** 言葉ではなく、デザインのみが、ゲームを語ってくれる **

---- コスティキャンのゲーム論 ----

この記事は、1994年に英国のRPG雑誌"Interactive Fantasy" に掲載された。


〔目次〕

  ・そもそも「ゲーム」とは何なのか?
    −「ゲーム」は、パズルではない
    −「ゲーム」は、玩具ではない
    −「ゲーム」は、ストーリーではない
    −「ゲーム」には、参加者が必要である

  ・それで「ゲーム」とは結局のところ何なのか?
    −意志決定
    −目標
    −障害物
    −資源管理
    −ゲームトークン
    −情報

  ・「ゲーム」を魅力的なものにする他の要素
    −相互支援と交渉
    −雰囲気
    −シミュレーション
    −多彩な展開
    −感情移入
    −ロールプレイ
    −プレーヤー同士の交流
    −劇的な盛り上がり

  ・全てのゲームはダイスの下で兄弟である


はじめに

 世の中には様々なゲームがある。その種類たるや膨大なものだ。

 ファミコンゲーム、コンピュータ/CD-ROM/ネットワークを媒体とするゲーム、
アーケードゲーム、郵便ゲーム、電子メールゲーム、あちこちに氾濫しているアダ
ルトゲーム、ウォーゲーム、カードゲーム、テーブルトークRPG、ライブアクシ
ョンRPG、その他その他。
 そうだ。サバイバルゲーム、バーチャルリアリティ、スポーツ、乗馬も忘れては
いけない。こういったものは全てゲームだ。

 ところで、いったいこれら全てに共通する要素があるのだろうか?
 いったい「ゲーム」とは何だろう?
 「良いゲーム」と「悪いゲーム」をどうやって見分ければいいのか?

 最後の問いについてだが、「良いゲームと悪いゲームを区別する」だけなら、も
ちろん誰もが普段からやっていることだ。

 乗馬で障害物を飛び越えたとき、ボードゲームのコマが取り除かれるとき、大切
なアースエレメンタルのカードをしぶしぶ手渡すとき、宝物を他人にも分配せざる
を得ないとき、君は言う。「よく出来たゲームだよな」

 しかし、これは本を閉じて「よく出来た本だよな」と言うのと変わらない。
 そりゃ間違ってはいないが、だからといって、もっと良く出来た本を書くための
役に立つわけでもない。

 ところが、ゲームデザイナーは、ゲームを評価し、ゲームを理解し、それがどの
ように機能し、なぜ面白いのかを理解するための方法を求めている。つまりゲーム
を分析するための手法を考えなければならないわけだ。

 ゲームは驚くべき成長を遂げつつあり、また仰天するほど多種多様な形態をとっ
ているが、基本的には新しい分野であり、古い手法でこれを分析することはできな
いのである。


ゲームを分析する手法について

・そもそも「ゲーム」とは何なのか?
「ゲーム」は、パズルではない

   Chris Crawfordは、その著書"The Art of Comper Game Design" の中で、彼
  が呼ぶところの「ゲーム」と「パズル」を比較して、次のように述べている。

      パズルは静的である。
      パズルが提供するものは、論理的な構造体だ。「プレーヤー」は、
      手掛かりをもとに、この構造体を解決しようとする。

      これに対して、「ゲーム」は静的ではない。
      ゲームはプレーヤーの行動によって変化する。

   ゲームでないことが明らかなパズルもある。例えば、誰もクロスワードパズ
  ルを「ゲーム」とは呼ばないだろう。しかしながら、Crawfordによると、世の
  中で「ゲーム」と呼ばれているものの中には、実際には「パズル」に過ぎない
  ものがあるそうだ。

   Lebling & Blank の「ゾーク」が良い例だろう。このコンピュータ・アドベ
  ンチャー・ゲームの目標は、要するにパズルを解くことだ。「ゾーク」におい
  ては、プレーヤーは、アイテムを発見し、それらを正しく使ってソフトの状態
  を望むように変化させようとする。そこには競争相手はなく、ロールプレイも
  なく、管理すべき資源もない。「ゾーク」における「勝利」とは、パズルの解
  決に他ならない。

   もちろん、「ゾーク」が完全に静的ではないということも確かだ。キャラク
  ターはあちこち移動できるし、とれる行動は場所によって変わってくる。また
  行動の結果によって所持品リストが更新されてゆく。

   だから、単純にゲームかパズルかというのではなく、割合という発想が必要
  になってくる。クロスワードパズルは100%パズルだが「ゾーク」は90%
  パズルで10%ゲームだ、というように。

   実際、ほとんど全てのゲームが、多かれ少なかれパズルの要素を含んでいる。
   純粋なシミュレーション・ウォーゲームにおいてさえ、プレーヤーは、例え
  ば「特定のユニット群を使って、特定の地点に最適な攻撃を仕掛けるには、ど
  うすればよいか」といったパズルを解かなければならない。

   パズルの要素を全く含まないゲームがあるとすれば、ほとんど「探検」を行
  うだけのゲームがそれに相当するだろう。

   うまい例として、CD-ROM版「おばあちゃんとぼくと」が挙げられる。これは
  いわゆる「インタラクティブ絵本」というやつで、ゲームに似た意志決定や探
  検の要素を含んでいる。つまり、画面のあちこちをクリックすると、面白い音
  や動きを引き起こすことが出来る。しかし、そこには事実上何も「解決」すべ
  き課題はないし、ましてや戦術は必要ない。

    →「パズル」は静的であり、「ゲーム」はインタラクティブである。

「ゲーム」は、玩具ではない

   コンピュータ・シミュレーション・ゲーム「シムシティ」のデザイナーであ
  るWill Wright によると、「シムシティ」は「ゲーム」ではなく、「玩具」な
  のだそうだ。

   彼は、本物よりずっと輝かしい仮想的なボールを作り出したわけだ。
   このボールは奇妙な動きをするので、色々と試してみることが出来る。壁に
  ぶつけて反射させることも出来るし、回転させることも、投げることも、ドリ
  ブルすることも出来る。
   そして、望むなら、このボールで「ゲーム」をすることも出来る。サッカー
  でもバスケットボールでも何でも可能だ。

   しかし、ボールそれ自体にはゲームの要素は含まれていない。プレーヤー間
  で決められた約束事の集合体がゲームなのであり、ボールはそれを実行するた
  めに使われる玩具に過ぎない。

   「シムシティ」もそうだ。他の似たようなコンピュータゲームと同様に「シ
  ムシティ」はプレーヤーがいじくりまわせる仮想世界を作り出す。しかし本当
  のゲームなら提供すべきである「目標」を与えることはしない。
   ああ、もちろんプレーヤーが自分で目標を決めることは出来る。「スラム街
  を一掃する」といったような。だが、「シムシティ」それ自体に勝利条件はな
  く、したがって目標はない。これはソフトウェア玩具なのだ。

    →「玩具」もインタラクティブだが、「ゲーム」はそれに加えて
     「目標」を持つ。


「ゲーム」は、ストーリーではない

   ゲーム関連の話をしているとき、「ストーリー」なるものが話題になる機会
  は非常に多い。やれインタラクティブ小説のストーリーがどうした、RPGリ
  プレイのストーリーがこうした、などなど。どうやらゲームデザイナーの頭に
  は、「ゲームとストーリーには何か関係があるに違いない」という発想が染み
  ついているようだ。
   しかし、これは本当だろうか。少なくとも、この点についてはもう一度よく
  考え直してみる必要があると思う。

   ストーリーは、もともと直線的なものである。

   登場人物が厳しい選択に直面し、苦悩のあげく決断を下すシーンがあったと
  しよう。しかし、実はその決断は作者によってあらかじめ定められたものであ
  り、読者が何度ストーリーを読み返しても変化しない。その決断によって生ず
  る結末もまた変わらない。

   あるいは、こう言うことも出来る。ストーリーはまさに直線的であるが故に、
  人を感動させる力を持つ。

   作者は、きちんと効果を計算した上で、そのストーリーを語るのに最適な登
  場人物を作り出し、イベントを起こし、決断を下させ、結末を用意する。
  だからこそ、出来上がったストーリーは可能な限り最も感動的なものになる。
   もし、登場人物が作者の予定と違う行動をとったとすれば、きっと出来上が
  るストーリーは、予定よりつまらないものになるだろう。

   これに対して、ゲームはそもそも直線的ではない。

   ゲームには必ず意志決定が関わるが、このとき与えられる選択肢は、どれも
  本当にもっともらしく思えるものでなければならない。でなければ、すなわち
  「正解」が1つしかなく、それを選ぶ以外に道がないことが明らかなら、それ
  は本当の意味での意志決定とは呼べない。
   プレーヤーがゲームのある局面で特定の選択肢Aを選び、次にそのゲームを
  プレイしたときに選択肢Bを選んだとして、どちらも全く合理的な判断に基づ
  いている、というのがゲームらしさなのだ。

   であるからして、ゲームをストーリーに近づければ近づけるほど、それはよ
  り直線的になってゆき、本当の意味での意志決定が少なくなってゆき、つまる
  ところゲームとは別物になってゆくのである。

