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■2001年11月1日〜11月15日


11月14日(水)
 これは11月5日の『ロードス島戦記 ファリスの聖女』の感想を書いたときにやろうと思っていたネタなんですが……。

 こんな感じの顔に下のように影をつけると……(髭ではないです。念のため)。

 山田章博風になります。なんとなく、ですけど。
 納得いかない人は鼻から上を隠して口元だけ見てください。


11月13日(火)
 高見広春・原作/田島雅之・作画『バトル・ロワイアル』5巻を購入。
 
原作を読んでいることを前提としているので、文字伏せなしでネタバレしています。
 月岡彰(オカマのヤンキー)、顔が濃すぎです。リーゼント風の前髪がなぜかコイルみたいに螺旋状に巻かれています。桐山と戦わずして爆死なのは原作通り。このあたりの絵の見せ方は非常にうまいです。そして、終盤戦までの桐山の秘密兵器となる「無敵」の防弾チョッキが登場。リボルバーで至近距離から撃たれても傷ひとつ負わない理不尽なまでの防御力は健在です。その最初の持ち主である織田敏憲に殺される清水比呂乃(なぜかパンク風)の死に方は、漫画版独自のアレンジが施されています。まあ、そのアレンジ内容そのものは割とありがちなんですが、絵の強烈な説得力でなかなかの見せ所となっています。さらに、三村信史による第2の反撃作戦の準備が着々と進行中。相棒の瀬戸豊との間に微妙な軋轢を生じつつ、以下、次巻。原作の47章までの内容。完結まで、あと4〜5巻はかかりそうです。巻末には七原秋也の子供時代のエピソードを描いた番外編「正義の人」を収録。

 発売直後に購入しつつも1章半ばで挫折した奥泉光鳥類学者のファンタジア』に再チャレンジ中。今度は最後まで読み通します。たぶん。

11月12日(月)
 激しく今さらなんですが、松山せいじエイケン』1〜2巻を読みました。
 例えば、評論を読んでものすごくおもしろそうだと思って読んだ小説が、評論そのものほどおもしろくなかった(評論で書かれていたほどおもしろくなかった、ではなく)ということが結構あります。また、予告編を見ておもしろそうだと思って観に行った映画が、実際には「おいしい」シーンはすべて予告編で使われていて、本編を観ているうちに「それはもう見たよ」という気分になってしまうこともあります。この漫画を読んだ印象は、個人的にはその両者でした。
 ネット上にある『エイケン』にかんするテキストやネタには笑えるものが多くて、本編を読んでみたいと思わせるに充分だったんですが、それはいわばこの漫画のおもしろい部分を濃縮して抽出したもので、漫画単体で読んでみると、まあ、確かにツッコミどころは満載で「しょうがねえなぁ」と苦笑してしまうものの、自分で積極的にツッコミを入れつつ読むのも面倒で、あくまで周辺のテキストやネタを楽しむための基礎知識として読んでいる自分に気づいて、それはひどく不純な読み方なのではないだろうかと思えてきます。
 というか、この漫画ははじめからそういう存在で、私の書いていることは「何を今さら」的なことなんでしょうか? いや、それよりも、私はいったいこの漫画に何を期待していたんでしょうか? て、私は誰に訊ねているんでしょうか? 謎は深まるばかりです。
 あ、念のために書き添えておきますと、上記の「不純な読み方」に対置される読み方というのは、「萌え漫画として読む」ということではなくて、「ツッコミの対象として読む」ということです。

11月11日(日)
 昨日、飲み会があった。焼き肉屋で飲み食いしたあと、私の部屋に移動して、結局、電車がなくなり帰れなくなったMが私の部屋に泊まることになった。
 Mは『ピクミン』を黙々とプレイ。私はビールを中ジョッキで2杯飲んで頭痛がするので、サイトの更新をして早々に寝た。朝、8時頃に目を覚ますとMはまだテレビに向かっていた。あきれながらも、私はまだ眠いので寝直した。11時頃、再度目を覚ました。Mはまだコントローラを握っていた。私はもう1度寝て、今度は1時過ぎに目を覚ました。Mはまだ『ピクミン』をやっていた。さすがにもう寝る気にならないないのでMがプレイするのを見ていると、29日目にして全パーツを集めてクリアしてしまった。恐るべしM。

