鰹節を削るようにじりじりと価格を下げていった。しかし、どこまで下げても、しょせん高校生に出せる金額ではなかった。最後は泣き落としに出た。これ以上は出せん、どうしても出せん、でもそれを他人に売るんやったら、この店に火ぃつけておばちゃんと心中しちゃる、とまで口走ったと思う。おばちゃんも最後は根負けして、とうとうこう言ってくれた。

 「しゃあない。その値段で持ってけ。・・・残りは、分割払いやで」

 次は親の説得だった。これから真面目にわき目もふらず受験勉強します、必ず東京の大学に合格します、親孝行させて下さい。せやし、せやから、そんでな、そやけどな。必要な金額を出してもらうまで同じことを言い続けた。こうして、ついに金印は私のものとなったのだ。親との約束は守って、私は東京の大学に進学した。ただ、今に至るも少々後ろめたいのは、金印を手に入れてからそれっきり「むかしや」に足を向けず、残金の支払いを踏み倒したことだ。でも、それはおばちゃんも承知の上だったと思う。


 実のところ、私は密かに金印の年代測定結果を疑っていた。最新技術で測定したら、ちゃんと紀元三世紀頃という結果が出るのではないか、つまりこの金印はやっぱり「本物」ではないのか、そう思っていた。それを自分の手で確かめてみたい、というのが、やや大げさにいうなら、私の悲願になったのだ。それゆえ、大学では遺物の年代測定技術を学ぶことにした。迷いはなかった。

 遺物の年代測定法にはたくさんの種類がある。どれが最高というわけではない。どの手法にも一長一短があり、だからこそ複数の測定技術を組み合わせることで信頼性の高い結果が得られるのだ。年代測定技術者はありとあらゆる技法に通じていなければならない。放射性炭素法、カリウム・アルゴン法、ウラン系列法、光ルミネッセンス法、熱ルミネッセンス法、そしてシェルドレイク共鳴法。年代測定技術をものにするためには、核物理学、光学、無機化学、量子共鳴、電界分離、クロマトグラフィ、そしてもちろん資料研磨(プレパラート作成)から真空ポンプの適切な使用に至るまで、様々な知識と技術を身につける必要がある。これらの基礎を学ぶだけで学部の四年間は過ぎ去り、そして気がつけば、卒論の季節が近づいていた。

 卒論を仕上げるためには、学部生はどれか一つの年代測定法に専門的に取り組む必要がある。私が選んだのはシェルドレイク共鳴法だった。年代測定技術について詳しくない方のために、シェルドレイク共鳴法について簡単に紹介しておこう。この原理が発見されたのは、実のところほんのささいな偶然からだった。グリセリンの結晶化 をめぐる奇妙なエピソードがそのきっかけとなったのだ。

 当時、グリセリンの結晶化は困難で、世界中の科学者がどうやっても結晶化させることが出来なかった。ところがあるとき、宮崎県の幸島に棲息する猿の一頭が、イモを洗うために石鹸を作ろうとしていて、おそらくは偶然に、グリセリンを結晶化させたのだ。その技術はどんどん島内の集団に伝わってゆき、多くの猿が簡単にグリセリンを結晶化させるようになった。ここで奇妙なことが起きる。海を隔てて孤立した他の島でも、ほぼ同時期に、猿たちがグリセリンを結晶化し、出来た石鹸でイモを洗うようになったのだ。

 この現象を観察した日本のサル学研究チームは、時間的・空間的に離れた事象であっても、両者のあいだに量子共鳴が働いて因果律が伝搬することがある、という仮説を唱えた。後に、英国のシェルドレイクという名の猿が、タイプライターのキーをでたらめに叩いているうちに、たまたまその定式化に成功した。これが今日でいう形態形成場理論、すなわちシェルドレイク共鳴である。一つ一つは単なる偶然の出来事かも知れないが、その偶然の連鎖が織りなすパターンには重要な意味があるのだ。おかげで、私たちはオーパーツの生成年代をかなり正確に突き止めることが出来るようになったのである。

 私は、この技法による年代測定については日本でも一二を争う権威とされる教授の研究室に入った。ただし、その教授に指導を受けたのは、最初のオリエンテーションのときと、卒論の口頭試問準備のときだけで、研究期間中は若い指導教官が面倒を見てくれた。それは少し残念なことだったが、指導教官はとても面倒見のいい人で、その点では大いに助かった。彼の指示は、とにかく共鳴測定器の扱いに習熟しろ、であった。それが最初であり、最後であると。

 思っていたよりもはるかに困難な仕事だった。毎日、朝早く研究室にきて共鳴測定器のセッティングを行う。前回の測定時の残留物や、埃、指先の油脂成分など、コンタミと呼ばれる異物混入を防ぐために徹底的な清掃を行う。それから機械系統の動作を何度も確認してチェックリストに記入。続いて電気系統のテスト。全てが正常であることを確認したら、キャリブレーション(計測較正)に入る。実はこの作業が最も手間と時間がかかる。細心の注意を払って進めなければならない。

