『現代詩と円盤』


馬場秀和




「現代詩の雑誌に円盤論を延々と載せるという、おふたりのおおらかさ、あるいは大胆不敵さがなければ、本書はけっして成立しなかっただろう」
(定本何空p.125)

「わたしにとってオカルティズムと文学(そして、UFOや民俗学も)は通底しており、対象として何ら本質的な差異は存在しない」
(定本何空p.2)



 稲生平太郎著『何かが空を飛んでいる』(本稿においては「何空」と表記。また国書刊行会版の単行本については「定本何空」と表記する)に関して、やや奇異とも感じられる事実は、これが詩誌「ジライヤ」に連載されたということであろう。

 なぜ、現代詩の雑誌に長大な円盤論が載ったのか。

 それは単なる偶然に過ぎないのかも知れない。詩人でもある著者が円盤について書きたいと思ったとき、それを面白がって連載を承諾してくれたのがたまたまジライヤの編集者だった。真相はそんなところだろうか。

 しかし、皆様もよくご存じの通り、こと円盤がからんでくると、「偶然」だの「たまたま」だのといった言葉は、まったく信用できなくなる。そうなのである。

 何空が詩誌に連載されたのはただの偶然ではなく、そこにはある種の必然性があるのだ。たとえ表面的には偶然に見えたとしても、その背後では、それこそ円盤世界にも通底するねじれた奇妙なロジックが働いている。

 といったようなことを、本稿では主張するつもりなのです。まじで。

 それが言い過ぎなら、少なくとも、現代詩の一部には、何空に書かれているようなことを詩の言葉で表現しようと試みている作品がある、と、ここでは言っておきましょう。

 冒頭から回りくどい書き方をしていますが、要するに何をやりたいのかをストレートに申し上げるなら。

 「何空っぽいものが出てくる現代詩」を、色々と紹介したいの。

 現代詩というと、とかく難解で、よく分からないし、興味が持てない、という印象があって敬遠されがちなんですが、いやいやそうでもありませんよ、何空テイストを気に入った読者なら意外と現代詩ばっちりかもよー、というようなことを語りたいわけであります。

 何はともあれ、現代詩のなかを飛んでいる円盤についてこれから順番に見てゆきます。現代詩がお好きな方も、まったく読んだことがないという方も、どうかお楽しみ下さい。


1.現代詩と円盤


「本書は空飛ぶ円盤の本である。UFOの本である。ここまではいちおう誤解はないと思うな」
(定本何空p.11)

 そもそも、何やら小難しくて高尚な感じがする現代詩というやつに、本当に「空飛ぶ円盤」なんていうふざけたものが出てくるのでしょうか。すでに訝しげな顔つきになっている読者もいらっしゃることと思われます。ではまず、次のサンプルを読んで頂きましょう。

サンプルA



    米国人の半数強が地球外生命体の存在を信じている。
陰謀論者と呼ばれ、嘲笑され排除されても、

    政府は真実を語っていないと考える人は80%に上るという世論調査結果がある。
高周波活性オーロラ調査プログラムで調べてみると

    「国民には知る権利がある」
心配しなくてもサンタはいるとわかりました。

    「証拠隠ぺいをうかがわせるような信頼できる情報はない」
サンタは何もせずに寝ているわけではない。

    「この宇宙に無数にある星々のどこかに、我々とは別の生命が住む惑星がある確率は極めて高い」
アクエリアスの新世界秩序、スターゲートが待っています。

    「ただしその相手と接触する確率は極めて低い」
ニコラ・テスラは直流と交流でエジソンと争い

    2011/11March Tokyo Japan 大地震で揺れる東京にUFO出現か
イルミナティはまつげの魔法

    物体はまばゆい光を発して消滅した
フリーメーソンはサンタです。


  河野聡子『No.27』より
  詩集『Japan Quake Map "Sapporo"によるヴァリエーション』収録

 はい、まぎれもなく空飛ぶ円盤が出てきましたね。揺れる東京にUFO出現か。

 ちなみにサンプルAの原文では、奇数行は小さいフォントで印刷されており、偶数行の「わけの分からない荒唐無稽な陰謀論」らしき語りに対する「背景音」のように感じられる仕掛けになっています。話者の背後で鳴っているラジオの音とか。本稿ではフォントいじりはしないで、字下げによってそれを無理やり表現していることをご承知おき下さい。