   ちょっと考えてみてほしい。

   あなたが本を買う、あるいは映画を観るのは、素晴らしいストーリーに感動
  したいからだろう。ところが、RPGをプレイしているとき、ゲームマスター
  から「そんな行動は駄目だよ。素晴らしいストーリーが台無しになるじゃない
  か」と言われたらどう思うだろうか?
   この手のゲームマスターの発言自体は間違ってない。が、問題はそういうこ
  とじゃないのだ。ゲームは、ストーリーを語ることではない。断固として違う。

   むろん、ゲームはしばしばフィクションから題材を借りてくるし、それで成
  功することも多い。テーブルトークRPGにとって小説的なキャラクターはと
  ても重要だし、コンピュータ・アドベンチャーゲームやライブアクションRP
  Gは、しばしば映画的なプロットをなぞる形で進行してゆく。それに、はっき
  りとした決着がつくようなゲームの場合、やはり小説や映画のようなドラマチ
  ックな盛り上がりを狙いたいというのは誰しも思うことだ。

   だからといって、美しいストーリーに沿って展開するようゲームに手をいれ
  過ぎたりすると、プレーヤーの行動の自由や、ちゃんとした意志決定を行う能
  力をひどく制限してしまうことになる。

   話は変わるが、こういう観点からすると「ハイパーテキスト」という新しい
  フィクションの形態はとても興味深い。

  (訳注)ここでいう「ハイパーテキスト」とは、読者の選択によってプロット
      や結末が変わるインタラクティブ小説のこと。
      いわゆる「アドベンチャーゲームブック」もその一種。

   本質的にハイパーテキストは直線的ではない。したがって、従来の小説作法
  はハイパーテキストを作る上で全く役に立たない。

   ハイパーテキストの作者だって、伝統的な作家と同じく実存的苦悩といった
  テーマを表現しようとしたりするわけだが、伝統的な作家と違うのは、それを
  複数の視点でとらえたり、プロットをあちこちに飛ばしたり、全体的な流れを
  読者に決めさせたりすることである。

   ハイパーテキストの作者がやっている作業は、伝統的な作家の仕事とゲーム
  デザイナーの仕事を合わせたようなものだが、本人が意識する以上にゲームデ
  ザイナーとの共通点が多いような気がする。

   ともあれ、もしハイパーテキスト小説が文学的な高みに達したら(もっとも
  私が読んだ限りでは、そういうレベルの作品は全く無かったけど)、それは新
  しい物語叙述手法、もはや「ストーリー」と呼ぶことは出来ない何か別のもの
  を生み出すに違いない。

    →「ストーリー」は直線的である。「ゲーム」はそうではない。

「ゲーム」には、参加者が必要である

   伝統的な芸術形態においては、聴衆は受身の立場に置かれる。

   例えば絵画を鑑賞する場合を考えてみよう。観客は描かれたものを解釈する
  ことが出来るし、ことによると絵描きが意図してなかったものまで見てとるか
  も知れない。しかし、それでも絵画鑑賞における観客の役割は小さい。絵描き
  が描き、観客は見るだけである。観客は受身の立場に置かれている。

   映画、テレビ、演劇についても同じだ。観客は座って作品を鑑賞する。絵画
  の場合と同じく、ある程度まで観客が色々と解釈することは出来る。しかし、
  観客はしょせん観客であり、受身の立場に置かれていることに変わりはない。
  作品は観客とは別人が制作したものだ。

   読書の場合、物語のシーンは紙の上ではなく読者の頭の中で展開する。しか
  しながら、結局のところ読者は作者の文章を読んでいることに変わりはなく、
  やはり受身の立場に置かれている。

   こういう伝統的な芸術形態の発想、つまり「偉大なる芸術家が、恐れ多くも
  その才能の一片を無知蒙昧なる大衆に施したまう」というあり方は、あまりに
  も独裁的ではないだろうか。革命後200年も経っているのに、どうしてこの
  ような貴族政治みたいな形態でしか芸術作品を創り出せないのだろう。

   今や、時代の流れに沿った近代的な芸術形態が求められていることは明らか
  である。人民の、人民による、人民のための芸術を我等に。

   というところでゲームの話に戻ろう。

   ゲームはルールの集合体を提供する。そして、プレーヤーがそれらを使って
  自分自身のプレイを創造してゆく。これはJohn Cage の音楽作法に似ている。
  彼は、完全な楽譜ではなく、テーマだけを作曲する。演奏家は、このテーマを
  もとに、即興で演奏しなければならない。
   ゲームデザイナーもテーマだけを作る。プレイするのはプレーヤーである。
   これこそ、民主主義の時代にふさわしい民主的な芸術形態であろう。

    →伝統的な芸術形態は、受身の聴衆に対して与えられる。
     ゲームは、積極的な参加者を求める。



・それで「ゲーム」とは結局のところ何なのか?

  ゲームとは、芸術の一形態であり、プレーヤーと呼ばれる参加者が目標達成を
 目指して、ゲームトークンを介して資源管理のため意志決定するものである。

  この定義について、一つ一つ説明してゆこう。

意志決定

   まず、あの大げさに騒がれている愚かな「インタラクティブ性」という言葉
  を、「意志決定」という用語で撃墜してやろうと思う。

   「これからはインタラクティブ性の時代だ」とかいった話を何度聞かされた
  ことだろう。こういう空虚な言葉と「これからはクルムヘトロジャンの時代だ」
  とか口からでまかせ言うのと、どこが違うというのか。啓蒙的という点では、
  どっこいどっこいだろう。

   インタラクティブ性がそんなに重要だと思うなら、電灯のスイッチを考えて
  みるとよい。スイッチを上げると電灯がつく。スイッチを下げると電灯が消え
  る。おお、インタラクティブだ。しかし、これが面白いかね。

   全てのゲームはインタラクティブである。すなわち、ゲームの状況はプレー
  ヤーの行動によって変わってゆく。もし、そうでないなら、それはゲームでな
  くてパズルだろう。
   しかし、だからどうだと言うのだ。インタラクティブ性それ自体は何の価値
  もない。インタラクションが意味を持つためには、「目標」がなければならな
  いのだ。

   こう考えてみよう。ここにインタラクティブな作品があるとする。これをプ
  レイしているとき、AかBかどちらか一方の行動を選択しなければならないこ
  とになった。
   Aを選ぶとすれば、AがBより良い理由は何だろうか。あるいはBの方が良
  いケースも、Aの方が良いケースもあるのだろうか。意志決定のためには、何
  を考慮すればよいのだろうか。管理すべき資源は何だろうか。最終的な目標は
  何だろう・・・。

   ほーら。誰も「インタラクティブ性」なんて問題にしないだろう。考慮に値
  するのは、「意志決定」という問題なのだ。
   意志決定の必要性こそが、ゲームの本質なのである。

   「チェス」を考えてみよう。「チェス」には、一般にゲームを魅力的なもの
  にする要素がほとんど含まれていない。そこにはシミュレーションも、ロール
  プレイも、雰囲気を出すためのちょっとした小道具もない。あるのは、意志決
  定の必要性という要素だけである。「チェス」のルールは極めて厳密であり、
  目標は明らかにされており、何手か先を読まなければ勝てない。
   「チェス」がゲームとして成功しているのは、ひとえに意志決定の要素が優
  れているからに他ならない。

   そもそもゲームにおいてプレーヤーがしていることは何だろう。
   ある意味では、それはゲームを遊ぶ手段に依存している。ダイスを振ってい
  る、他のメンバーと交渉している、キーボードを叩いている、など。しかし、
  本質的な答えは「意志決定している」ということなのだ。

   プレーヤーは、常にゲームの状況を検討する。ゲームの状況はディスプレイ
  に表示されていることもあるし、ゲームマスターが説明してくれることもある。
  ボード上のコマなどの配置として示されることもある。

   次にプレーヤーは、最終的な目標、ゲームトークン、持てる資源などを念頭
  に置きつつ、障害物をどうやってクリアするか考える。それから、可能な限り
  最善の手を指そうとする。

   そして、意志決定する。

   ここでキーポイントになるのは、目標、障害物、資源管理、情報といった要
  素なのだ。

    →ゲームを分析するときには、「このゲームでは、どのような意志決定
     が求められるのか」ということを考えなければならない。


目標

   「シムシティ」には目標がない。ということは、これはゲームではないのだ
  ろうか。然り。デザイナー自身が言うように、これはゲームでなく玩具なので
  ある。

   「シムシティ」を長く楽しむためには、自分で目標を決めて、これをゲーム
  化しなければならない。その目標が可能な限り最大のメガロポリスを作ること
  であれ、市民の忠誠心を最大にすることであれ、運輸業だけで成り立っている
  都市を作ることであれ、とにかく目標を決めることで、「シムシティ」はゲー
  ムへと変化するのである。

   しかしながら、それでもこのソフトはプレーヤー自身が決めた目標をサポー
  トするようには出来ていない。特定の目標を念頭にデザインされたものではな
  いのである。
   一般に、デザイナーが想定してないやり方でソフトを使うと、しばしば非常
  にイライラするはめに陥るものだということを忘れてはいけない。

