火の気
私の名前を教えようか? 昔いつも見ていた夢はそう始まったような
気がする。忘れたことは、惜しくない。惜しむものは、もうない。ほん
の少し(五年か十年か)前には、あんなにも消えた記憶が辛かったのに。
筈なのに。やっと痛みのない靴をはいている体には、不快なことだけが
すらりとめぐる。乾いた肌の上に流れていく枯れた木の押し出す匂い。
引き千切った爪の形の月に、似合う色はなんだろうと耳鳴りが急かす。
草の匂い  
軽くなった体を、のぞきこむ。なぜ、苦しそうな顔をしないのだろう。
濃い色の雲にレインコートを抱えて苔の生え出した非常階段を下る。す
えた臭い。でもこれは、死んでしまったものが出す臭いじゃない。新顔
の皮膚病もちの猫の首輪とおそろいの色の靴を買う。朝に道を掃く人の
住む通り。あの壁は昨日、人が出せない音で、私を脅かしたのに。よく
みる、人の皮の色をして熱さに耐えている。走るのは逃げてるわけじゃ
ない。時間がないの。これだけが、日々の習慣。ここを、走ることが
寒さ
新しい獣はすぐに手に入る。こういうふうに消える。においをとる器具
の値段を今日も思う。新しい靴より安いのに。雨のたどる長い距離をずっ
とずっと考えていたころのあの長い夜。空をこすって落とした垢について
いた色。空が薄くなって怖くなって手を止めて月が動くのを見た。雲の流
れを見ていただけだといつ気づいたのか。明日着る服の心配をたまにはし
よう。洗濯機の音に聞きほれている、夜。

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