四文字言葉の効用あるいは悲鳴を上げるまでの修行について

バレエの長年のファンであるという自負のある方には、先に失礼をお詫び致します。
いや、今書かないとバレエについて何か言うことなどできそうにないので。
いかにして、人はバレエにはまるかという一症例の報告を。

ネットでたまたま、レヴューを読んだという、よくあるのかどうか分からないきっかけで、アメリカンバレエシアターというバレエ団の「海賊」DVDを買ってしまいました。

このソフト、具体的な予備知識はまったくなしの初心者にとって、最高とも言える親切設計で、ほんとに私たちは運がよかったのです。
いや、その後の散財振りを考えると、どうだろうと、かすかな疑念も湧いてはきますが。
冒頭、インテリ臭い顔をした売れない俳優といった風情の演出家が、海賊についての解説を始めます。
それから、怒涛のごとくこの公演のプロデューサーから、果ては、大道具、衣装係(衣装係のおじさんはとてもいい味出してます)
出演するダンサーまでストーリー紹介と自分の役についての解説を実に楽しそうにしゃべりまくるのです。
しめは例の演出家です「このように、大変複雑なストーリーですが、要約すると、美しい奴隷娘を恋人の海賊が救い出すというバレエです」
実際それ以外に言いようのない、派手な見せ場を作り出すためだけのストーリーとキャラクター設定です。
どこぞのマザコン王子と、呪われた運命の美しい王女とでは、これからやれる喜びの踊りだって、少しは慎ましやかにしないといけないですし。
群舞だって舞踏会にお呼ばれされた貴族のお嬢さん方では、そうそう品のない振る舞いを、させるわけにはいかないですからねえ。
状況として、市場で客にいかに高い値をつけさせるか、けんを競って踊る奴隷娘と、どう違うんだよと言ってもです。
このバレエ、三幕に別れているのですが、一番の見せ場は二幕目の、奴隷娘と恋人の海賊とその奴隷が踊る場面です。
とくに海賊の奴隷アリ役は、とにかく、体力自慢の男性ダンサーが十八番にしているので、ここで拍手喝采を受けたら、
その公演は成功だろうというくらい目立ちます。
しょせん下賎な、海賊の首領の奴隷です。遠慮は無用。やりすぎ大歓迎です。
これでもかと跳ぶは回るは、やりたいほうだい。
一度目は、ふうんてな感じで流してしまっていたのですが、いや、あまりにも軽々とあったりまえの顔付きで踊ってたので。
二度三度と見るうちに、まじで血の気が失せました。
人間業じゃ、ありません。人としてやっていいことの限度というものが、あるだろう、やはり。
たとえ天使という名をもつダンサーであっても。

これを目の当たりにしては、後には引けません。
天国だか地獄だか極楽浄土かは、分かりませんがいってやろうじゃないか。自分。
というわけで、踏み出してしまいました、第一歩を。

この、アリ役で世界中のバレエファンに認知されたのが、日本で今一番名の知られたバレエダンサーであろう熊川哲也です。
そしてヴィヴィアナ・デュランテ嬢は、ごく一部に、熊哲の元恋人として名が売れている方で、
熊哲と同じく元ロイヤル・バレエ団のプリンシパル(主役を踊れるダンサーをそう言うらしいです)でした。
熊哲と同じように、上と揉めて、熊哲と違って自分から飛び出したというより詰め腹を切らされたと言われてしまっている、気の毒な方です。
現在熊哲は恋人としてはもうどうでもいいようですが、踊りのパートナーとしては合格らしく、
日本にもよく熊哲と踊るために長期滞在をしています。
余談ですが彼女の方が熊哲より六歳ばかり年上です。そんでもって、熊哲を「テディ」と呼んでます。
まあ、そう呼んでるのは彼女ばかりじゃないというか、日本人以外は皆そう呼んではいるようですが。
くまがわ、とは日本語ネイティブ以外にはどうも馴染みづらい発音なのでしょう。
つい練習風景などを想像して、ちょっとみぞおちに来ます。テディ。いやどうでもいいことっすね。
映像で彼女の踊りを堪能するのは、日本では容易です。
熊哲のカンパニーの大きな公演は大抵映像化されていて、パートナーは全てヴィヴィアナだからです。