   目標が定められていないために「シムシティ」はすぐに飽きられてしまう。
   これに対し、Sid Meier とBruce Shelley の「シビライゼーション」は、明
  らかにシムシティを真似してデザインされたにも関わらず、明確な目標がある
  ため、プレーヤーは「シムシティ」よりずっと熱中し、ハマってしまう。

   「ゲームにとって目標が大切だというなら、RPGはどうなるんだ。RPG
  には勝利条件がないじゃないか」という反論が出るかも知れない。

   確かにRPGには勝利条件がない。その通りだ。しかし、RPGにも目標が
  ある。おなじみの「経験点稼ぎ」とか、親切なゲームマスターが押しつけてく
  れたクエストを達成するとか、帝国を再建して恒星間文明の崩壊を防ぐとか、
  悟りの境地に達するとか、そういったことだ。

   もし何かの事情でたまたま目標がなかったとしても、PCはすぐに何か目標
  を見つけ出すことだろう。そうでなければ、そのPCは酒場で「何てつまらな
  いゲームだ」とぶつぶつ文句を言うくらいしかすることがなくなってしまう。
  そういうことになったら、ゲームマスターだって怒って、いきなり酒場にオー
  クの群れを乱入させて、そのPCに殴る蹴るの暴行を加えてやろうとするに違
  いない。
   よしよし、これで目標が出来た。とにかく生きのびる、というのは立派な目
  標だ。最大の目標と言ってもいい。

   ともあれ、目標がなければ意志決定は無意味になってしまう。AもBも同じ
  こと。どちらでも好きな方を選びたまえ。どっちを選んでもどうせ何の違いも
  ないのだから。
   どちらを選ぶかが違いを生むためには、つまりゲームが意味を持つためには、
  何か狙うべき対象、つまり目標が必要になるのだ。

    →ゲームを分析するときには、「このゲームの目標は何か。目標は
     単一か。複数の目標があるなら、各プレーヤーが自分の目標を決める
     ことが出来るようにするための仕掛けは何か」ということを考えなけ
     ればならない。


障害物

   いわゆる「政治的に正しい」発言をしてみよう。
   昔ながらの「ゲーム」なる邪悪なものは、あまりにも敵対心を煽りすぎる。
  子供たちには、もっと協力的な遊戯を与えるべきだ。ぱちぱちぱち、ご静聴あ
  りがとうございました。

   さて、「協力的な遊戯」というのは、つまるところ「さあ、みんなでボール
  を投げてみよう」というやつに他ならない。おお、何と魅惑的な遊戯だろう。
  君、「モータルコンバット」をプレイしている場合じゃないぞ。

  (訳注)「政治的に正しい」(ポリティカリー・コレクト)
      1980年代から米国で始まった「差別や偏見に基づく表現や、マイノリ
      ティに不快感を与える表現を規制しよう」という運動に沿った表現や
      発言を指す。日本における「差別表現の自主規制」の米国版。

  (訳注)「モータルコンバット」
      残虐な殺しあいを楽しむコンピュータゲーム。

   ところで、ゲームにおいて「敵対」という要素は重要だろうか。
   答えはどちらとも言える。他のプレーヤーを自分の頭脳で叩きのめすことに
  喜びを感じる人は多い。特に「チェス」のプレーヤーは、まさにこれである。
  決して悪いことじゃない。少なくとも、敵を自分の拳で叩きのめすことに喜び
  を感じるよりはましだろう。

   しかしながら、ゲームにとって本質的に重要なのは「敵対」ではなく、目標
  に向かっての「努力」なのである。

   ここで1つ、私がデザインしたゲームを披露する。名前は「小英帝国」。
  第2次世界大戦でのフランス陥落後のイギリスを扱ったヒストリカル・シミュ
  レーションゲームだ。君の目標は、自由と民主主義を守り抜き、邪悪な圧制者
  を打ち破ることである。


   行動を選択して下さい。

   A.降伏する

   B.ヒットラーの目に唾をはきかけてやる!
     ブリタニア万歳! 英国は、決して、決して、決して屈伏しない!


    あなたはBを選択しました。これでよろしいですか(Y/N)  Y

    おめでとう! あなたの勝利です!


   おや、ご不満ですか。なるほど「勝利のスリルがない」と。

   もちろん、これでは勝利のスリルも何もない。あまりにも簡単だからだ。
   努力して乗り越えるべき障害物が与えられないと、こういうことになる。

   2人用対戦ゲームでは、あるプレーヤーにとって障害物となるのは、すなわ
  ち対戦者である。プレーヤーは対戦相手を打ち負かすために努力する。2人の
  プレーヤーは、単純な敵対関係で結ばれている。

   これが、ゲームに障害物という要素を持ち込む最も基本的なやり方だ。本気
  で戦う人間を打ち負かすことほど難しく、技量が要求されることは他にない。
  対戦者こそ最も手ごわい障害物である。
   しかしながら、これ以外にもゲームにおける障害物は色々と考えられる。

   物語のストーリーを思い出そう。最も基本的なストーリーはこうだった。
   主人公Aに目標が与えられる。彼は障害物B、C、D、Eに直面する。Aは
  努力の末、障害物を一つ一つ克服してゆく。そしていよいよ彼は最後の、そし
  て最大の障害物にぶつかり、ついにそれを乗り越える。めでたしめでたし。

   ところで、この障害物B、C、D、Eは、必ずしも悪漢、悪役、敵、仇とい
  った人間である必要はない。むろん、よく出来た敵は優れた障害物となるが、
  他にも、大自然の猛威、邪魔な役人、交通事故、さらには主人公自身の葛藤と
  いったものも立派な障害物になりうる。

   ゲームも同じことだ。

   普通のRPGでは「障害物」はNPCであり、プレーヤー同士は互いに協力
  することになっている。コンピュータゲームでは、「障害物」は解かなければ
  ならないパズルの形をとることが多い。ライブアクションRPGにおける「障
  害物」は、必要な手掛かり・アイテム・特殊能力を持っている他のプレーヤー
  を見つけることの困難さということになる。一人遊びの場合は、立ち向かうは
  めになったランダム要素、またはランダム要素を含むアルゴリズムが、実のと
  ころ「障害物」として働く。

   何をゲームの目標として設定するにせよ、プレーヤーがその目標に向かって
  努力するように仕向けなければならない。プレーヤー同士を敵対関係にするの
  も一つの方法だが、他にも方法はある。また、プレーヤー同士が敵対している
  場合でも、さらに他の障害物を出して双方を叩くというのも、ゲームを面白く
  感動的なものに出来る手法だ。

   「協力的な遊戯」が望ましいというのは、「争いがなくなること」が望まし
  いということだ。だが、もし全ての争いをなくしたければ、全ての生命を抹殺
  するしかないだろう。生命とは生存と成長のための戦いなのだ。この世では、
  争いが絶えることは決してない。
   そして、努力のいらないゲームは、死んで腐ったゲームなのである。

    →ゲームを分析するときには、「このゲームの障害物は何か。それを
     克服する努力を強いる仕掛けは何か」ということを考えなければな
     らない。


資源管理

   あまりにも容易な意志決定は、ちっとも面白くない。「小英帝国」を思い出
  してみよう。あそこには、真の意志決定はなかった。

   あるいは、Robert Harris の「タリスマン」を考えてみてもいい。このボー
  ドゲームでは、ボードの外周に沿ってマス目が並んでおり、プレーヤーは自分
  の手番にダイスを振って、出た目だけコマを進める。このとき、コマを左右ど
  ちらに動かしてもよいことになっている。移動方向の選択が可能ということで
  意志決定の要素があり、古典的なスゴロクに比べて少しはましである。しかし、
  100回のうち99回は、どちらの方向に動かしても同じであるか、どちらに
  動かした方が有利か明らかであるため、意志決定の意味がなくなってしまう。

   意志決定が意味を持つためには、プレーヤーに管理すべき資源を与えなけれ
  ばならないのである。「資源」と見なしてよいものはたくさんある。機甲師団、
  補給ポイント、カード、経験点、魔法の知識、領土の所有権、美女の愛、上司
  の信頼、NPCの好意、所持金、食料、セックス、名声、情報。

   さらに、ゲームに複数の「資源」があれば、意志決定はにわかに複雑になる。

   これをやればお金と経験点を得ることが出来るが、リサに嫌われてしまうか
  も知れない。食料を盗めば飢え死にしなくて済むが、捕まれば見せしめに手を
  切断されるはめになる。バロア王家に対して宣戦布告すれば、エドワード英国
  王は我にガスコーニュを領地として与えて下さるだろうが、教皇は我を破門す
  るかも知れぬ。さすれば我が永遠なる魂も風前の灯なり・・・。

   これらの意志決定は、単に複雑だというだけでなく、面白い葛藤になってい
  る。そして、面白い葛藤は、ゲームを面白いものにしてくれる。

   こういうわけで、ゲームにおける資源はルール上の意味を持ってなければな
  らない。もし「我が永遠なる魂」というのがルール上の意味がないなら、破門
  されようが何されようが大した問題ではない。
  「いや、破門されると農奴の忠誠心が下がるとか兵士を集めるのが困難になる
  といったデメリットがある」と言う人もいるかも知れないが、もしそうなら、
  それは農奴や兵士がルール上の意味を持っているということだ。さようでござ
  いますな?

