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■2002年8月16日〜8月31日


8月31日(土)



 眼鏡が壊れた(同居人に踏まれた)。
 これの前に使っていた眼鏡は、自分で踏みつけて壊してしまった(蔓が折れた)ので、予備として使えるものもなく、眼鏡をかけないとまったく見えず普通に生活するにも支障があるので、とりあえず自宅の近くにある眼鏡屋に買いに行った。
 幸い、レンズの在庫があったので、30分くらいで作ってもらえた。最近は眼鏡も安いし、予備にもう1つ作っておくべきかな……。

8月30日(金)
 田島昭宇×大塚英志多重人格探偵サイコ』8巻購入。半ば惰性と化している。「新章突入」なので、まだまだ続くみたい……。


 文藝春秋の「本格ミステリ・マスターズ」第一回配本のなかから島田荘司魔神の遊戯』を購入。『涙流れるままに』『ハリウッド・サーティフィケイト』『ロシア軍艦事件』は未読なので、島田荘司の長編を読むのは『竜臥亭事件』以来。読むのが楽しみでもあり、恐ろしくもある。

「本格ミステリ・マスターズ」の執筆予定作家はこちらにあるとおり。個人的に気になるのは、法月綸太郎は本当に書けるのか、奥泉光は本当に「本格ミステリ」を書くのか、山口雅也は長編なのか連作短編なのか、といったあたり。


 友哉タンが「
文学的守護神の一人」だというサリンジャーの作品を1冊も読んだことがなかったので、とりあえず『ナイン・ストーリーズ』を買ってきて読みはじめた。というわけで、サリンジャーは、この先ずっと私のなかで「友哉タンの影響で読みはじめた作家」というレッテルを貼られることになる。なんだか非常に申しわけない気がするな……。

8月29日(木)
 藤本和子リチャード・ブローティガン』読了。評伝、というよりは、ブローティガンにまつわる諸々を記したエッセイ集といった印象。当然のことながら、ブローティガンの作品について、かなり内容にふみこんだ記述があるので、可能であれば作品のほうを先に読んでおくべき。私も途中でちょっと失敗したかも、と思った。
 未読の作品については、追って可能な限り読むつもり。
 生前は未発表だった『不運な女 ある旅』の出版も楽しみ。


8月27日(火)
 そういえば、日曜日の日経新聞の文化欄に蓮實重彦が「不条理にあらがって」という文章を書いていた。内容はといえば、ワールドカップの直前にある地方都市でタクシーに乗ったら、外国人サポーターが外貨で走行賃を支払う場合、いかに日本円でおつりを出すかを説明した換算表を運転手に見せられ、そんなサーヴィスを「国際交流」だと思い込んでいることにあきれたという話と、海外の出版社から送られてきた小切手を銀行に持っていくと、手続きがスムーズにいかず、必ず不快な思いをするという話を例として示し、2つの正反対ともいえる「不条理」が、実は「いささかも矛盾することのない同じ一つの姿勢から導き出される現象である」と結論づけ、そんな社会における政府の「変革」が成果をもたらさないのも、真の「変化」を誘発する知性の有効な組織化をいささかも想定していないからだと思えてならない」としめくくる。

 ……え〜と、ここ、笑うところだよね?
 もはや蓮實重彦の文体はパロディとしてしか存在しえないのではないだろうか? などといってみるテスト。

8月26日(月)
『アメリカの鱒釣り』『西瓜糖の日々』などの翻訳者である藤本和子によるリチャード・ブローティガンの評伝『リチャード・ブローティガン』を読みはじめる。

 
リチャード・ブローティガンはカリフォルニアの暗い林のなかにあった家で、たったひとりで死んでしまった。一九八四年十月。発見されたときはすでに死後何日もたっていて、それがたしかに彼の遺骸であることを確認するには、歯型を調べるしかなかった。ウィスキーの瓶とピストルがそばにあって、新聞の報道や、友人や知人の多くは、自殺だ、といった。(P.9)

 ひどく鬱になりそうな気もするんだけど。

8月25日(日)
『愛のゆくえ』の感想を追加しました。


 iMacのデータ救出に成功。しかし、作業中に256MBのメモリを1つ壊してしまったようだ……。

 PMUリセットをかけ(今までも何度もやってみたんだけど)、天地を引っくり返して底面のカバーをはずしたまま電源を入れたら、なぜか起動した。しかし、起動時のメモリチェックでメモリが壊れているとの表示が。とりあえず、2本ささっているメモリのうち片方をはずして再起動すると、なんとか立ち上がったので、そのままの状態であわてて外付けのHDDにバックアップをとった。これでひと安心。

