あたまのうえになにがある
カナタが固唾を飲んで見守る中、タブレットでレポートをチェックし終えたゼノは、微笑んでひとつ頷いてくれた。
「うん、これなら大丈夫だと思うよ!」
「良かった、終わった……」
「お疲れ様」
掛けられた言葉に安堵して、思わず机に突っ伏してしまった。それを、ゼノが笑いながら労いの言葉を掛けてくれる。
月の曜日、夕方。いや、すでに執務時間終了から一時間ほどが経過しているので、夜と表すべきかもしれない。夕飯の誘いに来てくれたゼノを巻き込んでのレポート作成が、ようやく終わった。といっても、手伝ってもらったのは今してもらっていた最終チェックだけだ。
最初はまだかかるから先に食べててと断ったのだが、ゼノは待つと言ってくれた。一人で食べるより一緒の方美味しいからと笑って。確かにと納得できる理由ではあったが、その時点ではまだ終わる目処が立っていなかった。長時間待たせるのは悪いと思ったけれど、タブレットを持ってきてるからとやんわり拒否されてしまう結果に。
本人がいいと言ってる上に、押し問答している時間も惜しい。できるものならレポートを放りだして夕飯に行きたいくらいには、カナタも空腹を覚えていたから。
そもそも研究院から提示されている締切は明後日の朝なので、今日中に仕上げる必要はないと言えばない。ただ、通常執務の対応にも時間が掛かっている身なので、できれば早めに終えておきたかった。今朝届けられていた執務量がいつもの半分以下だったのも、恐らくレポートのための時間を確保するために配慮してもらった結果だろう。明日も同様の配慮がされる可能性は低く、今日中に終わらせるのがやはりベストな選択だろう。
レポートの内容は、一昨日行われた二度目の定期審査についてだ。およそ一ヶ月前の最初の審査後にも提出を求められたのに、すっかり忘れ去っていた。まさに喉元過ぎればなんとやら。一昨日、ゼノの誕生日の夜に誘われ私室に遊びに行って、昨夜まで楽しく過ごしていたからこそ、今朝届いていた通達を見た時に打ちひしがれてしまった程だ。週末は休みだと規定されているから、きちんと休めるように配慮して月の曜日に届けてくれているに違いない。
でも、すっかり忘れていたから何も考えていない状態かつ締め切りまで二日ほどというのは、なかなかきつい。文章を書くこと自体得意とは言えないので、こうも難航してしまったのも半ば必然だろう。
とはいえ、一昨日徹夜して認めたゼノへの感想文に比べれば、幾分か気楽にできた。あれはゼノに少しでも喜んでもらいたいと気負いすぎたのと、知ったのが前夜だという時間的な焦燥感とで、かなり追い詰められた状態でやっていたから。甲斐あってというべきか、受け取ってくれたゼノはちょっと過剰なくらいに喜んでくれたけど。カナタ自身の後悔というか負荷がものすごく大きいので、金輪際やらないと心に決めている。
それでも慣れない作文をなんとか書き上げてはみたのだが、これで求められた水準をクリアしているのかがわからず。小さく唸ったのを聞き取ったゼノがチェックを申し出てくれて、今に至る。
精魂尽きたと思うが、一昨日のように寝落ちるまでは消耗していない。というか、存在を誇示するように胃が空腹を訴えてきた。むしろ、結局一時間も待たせてしまったゼノの方が空腹だろう。早く食堂に向かうべく、くたびれた体に力を入れて体を起こそうとしたら。
「がんばったね、カナタ」
優しい声が降ってくるのと同時、頭の上に何か暖かいものが載せられた。そのまま左右いや前後だろうか、とにかく載せられたものが往復するように何度もゆっくりと動く。
咄嗟に何が起きているのか判断できず、固まるように動きを急停止させてしまった。頭の中はたくさんの疑問符が飛び回り、幾度か目を瞬かせた後で、この感触はもしかしてと思い当たる。
「えっと、ゼノ?」
「ん? どうし……って、ごめん!」
そっと呼びかけると、穏やかに応じる声が途中で焦った早口に変わった。ごめんと一緒に、頭の上の暖かいものも外される。解放されたと気づき改めて上半身を起こすと、赤い顔で二度目のごめんを口にするゼノと目があった。動揺しているのか、視線が揺れているようだ。
妙な位置に浮いた左手も併せて考えると、カナタの推測は間違っていないだろう。
「あたま」
「うぅ、ほんとにごめん!」
確認のため声にすると、遮るような勢いでゼノが頭を下げた。必死な様子が伝わって、思わず笑いが零れてしまう。隣に立つゼノに聞こえないはずがなく、下げられた頭が様子を窺うようにそっと上がる。
「平気。まさか頭撫でられるとは思わなくて、驚いたけど」
「うん、ごめん」
「嫌じゃなかったし、そんな謝んないでよ」