   結局のところ、「管理すべき資源」というのは、目標を達成するために管理
  すべきルール上の要素、ということになる。なぜなら、ルール上の意味がない
  「資源」をいくら考慮しても、目標を達成するために役に立たないわけだから、
  つまるところ管理するだけ無駄ということになるからだ。

    →ゲームを分析するときには、「このゲームにおいて、プレーヤーが
     管理すべき資源は何か。それらの資源は、意志決定の際に葛藤を引き起
     こすよう配置されているか。その意志決定は面白いものになっているか」
     という点を考えなければならない。


ゲームトークン

   ゲームにおける行動は、ゲームトークンによって実行される。ゲームトーク
  ンとは、直接プレーヤーが操作できる任意のものである。ボードゲームにおけ
  るコマ、カードゲームにおけるカード、RPGにおけるキャラクター、スポー
  ツにおいてはプレーヤー自身が、ゲームトークンである。

   「資源」と「ゲームトークン」は別物である。資源は、目標を達成するため
  にうまく管理しなければならないものであり、ゲームトークンは資源を管理す
  るために使われる手段である。

   例えばシミュレーション・ウォーゲームにおいては、「戦力」が資源に相当
  し、部隊を表す「カウンター(コマ)」がゲームトークンになる。RPGなら、
  例えば「所持金」は資源に相当する。ゲームトークンである「キャラクター」
  を使って資源を貯めたり浪費したりするわけだ。

   ゲームトークンがなぜ重要か。それは、もしゲームトークンがないなら、プ
  レーヤーはなすすべもなく、ただルールシステムが勝手にゲームを進めてゆく
  のを見守るしかなくなってしまうからである。

   Will Wright とFred Haslam の「シムアース」が良い例だ。「シムアース」
  では、プレーヤーはいくつかのパラメタを設定して、後はゲームが勝手に進行
  するのを座って見ていることになる。ゲーム進行中にプレーヤーにできること
  はほとんどなく、操作するゲームトークンも、管理する資源も与えられない。
  プレーヤーに与えられるのは、いじくり回せるいくつかのパラメタだけだ。お
  かげで、このゲームは退屈ではないにせよ、それほど面白くもない。

   プレーヤーが、自分の運命を自分で決めていると感じる、つまりゲームをプ
  レイしていると実感するには、ゲームトークンが不可欠なのである。

   ゲームをデザインするときは、ゲームトークンの数を少なくすればするほど、
  個々のゲームトークンを詳細化するように注意しなければならない。各プレー
  ヤーにたった1つしかトークンを与えないRPGにおいて、トークンの機能が
  他に例を見ないほど細かく規定されるのは、決して偶然ではないのである。

    →ゲームを分析するときには、「このゲームにおいて、プレーヤーに
     与えられるゲームトークンは何か。そのトークンの機能は何か。
     トークンが動かす資源は何か。それを面白くしている仕掛けは何か」
     という点を考えなければならない。


情報

   あるコンピュータ・ゲームデザイナーと何度か話をしたことがある。彼は、
  自分がデザインしたゲームがシミュレートしている魅力的なパラメタについて
  教えてくれた。私は、ただ「へぇ、そうなのか。そりゃ気づかなかったな」と
  言うばかりだった。

   あるコンピュータ・シミュレーション・ウォーゲームでは、「天候」という
  要素が、部隊の移動や防御力に与える影響をシミュレートしているものとする。
   しかし、もし説明書にそのことを書かなかったとすれば、それに何の意味が
  あるだろう。プレーヤーは天候が意味を持っていることを知らないため、天候
  を無視して行動するだろう。つまり、天候はプレーヤーの意志決定に何の影響
  も与えないだろう。

   あるいは、説明書に「天候は戦局に影響します」と書かれていたとしても、
  プレーヤーには現在の天気が雨なのか雪なのか何なのか知るすべがないとすれ
  ば、やはり天候をシミュレートする意味はなくなってしまうだろう。

   説明書に記述があり、現在の天候が画面に表示されるとしても、天候が戦局
  にどのように影響するか、例えば「移動力が全て半分になる」とか、「荒地を
  移動するときは這うような速度になるが、道路上の移動には影響しない」とか、
  そういったことを知ることが出来ないとしよう。今までよりはだいぶましだが、
  やはり不満が残る。

   重要な情報はちゃんとプレーヤーに教えるべきだ。そして、プレーヤーは、
  微妙な意志決定を行う際に、充分な情報を与えられているべきである。

   「プレーヤーには全ての情報を知らせるべきだ」と主張しているわけではな
  い。情報を隠すことがとてもうまく働く場合もある。「戦闘が始まるまで自分
  の部隊の戦闘力は分からないよ」というのは全く理にかなっている。
   だが、この場合でも、戦闘力がどのくらいの範囲に入っているかについて、
  ある程度の推測が可能になってなければならないだろう。

   同じように「ストレートを狙ってカードを引いても、実際にどのカードが来
  るかは分からないよ」というのも理にかなっているわけだが、これでゲームが
  成立するのは、山札にどんなカードが含まれており、望むカードを引く確率が
  だいたいどの程度あるのか推測できるからに他ならない。
   もし引いてくるカードの可能性が、「ハートのQ」「死神」「戦艦ポチョム
  キン」など何でもありだとすれば、いったいどうやって意志決定できるだろう
  か。

   そもそもプレーヤーに不必要に多くの情報を知らせるべきでない。特に時間
  制限のあるゲームではそうだ。

   天候、補給状況、指揮官の精神状態、兵士の疲労、昨晩ラジオでTokyo Rose
  がしゃべったこと、こういったこと全てが戦局に影響するとして、5秒以内に
  行動を決定しなければならないとしよう。もし画面にメニューを表示させて、
  これら全ての情報を調べようと思ったら、5分はかかるに違いない。
   この場合、大量の情報を提供してもあまり意味はない。プレーヤーが制限時
  間内にこれらにアクセス出来たとしても、それを有効に活用することなど無理
  だからだ。

  (訳注)Tokyo Roseとは、第2次大戦当時、NHKの対米謀略放送を担当した
      日系2世の女性に、米国の兵隊たちが付けたニックネーム。

   あるいはコンピュータ・アドベンチャーゲームを考えてみよう。画面に情報
  を適切に表示しないケースは多い。

  「おや、タナトスの門を開くには、鍵あけのためのピンが必要ですよ。ピンは
  図書室の床に落ちていたでしょう。だいたい3×2ドットの大きさで、あなた
  の視力が良ければ見えたはずです。場所は12番目と13番目の床板の間で、
  画面の上から3インチくらい下に表示されていました。ちゃんと情報は示しま
  したよ。なに、見落とした? それでは残念ながらゲームオーバです。
  もう一度最初からやりますか?」

   確かに見落としたのは私だが、だからといって必要なアイテムが何か推測す
  ら出来ないとか、3時間38分前のミスが原因で袋小路にはまるとか、パズル
  の答えがあまりにも強引だとか、そういうのは良くないと思う。特にどのゲー
  ムとは言わないが。

   「フリーフォーム」ゲームを見てみよう。この場合、しばしばプレーヤーに
  目標が与えられる。目標を達成するためには、いくつかのこと(仮にA、B、
  Cと呼ぶことにする)を見つけなければならない。
   このとき、デザイナーは、A、B、Cが、探せばちゃんと見つかるようにし
  ておいた方がいい。他のキャラクターが知っているとか、ゲームで使うカード
  に書いてあるとか、手段はともかく、見つける方法が何かあるようにするのだ。
  でないと、プレーヤーは絶対に目標を達成することが出来なくなる。そして、
  絶対に勝てないゲームは実につまらない。

    →ゲームを分析するときには、「プレーヤーに意志決定させるために
     どんな情報が必要とされるか。プレーヤーに適切な情報が適切なときに
     与えられるようになっているか。プレーヤーが考えれば必要な情報が何
     でありどうすれば手に入るか推測できるようになっているか」という点
     を考えなければならない。



・「ゲーム」を魅力的なものにする他の要素

相互支援と交渉

   もし努力して克服すべき障害物が何もないなら、目標を達成することには何
  の意味もない。だが、プレーヤー同士が互いの障害物になるゲームの場合でも、
  必ずしもそのゲームが「ゼロサム型」だということにはならない。

  (訳注)「ゼロサム型」ゲームとは、もともと「誰かが得をすれば、その分だ
      け他の人が損をする」タイプのゲームを示す。
      ここでは、「どんな指し手についても、得をするのは1人だけであり
      相互利益という要素がない」ゲームを指している。

   マルチプレーヤーゲームの場合、プレーヤー間の交渉を認めれば、さらには
  推奨すれば、そのゲームはより魅力的なものになる。交渉を認めることで、プ
  レーヤー同士では直接援助しあったり、または共通の敵を前に同盟を組んだり
  することで、相互支援が可能になる。