 で、サンプルAはいったい何かと申しますと、これは東日本大震災をテーマにした連作詩の一部なのです。しかも、この連作の執筆行為そのものが、とある現代音楽の「演奏」になっており、楽譜の指示を「解釈」して詩作に適用するという、まあ実験的な手法で書かれたものであります。実験的な現代詩、と聞いただけで、うへぇ、と思う方は、この作品の分かりやすさに驚嘆するがよい。分かりやすいし、面白い。そうでしょう。そうでしょう。

 震災直後、それまで確固として続いていた日常がすぱっと切り落とされ、あからさまに荒唐無稽なデマやら流言やらに切羽詰まった真実味が感じられるという、思い起こせば「何だったんだろうね、あの頃」というような非日常的リアリティに支配された時間の中にいたことが、私たちには確かにあったのです。覚えてますか。

 上で引用したサンプルAでは、あの奇怪な時間を表現するために、トンデモ系陰謀論の用語やらその独特の断定文体をコラージュした上で、さらに円盤まわりの言説を「環境音」としてたれ流すという、なかなか凝った手法が使われているのです。

「円盤の世界には僕たちの認識体系、論理体系にあてはまる整合性なんて存在しないらしく、したがって、その世界を既存の世界観の枠内で真摯に記述しようとすると、逆に歪んだまともでないものしかでてこない」
(定本何空p.59)

 何空には上のように書いてありますが、では「既存の世界観の枠内で」という制約を緩めて、とにかく直截的に円盤世界を表現するすべはないものでしょうか。サンプルAを眺めてみればお分かりの通り、詩の言葉を駆使することで、かなりそれに近いことが出来る、少なくともその可能性があるのです。アクエリアスの新世界秩序、スターゲートが待っているのです。


2.現代詩と小人たち


「じゃあ、小人から始めようか」
(定本何空p.17)

 現代詩のなかを円盤が飛ぶことだってあるのは分かった。しかし、何空的な意味でいう「小人」、すなわち宇宙人とも妖精ともつかない、現実と非現実の境界線を侵犯してくるような、そんな奇妙な連中までが踊ってたりするのか、現代詩のなかで。いや、さすがにそれはないだろう。

 そのようにお思いですか。では、次のサンプルBをお読み下さい。

サンプルB



だしぬけに日が翳り すべてがまるでモノクロームの画面のやうに いや むしろネガの画面のやうになつた 「あ あれ」 従兄の指さす方をみると 百メートルほど上手の そこだけ大きめの石を集め ケルンといふのだらうか 積み上げてあるのを取巻いて みな同じ背丈で 一様に白い衣装をまとつた大勢の(三四十人はゐたらうか)子どもが踊りながら回つてゐる----唄つてゐるのは口が一斉に開いたり閉じたりするので判る けれども 声はまつたく聞こえない

厚い雲が去つて あたりに色彩が戻つたとき 石積みの周りにもはや子どもたちの姿は無かつた ただし その恰度真上に当たる空に 淡い淡い昼の月が懸つてゐた


  入沢康夫『山麓の石原の思ひ出』より
  詩集『偽記憶』(『かはづ鳴く池の方へ』と合わせて『かりのそらね』として刊行)収録

 従兄といっしょに山登りをしている最中、石原で踊っている奇妙な子どもたち(?)を目撃したという作品です。

 サンプルBに登場する奇妙な連中はいったい何なのでしょうか。「ケルン」という言葉が妖精をイメージさせますが、ラストで視線がすーっと上に向かうと(この視線移動の感じがいい)、そこには月があり、彼らが空または宇宙と強いつながりがあることが暗示されます。すなわち宇宙人、あるいは円盤搭乗員です。

「彼らは空飛ぶ円盤の世界を跳梁する主要な住人たちのひとりで、奇怪なダンスを踊り続けている。(中略)
彼らは太古から人間世界を侵犯してきたのであり、ただ少しばかり装いを変えたにすぎない。そして、妖精と呼ぶにせよ搭乗員と呼ぶにせよ、彼らは変幻自在かつ不可解な存在である」
(定本何空p.17、23)