彼女は芸術家にままある、一体何を考えていないのだろうと疑問を抱かせるような、
なんというか人の領域にいるのは、存在のごく一部だけだなと感じさせるダンサーです。
ほんとに、一緒に食事してくれる人がいるんですか? 
というか、そもそも食事する習慣が、彼女にあるのだろうかと考え込んでしまいます。
演技派と言われてたりしますが、あれ、演技といえるのか? もう入れ込み方が尋常じゃないです。
演じているというより、自意識なんてないでしょう、今。
と腰が引けるような、集中ぶりで、どこにも共感の入り込む余地などありません。
なんか違うものがいる。これが彼女の踊りに接したときの正直な感想です。
そんな彼女のインタビュー記事に、まじでのけぞった発言がありました。
そもそも対談形式のインタビュー記事の存在そのものが、驚異ではあったんですが。
「私は友人たちに明るい性格だと言われてます」
ここでの突っ込みどころは、やはり友人たちの部分でしょう。記事の横には、笑顔のヴィヴィアナ。
なまじちょっと美人なために、よくいる安っぽい女の子に見える割り損な容姿をしています。
舞台の上で仙女に美貌を約束された神々しいまでに美しい眠りの森の美女「オーロラ姫」まんまだった彼女が。
もうちょっと容姿が個性的だったら、かえって納得しやすいんですがねえ。

彼女の踊りは、まさに正確無比です。一瞬もはらはらさせられることなどありません。
背筋と脚の筋肉の強さが、素人目にも並大抵ではないことが分かります。
それでもまだ、一人で群舞をバックに踊っている時は人間らしい隙もあるんですが。
テディが舞台に表れると、明らかに変貌します。なんか違う存在に。
ここは、その、恋人と二人楽しく愛の語らいをしている場面ではないのでしょうか? 
舞台上には甘く切ない愛の悦びなんて、とても見当たりません。
悲恋に向かう、どこか哀しげな影のさす瞬間の儚げな表情もあるようには思えません。
ヴィヴィアナは、まるで、アイテムを拾って無敵状態に突入したゲームのキャラのように、最後にこの舞台に立っているのは私よ。
と言わんばかりの冷気漂う闘志をオーラのように身にまとい、瞬時も踊りへの集中を緩めないのです。
誰も、何も、こうなった彼女を止めることなどできないのでしょう。
人はこれ程、どんな細部も余す事なく自分の肉体を完璧にコントロール下に置くことができるものなのでしょうか? 
これは一体どんな類いの精神力なのでしょう。背筋から何か冷たいものが抜けて行く心地がします。
これ、生で見てたらどんなことになっていたんだろう、自分。そう思わずに居られません。
特に「ジゼル」の二幕目などは。
森に迷い込んだ若い男を踊り狂わせ取り殺す亡霊、ウィリとなったヒロインのジゼルが、
自分の墓に、後悔の念に駆られ花を供えに来た裏切り者の恋人を、他のウィリの呪いから庇い通し、朝日に溶けて消えていくという、
実に定番な悲劇が繰り広げられる筈なのですが。
全然、別物です。
そもそも熊川が一晩踊り通したくらいで死ぬような玉には見えない、ということを置いてもです。
新入りのウィリのジゼルは、女王ミルタの言い付けには逆らえず、心ならずも恋人を踊らせるという、
普通なら大層悲痛なシーンの説得力のなさといったら。
ヴィヴィアナは、墓からミルタに新たなウィリとして呼び起こされた時点で、すでにもう立派な完全に人ではない何かでした。
ミルタなんざ目じゃありません。明日からは、この子が女王様だな。ありありとそう予見させます。
そして恋人を守ろうとしながらも、ミルタに命じられるまま、死へ誘う踊りを踊らずにはいられない心の葛藤や悲しみなんて、
かけらも感じられないのです。
むしろ他人にとやかく言われるまでもなく、行くわよ、勝負よと、すでに全身が戦いの前の緊張と興奮に包まれ、
ものすごいオーラを噴出しています。
それに応える熊川も、どうかとは思いますが。こういうノリのよさが、彼女に気に入られている所以なのでしょうか。
なまじの男では、そこが舞台の上であろうと、とっくに魂が耳の穴辺りから抜け出ていることでしょう。
どこらへんに、儚い乙女の報われない悲恋の哀れさなどが、落ちているのでしょうか。
ここでは、肉体どころか魂まで削るような、待ったなしの真剣勝負が繰り広げられているようにしか見えません。
なぜ格闘技ファンが、バレエ公演に押しかけないのか。いや、意外と多いのではないのでしょうか。
ボクシングとバレエを一週間おきに生で見る機会を得たので観客の雰囲気をチェックしようと、本気で画策しています。

