美麗島

               
 まだ、遠いですか。不器用に荷物を扱っていたからなのか、尋ねられた。顔も合
わせないでそれほどでもないと思います。傷みの激しい道は始まったばかりでも、
終わる先は遠くない。それより、あの木に落とされて、むあんと震える布が境目に
なった靄の中を、通り越すことになるのか知りたかった。日の射す方向を平気で東
だと思う体で、それから北は? 正面。
 ゲートまで、どれくらいかかるのかと向こうの角で声がしている。大きくない空
港が不満なのかもしれない。手を伸ばして採れる位置にある実。飢えないって本当?
 飢えのない世界にあこがれていたころも遠い。飢えないことは、当たり前になっ
てしまったから。ダイエットだってさ。それは正しい食事という意味じゃないのか。
食べることが目的の。
 まだ荷物を取ってないんです。ゲートの前で揉めている。なぜ自分の言葉が通じ
ないのか、不思議そうな細いからだ。自分の持ち物が、取り上げられてしまうなん
て、思いもよらない、とがった指がぬくりと空気を抉っている。そんなはずない。
一瞬、差し込んだペットボトルの重みだけの殺意が、髪の先から降り落ちた。でも、
そんなはずはあるんだ。ここで、わたしたちは大切にされるから。誰もわたしたち
の持ち物を奪い取ったりしない。わたしたちは分かち合う。ゲートをくぐっても、
捨てて惜しいものは何もないから、気前のいい後ろ姿で歩く。
 冷気に覆われて、肌がきしんでいく。バスの席は高い。道の脇にたつ建物の仲間
だ。薄着の女の子たちがライトを浴びている窓の中を、不審そうに見つめる同じ年
頃の子供たち。詮索する首筋に、冷気は効かないのかもしれない。あの子達は正し
い。解らないでいることのほうが、正しいんだ。でも、それはやっぱり消えない揺
れのように体の芯を萎えさせる。そして知っていれば、いたたまれない。でも見な
いふりは正しい姿で、靄はどこに行ったのか首を巡らす。 
 見覚えのある道、何度も迷った道筋をバスは辿る。二度目のホテルは、次は無い
と決めたはずのホテルでまた同じ不満を抱え、それでもこのまま居座る以上そのこ
とは忘れる。違う季節の街路樹に白い花がある。美しくはない花を数えるように、
初めてかもしれない道を通る。この花のためには、来ない道を。喉の奥にからむ匂
いが、白い花の仕方のないやり方だとやっと気づく。望んではいなくても、花は咲
く。そして匂う。木の肌はそそけ立って、人を見送る。
 寂れたと思わせる壁は、初めての場所で待っていた。中では穏やかに解体された
獣が柵もなくいる。買わない客も、あきらめて受け取る通路の水溜を踏むのは不遜
だと今日も思う。広い階段は客のためではないが助かる。美容院を見つけ、ここに
入ることだってできると黄色のカーラーを巻き付けた後ろ姿に気が付いても、でき
ないことはある。豆乳の大きな襞に浸した「餅」を、あたりまえに餅だと思ってい
る不思議。
 ここでなら、入り込める場所もある。値札は見ない。昨日の靄の行方もわからな
いように、自分の正体だって知らない。ただ、大きさの合わない服ばかりがあるだ
けと退屈してもどる。戻る。そうだ、戻る場所をためらわないですむ。大きな荷物
をいつかあきれられたが、なぜなのか判らなかった。欲しいものはいくらでもある。
我慢なんて感覚は随分遠い所にとりこぼしたままだ。それでもまだ、生きていける。
望むままに生きても壊れる生活はない。整えられたベットに深く座って安堵を。こ
れが欲しいと思えばこんなものもあっさり手に入る。麗しい夢のわき出る島だから。
 でも、生き物はなぜか猛々しい。木の肌に腹を押し付けてうたた寝をしているリ
スの毛の色まで。池に脚を差し入れる鳥の視線を遮ってみても。気の済まないこと
