無限には程遠い
              

 頭の上のほうに音がある。あのあたりまで道が開けると聞いた。振り仰ぐと遠ざ
かっていくざわめきが見える。形の予想もつかないが、大きそうだといつも思う。
ただの野良猫かもしれない。この近くに人のいなくなった家が最近できた。でも、
あそこはまだ新しい。新しい? 三十年前の家だ。軒下はコンクリートが打ってあ
る。もちろん床下なんかはない。猫には居つきづらい場所だ。日当たりも、あまり
よくはない。だから、雨戸を閉め切ってみなはなかったことにしている。何かが居
つく気配のない家だ。
 その木の下には、真新しい落ち葉が落ち着きなくこすれている。座ってみたいと
思いながら、道を下っていく。もう少し山に向かって歩いても、いつ人目に付くか
わからない。そんなあたりまでしか、入っては行かない。約束でもあるフリをした
身体がゆるゆる歩いている。

 月の端が椅子の肘掛を暖めている。枝越しに見えた赤みのある光は月ではなかっ
たのだ。窓の向こうにある工場が閉鎖されていることにどれくらい気づかずにいた
のだろう。湿気が嫌だったので角部屋を選んだだけで、外の人の気配はできるだけ
ないことにしていた。それは、多分外の人への配慮なはずだ。ここは二階で、よけ
た視線が通る高さだ。拒絶ではなく、隠れていただけだったのでと、いない人に言
い訳をしている。もう桜の枝の枯れかけた葉を、大振りの花のびっしりと満開になっ
た姿だとのみこませる白色のライトもつかない。いまは枝には葉もない。もうじき
花は咲く。よくある白い花がちらりちらり高いほうへと散っていくのが見られるの
で、光のないライトは気にもされないかもしれない。
 門の前には鎖が渡されている。少し高めの身長があれば、ためらいもなく越えら
れそうな高さだが、これで十分だというあっけない自信が公道に張り出している。
搬入口の脇にはボックスに入ったダイヤル式の灰色をした電話が残されている。内
線専用のようだ。通じる相手のいない電話にどれほど汚れがついているのか、門の
外からはうかがえない。一階のオフィス部分にブラインドはなく、それでも室内は
見通しのない様子をしている。中からだけの視界しかないようにみえる。葉の茂っ
た木の影が、冬の庭にぼんやりと流れている。ここでだけ生き抜いてきたわけはな
いだろうに、木々はひどく寒々しい尽きた命だけを掲げているようなゆれかたをし
ている。これみよがしな植栽はいつまでもつのだろうと、厚かましい不憫さに喉が
ざらついてきた。
 通用門の前の日当たりのない道から、ただまっすぐに南へ向かう大通りにたどり
着いて、行きたい先へはこの道を渡らなければならなかったかと足を揃えている。
誰も確かめないと判っている居場所を書き込んだ紙が、鞄の中にあるのを思い出す。
本当に必要なのは出て行く期限で、そのことに嘘はつけない。あのときの高速道路
から市街地に向かうカーブの分離帯に立つ木の葉の色は、いま後ろを覆う木の群れ
が二ヶ月前まで振り落とせないでいた模様と似ていた。植物図鑑に明記された原産
地を知って、それが木の慰めになるような気持ちをどうやっても消せない。あの場
所での時間が変わるわけもないのに、元をたどれば安堵するのだと信じている身体
がなぜあるのだろう。
 フェンスの向こうの空があふれたようになり、行かなくてはいけない道の上を浸
す。脇にあるこみあった枝の中には小鳥が割り込んで、みっしりと骨休めをしてい
る。この距離はまだ鳥にも遠いので、葉を引きずる風があっても木の模様は動かな
い。服の影に指先を入れる。ここはいま暖かなのだろうかと思いながら。
 よそ者は居場所を選べないので出口に着いたのは間違いかもしれない。窓越しに
見る飛ぶ影に命の区別がなかったように、ぶつからずにはくぐれない空を首で抱え
て、じくりとすべる頭にかぶった布の織目も知らないんだ。視線が合っても離れて
いく鳥の目指す場所、つれた糸が靴の裏についてくる午後の始まった頃も。湿った
土に浮いている石ばかりが続く空き地の端で黒ずんだ切り跡から、測りたい長さを
押し倒して春が来ている場所には、消えない影が残って黒ずんで滑らかな雪を抱え
ている。
 こすりつけた葉が枯れたようになるまでまだ時間はあると、にじんだ形のまま影
がふえていく。色移りのない弾けそうな窓の鍵を下ろして後ずさり、乾ききらなかっ
た遠い枝先の指している空にも模様ができるのをみる。ぎらついた箒をかざしなが
ら出たくない場所にも近づいてゆく昼前に水音がして、爪の脇の割れた肌から血が
のぞくまで待つ。呼び声が聞こえたように首を折り、持ち主のわからなくなった花
も咲くのかと見張るような風を思わずよけている。

 言葉を食べつくした猫が、部屋にてろりとはみ出た呼び声をやりすごして歩き渡
る。無人の柵を越えてくる木にも花は吹出しそうにしていて、しなしなの陽にまみ
れていた枝は暗く湿って耐えるしかないようになる。手垢の色をした受話器が真正
面に見える通用口まで、見咎められることもないすすけた昼間がきて、濃い葉をつ
かんだまま春になった場所のように細々と立っている。段になった電線をくぐって
たどり着いた道の端にも、書き込む欄はあるように見える溝の前で、切り分けられ
た幹に入るひびを数える。
 壁を越えた月の端から脚先を暖められている椅子の、はさみこんだ隙間にそって
這う。もぐりこんだ狭い空から離れながら、手の跡をふき取る。窓の外の鳥が追い
あう声にまみれ、身を低くして震えを聞く。冷たくてももう平気だからと埃になる
ばかりの指先にも穴が開いたので、乾かない隅を吸い取れないかとかざしてみる。
夜の雨は遠いようにと頭を伏せては、人気の消えた道向かいの建物にするにおいを
隠れて探している。

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