   全てのマルチプレーヤーゲームがプレーヤー間の相互支援や同盟という要素
  を取り入れているわけではない。例えばCharles B. Darrow の「モノポリー」
  では、他のプレーヤーを助けたり邪魔したりする良い方法がない。このため、
  「二人で同盟を組んで買い占めようぜ」とか「君は初心者だから助けてあげよ
  う。代わりに僕に協力するという条約を結んでおくれ」とか言う理由がないの
  だ。

   また、相互支援という要素を少しだけ取り入れているゲームもある。
   Lawrence Harris の「アクシス&アライズ」では、プレーヤーはある程度ま
  で互いに協力することが出来る。しかし、どのプレーヤーも最後まで枢軸国側
  (アクシス)か連合国側(アライズ)かであり、寝返ったりすることが出来な
  いため、このゲームでは相互支援は補助的な役割しか持っていない。

   ゲームに相互支援を全面的に取り入れる1つの方法は、複数プレーヤーの同
  時勝利を可能にすることだ。

   もし君が「失われたアーク」を探す考古学者で、私がナチスと戦う軍人であ
  り、今やナチスがアークを手に入れてしまったとすれば、我々は手を握ること
  が出来る。
   ただし、もしフランスのレジスタンスがナチスからアークを奪回すれば、こ
  の同盟は解消され、我々は敵対することになるだろう。しかし、こういう展開
  はゲームを面白くしてくれる。

   プレーヤー同士が敵対するゲームでも、相互支援を取り入れることは出来る。

   外交ゲームの名作と言えば、もちろんCalhammer の「ディプロマシー」だろ
  う。このゲームで勝利するためには、戦略より外交の方が重要になる。キーと
  なるのは「支援」行動であり、これにより自国の軍で他国の攻撃を支援するこ
  とが出来る。このため、同盟を組むことが大切になってくるのである。

   「ディプロマシー」では、同盟は長続きしない。これは確かである。ロシア
  とオーストリアは、トルコと戦うために同盟を組むかも知れないが、最終的な
  勝利者は1人だけであるため、いずれどちらかが裏切ることになるだろう。

   素晴らしい。裏切りが可能だからこそ、同盟を組み、それを維持する必要が
  生ずるのだ。他のプレーヤーを説得して味方に引き入れよう。でないと、外交
  の機会すら失ってしまう。
  もし裏切ることが出来ないとすれば、外交の必要もなくなってしまうだろう。

   コンピュータゲームは本質的にほぼ完全な一人遊びであるため、コンピュー
  タ側のNPCと交渉することが出来る場合でも、一般にそのような交渉はあま
  り面白くない。
   これに対して、ネットワークゲームは、本質的に交渉ゲームである。あるい
  は、そうあるべきである。

   しかし、ネットワークゲームが普及するにつれ、コンピュータゲーム畑で育
  ったデザイナーがネットワークゲームのデザインに手を出すようになり、交渉
  というポイントを全く見落としてしまうのではないだろうか。

   それが証拠に、インタラクティブTVネットワークの計画が話題になるとき、
  ゲームについては必ず(ニンテンドーやセガの)家庭用ゲームマシンのソフト
  をケーブルTVでダウンロードするという話しか出てこない。

  (訳注)「インタラクティブTV」とは、ケーブルTVに双方向性を持たせ、
      視聴者が番組内容や画面構成を操作できるようにしたり、買物やソフ
      ト配付といった新しいサービスを可能にする計画を指す。

   これはビジネス上の理由によるものだ。家庭用ゲームマシン市場は、年間何
  10億ドルもの売上を出しており、彼らはそのおこぼれにあずかりたいのだ。

   だが、彼らはネットワークが全く異なったゲームを提供できる可能性につい
  て考えたことがないに違いない。これこそ、それだけで何10億ドルもの市場
  が期待できる本当のビジネスチャンスなのに。

    →ゲームを分析するときは、「プレーヤーは、いかにして互いに協力
     したり足を引っ張ったりできるか。そうさせる動機は何か。交渉のネタ
     になる資源は何か」ということを考えなければならない。


雰囲気

   「モノポリー」は、不動産業をリアルに扱ったゲームだ。そうだろう?

   いやいや、違う。もちろん違うとも。そんなことを言ったら、不動産屋に笑
  われてしまう。建築ローン、不動産組合とその活動、当局の監査員への贈賄、
  そういったものをルール化しなければ、不動産業をリアルに扱ったゲームとは
  呼べない。

   「モノポリー」は、実際の不動産業とは何の関係もないのだ。お望みなら、
  このゲームのルールをそのままにして、ボードやコマやカードの記述を変える
  だけで、例えば宇宙探検ゲームにすることも出来るだろう。
   こうしてでき上がる宇宙探検ゲームが、実際の宇宙探検をリアルに表してい
  ること、ちょうど元の「モノポリー」が実際の不動産業をリアルに表している
  のに勝るとも劣らない。

   実際のところ、「モノポリー」は抽象的なゲームであり、何も具体的なもの
  をシミュレートしているわけではないのだ。しかし、このゲームでは、わざと
  不動産業の雰囲気を出すために、土地の名前、家やホテルの形をしたプラスチ
  ックのコマ、紙幣といったものを小道具として使っている。そして、これこそ
  が「モノポリー」を魅力的にしている要素なのである。

   ゲームにおいて雰囲気は非常に大切である。

   Lawrence Harris の「アクシス&アライズ」は、第2次世界大戦を正確にシ
  ミュレートしているとはとても言えない。しかし、雰囲気はどうだ。ところ狭
  しと並べられるプラスチックの戦闘機、戦艦、戦車。盛り上がるダイス振り。
  眼下に繰り広げられる戦場。このゲームの魅力は、ほとんど全て雰囲気という
  点にある。

   あるいはChadwickの「スペース1899」を取り上げてみよう。
   これは、バローズの冒険活劇、パルプフィクションの興奮、キップリングの
  ビクトリア時代を混ぜこぜにして味わってもらおうというRPGだが、ルール
  を読む限りどうしてもそういう感じはしない。システムはよく出来ているし、
  背景世界設定は細かいのに、どういうわけか雰囲気が出てないのだ。このため、
  このRPGは失敗作に終わっている。

   このように、ゲームに心ひかれる魅力を与える上で、雰囲気作り、細かい設
  定、よいセンスといった要素は馬鹿にできない。これらがゲームの本質には何
  の関係もないとしてもだ。

   「アクシス&アライズ」が最初にNovaから販売されたときには、ゲームとし
  ては後からMilton Bradleyから再販されたものと実質的に何の違いもなかった。
   しかし、このオリジナルバージョンは、神をも恐れぬケバい下品なマップと、
  今まで私が見たなかでも最悪のカウンター(コマ)を、どうしようもなくダサ
  い箱に詰めて売っていたのだ。私はそれを一目見て、すぐにわきにどけてしま
  った。以来、このバージョンを見たことは一度もない。
   それなのに、Milton Bradley版は、その小さなプラスチックのコマを使って
  何度も何度も遊んだものだ。同じゲームなのに、この違いが生ずる理由はただ
  1つ、すなわち雰囲気なのだ。

    →ゲームを分析するときには、「このゲームは、雰囲気を盛り上げ、
     背景世界を魅力的にするためにどんな工夫がほどこされているか。これ
     をより雰囲気たっぷりにするには、どこをどう改善すればよいか」とい
     うことを考えなければならない。


シミュレーション

   全てのゲームが何かをシミュレートしているわけではない。東洋の伝統的な
  ゲームである「碁」を考えてみよう。盤の上に石を置いてゆくこのゲームは、
  ほぼ完璧なまでに抽象化されたゲームである。

   あるいは、John Horton Conwayの「ライフゲーム」でもよい。あたかも生命
  活動をシミュレートしているような名前をしているが、これは実のところ数学
  的な可能性を探索しているに過ぎない。
   もちろん、だから悪いというわけではない。だが・・・

   だが、前述したように、雰囲気というものはゲームをとても魅力的なものに
  してくれる。そして、現実に存在する何かをシミュレートするというのは、こ
  の雰囲気作りのための1つの有効な手法なのである。

   ところで、私の見るところ、なぜかワーテルローの戦いを扱ったゲームはヒ
  ットすることが多いようだ。そこで、その気になれば「モノポリー」に手を入
  れて、例えば「パークプレース」を「カトル・ブラ」に変え、ホテルのコマを
  プラスチックの兵隊に変えて、ゲームの名前を「ワーテルロー」に変えてしま
  えば、きっとヒットするゲームを作ることが出来るだろう。

  (訳注)「カトル・ブラ」は、ワーテルローの戦いの前哨戦が行われた場所

   けれど、戦争を、戦場を移動する部隊を、砲撃の轟きをシミュレートしたけ
  れば、こういう風にただ別のゲームの名前を変えるだけというより、もっとま
  しな方法があるのではないだろうか。