 妖精とも宇宙人ともつかないよう意図的に曖昧にすることによって、「解釈」が行われる以前のむき出しの目撃体験がそのまま書かれているように感じさせる。サンプルBは、まさしく何空に出てくる遭遇事例そのものを詩の言葉で表現したものだ、ということがお分かりでしょう。小人が踊ってるんですよ。現代詩のなかでも。


3.現代詩と誘拐体験


「次は「誘拐」だっ!」
(定本何空p.32)

 さあ、調子が出てきたところで、次はエイリアン・アブダクション、誘拐体験、いきます。まずは、誘拐体験の基本構成をここで再確認しておきましょう。

 まず、たいてい真夜中のことですが、証言者の寝室に何者かが侵入してきます。これが「プロローグ」です。

 気がつくと証言者はどこか別の場所にいて、医療用の寝台か何かに寝かされており、周囲を奇怪なヒューマノイドに取り囲まれ、何やら忌まわしいこと(身体検査なのか人体実験なのか)をされています。これが「本編」の概要。

 「プロローグ」と「本編」の間は存在しない(意識が薄れて、唐突に場面が切り替わる)こともあれば、「光のトンネルに包まれている」といったイメージが挟まれることもあります。

 この「光のトンネル」は、ごりごりのETH論者の手にかかると「上空の円盤から放たれた牽引ビームだか反重力フィールドだか何かそういったもので証言者が寝室から吸い上げられてゆく場面」だと解釈されているようです。他にも、臨死体験との関連だとか、出生時のトラウマだとか、色々なことが喧伝されてますが、とにかく誘拐体験と光のトンネルは何やらイメージとして強く結びついているらしい。

 そして、証言者の記憶は消され(抑圧され)、後に夢や催眠状態で記憶を回復するまで、ずっと不安感や謎めいた胸騒ぎだけが残る、という「エピローグ」が続きます。

 以上を踏まえた上で、まずは「プロローグ」から見てゆきましょう。

サンプルC



それは夜中にひっそりやってきた
眠れない身体から出て
熱を持った個体にくっつこうとする
もやのようなもの
じっと動かないでいるのだが
わたしは毛布のなかでフリーズしてしまう
静かな恐怖。
けれどこの胸騒ぎにはどこか親しさがあって
突然の来客のようなものかもしれないとも思う


  須永紀子『夜にわたしたちは』より
  詩集『中空前夜』収録

 サンプルCには典型的な「寝室への侵入者」が登場します。しかし、ここで注目したいのは、引用部分のラスト数行におけるやや唐突とも思える心境変化。最初は「静かな恐怖」を感じていたのに、すぐに「突然の来客」のような「どこか親しさ」を感じるようになったというのです。

 この変化は、何空でも強調されていたストリーバーの事例を強く想起させます。恐怖そのものだった誘拐体験が、次第に親しみを増してゆき、やがて恩寵と感じられるようになる。何空で詳しく紹介されていた意識変容のプロセスが、サンプルCではわずか数行で劇的に表現されていることに驚かされます。

 論理や過程に不必要にこだわらなくてもいい詩の言葉。その技法を駆使すれば、散文であれば多くのページ数を費やして説明しなければならない(そして結局、論理的には説明できない)超常体験を、わずか数行であっさり表現してしまうことも出来るのですね。

 というわけで、お次はいよいよ誘拐の「本編」です。

サンプルD



ころされるための順番を待っていた
にんげんは言葉を持たない
ただ迷いのないうでがわたしにのしかかり
すばやく脚を折り、痙攣が待たれる
水を掃く音、尻を冷やすコンクリート、
霧のなかで
空高く衣類だけが積み上げられていたことも
覚えている
(眩しい塔を見たのだ
光は波のように寄せ
あの塔がなんども現れてくる


  杉本真維子『光の塔』より
  詩集『袖口の動物』収録

 サンプルDはひどく不穏です。ここには何が書かれているのでしょうか。動物の屠殺か、それとも大量処刑、ホロコーストでしょうか。

 この詩から感じられる何ともいえない得体の知れない怖さは、「にんげん」というひとことから生じているような気がします。あえて「人間」と書かないことで、これが「人間の姿をしているが、実は人間ではないもの」すなわちヒューマノイドだと感じさせる。しかもそれは「言葉を持たない」、つまりコミュニケーションがとれない。人間モドキ。