 バックアップ終了後、電源を落として底面のカバーをつけ、再度電源を入れてみたら、また起動しなくなってしまった。……さようなら、iMac。


リチャード・ブローティガン藤本和子・訳)『西瓜糖の日々』★★★
 詩のような断章で構成された、不思議な味わいの小説。

 わたしたちは松と西瓜糖と石でできた小屋で生活し、夜は西瓜鱒油のランタンに火を灯す。西瓜畑と松林には川が流れ、石でつくられた橋や、西瓜糖でつくられた橋がかかっている。仲間たちは西瓜工場で働き、女たちは西瓜糖でできたドレスを身にまとい、わたしは、西瓜種子インクで、西瓜糖の言葉を用いて、西瓜糖の世界について綴る。

 西瓜糖の世界の中心となるのはアイデス(iDEATH)と呼ばれる場所で、人々はそこに集い、言葉をかわし、交代で料理をして、ともに食事をとる。アイデスという名前が明示しているように、そこは、それぞれが自我を放棄するかわりに、世界の調和と平安を得た、うす甘く心地のよい世界だ。

 訳者の解説によると、ブローティガンの著作は「
六〇年代と七〇年代のヒッピー文化を代弁していて、その当時の若者たちの賞賛と同意を得た」と評されることが多いようだが、この小説もまた、「ユートピア的な共同体の幻想」を描いた作品として読むことができる。

 しかし、もちろん、西瓜糖の世界は完全無欠のユートピアではない。そのことは、後半のショッキングな展開からも明らかだ。視界の外に葬り去られた過去である〈忘れられた世界〉の住人のインボイルが「これがアイデスだ」と口にして西瓜糖の世界の住人たちに示した行為は、西瓜糖の世界の住人たちの精神的な状態を、そのまま肉体に置き換えた過激で批判的なパフォーマンスだと見ることもできるだろう。つまり、アイデスに集うものたちは、何ものもつかもうとせず、何も聞こうとせず、何も嗅ごうとせず、何も見ようとはしていないのだ、と。

 そして、それは恐らく正しい。西瓜糖の住人たちは、インボイルとその仲間たちの行為を目の前にしてもなお、まったく動じることがない。世界の表面に一瞬生じた波紋は、すぐに消え、西瓜糖に満ちた甘い世界は調和と平安をとりもどす。

 しかし、まあ、これはそういう読み方をするべき小説ではないのだろうな、という気がする。「アイデス」とは何か、「忘れられた世界」とは何か、「虎」とは何か、ということは実はどうでもよくて、風変わりな世界や細部、そして、奇妙なユーモアに満ちた言葉を楽しむべきなのだろう。
 最初に通読したときには、正直なところ、それほどおもしろいとは思わなかったのだが、この感想を書くにあたって、断片的に拾い読みすると、思いのほかおもしろかった。

 少なくとも、A5判ハードカバーの2段組で読むべき小説ではないよな、と思う(私が読んだのは、「河出世界文学全集」版)。四六判のソフトカバー、あるいは文庫版などで、気が向いた時にページをめくって気の向くままに拾い読みする、そんな読み方が似合う小説だと思う。

 ちなみに、復刊ドットコムの投票ページはこちら


リチャード・ブローティガン青木日出夫・訳)『愛のゆくえ』★★★
 そこは、世界に1冊しか存在しない本だけを保管する珍しい図書館だ。1冊しか存在しない本、といっても、いわゆる稀覯本や歴史的に価値のある本ではない。ごく普通の人々が、自分だけのたいせつな思いを綴った、ただ1冊の本。自費出版にも満たない、著者以外の読者を決して持つことのない孤独なつぶやきとしての書物。
「わたし」は、その図書館で住み込みで働いている。本の著者は自分の本を図書館まで直接届けなくてはならない。郵便では受け取らないことになっているのだ。そのかわり、図書館では、24時間、いつでも本を受け取り、保管の手続きをする。だから、「わたし」は3年間、図書館から外に出ていない。
 ある夜、1人のヴァイダという名の女性が図書館を訪れる。「
今世紀の西洋の男が女性はこうあってほしいと願う極限の状態にまで発達し」た容姿を持った彼女は、自分の肉体に対する憎しみを綴った本を手にしていた。
「わたし」とヴァイダは恋に落ち、図書館でともに暮らしはじめる。まもなく、ヴァイダは妊娠するが、2人は中絶することを決める。友人のフォスターに図書館を任せ、2人はフォスターから紹介された医師のもとで手術を受けるためにメキシコに向かって旅立つ。