   私がデザインした「スターウォーズRPG」の話をしよう。

   単にスターウォーズらしい雰囲気を出すだけなら、Gygax & Arneson の「ダ
  ンジョンズ&ドラゴンズ」をもとにして、「剣」を「ブラスター」に変えると
  か、そういった名前の変更だけですませることも出来たかも知れない。
   だが、私の狙いは映画をシミュレートすることだった。プレーヤーには、す
  ごくカッコいい映画的なアクションに挑戦してもらいたかった。そこで、私は
  あの映画が持っている雰囲気やノリを、ルールシステムそれ自体に反映させる
  ようにしたのである。

   シミュレーションには、他にも有益な点がある。その1つが、シミュレート
  されている人物についての理解や共感を深めてくれるということだ。

   さっきの例えに出てきた、「モノポリー」盗作版「ワーテルロー」をいくら
  プレイしても、誰もウエリントンやナポレオンの身になって考えたりはしない
  だろう。しかし、Kevin Zuckerの「ナポレオンズ・ラスト・バトルズ(ナポオ
  レン最後の戦い)」をプレイすれば、彼らが直面したであろう戦略的な問題に
  ついて考察せざるを得ないため、ずっとよく彼らの考えが理解できるようにな
  るだろう。

   それに、シミュレーションという手法によって、当時の状況について単に歴
  史書を読むよりもずっと深い洞察を得ることが出来る。シミュレーションであ
  るため、戦いが史実と異なる結果に終わるケースについて研究できるのだ。
  ちょうど「シムシティ」で色々な街を作るのと同じように。
   結果として、プレーヤーは、シミュレートの対象について裏も表も知り尽く
  すことが出来るというわけだ。

   実際、ワーテルローの戦いを扱ったシミュレーションゲームを、少なくとも
  1ダースはプレイしてみたおかげで、私はこの戦いをよく把握できたと思う。
  なにゆえに実際の戦局があのようになったのか理解したし、ナポレオンの戦い
  方について洞察を得ることも出来た。ワーテルローの戦いをテーマにした本を
  1ダース読んでも、ここまで達することは出来ないだろう。

   何かをちゃんとシミュレートしようとすると、単に雰囲気作りのために名前
  だけ拝借するのと比べて、まず確実にゲームが複雑になってしまう。だから、
  全てのゲームがシミュレーションという手法を取り入れるべきだと言うつもり
  はない。
   しかし、シミュレートという手法は、ときとして真に驚くべきパワーを発揮
  することがあるということもまた事実なのである。

    →ゲームを分析するときは、「シミュレーションという要素が、この
     ゲームをどのように魅力的なものにしているのか」という点を考えなけ
     ればならない。


多彩な展開

   「おまえ、運だけで勝ったな」

   ありがちな負け惜しみのセリフである。自分は実力で負けたのではなく、単
  にツキがなかっただけなんだ、というわけだ。
   こういうセリフが侮辱になるということは、経験と頭脳と実力でまさってい
  る方が必ず勝利するようなゲームこそが良いゲームであり、運だけで逆転でき
  るようなゲームは明らかに劣っている、ということだよね?

   いやいや、必ずしもそうは言えない。

   いわゆるゲームの「ランダム要素」というものは、決して完全にランダムな
  わけではない。ある範囲内でランダムな揺らぎを作り出すだけだ。

   シミュレーションウォーゲームをプレイしているとき、私は攻撃するたびに
  戦闘結果チャートに目をやる。このとき、私は攻撃結果がどういう範囲に入る
  か、望ましい戦果があがる確率はどのくらいか、認識している。もちろん攻撃
  に伴うリスクも計算している。

   個々の判定についてはランダム要素が大きいとしても、ゲームを最後までプ
  レイする間には何10回、何100回となくダイスを振ることになるため、確
  率の基本法則が働いて、全体としてランダム性はある程度まで下がってゆく。
   極めて特殊なケースを除けば、より優れた戦略をとった方が必ず勝利を手に
  する。ダイス運だけで戦略的なミスを挽回するのは無理なのだ。

   では、ゲームにおけるランダム要素は、重要な意味を持たないのだろうか。
   いや、ランダム要素には大切な役割がある。それは、ゲームに多彩な展開を
  もたらす手法の1つだということだ。

   これについて説明してみよう。

   何度プレイしても、毎回同じ展開になるようなゲームは、ゲロゲロに退屈だ。
   プレーヤーは、今までに経験したことがないゲーム展開を望んでいるのであ
  る。そのためには、そのゲームがとりうる局面の数が極めて大きくなければな
  らない。そうすれば、プレイする度に、いつも何かしら新しい展開が生ずるこ
  とが可能になるのだ。

   「チェス」のようなゲームでは、「何かしら新しい展開」というのは、コマ
  の配置によって生ずる局面の変化である。

   Richard Garfieldの「マジック:ザ・ギャザリング」の場合、カードの種類、
  それらがスタックされる順序、カードの組み合わせによって生ずる効果などが
  多彩な展開を生み出す。

   Arneson & Gygax の「ダンジョンズ&ドラゴンズ」で多彩な展開を生むのは、
  ちょっとたじろぐほど種類があるモンスター、呪文、その他に加え、次々に新
  しい状況を作りだすゲームマスターの力量である。

   多彩な展開を生まないゲームは、すぐに飽きられてしまう。これが、コンピ
  ュータ・アドベンチャーゲームが何度もプレイできない理由である。最初にプ
  レイするときは、充分に多彩な展開が用意されているように思えるのだが、何
  度かプレイすれば似たような展開にしかならないことがばれてしまう。

   トランプの一人遊びである「ペーシェンス」がすぐに飽きられてしまう理由
  も同じである。何度プレイしても似たような展開にしかならず、カードをよく
  シャッフルしても新たな興奮が生まれるわけではないのだ。

    →ゲームを分析するときは、「このゲームでは、どのような展開が
     生ずるか。それらはプレーヤーが何度も試してみたくなるほど多彩で
     あるか。その多彩さを生み出す仕掛けは何か。展開をもっと多彩にする
     にはどうすればよいか」という点を考えなければならない。


感情移入

   「キャラクターを立てる」というのは、あらゆる物語の創作活動に共通する
  テーマである。読者が、作品の登場人物を気にいり、感情移入し、その運命を
  気にするようになれば、作者冥利に尽きるというものである。

   ゲームでも同じことだ。プレーヤーが、自分が味方している勢力に感情移入
  し、ゲーム内の出来事を自分自身の問題として感じるようになれば、ゲームは
  感動的な体験になりうるのだ。

   最も直接的な例は、スポーツだろう。スポーツにおいては、感情移入の対象
  となるのは自分自身である。自分自身が野球のマウンドに立っており、勝敗は
  他人事ではない。三振したりホームランを打ったりするのは、まさに自分なの
  である。ゲームの進行は、自分自身の問題として感じられる。

   このように、スポーツにおいてはゲームへの感情移入があまりにも強いため、
  プレーヤーが乱闘や罵倒といった行動に出てしまうことさえ、まれなことでは
  ない。こういった不快な行動を抑制するため、わざわざ「スポーツマンシップ」
  といった文化的行動規範を作り出さなければならないほどである。

   スポーツと比較すると、RPGにおける感情移入は少し間接的になっている。
  感情移入の対象はプレーヤー自身ではなく、PCである。だが、プレーヤーは
  自分のPCを作成し成長させるために、多くの時間と労力を注ぎ込んでいる。
  その上、PCはプレーヤーが持っている唯一のゲームトークンであり、他には
  感情移入の対象はない。だから、PCに対する感情移入は自然と強まる。
   それゆえ、スポーツほど頻繁ではないにせよ、RPGのプレーヤーもゲーム
  マスターを罵倒したり、さらには殴ったりすることがないとは言えない。

   このように、プレーヤーがゲームトークンを1つしか持ってない場合、その
  トークンに対して、ごく自然に感情移入してしまうものだ。逆に多くのトーク
  ンを操作できる場合、個々のトークンへの感情移入は困難になる。「チェス」
  で、自分のナイト駒を取られたからといって悲嘆にくれる人はあまりいないし、
  シミュレーション・ウォーゲームで歩兵師団が1つ全滅したからといって首を
  くくる人もいない。

   ただ、これらの場合でも、プレーヤーが「国」や「軍隊」といった唯一の対
  象に対して感情移入するように仕向けることが出来れば、ゲームをもっと感動
  的なものにすることが出来るのだ。

   感情移入を促進する1つの手法は、プレーヤーの視点をどこに置くか明確に
  決めることだ。

   ボードゲームのデザインで非常によくある失敗が、視点の混乱というやつで
  ある。
   例えば、Richard Bergの「キャンペーン・フォー・ノースアフリカ(北アフ
  リカ戦役)」だが、これは枢軸国の北アフリカ戦役を扱ったゲームで、並外れ
  てリアルなシミュレーションを行っている。プレーヤーは、パイロット1人1
  人をどこに配属するかといったことから、個々の大隊における飲料水の補給状
  況に至るまで、長時間かけてあらゆることを管理しなければならない。

   ところで、確かにロンメルの部下はこういったことを管理しただろうが、ロ
  ンメル自らが管理したはずはない。だとすると、全体的な戦略を考え、かつ細
  かい管理も行わなければならないプレーヤーは、いったいどちらの立場になっ
  ているのだろう。どちらに感情移入すればよいのだ。

   これが視点の混乱である。このゲームでは、個々の項目を詳細にシミュレー
  トしようとするあまり、ある意味ではかえってシミュレーションの正確さを台
  無しにしているのだ。

    →ゲームを分析するときには、「プレーヤーを感情移入させるには
     どうすればよいか。プレーヤーにとって重要なゲームトークンを1つ
     にする手だろうか。だとすれば、そのトークンに対する感情移入をより
     強化する方法は何か。また、ゲームトークンを1つに絞らないのなら、
     何に対して感情移入させるのか。それを強化する手は何か。
     このゲームにおいてプレーヤーは誰の立場になるのか。プレーヤーの
     視点をどこに置くように仕向けるのか」といったことを考えなければ
     ならない。


ロールプレイ

   「ヒーロークエスト」は、「ロールプレイング・ボードゲーム」という売り
  文句で販売されている。このゲームでは、テーブルトークRPGと同じように、
  各プレーヤーに1人づつPCが与えられる。PCは、ボード上に置かれたプラ
  スチックの駒で表される。

   プレーヤーが1人のキャラクターを操るということは、「ロールプレイ」し
  ていることになるし、それならこのゲームの「ロールプレイング」という売り
  文句は正しいわけだ。そうだね?