 科学者、理系研究者というと、どのようなイメージが思い浮かぶだろうか。片手で持ち上げた試験管を斜め下からじっと見つめている白衣の女性? それとも数式で埋められた黒板を前に腕組みをしている眼鏡をかけた男性? 私の体験から言わせて頂くなら、科学者というのは、要するに人生の大半を測定器のキャリブレーションに費やす人々のことだと思う。

 確かに手間はかかるが、注意深く実施されたシェルドレイク共鳴測定は、驚くべき成果をもたらしてくれる。指標サンプル(年代がはっきりしている対照試料)とのシンクロニシティの強さ、厳密にはそのスペクトルを測ることで、測定対象と指標とが年代的にどれほど離れているかを大まかに推定できるのだ。同一試料に対して様々な年代の指標サンプルを「ぶつける」(共鳴測定することを現場ではこう呼ぶ)ことで、少しずつ試料の生成年代を絞り込んでゆく。手間をかければかけるだけ、精度は上がってゆく。

 私は「修行」として様々な試料の年代測定をやらされた。試料一つにつき最低でも三回、論文に使えるだけの有効桁数を得るためには五回から六回の測定が必要で、おおむね一回の測定だけで一日が終わってしまう。残りの時間は機器の清掃。翌朝にはまた清掃と動作チェック、そしてキャリブレーション。ひたすらキャリブレーション。それが終わると既に昼になっており、食事の前に測定開始。昼食から戻ってきて夕方まで測定。このサイクルを一週間ほど繰り返して、ようやく一つの試料の年代測定が完了する。何にせよ、理系人生はつまるところ根気と体力だ。

 私は自分の金印も測定器にかけてみた。もしや、と期待したのだが、測定結果は紀元前一万年から一万五千年と出た。もちろん多基準測定で精度を上げてゆくことは可能だが、その必要はない。金印は紛れもなくオーパーツであり、考古学や歴史学にとっての価値はないのだった。邪馬台国よ、卑弥呼よ、さようなら。


 私の卒論のテーマは、オーパーツ生成頻度の年代的偏りに関するものであった。つまり、最古のオーパーツとされる四十億年前の地層に刻まれた「キルロイ参上」の落書きから、今の科学技術では作ることが出来ないとされる現代オーパーツ「ドローンズ」に至るまで、オーパーツは絶え間なく生成され続けているように見える。だが、それらは地質学的年代を通じてほぼ同じ頻度で生成されてきたのか、それともある年代には大量に生成されたのに別の年代にはほとんど生成されない、といった顕著な偏りがあるのか。これこそ、当時、オーパーツ学における最もホットな話題だったといえるだろう。

 この問題のとりわけやっかいな点は、全てのオーパーツが発掘されているわけでは当然ないし、各年代を通じて均等な割合で発掘されているわけでもない、ということにある。年代による偏りがあったとしても、はたしてそれは生成頻度の偏りなのか、それとも発掘率の偏りなのか。それを見極めるためには、大規模で包括的な調査と統計学の助けが必要だ。さらに、測定技術の進歩が日進月歩であることから、古い論文になるほど掲載されている年代測定結果の信頼性が低い、つまり指標とされてきたオーパーツほど年代測定が甘い、ということになり、この事実もまた混乱に拍車をかけることとなった。

 もちろん私の卒論はこの大問題に一石を投じるような大それたものではなく、その解決に求められる大規模統計処理用の基礎データの一部を集めるものだった。採石場で岩を掘ってはそれを適切な粒度に割って(データクランチして)砕石機に一つ一つ投入してゆく、そんな仕事だ。卒論研究というのは、まあ、ありていにいって、研究生活を体験し、きちんと論文を書く練習みたいなものだから、格段に重要な成果など求められない。愚直で真面目に根気よくやれば、ちゃんと大学を卒業できるのだ。

 愚直で真面目に根気よくやって無事に大学を卒業した私が、大手電子機器メーカーに就職してから三年が過ぎた頃、権威ある専門誌「オーパーツ・レビュー」に画期的な論文が掲載された。カナダの大学と米国の研究機関による長年にわたる共同研究の成果であり、最新の年代測定結果と可能な限りの発掘率補正を行った上で、地質学年代ごとのオーパーツ生成率推移をまとめ上げたのだ。それを図示したグラフ類を見れば、結論は明らかだった。オーパーツ生成には年代による偏りが確かに存在する。しかもそれは周期的パターンを成していたのだ。