11月10日(土)
戸梶圭太レイミ 聖女再臨』★★★
 戸梶圭太の第3作で、初のホラー作品。
 廃墟となったビルに、5人の男女が集まってくる。彼らはそれぞれ人間の身体のパーツを所持していた。それは、愛する「先生」の身体だった。5人がそろったとき、儀式によって「先生」は甦る。
 物語の冒頭から彼らは対立している。それぞれが「先生」を独占したいと考えているため、誰かが出し抜こうとしているのではないかと疑心暗鬼になっているのだ。しかし、5人がそろわなければ、儀式を行うことができない。仮に誰か1人でも儀式の前に死んでしまえば、「先生」を甦らせることは不可能になってしまう。彼らは自分こそが場の主導権を握ろうと躍起になる。
 戸梶圭太の他の作品の例に漏れず、この作品の登場人物たちも、暴力をふるうことに少しのためらいも持たない。殴る、蹴る、切る、撃つ。彼らは自分が優位に立った場合、相手に対してまったく容赦しない。そして、徹底的に利己的である。

「そうかよ」残忍そうな気味の悪い声だ。「なら好きにしろ。俺は亜紀を拷問する。鼻をつぶして、歯も全部叩き折って、目玉もつぶす。二目と見られねえ顔面ホラーにしてやる」
(中略)
 和人はとりあえず黒い箱を隠す場所を探すことにした。かわいそうなようだが亜紀の問題は後回しだ。
(P.76〜77)

 廃墟となったビルを舞台に語られる「現在」の章と平行して、「先生」の身体のパーツを持つ5人のうちの1人である紫乃の視点で、彼女が「先生」の身体のパーツを手に入れた後、まったく恋愛感情を持たない(それどころか、内心で「ハゲ豚」とののしり嫌悪している)相手と結婚し、その結婚相手の金を使って「先生」の過去を調査する経過を描く「過去」の章が語られる。こちらも暴力的な描写こそ少ないものの、「現在」と同様に殺伐としている。
 次第に「先生」の隠された正体が明らかにされていくわけだが、問題はその後の展開。物語は度を外れて見当違いの方向に向かって突き進み、「結局、このタイトルは嘘じゃないのか?」ということになってしまう。その破綻っぷりはいっそ清々しいくらい。既読の3作品の中ではこれが一番好み。読後感としては、殊能将之『
黒い仏 』あたりにちょっと似ているかもしれない(いや、『 黒い仏』は破綻しているとは思わないけど)。
 それにしても気になるのは、この作者の書く「泣かせ」風のシーン。
が死ぬ原因なんて、どう見ても冗談としか思えない。それから、終章。これは『溺れる魚』もそうだったけど、殺伐とした物語の結末にちょっとした「救い」を用意しているかに見えて、それがまったく説得力がないのはわざとなのか作者の技量不足によるものなのか。

11月8日(木)
 こんなふうにトップページにいきなりイラストが置いてあったらどうでしょうか?



(クリックしても大きな画像が見られたりはしません)

 引くだろうな、やっぱり。
 いや、今日は特に文章で書くことがなかったので、かわりに絵を描いてみたんですけど、途中で飽きてしまって、靴はスニーカーにするつもりだったのにいろいろ描き込むのが面倒くさくて何だかよくわからないブーツっぽいもの(たぶん)に変更したとか、上にはパーカーを着せてポケットに手を入れている恰好にするつもりだったのに、フードを描くのが面倒くさかったり腕とか服のしわを描き込むのが面倒くさかったりして何だかよくわからないトレーナーっぽいもの(たぶん)に変更して手も後ろにわましてしまったというのは秘密です。というか、下描きとはまったくの別人になってしまいました。むしろ下描きのほうがかわいいという話も。
 それにしても、書くことがなかったから絵を描いたにもかかわらず、あれこれ言い訳を書き連ねているというのは根本的に間違っている気がしなくもありません。