ヴィヴィアナの映像には彼女が駆け出しのころの、新人のプロを対象にしたコンクールの記録という、変わり種もあります。
彼女は賞を取った訳でもなく、その他大勢扱いを受けているのですが。
その後の彼女を知っている身としては、不思議な光景ではあります。
この手の映像の定番として、出場者のカメラ前での自己紹介がさらっと流れます。
名前と所属するバレエ団を言えばいいのですし、皆さんダンサーですからそう凝ったことはしません。
でも、こんにちわや、私の名前は位は言いますよね。笑顔位みせるでしょう。プロとして、というか人として。
ヴィヴィアナは、明らかに漂白したとわかる荒れた金髪にふちどられた例の安い美人顔で、
にこりともせずただこう言い放ったのでした。
「ヴィヴィアナ・デュランテ、ロイヤル・バレエ」最短です。
つい、四文字言葉という単語が、頭を過ってしまいました。
あんた、何者。反射的に口にしてしまった自分、間違っています。
ちゃんと、知らせるべき情報を彼女は伝えているのですから。そして、こちらも重々承知しているのです。
彼女が何者なのかは。そう、ヴィヴィアナデュランテ、バレエダンサー。
彼女は舞台で、鋼のようなキトリを踊りました。
「ドンキホーテ」という海賊と並んで派手で見せ場だらけの明るい演目のヒロインです。
器量自慢の町の宿屋の陽気で勝ち気な看板娘なんて、全然ヴィヴィアナらしくない。
いやだからさ、超絶技巧をあっさりミスなく踊れたからと言って、プロなのですから、
キトリとして踊れてなかったらそりゃ評価もされませんよ。
でも、人間本質は、変わらないものなのだなと思いました。
踊りに没頭して、一瞬の揺らぎもなく、肉体をコントロールすることにすべてを捧げるヴィヴィアナの姿を見て。
そして、明らかにパートナーのために選ばれたと思しい演目にも、その後の彼女の不遇を感じさせました。
狙いどおり、ヴィヴィアナのパートナーが男性ダンサーの一位に輝いてましたけど。
まあ、その後それなりに大成なさる方ですがね。ヴィヴィアナ程じゃないでしょう。
しかし、表彰されるパートナーに向かって、ほんとうに可愛らしい笑顔で拍手をするヴィヴィアナという、世にも恐ろしい、
いえその、貴重なじゃなくてですね、ええと、そう、心温まるものを拝ませていただけたのですから、よしといたしますが。