 誘拐体験にも通じる不気味さがここにあります。

 次に注目したいのは、最後の方に突然出てくる「眩しい塔」の存在感です。誘拐体験に登場する、あの「光のトンネル」のイメージにそっくり。しかも「覚えている」「なんども現れてくる」という言葉からは、語り手が抑圧された記憶を回復しつつ語っている、という印象を受けるのです。

 サンプルDが誘拐体験そのものを表現しているとは言いません。しかし、登場するイメージや表現が、上に述べたように、どうにもそれっぽく感じられてならないのです。

 次に、「エピローグ」へと進みます。

サンプルE



しずかないきものに囲まれている
伸びをしたり、身をすりよせたり
からだをやわらかく折りたたんでいる

わたしは一羽の
青いつるを折って
深夜のテーブルに置いていく

ドアを閉めると
きゅうに胸が騒ぎはじめた
きっと、
笑ったり、おこったり、
身体をぱたぱたと揺らしているんだろう

つるは
無数の傷跡を残し
カーテンが何枚も
風にゆれて

一枚の青い紙だけが
おぼえている


  杉本真維子『世界』
  詩集『袖口の動物』収録

 サンプルEもかなり不穏な雰囲気ではありますが、具体的に何が起きたのかは分かりません。まず注目したいのは「一枚の青い紙だけが/おぼえている」の一節です。つまり語り手は、何があったのかを忘れてしまった、記憶が抑圧された、ということが暗示されます。

 しかも、「しずかないきものに囲まれている」「きゅうな胸騒ぎ」「残された無数の傷跡」「風にゆれる何枚ものカーテン」といった要素が、いかにも、それっぽい。催眠状態でインタビューアーが少し誘導してやれば、たちまち誘拐体験として解釈されてしまいそうです。

 何かがあった。でも思い出せない。不安感だけが残っている。誘拐体験に共通するあの落ち着かない感じを、現代詩なら(異星人による誘拐、などといった陳腐な解釈に頼ることなく)ストレートに表現することが可能なのです。詩の言葉って、やっぱ凄いよね。


4.現代詩とMIB


「悪い夢のような不気味さ、グロテスクさを湛えている。つらつら思うに、彼らの特徴とは、現実であるにはあまりに非現実的だし、非現実であるにしてはあまりに現実的すぎることではないだろうか」
(定本何空p.101)

 現代詩には、円盤も、小人も、誘拐体験すら出てくることは分かった。しかし、いくら何でもMIB(メン・イン・ブラック、黒服の男たち)のような馬鹿げた連中が出てくるとは到底思えない、ですか。

 もう薄々お分かりのことでしょうが、現代詩には、何々だけは決して出てこない、といった制約はないのです。そういう意味でも、円盤世界に近いものがありますね。

サンプルF



階段のどのドアも閉ざされていて
内側に人の気配はしない。
それでも人はいるのかもしれない。
昼下がりにはセールスマンがやって来る。
土地のパンフレットや教育絵本 避妊具などをカバンに
 入れて一戸一戸ブザーを鳴らしながら上がって行く。
夜やあけがたサイレンが鳴りわたり長く尾を引くとどこ
 かで火事だ。
ひっそりと救急車が来て止まりだれか連れ出して行くこ
 ともある。
何だったのかを後で告げられることはない。


  中本道代『階段』より
  『中本道代詩集』(思潮社 現代詩文庫197)収録

 サンプルFも不気味な雰囲気です。閉ざされたドアの向こう、あちこちの部屋で何かが起きているらしいのですが、それは「後で告げられることはない」と断定されており、どうやら大規模な情報隠蔽が行われているらしい。たいへん嫌な予感がします。

 そんな不穏なところに、なぜか平然と出入りしているらしい、この「セールスマン」の場違い感。これはいったい何でしょうか。しかも、今どき「土地のパンフレット」だの「教育絵本」だの、果ては「避妊具」だの、あからさまにアナクロ、はっきりいって昭和の匂いがぷんぷんする商品を、訪問販売で売りつけようとする。この戸惑うほどの古くささ。