11月7日(水)
フランシス・アイルズ殺意』★★★
 倒叙ミステリの名作と名高いこの作品。先に読んだアイルズ名義の『レディに捧げる殺人物語』が非常にツボにはまったので、こちらも期待して読んだ。……う〜ん、おもしろいんだけど、ちょっと肩すかしだったかもしれない。
 冷静なようでそそっかしい、思慮深いようで浅はか、セルフイメージと作中で読者に見せる姿との乖離が滑稽な主人公像は、バークリー名義の作品で登場する探偵役シェリンガムの犯罪者バージョンといった印象。他者の能力を過小評価しがちなところもそっくり。
 その無自覚な自己中心っぷりを描く筆致にまったく容赦はないものの、「人間の醜さをするどく描く」というよりは、ひたすらその滑稽さを観察(ヲチ)するための喜劇として作品を構成しているのがいかにもこの作者らしい。
 しかし、裁判のシーンから皮肉に満ちた結末にかんしては、どうも狙いが先走りしすぎているという印象を受けた。これは「陪審員制」という制度そのものが持つある種のいかがしさに起因しているのかもしれないけど、主人公が
無罪を勝ち取るための説得力のある「理由」をもうちょっと具体的な形で提示してほしかった。つまり、一般的な探偵小説の「探偵が犯人を指摘する」というスタイルを裏返した形での、「犯人が疑惑を退ける」という展開を読みたかった、ということなんだけれど。まあ、これはこちらの勝手な期待にすぎないわけだし、その判断基準の曖昧さそのものが、いっときは主人公を救い、しかし、結果的に無実の罪で主人公を殺すという結末を保証していることは確かで、まあ、だからこれは単なる言いがかりに過ぎないんだろうなぁ。

11月6日(火)
iPod」の発売に先立ってダウンロード可能になった「iTunes2」ですが、さっそく使っています(Mac OS X v10.1版のみ。Mac OS 9版はまだ日本語版は出ていない)。Mac OS X v10.1版はマルチ言語対応ということで、アップルからダウンロード可能になる前にAppleのサイトからダウンロードしてインストールした人も多かったようですが、そこには罠が仕掛けられていたのでした。私は先週の土曜日にAppleからダウンロードしたものの、どういうわけかディスクイメージがうまくマウントされず、インストールをあきらめたため、運良く難を逃れました。しかし、とんでもないバグだよなぁ。
 で、翌日の日曜日、バグフィックスして再度アップされた「iTunes2.0.1」をダウンロード。今度は問題なくディスクイメージもマウントされて、無事、インストール完了。データの引き継ぎも問題ありませんでした。
 今回のバージョンアップの目玉は「iPod」との連携とイコライザの搭載、エンコーディング速度の向上などがあるわけですが、確かにエンコーディングは速くなっています。OS X上だと、バックグラウンドでエンコーディングしていても、OS 9ほどの極端な速度低下がないのが良いです(これはバージョンアップとは無関係だけど)。あとは「iSub」の音量を調整できればなぁ。
「iTunes」(Ver.1.0)がリリースされて以来、CDを買ってくるとすぐにMP3に落としてMacで聴くようになっているんですが(というか、昨年9月の引っ越し以来、Mac以外に音楽をかける装置が部屋にないのです)、いちいちCDをケースから出してトレーにセットする手間がはぶけて、なまけものの私には非常に快適です。以前、市販の「Mac MP3」というエンコーダ/プレーヤーを使っていたんですが、実際のところ、MP3にしたはいいけどいちいちプレイリストをつくるのでが面倒くさくてあまり利用していませんでした。「iTunes」だと、エンコード時に自動的に曲名・ミュージシャン名がライブラリに登録されるので、ミュージシャン・アルバム単位で聴くならダブルクリックだけでOKなのが気軽に聴ける要因だと思われます。このへんは、さすがAppleといったところ。
 う〜ん、「iPod」が欲しくなってきた。これも罠だよなぁ。

11月5日(月)
 水野良・原作/山田章博・作画『ロードス島戦記 ファリスの聖女』1〜2巻
 連載開始より10年を経てようやく完結。ファンタジーというジャンルにおける『ロードス島戦記』という作品の位置づけは、ミステリだと『金田一少年の事件簿』あたりに該当するのかな。私は中学生のころに「コンプティーク」誌で連載されていたリプレイの第2部から読みはじめて、小説、OVA版のアニメ、パソコンゲーム、オリジナルルール版リプレイ集を経て(順番は正確に思い出せないので適当)、本伝の小説が完結するまで追っていました。つまり、かなりはまっていたということなんですが、このへんは書き出すと長くなるので割愛。
 山田章博の絵は言うまでもなく素晴らしいです。明らかに他の『ロードス島戦記』関連作品とは一線を画す「剣と魔法の世界」の説得力には圧倒されます。もっとも、終盤に向かうにつれ、絵が荒れてきたり漫画として読みづらくなっているのは、時間がかかりすぎただけに仕方ないのかな。それでも充分クオリティは高いのでオッケーなんですが。ストーリーにかんしては、水野良は良くも悪くも自己犠牲のお話が好きだなぁ、と思いました。基本的にはシリーズの読者向けではありますが、そうでなくても楽しめるのではないかと思います。
 しかし、この作品、角川のお家騒動がなければもっと早く完結していたのかなぁ。