 オーパーツ四十億年の歴史を通じて、生成頻度が際立って少ない年代が八つあった。うち五つ(オルドビス紀末、デボン紀末、ペルム紀末、三畳紀末、そして白亜紀末)では平均に比べてわずか十パーセント前後のオーパーツしか生成されておらず、特にペルム紀末に生成されたオーパーツ数に至っては、わずか数パーセントという極端に低い値となっている。これらはオーパーツの「大絶滅期」と呼ばれた。残り三つの年代についてはそれほど顕著ではないものの、その生成率はおよそ半減しており、これらは「小絶滅期」と名付けられた。

 総計八つの絶滅期は、ほぼ周期的に現れているように見えることから、その原因について様々な仮説が立てられた。何らかの天文現象が原因であるという説(周期的に地球に接近する惑星ニビル)、プルームテクトニクスに原因を求める説(周期的に浮上するムー大陸)、生態系バランスに原因があるという説(オーパーツを好んで食べる甲殻類の周期的大発生)。もちろん、統計処理上の見落としによって生じた見かけの偏りに過ぎないと頑固に主張する専門家もいたが、その数は次第に減っていった。

 それらの学術的な論争にも増して一般の話題となったのは、もしここに見られる周期性が正しいのなら、現在は、正確にいうならここ数万年の期間は、白亜紀末の第八絶滅期に続く次のオーパーツ大絶滅期に入っているはずだ、という点だった。すなわち「第九絶滅期」だ。私たちは第九絶滅期のただなかにいるのだろうか。その解釈をめぐっても様々な説が唱えられた。

 問題となるのは、私たちになじみ深いオーパーツの多くが第九絶滅期に含まれてしまう、ということ。その数は膨大なもので、素直に考えれば大絶滅期に入っているとは到底思えない。では、第九絶滅期の到来は周期性から外れて、つまり遅れているのか。それともやはり周期性そのものが幻なのか。議論は果てしなく続くかのように思われた。

 その答えがはっきりするには、それからさらに五年以上の歳月が必要だったのである。


 その夏の夜、私は何とはなしに寝苦しくて、何度も目を覚ましてはトイレにゆき、キッチンに寄って、水道の蛇口からコップに水を注いでは飲みほし、また寝床に戻る、というサイクルを一時間おきに繰り返していた。六畳の居間、三畳の台所、トイレはあるが風呂はない、そんな安アパートの一室である。エアコンなどあろうはずもなく、部屋の隅で小さな扇風機がぶんぶん音を立てて首を振っているものの、それは湯船のお湯をかき混ぜるような効果しかもたらさなかった。気象庁によると熱帯夜ではないとのことだが、逃げ場もなく熱気毛布にくるまれた夜を過ごす身には、そんな気象学上の定義など何のなぐさめにもならない。

 夜半過ぎ、というか、おそらくは深夜と早朝の境目に位置する微妙な時間。何度目かの暑苦しい目覚めを迎えて、げんなりした気分で目を開いたとき、私は異変に気づいた。天井がちらちらと揺れている。一瞬、何が何やら分からなくて、それから驚いて夏布団を蹴っ飛ばして起きた。何だこれは。

 天井は下から黄色い光に照らされており、その光が揺れることで、さざ波のたつ海面を上空から眺めているように感じられるのだ。もちろん間接照明ではない。そんなおしゃれなものはない。よく見ると、光源は、不思議なことに、机の引き出しの中にあった。学生時代から使っているスチール製の小型机。その右手、縦に三つ並んだ引き出しの最上段が少し引き出されたようになっており、そこから黄色い光が上に伸びている。その光が、ゆらめきながら天井を照らしている。プラネタリウム、というよりはプロジェクターのように。

 引き出しを大きくあけてみた。中には、雑多な文房具や手紙類とともに、大切にしてきた私の宝物、金印が入っている。発光しているのは、それだった。中にライトが仕込まれているかのように、柔らかい光が金印の内側から漏れており、それが数秒おきに強くなったり弱くなったりする。脈動、あるいは呼吸しているかのようだ。音はない。完全に無音だった。静かに、暗闇の中で、クリスマスの飾りつけのように、ただゆらめいている光。

 何が起きてる? 私は夢を見ているのだろうか?