ばかりがあると、訴えている羽ばたきに気圧される人はいない。砂浴びをするやせ
たスズメも、間近な距離を奪い合い、ほらきれいな声でしょう。小鳥らしいさえず
りがどんな暴挙か忘れたことはなかった。それを知ったベンチの上に差す影は、ブ
ーケンビリアで、霜枯れもない地にいるのだと今更実感した。
 氷に落花生とトウモロコシが乗っている。昨日は山芋の煮物だった。夢で食べる
おいしいものが、ここでは当たり前に用意されている。甘い味の豆腐を噛みながら、
ハスの実を掬う。山盛りのミルクアイスを削った氷菓子が乗る皿の形は、昔の中華
食堂と同じだ。スプーンの味と形も。がたつくテーブルと丸椅子。夢だった味がこ
こにはある。夢の中の日差しがある。
 南の果物が無造作に積まれている。それが食べられるものなんだと、信じられな
い体で眺め回す。年季の入ったジューサーで、こっそりと砂糖をまぶされ粉々に砕
かれた果物を太いストローですする。ほらね。体は冷えない。舌を素通りしていく
柔らかさはやっぱり夢のとらえどころのない、それでも食い込むような感触を残す。
傷のあるスクーターの影から覗く猫と目が合う。やれるものは何もない。この飢え
ることのないはずの場所で、猫は骨ばった背を荒い毛に覆われ、たるんだ乳房をひっ
そりかくす。ここにも、冬はあるんだろうか。汗ばみながら、いぶかる。猫には寒
さが張り付いて見える。わたしの手の中の甘さを猫はわからない。それに果物は、
猫には冷たい。
 黒い犬がいる。歩いている。見張る人はいない。見回りの姿勢で、黒い犬はわた
しを見上げていく。大目に見てやると薄い背中は言っていた。店から道に戻ると、
また出合った。見知らぬ相手を確かめるように、ほんの少し内向きの軌跡で走り去っ
ていく。今日の黒い犬は、ちょっと勤勉だった。ほんのちょっと。多分。この真冬
の暑さの最中に。そして陽射し避けのスカーフを、どこかの通りへ落としてきたこ
とに気付く。誰かの手を、どんな形で煩わせてしまうのか。自分以外には生活があ
る場所で、身の置き所がないと恥じ入っても償いにはならない。犬が角をきっちり
と曲がる。縄張りの切れ目なのか。縄張り荒らしは恥知らずな行いだと、一瞬犬が
こちらを咎めるように振り返ったように見えた。この不審者に優しい場所で。
 公園の芝生の境目に、茶色い犬の毛が刈り落とされている。犬はいない。いない
と思って毛の側による。走りよってくる気配に体を入れ替えた。犬は段差のついた
体を気にできない。手を差し出すと諦めて撫でられる。犬の好意は辛い。飼い主が
やってきて犬はとまどう。ここでは犬も客好きな躾を受けているのかもしれない。
空の端には山がある。高いビルを覆う。建物の向こうに空はない。ゆっくりと息が
出来る。それでも一番高いビルの天辺を、雨雲がしっとりと巻き上げ地上に降るま
での雨の距離を小さくしようとしている。犬と一緒に雨宿りをしようとした。犬は
濡れながら公園を横切って枯れ色の芝生の模様になろうとしている。刈られた毛の
ように。
 バスから一番目立つ街路樹に、花はない季節。あの花の名前を尋ねていた人々の
声が、背もたれに染み付いている。「りんらんふぁ、と言います」ガイドの応えに
眠れない焦げた額が波打った。この場所の鈴蘭は、極彩色のいつまでも萎れない形
を貼り付けているのだと知った。植物図鑑には手が届かない。それでもあれはもう
自分の物なのだと安堵しながら、額は静まって見慣れた高速道路脇の光景を、あっ
さりと見捨てていく。これが最後じゃない。夢にはいつも、それだけはある。



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