 森博嗣・原作/浅田寅ヲ・作画『すべてがFになる
 とりあえず、犀川の顎の下の肉を半分くらい削ってほしいと思います。
 それはともかく。
 原作を知らない読者に対してはどうか、という点は私には判断できないし、そもそもあまり考慮する必要はないのかな、という気もするのでおいとくとして、なかなかうまく原作を消化したうえで漫画化しているのではないかと思います。死体の登場シーンなんかはやっぱり絵のほうがインパクトがあるし。浅田寅ヲの漫画は読んだことがなくて、田島昭宇と恩田尚之を足したような感じだなぁと思ったんですが、個人的に重要なポイントだった国枝桃子は恰好良いし、作画は安定しているし言うことありません。

11月3日(土)
小川勝己眩暈を愛して夢を見よ』★★★
 おもしろかったと書きつつこのこの点数なのは、どうしてもメタフィクション的な手法を用いて自己言及を行う作品につきまとう自家中毒めいた展開が好きになれないから。特に作中作をもとに推理を繰り広げるという趣向は、たとえ批判的な視点を導入したところで今さらおもしろいものは書けない、という確信(というか思い込み)が個人的にはあるので、どうしても評価は辛くなってしまう。
 ただ、
書かれたことを「虚構」とすることによって作品世界の虚実を混乱(というか無効化)させる手法としては、比較的、慎重かつ丁寧に行われている。こういった作品の例に漏れず、手段が目的と化してしまっている印象がなくもないけれど、それなりに物語として有効に機能している点は好感が持てる。結末の残酷さは大いに支持する。
 これは舞城王太郎の作品あたりもそうなんだけど、いわゆる典型的な「新本格」作品ではない物語の枠組みに、「新本格」のガジェットを過剰に放り込んでできあがった作品という印象を受けた。それでいて、いわゆる典型的な新世代「新本格」作家よりは、よっぽど的確に「核」となるものをつかんでいる気がする(これは、私が「新本格」とくくられる作品に過剰な幻想を抱いているだけかもしれないけど)。思いつきで書いてみれば、この作家は東野圭吾あたりに近いのかもしれない(デビュー当時のこのインタビューを読むと、特にデフォルトの作風というものを持たない器用な作家になっていくのかなとも思えるので)。
 まあ、そういったことはともかく、個人的に一番読んでいてキツかったのは、ヒロインが書いた作中作を批判する同人メンバーの姿。「小川勝己は転向したか」を読むと、実作者(?)である法月綸太郎は批判内容そのものに反応しているようだけれど、こうやって人の書いた作品をついて好き勝手に書いてウェブ・サイトで公表している私としては、逆に批判している側の傲慢ぶりに自分の姿を重ねてしまって、「
これには正直、音を上げそうになった」。
 あと、余談としては、この作品のタイトル、および作中人物が書いたシナリオ「夢・現」、さらには前作『彼岸の奴隷』というタイトルは、MORRIEというミュージシャンの楽曲からの借用らしい。……ジャパメタ???