 恐ろしさは感じなかった。ごく当然のように、私は手を伸ばして金印を拾い上げた。手のひらに乗せて、それをじっと眺めてみる。いつか「むかしや」でそうしたときの思い出が、鮮明によみがえってきた。あのとき、足が震えたことまでも。

 ふと、金印の重さが消えた。あっ、と思ったときには、それは手のひらから勢いよく跳ねるように宙に飛び上がった。そして開け放してある窓から外に飛び出していったのだ。私はあわてて窓辺に駆けよった。金印は光の筋を残しながら、上へ上へと、夜のしじまを抜けて勢いよく空に昇ってゆく。ためらいなく昇ってゆく。

 周囲を見回すと、あちらこちらから、建売住宅から、マンションの高層階から、商店街から、学校から、同じような光が立ち昇ってゆくのに気付いた。色は様々だった。オレンジ色の発光体もあれば、緑のファイヤーボールもある。銀色に輝く葉巻のような形もある。ジグザグ飛行をしたり、木の葉が舞うような動きをしたり、急旋回、あるいは急停止したかと思うと、一瞬にして猛スピードで飛んでいったり、それらはあたかも水中に放たれた稚魚の群れのように乱舞していた。

 実のところ、数日前から世界のあちこちでこの異変は起きていたらしい。米国ニューメキシコ州では、オーパーツ博物館に展示されていた大量のロズウェル金属片がひとりでに集まり、二枚の皿を張り合わせたような形になって飛び去っていったという。同じように、シベリア地方ではツングースカのタングステン製コイル群が、アズテックやモーリー島ではクラッシュドデブリが、いずれも合体して金属製オーパーツになり、空に飛び去っていった。

 あの夜から数日間がピークだった。世界中からオーパーツが飛び去ったという報告が寄せられた。ドローンズが、ケクスバーグディスクが、ソコロバルーンが、ハチソンエンジンが、現代の科学技術を超越した時代錯誤工芸品たちが、たとえ密室に保管されていても壁や天井を抜けるようにして消えたという。四国は高知のケラマシンに至っては、厳重にデイパックに密封されていたにも関わらず、袋に穴も開けずに外に出ていってしまったというから驚くべきことだ。

 後の調査で判明したのだが、生成年代が現在からほぼ十万年以上離れているオーパーツはどれも異変に巻き込まれておらず、これが事態を理解する決め手となった。ここ数万年に生成した、地質学的な意味で「現代の」あるいは「若い」オーパーツは、そのほとんどが大空に飛び去ってしまい、したがって後世に発掘されることは決してないだろう。すなわち、私たちが目撃したのは、ほかでもない、オーパーツの「第九絶滅期」だったのである。

 飛び去ったオーパーツたちは、それからも空を飛んでいるのを頻繁に目撃された。あるものは集団飛行し、またあるものは航空機にまとわりつくように飛んだ。大型オーパーツの周囲を複数の小型オーパーツが舞い飛ぶ様子が観察されたり、ときには着陸したり墜落したという目撃談すらあった。このようなオーパーツを指すために、マスコミはUFO(未確認飛行オーパーツ)という用語を作り出した。UFOは勝手気ままに空を飛び回り、そして繁殖にいそしんだ。それらを捕獲する試みは全て失敗に終わった。

 やがてUFOたちは繁殖期を終えたらしく、次第にその姿を消していった。しばらくして、あちこちにオーパーツの卵が降ってきた。細い糸のような形状で触ると溶けてしまう卵、オタマジャクシそっくりの卵、魚やカエルの形をした卵、自動車部品のボルトのような卵。色も形も大きさも異なる様々なオーパーツの卵が、世界中の地面に静かに降り注いだ。研究者たちは奔走して卵を集めたが、実験室内でそれらが孵化することは決してなかった。おそらく卵は数万年もの歳月を地面の下でやりすごし、それからゆっくり孵化して、様々な形態のオーパーツが生成されるのだろう。

 それまでオーパーツの「絶滅期」と呼ばれていた年代は、公式に「繁殖期」と改名されることとなり、そして過去十万年から現在に至る年代は、オーパーツ「第九繁殖期」と呼ばれることになった。


 あの夜以来、私は気をつけて空を見上げるようにしていたのだが、金印を目にすることは二度となかった。それは寂しいことだった。しかし、思っていたほど悲しい気持ちにはならなかった。おそらく今もどこかの地面の下、あの金印の卵が眠っている。地質学的な歳月をかけて孵化し、やがて形態形成場を介して再び金印の、あるいはその時代に求められる形態を獲得して、オーパーツとして生成される。それは気の遠くなるほど先のことであり、その頃に、はたして人類がいるのかどうかも定かではない。だが、オーパーツがある限り、私たちの文化は遠い遠い未来へと伝わるのだ。その願いや、憧れや、恐れを、形として表した「場違い工芸品」によって。

 あのとき、「むかしや」で足を震わせていた高校生の私。その手のひらに乗っていたのは、親魏倭王の証ではなかった。そこにあったのは、はかり知れないほどの遠い過去と、そして同様に遠い未来を結ぶ、細くとも、決して途切れることのない糸の一端だった。私が金印を所有した期間はわずか十五年。地質学的なスケールで見るなら、それはまさに刹那のことだ。しかし、それは、はるか彼方へと、久遠へと、確かにつながっていたのだった。



超常創作同人誌『PLAN9 FROM OUTER SpFILE』(SpF9)に掲載(2011年8月)
馬場秀和


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