   いーや、違う。このゲームでは誰も「ロールプレイ」などしない。

   問題は「感情移入」と「ロールプレイ」の混同にある。この2つは別のこと
  だ。全くロールプレイしないで、かつ1つのゲームトークンに強く感情移入す
  ることだって可能なのだ。
   ある意味では、感情移入はプレーヤーからキャラクターに向けた動きであり、
  ロールプレイはキャラクターからプレーヤーに向けた動きと言える。両者は方
  向が逆なのだ。

   ロールプレイの方法は人により、またゲームにより様々である。

   キャラクターの母国語や口調を真似てしゃべる。セリフに感情を込める。あ
  るいは、普段と同じように話しながらも、「次にどんな手を打とうか」ではな
  く「このPCはこんなときどうするだろうか」ということを真剣に考えている
  なら、それもロールプレイである。

   当然のことながら、ロールプレイをもっとも活用しているのはテーブルトー
  クRPGだ。だが、他のゲームでもロールプレイが行われることはある。

   例えば、私はVincent Tsaoの「フンタ」をプレイするとき、どうしてもいい
  加減なスペイン語風のアクセントでしゃべってしまう。なにしろ、このゲーム
  をやっていると頭の中が腐敗したバナナ共和国の大物になりきってしまうので、
  嫌でもロールプレイせざるを得ないのだ。

   ロールプレイがゲームデザインにとって非常に有効なテクニックである理由
  はいくつもある。

   まず感情移入を強化する効果がある。キャラクターと同じように考えようと
  すれば、自然とキャラクターに強く感情移入するわけだ。

   また、ゲームの雰囲気を高める効果がある。ゲーム中は「このゲームの背景
  世界はリアルで、雰囲気ばっちりで、決してご都合主義じゃない」という感じ
  を何とか維持し、白けないようにするため意識的に騙されなければならないわ
  けだが、ロールプレイしているうちに「皆で協力して幻想を支えているんだ。
  恥ずかしいのは俺だけじゃない」という連帯感が生まれてくるのである。

   最後に、ロールプレイにはプレーヤー同士の交流を深めるという効果がある。
   実際、この点が最も重要だろう。ロールプレイは一種の芸であり、テーブル
  トークRPGにおいては、プレーヤーは他人を楽しませるために芸を見せるこ
  とが出来る。逆に言えば、見てくれる他人がいなければ、芸をする理由はない
  わけだ。

   ここが、いわゆる「コンピュータRPG」が、実際のところRPGではない
  理由である。
   RPGとは呼べない、という点では、コンピュータRPGは「ヒーロークエ
  スト」と似たようなものだ。

   確かに登場するトラップ、キャラクター、アイテム、ストーリーは、テーブ
  ルトークRPGに出てくるものと同じだ。しかし、コンピュータRPGには、
  プレーヤーに演技をさせたり、芸をさせたりするための仕掛けがない。プレー
  ヤーは、いかなる意味でもロールプレイしない。

   これは本質的なポイントである。コンピュータ・ゲームは一人遊びだ。一人
  遊びでは、その定義から明らかなように、観客がいない。観客がいないのに芸
  をする必要はない。ゆえに、プレーヤーにロールプレイさせることが出来ない。

   同じコンピュータを使っていても、ネットワークでRPGをすることは可能
  である。だからこそ、MUDにあんなに人気があるのだ。

  (訳注)MUD (Multi-User Dangeon)
      インターネットのサーバ上で走る多人数参加型ゲーム環境プログラム。
      舞台は「ローグ」のようにテキストグラフィックで表示され、状況は
      「ゾーク」のようにテキスト表示される。ここで、複数プレーヤーが
      相互にチャット(オンライン会話)しながら戦いを繰り広げる。

    →ゲームを分析するときは、「このゲームで、プレーヤーにロールプレイ
     させるための仕掛けは何か。どのような演技が可能で、どのような演技
     を狙っているか」ということを考えなければならない。


プレーヤー同士の交流

   歴史的には、ゲームは主に社交の手段として使われてきた。
   「ブリッジ」「ポーカー」「ジェスチャーゲーム」といったゲームの場合、
  最も大切なのは一緒にプレイしている仲間との交流であって、勝敗は二の次と
  いってよい。

   だから、今日、商業的にヒットしているゲームの大半が、ファミコンゲーム、
  コンピュータゲーム、CD-ROMゲームといった本質的に一人遊びだというのは、
  とても奇妙なことである。

   かつては、ゲーマーといえばテーブルを囲んでトランプで遊んでいる人々と
  いうイメージだった。しかし、今やゲーマーというと、チカチカ瞬くモニタを
  見ながらジョイスティックを握りしめている孤独な青年、という図が眼に浮か
  ぶ。

   だが、ゲームが全て一人遊びに占領されつつあるかというと、そうでもない。

   例えば、テーブルトークにせよ、ライブアクションにせよ、RPGは順調に
  発展を続けている。RPGは人間同士の交流に主眼をおいたゲームだ。
   それに、「トリビア」や「ピクショナリー」のように、本当に広く普及した
  ボードゲームは、まず大抵の場合、パーティのような社交の場でプレイされる
  ではないか。

   それゆえに、現在のコンピュータゲームの大半が一人遊びだというのは単に
  技術的な制限によって生ずる一時的な問題であって、ネットワークが普及して
  利用可能な帯域が増加すれば、再びゲームと「プレーヤー同士の交流」が切っ
  ても切れない関係に戻るものと私は信じている。

   だから、ゲームをデザインするときは、そのゲームがプレーヤー同士の交流
  にどう関わってくるか、ルールが交流を促進するか阻害するか、よく考えた方
  がいい。

   ほとんど全てのパソコン通信ネットワークには、「ポーカー」や「ブリッジ」
  といった伝統的なゲームをオンラインでプレイできるソフトが用意されている
  が、まず誰も利用していない。
   例外は「アメリカ・オンライン」のサービスだ。他のネットと違って、この
  ネットでは、複数のプレーヤーがリアルタイムにチャットでおしゃべりしなが
  ら「ブリッジ」をプレイ出来る。このサービスに非常に人気があるのはなぜか、
  考えてみるといい。

   別の例として、多くのテーブルトークRPGのデザイナーが犯している過ち
  について考えてみよう。その過ちとは、「リアリティ」という点にあまりにも
  労力を費やし過ぎて、プレーヤーのことを忘れてしまうというものだ。

   もし、非常にリアリティを重視した戦闘システムを作ったとして、1戦闘ラ
  ウンド処理するのに15分、1つの戦闘が終了するまで4時間かかるとしたら、
  それが何になるだろう。その間、交流も進まず、会話も弾まず、ロールプレイ
  も行われず、ただ黙々とダイスを振ってチャートを見るだけだとすれば、誰が
  そんなものをプレイするというのだ。

    →ゲームを分析するときには、「このゲームをプレイしているとき、
     もっとプレーヤー同士の交流を促進するにはどうすればいいか」という
     ことを考えなければならない。


劇的な盛り上がり

   ネビュラ賞を受賞した作家Pat Murphyによると、小説のプロットを作るコツ
  は「緊迫感を高め続けること」にあるそうだ。つまり、ストーリーが進むにつ
  れて話をどんどん盛り上げてゆき、クライマックスシーンまで読者をぐいぐい
  引っ張って離さないというわけだ。

   あなたがヤンキーズのファンだとしよう。もちろん、あなたはヤンキーズの
  勝利を望んでいるだろう。しかし、球場に駆けつけたあなたは、ヤンキーズが
  第1イニングから7点差でリードし、そのまま21対2というぶっちぎり大差
  で勝つ、そんな試合を見たいだろうか。そりゃヤンキーズが負けるよりはマシ
  だろうが、こんな試合は面白くないと思うに違いない。