『西瓜糖の日々』もそうだったけど、何とも感想の書きづらい小説だ……。

 個人的には、図書館の棚に並ぶ「二十三の作品」について記された章だけでも、この作品を全面的に肯定したい気分だ。性別も年齢も生い立ちも職業も異なる人々が、それぞれ心のおもむくままに綴ったそれぞれの「作品」。それらについて語る文章はきわめて簡潔だが、そのたたずまいは、奇妙で、ユーモラスで、どこか哀愁をおびている。

 つまり、これは、孤独のなかで多くの人々の孤独なつぶやきに耳をかたむけるか、それとも、孤独から抜け出すかわりに多くの人々の孤独なつぶやきを捨て去るかという選択の物語なのだろう。図書館に本を携えて訪れる人々に対し、主人公は「
たとえ……金持ちであろうと貧乏人であろうと……来訪者は同じ奉仕を受け、差別をつけられるということはまったくあり得ない」(P.14)と語る。しかし、実際には主人公は多くの来訪者のなかからヴァイダの孤独なつぶやきにのみ耳をかたむけ、恋に落ち、そして、これから図書館を訪れる人々に背を向け、図書館から外に出る。

 ブローティガンの小説には、明確な結論と主張は存在しない。かわりに、諦観した状況認識によって作品が構成されている。『西瓜糖の日々』では、理想的なユートピアを描きつつ、そこで暮らすことは、「自我」を捨てることにほかならないという認識が示される。しかし、どちらが正しい、とか、こうあるべきだ、という主張はいっさいない。同様に、『愛のゆくえ』では、孤独な人々の言葉に耳をかたむけるためには孤独でなくてはならず、孤独から抜け出そうとすれば、おのずと孤独な人々を切り捨てなくてはならないという認識が示される。主人公は結局、後者を選択するわけだが、そこにあるのは、「そういうものなんだ」という諦めまじりのつぶやきでしかない。

 小説はまだ2作しか読んでいないので、断言するのも早計だとは思うけど、その煮え切らなさこそが、ブローティガンの作品の魅力でもあり、読んでいて感じる歯痒さでもあるのかな、と思う。

8月22日(木)
 リチャード・ブローティガン愛のゆくえ』読了。原題は『THE ABORTION : An Historical Romance 1966』。つまり、『妊娠中絶 歴史的ロマンス1966年』というのが直訳(解説の高橋源一郎による)。実際のところ、原題そのままの物語。
 主人公が働く図書館を舞台にした前半部分(特に第一部)は、高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』や『一億三千万人のための小説教室』が好きな人なら、きっと気に入ると思う。
 次は『アメリカの鱒釣り』を図書館で借りてこようかな。


 昨日、アップした画像は違う環境で見るとあまりに暗いので、ちょっと明るくしてみた。
 この液晶ディスプレイ、色の浅い部分が飛び気味なんだよな……。

8月21日(水)
 恐らくほとんどの方が興味ないと思われますが、Power Mac G4(Mirrored Drive Doors)をデジカメで撮影したので、画像をアップしてみます。いちおう、サムネイルをクリックすると大きな画像が見られたりしますが、無視してくださって構いません。今日の日記はMacの話のみなので、ご了承ください。

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 液晶ディスプレイの後ろに置いてあるのは、サブウーハーのiSubです(iMacで使用していたものを流用)。現状では、スピーカーは本体内臓のモノラルスピーカーとこのiSubだけ。今度、Apple Pro Speakersを買うつもりです。本体は、奥行きがたりないので仕方なく横置き。もっとも、このままの状態で側面のドアを開けて内部にアクセスできるので、まあ、メモリの増設くらいは動かさずにできるかもしれません。

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 本体のアップ。光学ドライブの蓋が鏡面仕上げになっているのが、「Mirrored Drive Doors」という名前の由来です。デザインとしては、Quick Silverのほうが洗練されていたと思いますが、これも悪くないと思います(所有者のひいき目かもしれませんけど)。前面最上部にある円形の部分がモノラルスピーカー。下部にある4つの穴は、吸気口です。
 ちなみに、この機種は新Mac板では、「鉄仮面」などと呼ばれています。

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 Apple Studio Display 17インチモデルです。解像度は1,280×1,024。
 起動OSはMac OS X 10.2で、結構、快適に動きます(メモリは初期状態の256MBのみ)。
 ディスプレイの下にいるのは、パソコンショップで売っている画面を拭ける犬のぬいぐるみ。たぶん、液晶はこれで拭かないほうがいいとは思うんですが(iMacで使用していたのです)。買ってから一度も洗っていないので、腹は真っ黒になっています。