 不穏なことが起きているというのに、何食わぬ顔でずけずけと出没する場違い感。服装や所持品や態度から否応なく漂ってくる時代錯誤感。そして全体的に感じられる意図の不明さ。どうも、このセールスマンはMIBとしか私には思えないのです。彼が何を着ているのかは書かれていませんが、昭和デザインの黒い背広(三つ揃い)ではないでしょうか。

サンプルG



出てもいいと言われたのだけど
四方の出口は足がすくむ高さにあった
中に引き返して階段を探しても
階段らしいものは混み入っていて
どうしても下りては行けない

黒いモーニングを着た男が
あちこちに現われたかと思うと消え
私は少しずつ遅れてしまう
彼の方からひどくいやな匂いが流れてくる


  中本道代『置きみやげ』より
  『中本道代詩集』(思潮社 現代詩文庫197)収録

 こちらはもうあからさま。黒い服を着た男が、出たり消えたりして、語り手を妨害するのです。しかも「ひどくいやな匂い」がする。悪魔のイメージも感じますが、どうにもそういった大物感がなく、むしろどことなくグロテスクかつ滑稽な印象が強い。こいつらは間違いなくMIBのメンバーでしょう。彼らがどういう組織で何を目指しているのかはさっぱり分かりませんが。


5.現代詩と光り物


「忘れてならないのは、人間は大昔から光り物を見続けてきたということ、そして、とりわけ宗教的熱狂状態に顕著なごとく、光り物は通常のリアリティを切り裂くものとして出現していることである。光は現実の変容を象徴するものとして認識されているのだ」
(定本何空p.111)

 いよいよ大詰め。通常のリアリティを切り裂くもの、現実の変容を象徴するもの、という意味での「光り物」は、現代詩のなかをどのように飛んでいるのでしょうか。

サンプルH



引き返すこともできた
でもあの世界では
これほどの喜びは もう二度とやってこないだろう
と分かっていた
黒い森が優しく私に近づいてきた
透き通った香りがひりひりとしみ込んできた
幾筋もの細い月光が刺さっていたのかもしれない
それはあの世界なら痛み と言ったのかもしれない
あるいは眠り と言ったのかもしれない
言葉が必要のない世界で
私は月の光のようなもの 木の香りのようなものになって
溶けていくのを感じていた


  渡辺みえこ『森の吊り橋』より
  詩集『空の水没』収録

 サンプルHにおける月光は、まさしく宗教的熱狂状態における「現実の変容」を象徴しています。まぎれもなく、何空でいうところの「光り物」。

 幻想的で美しい詩ですが、よく考えてみると、円盤世界に山ほどある遭遇体験記、特にコンタクティが語るやつにそっくり。うっかりそれに気づいてしまうと、さあ大変、もう二度と素直に感動することが出来なくなってしまいます。あああ。

 現代詩と円盤。その意外な近さを発見してしまったとき、私たちが払う代償は決して小さなものではないのです。

サンプルI



国立府中インター近く
中央自動車道の上から
ミヤコにのぼる月が見える
厚いスモッグのレンズを通して
ぼやけて赤く
ふくれ上がって浮かぶ

ミヤコの人々の頭の上に
八月の満月は夢のように停止する


  中本道代『Winding August』より
  『中本道代詩集』(思潮社 現代詩文庫197)収録

 今度も月です。しかしこれは何という月でしょうか。「ぼやけて赤く/ふくれ上がって浮かぶ」「夢のように停止する」といった描写からは、とても普通の月とは思えません。そもそも「停止する」とわざわざ言うのが怪しい。それまでは停止してなかった、いつ飛んでもおかしくない、という含みさえ感じさせます。偽月か。

 その、奇怪な月の下にあるという、厚いスモッグに覆われた「ミヤコ」。文脈から東京だと分かりますが、あえて「ミヤコ」と書くことで、どことなく異界の雰囲気が漂います。このまま中央自動車道を走っても、日常的な東京に戻れる気がしません。すでに、通常のリアリティは切り裂かれ、現実は変容してしまっているのではないでしょうか。この「光り物」が「夢のように停止」した、その時に。


6.なにかがそらをとんでいる


「現実を引き裂くような何か、境界線を侵犯するような何かはやっぱりあるんだよね。こういった認識のゆらぎを痛撃するかのように裂け目から噴出するものが、百年前には死者の霊というかたちをとり、現代では円盤というかたちをとるのだと、僕は思う」
(定本何空p.120)