   それに対して、最終回の終了間際、もはやこれまでかと思われたとき、ヤン
  キーズが逆転サヨナラ満塁ホームランをかっ飛ばしてくれたなら、きっとあな
  たは興奮と歓喜のあまり座席から飛び上がって歓声を送ってしまうことだろう。
   かように、緊迫感はゲームを面白くしてくれるのである。

   プレイ中ずっと緊迫感が続くゲームが理想的だが、それが無理でも、せめて
  ラスト近くでは緊迫感あふれるゲーム展開が望ましい。ラストで最悪の問題、
  最大の難関を突破してこそ、ゲームは盛り上がるというものである。

   もちろん、毎回こんな風にゲームが劇的に盛り上がるというのは無理である。
   特に、プレーヤー同士が直接に敵対するようなゲームではそうだ。「チェス」
  のグランドマスターと素人が対戦しても、緊迫感も盛り上がりも期待できない
  だろう。
   が、一人遊びであるコンピュータゲームでは、どの面にも障害物を配置しつ
  つ、本当の難関はラストに置くということが出来るはずだ。

   実のところ、アンチクライマックスという失敗を犯しているゲームはとても
  多いのである。ラストではなく途中で緊迫感が最高に盛り上がってしまい、そ
  こでボス敵が逃げ出してしまうとか、キャンペーンの途中でキャラクターが強
  くくなり過ぎて無敵になってしまうとか、そうなった結果、白けた気分でラス
  トを迎えてしまうのだ。
   こうなる原因は、たいていデザイナーが劇的な盛り上がりについて考えなか
  ったせいだ。

    →ゲームを分析するときには、「このゲームを盛り上げるにはどう
     すればよいか」という点について考えなければならない。



・全てのゲームはダイスの下で兄弟である。

        ・・・あるいは明けの明星の下で、またはともかく何かの下で。


  さて、ようやく最初に提出した質問に答える準備が出来た。

  質問:無数の種類があるゲーム全てに共通する要素があるのだろうか?

  回答:確かにある。全てのゲームは「意志決定」「資源管理」「目標」を持っ
     ている。これは「チェス」「セブンス・ゲスト」「スーパーマリオ」
     「バンパイア:ザ・マスカレード」「マジック:ザ・ギャザリング」
     「ルーレット」の全てに共通する。これこそが「ゲーム」の定義なのだ。

  質問:「良いゲーム」と「悪いゲーム」をどうやって見分ければいいのか?

  回答:残念ながら、まだ最終的な答えは出ていない。しかしながら、ゲームの
     魅力を分析するときに役立ちそうな基本概念はいくつか見つかった。

     「チェス」の魅力は、複雑で困難な「意志決定」にある。

     「マジック:ザ・ギャザリング」の魅力は、果てしなく多彩な展開に求
     めることが出来る。

     「ルーレット」は、強烈な「目標」を持っている。(つまり、現金だ)

     もっと詳細な分析が可能なことは疑うべくもない。だが、それは読者の
     ために残しておこう。

   ここまでに示したゲームの分析理論は、最終的な完成版だろうか。もちろん
  そうでないことは確かだ。世の中には、今まで展開してきた私の議論の、全て
  とは言わないまでも、一部の結論を否定するようなゲームが存在する。
  (例えば、「キャンディランド」には、全く意志決定の要素が含まれない)
   それに、ゲームの魅力のうち、これまで議論されなかったポイントがまだま
  だ存在することは間違いない。

   だから、このゲーム論は、中間報告だと考えてほしい。いつの日か「ゲーム
  デザイン技法の分析理論」といったタイトルでまとめられるべき包括的な体系
  を構築する最初の試みなのだと。

   他の人が、私がここに示した分析手法をベースにして議論を展開してくれる
  ことはありがたいし、むしろどしどしやってほしい。また、私の議論に賛成で
  きない方は、別の理論を提案して反論してくれると嬉しい。

   もし、ゲームデザイナーが「芸術」と呼ばれるに値する仕事をしたいのであ
  れば、ともあれ商業的な成功を超えた高みに目標を置くにはどうすればよいか
  考え始めなければならない。
   なぜなら、ゲームデザイナーという仕事は、民主的な「観客参加型の芸術の
  創造」を目指す、芸術改革運動の担い手となりうるからだ。

   もし、この運動が成功すれば、ゲームデザイナーは人類の文明をさらに高め
  ることが出来るだろう。失敗すれば、このTV時代に、知性の欠落したさえな
  い娯楽がまた1つ生まれたというだけで終わるに違いない。

謝辞

   著者は、次の方々のアイデアを自由に拝借させていただいたことに対して、
  深い感謝を捧げるものである。

  Chris Crawford, Will Wright, Eric Goldberg, Ken Rolston, Doug Kaufman,
  Jim Dunnigan, Tappan King, Sandy Peterson, and Walt Freitag.

表記法について

   通常、「チェス」「碁」「ポーカー」といった伝統的ゲームの名称は、普通
  名詞として扱われるため、英語では最初の文字を小文字で表記する。
   それに対して、新しくデザインされたゲームの名称は、固有名詞であるため
  英語では最初の文字を大文字で表記することになっている。

   ゲームは芸術の一種であり、全てのゲームはその起源に関わらず作品として
  等しく扱われるべきであるという主張からすると、こういう慣習は許されない
  ことである。そこで、この小論ではゲームの名称の最初の文字は全て大文字で
  表記した。

   叙事詩「ベーオウルフ」は、特定の作者によって書かれた作品ではなく民間
  伝承の産物であるにも関わらず、「百年の孤独」といった書名と同じく、タイ
  トルの最初の文字は大文字で表記される。
   同様に、私は「チェス」が特定のデザイナーによって作られた作品ではなく
  民間伝承の産物であるにも関わらず、「ダンジョンズ&ドラゴンズ」といった
  ゲームと同じく、タイトルの最初の文字を大文字で表記することとした。

   「チェス」といったタイトルが固有名詞扱いされているのは奇妙に思えるか
  も知れないが、私はちゃんと理由があってそういう表記にしたのである。

   また、ゲームのタイトルが最初に登場するときは、可能な限りデザイナーの
  名前を最初に示すこととした。デザイナー名が省略されている場合、それは単
  に私がデザイナーの名前を知らないというだけのことである。

  (訳注)翻訳においては、ゲームの名称を全てカギカッコで囲んで表記した。
      また、ゲームの名称は全て日本語で表記し、デザイナーを始めとする
      人名、会社名についてはアルファベット表記に統一した。

著作権表示

  Copyright 1994 by Greg Costikyan. All Rights Reserved.
  著者へのコメントは、costik@crossover.comまで。

----原文はここまで。


著者紹介

 グレッグ・コスティキャン。1960年ごろ生まれ。

 職業ゲームデザイナー。1976年にSPI から出たNorth Africa Quad のうちの一つ
のデザインを担当してデビュー。1975〜1982までSPI で働き、1985〜1987にかけて
WEST END GAMESのR&Dチーフを務める。現在までに23個のゲームをデザイン/
出版し、それ以上のゲームのデベロップを担当。Origins 賞を5回受賞。

主な作品

   パックス・ブリタニカ, Pax Britannica (VG), Origins 受賞
   ウェブ・アンド・スターシップ, Web and Starship (WEG),  Origins 受賞
   怪獣征服, The Creature that ate Sheboygun (SPI), Origins 受賞
   魔法の大陸, Barbarian Kings (SPI)
   死の迷宮, Death Maze (SPI)

   スターウォーズRPG、Star Wars RPG (WEG), Origins 受賞
   パラノイア、PARANOIA (WEG), Origins 受賞
   トゥーン、Toon (SJG)

   上記の他、Air War (SPI), Imperium Romanum (WEG), Killer Angels (WEG)
   等のデベロップを担当。

小説

   ANOTHER DAY,ANOTHER DONGEON 長編ファンタジー
   BRIGHT LIGHT BIG CITY "ISAAC ASIMOV'S SF MAGAZINE" 1991年2月号掲載

 現在は Crossover Technology 社で、ネットワークを用いた直接民主制によって
アメリカの政策を決定する大がかりなシミュレーション "ReInvent America" のプ
ロジェクトを手がけている。

日本語版について

 日本語版は、著者の許諾のもと、NIFTY-Serve ロールプレイングゲーム・メイン
フォーラム(FRPGM) の有志によって、1995年10月から11月にかけて作成されたもの
である。

 企画・制作 : FRPGM 英文翻訳プロジェクト design_j.txt制作チーム

         代表:馬場秀和 (PDF00200)

         協力:Bugger  (LDA00166)
            SHIGE(SDI00627)
            御宗銀砂 (HGF01053)
            AGE  (NBB02052)
            とろり  (GAG02164)
            RIDDLE  (NCB02234)
            Shino  (HFH00072)
            佐藤俊之 (PGB01043)
            西川知宏 (VED04252)
            Genich!  (SDI00769)

 日本語版に対する絶賛は、馬場秀和まで。メールアドレスは『馬場秀和ライブラリ』のトップページに載っています。本ドキュメントの最後にあるリンクから辿って下さい。


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