 これを機会に、ようやくAdobe GoLiveのバージョンを4から6に変更しました。テキストをレイアウト上で直打ちしても重くならず。非常に快適です(IMはことえりを使用)。とりあえず、10.2上でもこれといった問題もなく動いています。

8月20日(火)
 リチャード・ブローティガン青木日出夫・訳)『愛のゆくえ』を購入。解説はなんと高橋源一郎! 『さようならギャングたち』の「詩の学校」は、この作品の図書館がモデルだと書いている。なるほど。

 先日、読了した『西瓜糖の世界』は、正直なところあまりぴんとこなくて、感想を書きあぐねているんだけど(ただ、感想を書くために改めて拾い読みしてみると、はじめに通読したときよりもおもしろく感じる。もしかしたら、読み方を間違ったのかもしれない)、この『愛のゆくえ』は、ひかえめにいっても、すごくおもしろいと思う(まだ、第二部までしか読んでいないんだけど)。

 ところで、何の脈絡もなく、私の好きなブローティガンの詩を1篇引用してみる。詩集『突然訪れた天使の日』に収録されている「だんだんときみをその気にさせよう」(中上哲夫・訳)。

 だんだんときみをその気にさせよう、
 夢のなかでピクニックを
 しているような気持ちに、ね。
 蟻なんていないよ。
    雨なんて降らないよ。


8月19日(月)
 日記の過去ログへのリンク修正のみの更新です。

8月17日(土)
 新しいスタンドPower Mac G4「Mirrored Drive Doors」の867MHzデュアルCPUモデルをゲット。
 ついでにApple純正の液晶ディスプレイも購入して、自分の信者っぷりを再確認。
 20キロを超える本体の箱を抱えて帰宅し、疲れた身体に鞭打って、Jaguarタンに (;´Д`)ハアハアしつつ、セットアップにとりかかる。

 で、データを引き上げようと思ってiMacから取り外したハードディスクを増設ベイに入れてみたんだけど、最初のうちこそごくあっさり認識したものの、何度か再起動を繰り返すうちに認識しなくなってしまった。はじめに認識した時点でバックアップをとれば良かったのだが、ハードディスクではなくiMacのマザーボード側の問題だと勝手に思い込んでいたため、増設ハードディスクとしてそのまま使えると判断してしまったのが敗因。MP3におとした音楽データとかデジカメの画像とか、OS Xのユーザー・ディレクトリは外付けハードディスクに保存していたので助かったんだけど、メールのデータとかアプリケーションとか細々した作業のデータは恐らく全滅。どうも改めて注意して音を聞いているとハードディスクがまったく回転していない様子。
 とりあえずハードディスクをiMacに戻し、何かの拍子に起動したりしないだろうかと願いつつ、何度も電源を入れ直してみるが、当然、起動したりはしないのだった。(´・ω・`)ショボーン。

8月16日(金)
 リチャード・ブローティガン藤本和子・訳)『西瓜糖の日々』読了。初期の高橋源一郎に絶大な影響を与えたといわれる小説家/詩人による3作目の小説作品。現在は絶版で、私は図書館で借りてきた『河出世界文学全集25巻〈現代の文学〉』に収録されているものを読んだ。
「高橋源一郎が影響を受けた」といわれて読んでみれば、なるほど、確かに「あそこの元ネタはここだったのかな?」と思える部分がちらほら見える。そういう意味では、なかなかおもしろかった。
 作品内容にかんする感想は、また後ほど。

 ところで、こちらによると、「
春樹の『ノルウェイの森』って絶対ブローティガン『愛のゆくえ』だよね」ということらしい。『愛のゆくえ』は新潮文庫版が長らく絶版だったが、今月21日、早川epi文庫から復刊される。他の小説作品も読んでみたいと思っていたところなので、ちょうど良いタイミング。


 田口雅之・画/高見広春・作『バトル・ロワイアル』7巻。アクシデントに見舞われ、次第にほころびはじめる三村信史の計画。そして、桐山和雄の襲撃。原作にしてわずか20ページたらずの展開を、単行本1冊の分量を使って濃厚に描く。独自にくわえられた回想で語られる学校生活のエピソードは、的確に登場人物たちの心理を視覚化して読者に伝える。そして、肉を裂く銃弾、飛び散る脳漿、腹からあふれだす血と内臓……といった過剰な肉体破壊描写。なまなましく視覚化された「死」のかたちには、ひたすら圧倒される。ある意味、原作以上に『バトル・ロワイアル』らしい作品だといえるかもしれない。次巻より、いよいよ終盤戦に突入

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