この映像の目玉は、ヒヨッコどもの踊りなどではありません。
ナタリア・マカロアというソ連からの亡命ダンサーの(コンクールは八十八年、カナダで開催されています)
新人ダンサーに向けた餞の言葉でしょう。
舞台のおける災厄について語りたいと思います。
白鳥の湖の衣装に身を包み、腕には、いかにも普段から愛用していると思しい、地味めな長いストールを巻き付け、
舞台中央に立つ彼女に盛大な拍手が送られます。
当時でさえ伝説と化していた、彼女のオデット見たさに、劇場に足を運んだ観客がほとんどだったのではと、思わせる光景です。
鉄のカーテンの向こうから亡命して来たダンサーが語る災厄とは。
観客は固唾を呑んで待っています。
まずは彼女の初舞台。群舞の一人として夢中で踊るうち、客席の笑い声に気づくのです。
彼女一人が、周りと正反対のタイミングで立ったり身を低くしたりを繰り返していたためでした。
「私は泣きながらもう失敗はしません。私をどうか首にはしないでくださいと舞台監督に訴えました。
もうこれで私の人生はおしまいだと思いました」
彼女は勿論首にはならない。「でも、もう二度と群舞を踊らせてはもらえませんでした」
彼女はソリスト(出世です)になる。
「威厳あふれる公爵婦人のソロを踊っている時でした。私は衣装を着けての練習をしていなかったのです。
その衣装はとても重く長いドレスでした」
彼女はオーケストラピットに舞台から転げ落ちる。
「私が舞台から消えたことを観客が気が付かないように願いました。せめて演出の一部だと思ってくれたらと」
パートナーが騎士道精神を発揮して、彼女を舞台へ助け上げてしまう。
「キーロフの広大な舞台を、静まり返った観客を前にしてできるだけ威厳を保ちながら」
舞台袖に引っ込む、絵にかいたようなダンサーの悪夢。
「初めて白鳥の湖の主役を踊った時のことです」
演出上、オデットは舞台にせり上りで現れる。
「舞台下はひどく寒く、立っている板は不安になるほど狭いのです。そこでオデットになりきるのはとても難しいことでした」
迫上りは手動だった。そして、ポーズを決めた彼女を乗せ途中で動かなくなる。
「舞台上では、私の出番を告げる音楽が既に流れています。焦った私はロシア語で担当者を夢中でののしっていました」
その後の舞台の出来について、彼女は語らない。
場内は勿論、爆笑の渦で、うまいっ。と画面の前の自分も感動しました。
マカロワのオデットが幻のように写し出されます。
「成功への道は厳しいですが、努力するだけの価値は有ります」
これが、彼女のスピーチの締めの言葉でした。
人は失敗を言い訳には出来ないのです。成し遂げたことだけが、その人をはかる基準なのです。
こんなに厳しいメッセージはないでしょう。新人ダンサーに対して。
心あるプロの卵たちは、どんな気持ちでマカロワさんの言葉を噛み締めていたのだろう。
二十歳そこそこのダンサーたちが、ひどく健気に思えます。
でもきっと間違いなくヴィヴィアナだけは、早く踊ってくれないかしらとスピーチの間中、舞台袖でじれていたことでしょう。
彼女はきっと客席のだれよりも、マカロワの踊りを心待ちにしていたに違いありません。
そして、マカロワのメッセージを、不思議そうに聞いていたのではないでしょうか。
彼女にとってあまりに自明な真実を熱心に語るマカロワを。
いや、あんたのために話してる訳じゃないのよ、マカロワさんはね。
などと、予断に満ちた感想を持ってしまった訳ですが。

03年早々には、ヴィヴィアナの白鳥の湖の映像が手に入るのではないかと、期待しています。
熊川のカンパニーは四人のダンサーに入れ替わりでオデットとオディールを踊らせるという企画の白鳥の湖の公演を打ったので。
その中には、勿論ヴィヴィアナがいます。
まあ、誰のオデットが映像化されるかは分かりませんが。確率としてはヴィヴィアナが一番かなと。
いや、本当に楽しみです。

冒頭に紹介した海賊でアリを踊ったダンサーが、同じく海賊でヒロインの友人役を踊ったダンサーと組んだ
「ドンキホーテ」のパ・ド・ドゥの映像を台北旅行で手に入れてきました。
ヴィヴィアナがコンクールで踊った演目と同じなあたり、あれですが、定番らしいので珍しいことではないみたいです。
いやもう派手な踊りですから。
パ・ド・ドゥは、普通四つのパートに別れていて、
最初に二人で踊り、男性のソロ、女性のソロ、また二人一緒に締めという流れになります。
さわやかな笑顔で軽々と踊る、そもそも失敗する不安など、欠片も持たずに舞台に立っていると思しい二人は、
とにかく行き過ぎなくらい輝きまくっています。
客席からは、最初の競って見せ場を作る二人の踊りに、盛大な拍手が起こります。
それぞれの、まさにはじけまくっているソロにブラヴォーの大声援が送られます。
そして、テンションをぎりぎりと引き絞るように上げまくっていく最後の締めでは、
客席のあちこちから、悲鳴が湧き上がっておりました。

いやもう。人間業じゃないと思う映像を山ほど見て来ましたが、これはその中でも群を抜いてます。
テレビの前で椅子に背を張り付けたまま、声もなく呼吸も忘れ二人の踊りに見入っていた自分は、
いつかきっと、こんな踊りを目の当たりにして、悲鳴を上げるだけの余裕を持った観客になろうと
決意を新たにしたのでした。
しかし道はまだまだ、長く険しいもののようです。
 

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