笑い交じりの言葉にも謝るゼノに、首を振る。頭を撫でられるなんてもはや遠い昔の記憶でしかなく、何が起きているのかすぐにわからず固まってしまったが、嫌ではなかった。むしろ掛けられた声も撫でる手も優しくて、言葉通り労うための仕草だと納得できたから。そんなに恐縮して謝ってもらうことではないし、必要もないと思う。
むしろ、必死に謝ってくれてるのに笑ってしまったことを、カナタがごめんと伝えるべきだ。
「ごめんね。子ども扱いしたわけじゃなくて、弟によくしてたから……って、やっぱり子ども扱いしてる?」
「いや、子供扱いされたとか思ってないから」
「うぅ、ほんとにごめ」
「ゼノ、ストップ」
説明、いやゼノからしたら言い訳だろうか。言葉を綴るゼノがあまりにごめんを繰り返すので、思わず遮り止めてしまった。少し目を丸くして見てくるゼノをまっすぐ見返して、大丈夫と伝える。
「謝るの終わり。ゼノにも弟いるのは聞いてるしさ。よくしてたんなら、咄嗟に出ちゃっても不思議じゃないって。オレが年下なのも後輩なのも事実だし」
「うん……ありがとう。カナタは、優しいね」
カナタの言い分に、ごめんと言いかけたのを即座に礼に切り替えてくれたゼノ。謝るほどのことじゃなかったし、礼を言われることでもないとは思うが、ゼノにはそうじゃなかったんだろう。どういたしましてと返すと、安堵したように眉尻を下げて微笑んでくれた。
小さく続けられた「優しいね」には、出かかった反論を飲み込んで聞こえなかった振りをしておく。そこを突くよりも先に、カナタにはすべきことがあるから。
微笑みが消える前に、カナタは立ち上がって軽く頭を下げる。
「待たせてごめん、ゼノ。遅くなったけど、ご飯行こ」
「うぅん、大丈夫だよ。カナタだって、お腹空いたよね」
「うん、もうぺこぺこ。何食おうかな」
「あはは。たくさんがんばった分、ご飯もきっといつもより美味しいよ」
顔を上げると、ゼノは優しく笑ってくれていた。優しいのはどっちだよは、思うだけに留める。
長時間待たせるかもと言った時、空腹に耐えられなくなったら先に行くからと言ってくれていたゼノ。もちろんカナタにプレッシャーを与えないための方便なのはわかっているが、流石に一時間は待たせすぎだ。それでも文句一つなく付き合ってくれて、ゼノに馴染んだ仕草で労ってまでくれた。
一連の流れのどこに、謝ってもらう要素があるんだろう。優しいと言われるべきは、ゼノの方だ。指摘したところで、さっきの「優しいね」と同様に弾かれてしまうんだろうけど。
「あのさ」
「カナタは何を食べるか決めた?」
「え。あ、えっと、すぐ食べたいからカレーとか?」
「確かに、カレーなら提供早そうだね。俺もそうしようかな。唐揚げ頼んだらカナタも食べる?」
「いいね」
代わりに伝えたいと呼びかけたが、逆に問いかけられて会話が先に進んでいく。すぐに食堂につき、素早く提供されたカレーを食べ始めた頃には、すっかりタイミングを逃していた。改めて告げるには気恥ずかしさが勝り、結局伝えられないまま終わる。
ゼノが頭を撫でてくれたことを、嬉しいと感じたことを。
正確には撫でられたこと自体がではなくて、弟によくしていた仕草をカナタにもしてくれたことがだ。
カナタは、もう大分前からゼノを親友だと感じている。だけど、親友だと断言するにはまだなんだか薄い壁のようなものが存在する気がずっとしていた。正体はわからないが、なんとなくゼノから遠慮のようなものを感じるというか。
ゼノにとってのカナタはまだ親友になりきれてなくて、その差異がそう思わせるのかなと考えていた。
だから、親友とはちょっと違うけれど、弟という極近しい存在にしていた仕草をしてくれたことが、嬉しい。しかも反応からして無意識の行動だろう。尚更嬉しい。
カナタにはそれらが、薄い壁が更に薄くなっている兆しに思えたから。
もちろんカナタの勘違いの可能性も高い。机に突っ伏していたカナタの頭の高さが、たまたまゼノの弟の頭の高さに近かったからとかありえそうだ。それでもカナタには、小さくても確実に一歩進んだ予感がしてならない。
すぐにとはいかないだろうけど、きっとそう遠くない未来、ゼノは親友だと断言できる日がくるような気がする。
その日が来たら、改めて伝えてみようかな。あの時頭撫でてくれたの、嬉しかったんだって。
食事の後ゼノと別れて私室へと廊下を進みながら、カナタはそんなことを考えていた。
こめんと。
43作目。
ゼノ誕と「約束一歩前」の間のお話です。
仮タイトルは「あたまなでなで」でした。
どちらにしても頭のよわいタイトル……(笑)。
カナゼノ英気を養うぞーとフロステ2見てて、
夜の部のカナタのあざといメッセージを受けて降臨。
ホットケーキ以外のご褒美で思いついたのが
頭撫でだったという話です。
あんまり人の頭って撫でなくないです?
(2023.8.4)