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面積の一割を堀が占める水郷都市・箭納倉。そこで、三人の老女が自宅から姿を消し、数日後、行方不明になっていた間の記憶をなくして戻ってくるという奇妙な事件が起こった。大学教授・三隅協一郎は、かつて弟夫妻が同様の失踪を経て、まったく姿形は同じだが別の何ものかになってしまったことを知っていた。かつての教え子である塚崎多聞と娘の藍子、さらに三人の老女に取材した新聞記者である高安則久の助力を得て、協一郎は箭納倉に棲む正体不明の存在に迫ろうとする……。
と、こうやってあらすじを書くといかにも典型的なホラーのようだが、実際には、語り口、叙述の順序が異なるため、まったく異質な印象を受ける。そもそも、主人公が協一郎ではなく、まったく土地とは無関係な多聞に設定されているあたりが変則的である。それも、たまたま来訪して巻き込まれ、自衛のために事態に対処する、というパターンですらない。多聞は物語的な機能としてもキャラクタとしても自律性、指向性を欠いており、その立場は物語の冒頭から終盤まで曖昧なままである。
さらに、この物語の奇妙なところは、こういった侵略者ものの作品の場合、「侵略前」→「侵略後」の変化の描写こそが重要にも関わらず、「侵略前」がばっさりと切り捨てられていることにある。もっとも、多聞という部外者が主人公に設定されていることからも、作者の眼目がそういった手続きにないことは明白だし、そもそも、「はじまり」がいつなのか不明確である以上、その対比にこだわることは無意味だともいえる(とはいえ、後に「はじまり」が不明確であることが明かされるにしろ、暫定的に「侵略前」「侵略後」の対比は可能だと思うし、普通の作家ならそのように書くのではないだろうか)。
……まあ、そんなことはどうでもよろしい。
上記は、ほとんど意味のない戯れ言に過ぎない。だから「評価できる」。あるいは「評価できない」。書き手の恣意によってどちらにでも書き継ぐことができる。筆者は、だから「評価できる」と続けるつもりで上記の文章を書き綴っていたのだが、たぶん、それは違うのだろうという気がする。
「もうじき帰ってくるしね──いつもちゃんと誰かが帰ってきたよ。そういうもんだから、いつもずっと待ってたよ。騒いでも、じたばたしてもしょうがない」
結末近くである人物が語る言葉である。待つこと。『球形の季節』の結末においても、主人公みのりはみんなの帰りを待つという明確な意思を示す。どこへも行かず、ここで待つ、ということ。
筆者が恩田陸の作品を好きな理由のひとつに、この「待つ」という意思があることは確かなのだが、それを明確に言葉にして説明することができない。
消化不良のまま中途半端に文章を終えることをお許しいただきたい。
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