フランシス・アイルズレディに捧げる殺人物語』★★★★
 
ある意味、ネタバレになっているので未読の方はご注意ください。
 こっちが変化球に対して身構えていたところに、ど真ん中に剛速球が来てびっくりしたという感じの読後感。いや、野球はやらないし観もしないのにこういう比喩をつかうのは我ながらどうかと思うけど。
 例えば、あらかじめ「叙述トリック」が仕込まれているとわかっている作品を読むときに、ミステリをそれなりに読んでいる人なら頭の中で解釈の可能性をはかりながら読み進めると思うんだけど、この作品はいわゆる「叙述トリック」作品ではないものの、重要なことがらについてほとんど事実として明確に断定されず、それは主に主人公であるリナの夫に対する疑惑で、リナ自身も気まぐれで自分の抱く疑惑について否定したり肯定したりを繰り返すので、読者は多くのことがらに「保留」のラベルを貼りつけたまま読み進めることになる。解釈の余地があるということはつまり、「どんでん返し」の予告ともとれるわけで、当然、読者としては身構えてしまう(例えば、私は途中で「殺人者の夫」=ロナルドという可能性も考えた。それは穿ちすぎ>俺)。
 最後まで読んで私が驚いたのは、「保留」のラベルを全部はがしてみれば実にストレートなラブ・ストーリー(?)になるということだった(実際には、OKさん指摘しているとおり、結末ですら明確に断定はされていないので、そう読むこともできるというだけなんだけど)。私は安っぽいラブ・ストーリーが結構好きなのだ。
 ところで余談だが、私はジョニーの姿に、浦沢直樹『MONSTER』のヨハンをあてはめて読んでいた。ヨハンって「恐ろしい怪物」というより、どっちかというと「女にだらしない小悪党」といった感じだと思っていたので。

11月2日(金)
 昨日の日記に書いた件ですが、スズキトモユさんにメールを送り、返信をいただきました。
 こちらにある私が書いた『月の裏側』の感想については、手を加えず現状のままの形で残します。
 今後、この件にかんして日記には書きません。ご了承ください。

11月1日(木)
 小川勝己眩暈を愛して夢を見よ』読了。この作者の小説は初めてなんですが、「新・大森なんでも伝言板」のこの発言とか、naubooさんのMC/CM経由で法月綸太郎「小川勝己は転向したか」を読んで、興味をもったので手にとってみました。うわあ、またこのネタかよ! と正直なところ思ったし、自分がどの程度読みとれているのかわからないんですけど、これはおもしろかったです。感想は週末に書きます。

 ところで、こういう「〜を見よ」という文語体のタイトルを見るたびに、佐野洋だったか土屋隆夫だったかちょっと忘れたんですが、小説の本文は普通の文体なのにタイトルだけ格好つけて文語体にするのはいかがなものか、みたいな文句を書いていたのを思い出します。細かいこという人だなぁと思いました。私個人としてはまったく気になりません(もっとも、『眩暈を愛して夢を見よ』というタイトルについては元ネタがあるようですが)。

 以下は書こうか書くまいか迷ったんですけど、書くことにします。
 まず前置き。
 私はいつも小説の感想を書く時に書名と作者名で検索して、ざっとネット上の書評や感想をチェックしています。これは、感想を書く前にやっています。すでに書かれていることを改めて書いても仕方がないし、もしどうしても論旨が同じになりそうだとしても、少しでも違った視点を提示したいと思っているからです。もちろん、これは願望で、すべてのネット上の書評や感想をチェックできるわけではない以上、限界はあります。そもそも独自な視点などというものに対する懐疑的な立場もあるだろうし、それ以前に、自分にそんな独特なことが書ける才能があるのかどうかという問題があります。とりあえず、現実と理想の乖離については目をつむってください。
 ただ、当初の目的とは逆に、自分が考えてもいなかったことを、発見した書評なり感想なりに影響を受けて、さも自分が考えたことのように錯覚してしまうことがないとはいえません。というか、たぶん、無自覚に影響を受けているでしょう。間違いなく。
 本題です。
 こちらこちらを読み比べてください。
 前者はスズキトモユさん@見下げ果てた日々の企て(当時は「メビウスひみつきち」)が2000年4月14日に、後者は私(そらけい)が2000年4月16日に書いた文章です。
 たまたま過去の書評を漁っていて気づきました。
 言い訳めいたことを書きます。
 今では毎日のようにチェックしていますが、当時は巡回はしていませんでした(ちなみに、私の日記中で初めて「メビウスひみつきち」の名前が出てくるのは2000年10月14日です)。検索エンジンからこちらに行き着いたかどうかは覚えていません(時間的に微妙ですが、フレッシュアイ経由なら可能性はあります)。意識的に模倣はしていません。
 しかし、これはどう見ても私が真似したとしか思えない類似だと思います。
 こういう場合、私はどうしたらいいんでしょうか?(と問いかけられても困ると思いますが)
 単純に謝れば済むという問題でもない気がするので……。

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