 というわけでお疲れさまでした。現代詩と円盤をめぐるツアーは、これで終了です。

 冒頭に書いた通り、少なくとも「現代詩の一部には、何空に書かれているようなことを詩の言葉で表現しようと試みている作品がある」という主張には、納得して頂けたことと思います。とりあえず納得して下さい。

 ただし、これは繰り返し強調しておきますが、私は別に詩人たちがエイリアン・アブダクションやらMIBやらを念頭においてこれらの作品を書いたのだと主張するものではなく、ましてや自身の抑圧された記憶が反映されているに違いない、などとアレなことを言い出すつもりもありません。というか、私がいくつかの現代詩に勝手に何空テイストを感じてびくんびくん反応しているだけ、というのが実態だと思う。

 それにしても、一部の現代詩に横溢するこの何空テイストは、いったい何なのでしょうか。どこから出てくるのでしょうか。

 おそらく私たちの心の奥底には、もともと何空的なイメージ源があるのでしょう。その共通のイメージ源を、表現のための素材として使うのが詩人だとすると、円盤に関わってしまった人々もその同じ素材を使って自身の不可解な体験を「解釈」あるいは「言語化」している。そういうことではないでしょうか。ならば、一部の現代詩と円盤体験に不気味なほど似通ったイメージが出てくるのも不思議ではありません。

 だとすると、何空テイストの詩を作ることと、自身の円盤体験を懸命に語ることとは、そこに求められる言葉の技量も、また「作品」の独創性の点でも、大きな差があるものの、しかし「人類が共通に持っているイメージ源を素材として使い、自分にとって切実な何かを表現しようと試みている」というその一点において、同種の行為だということになります。

 詩誌に現代詩の評論が掲載されるのと同様に、円盤体験の評論が掲載されるのも、そう考えれば決して奇異なことではなく、むしろ必然性があるとさえ言えるのです。

 とまあ、そういう面倒くさい話は置くとして、これまで現代詩になじみがなかった読者の方々は、これまで挙げたいくつかのサンプルを読んでみてどう感じられたでしょうか。「現代詩って、思ってたほど難解でもないし、むしろ意外に面白い」と思って頂けたなら幸いです。これをきっかけに、詩集を手に入れて読んでもらえるなら、これに勝る喜びはありません。

 では最後に、特別ボーナスとして、稲生平太郎著『何かが空を飛んでいる』そのものにインスパイアされて書かれた現代詩をお目にかけましょう。

サンプルJ



溶け出るとささやく空に目を浸けている
かきよせる光の粒が飲みほせるまで待っていて欲しいと思う

なにかが そらを とんでいる

ここです夢
押しつぶれてる後の水のしぶきは乾いて月にいきますから
壁の腕を引き戻し鳴く夢の影
引いていく水が残していくもの
見分けられたりするんだろうかこの空がへばりつく石原の上
たされていった息を数え上げていけるかどうか
飛ばない蝶の隠れ場所に視線が通って
ごめんなさいという声がききとるものはあるんだろうか
気の晴れない花が動き出した枝のゆれ
風が湿って色をなしている山がつぶりと近づいて
あそこには だれが行きましたか
薄暗い空を見る
なんのにおいか思い出そうとしていることに気づいて
途切れて見える線路があらわれる

そらを とんでいる

ほら 火傷のあとがあるじゃない
古い友達が見せた脇腹の影のかたちをいつまで覚えていたか
あの友達はだれだった 遠い木々の色だけがにじみだし
いまでも親しい相手だと知っているだけで
陽をまっすぐに見あげられた土が空を覆う日にまだ
目は浸かっている

とんでいる


  島野律子『何かが空を飛んでいる』
  文芸誌「プラスマイナス 145号」掲載作品『声もない空が、四っつ、五つ』をもとに、加筆修正のうえ改題

 いかがでしたか。しっくり来ますね。

 こうして、現実を引き裂くような何か、境界線を侵犯するような何かは、空を飛んでいるだけでなく、現代詩のなかもまた、飛んでいるのです。



『Spレビュー#2 何かが空を飛んでいるファンブック −空飛ぶ円盤最後の夜に−』掲載(2014年11月)
馬場秀和


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