<Camino de Santiago 第17日目> 

Cacabelosから、Samosまで.。


 <第17日目>6月19日(火曜日) 730km

8:05 出発@730km @Cacabelos アルベルゲ  出発と同時にトラブル発生。ちょっと調子に乗りすぎて、自転車のチューン・アップをやりすぎてしまった。冷蔵庫に飽きたらず、次なる快適走行の為に昨日一日中考えていたのは、空気枕をサドルに縛り付けてクッションに出来ないかと言う挑戦であった。空気の膨らみを押さえたつもりでは合ったが、甘かった。腰が落ち着かず、あっさりと諦めた。但し、この時の後始末が悪かった。枕の固定用に使用した、プラスチック・ロープは道路で拾った者であったので、どうせまた元の道路ゴミに返るだけ、と思っていた気持ちが仇に出たのであろう。ロープが後輪にからみつき、そのままギヤーの一部のようになってしまい、駆動輪は空回りをした。からみついたロープは簡単には外れない。レオンで買ったラジオペンチとカッターを取り出し、車輪をゆっくりと逆回転させながらロープを取り除いた。(横着に焼き切っていたらとんでもないことになっていたであろう。)

9:05 Cafe@739km@ Villafrancaアルベルゲ

 確か、「Villafranca迄来れば神の許しが得られる。」と何かの本に書いてあったような気がする。しかし、いったい何の許しが得られるのであろうか。難しく考えるならば、性善説・性悪説の話を、「何を基準に語るか」の論調で来る弁証法の話法のトリックを駆使しながら、多くの雄弁家達が何百年と繰り広げてきた史実を辿れば、良い説明は見つかるかも知れない。しかし、この先2kmの休憩所で、一杯の冷たいビールを飲む自分の姿を想像する事だけが現在の生き甲斐、と真面目に答えたくなるこの道中において、そんな遠回しな、靴の上から水虫を掻くような、昔の物語はたくさんである。「やるか、やられるか。俺か、俺じゃねえか。」、何となく関西の浪花節に出てくるような直接的な回答のみ受け付ける精神状態になりつつあった。多分、千年ほど前の宗教裁判とかだって、最後はこれだったのでは?

 我なりに考えるに、「神の許し」とは、次のように解釈した。

@:歩きの巡礼者よ、この先セブレイロまでの登りはタクシーを使っても良い。 A:自転車の巡礼者よ、アスファルトの国道を走っても良い。

 ガリシアに入ってから、大きな店はそれほどないが、小さなBARが巡礼路のすぐそばに頻繁に見つけられるようになる。確かにこれだけ店が有れば水筒無しで歩くのも無謀とは言えないかも知れない。また、BARで食事するのが当たり前、の感覚も頷ける。日本に見られる供給過多の市場経済に近づこうとするかのようにも感じられる。何か、これまでの巡礼路(特にナバラと比べて)とは異なる雰囲気を感じ始めた。

 また、Villafrancaと言う名前の村は巡礼路近辺のあちこちにあるように思うが、いわゆるかつてのフランス南部のフランク人の開拓した村なのであろう。ちょっと気取った(力強くはない)、スペインらしくない風景も見られる。もっとも、ビアフランカのアルベルゲといっても数カ所あるらしい。私が休憩したのは巡礼路から数mだけ入ったところの寂れた宿であった。場違いな旧式のデスクトップパソコンが入口にあった。セルフサービスの”Cafeまがい”で100Ptsは高いと思った。

 更に、「自転車用の標識」なるものが、Villafrancaに入ってから見えるようになった。XACOBEOのことである。ネズミが自転車を運転するポスターである。階段の多い巡礼路は歩行者用で、国道ではないが踏み固められた上り坂は自転車用と新設に標識が別れて表示されるようになってきていた。これによって、LEON等のカテドラル付近では必ず経験してきた、石段の自転車下りは少なくなり、快適になってきた。但し、完璧とは言えない。この先、いろいろ有り。

10:30 Rest@753km@ 峠のドライブイン(大)  サクランボを売る風景が道ばたに頻繁に現れる。北海道の国道沿いの果物や毛蟹売りにも似た風景である。ガリシアに入ってから巡礼路の雰囲気が違うと思い出したのは、村や人々の雰囲気だけではなく、まずは植生(Vegetation)が初めであった。これまでと同じように、道路脇にブドウ畑と麦畑はあるものの、あまり肥沃ではない土地(育ち)が感じられる。また、トウモロコシやジャガイモ等の穀物類が畑の中に目立ちだしていた。Vodegas(ワイン工場)の看板の数は多いが、ブドウ畑は狭いように思える。

 国道を進もうと決心したはずであったが、路があちこちで工事中のため迂回路が続く。結果として、国道→ホタテ路→国道を交互に登ることになる。カーブの連続を描きながら山を登って行き、ちょうど平地にさしかかったと思ったら、長距離トラックがたむろする大きなドライブインがあった。

12:00 昼食@763km @ 峠手前の道ばたの、冷たい水場  国道から山道へ入り、人気のない路になる。急な坂になり最低ギアに落とすとチェーンが外れる。長い走行距離のあとでは必ず起こる、金属の伸びに起因するチェーントラブル発生。解決策は、無理せず押すことである。昼時であるが、まわりは山ばかり。お店はない。せめて水場さえあれば完璧な昼食になるのだが、、。

 道路が曲がり、ちょうど日陰になる部分、fuenteを発見。しかも冷たいわき水である。すぐさま、ワインを冷やす。(ジュースは解けてきている)数百メートル手前には、自転車の二人組が同じように休んでいる。彼女達からは、私が水場で休んでいるのではなく、疲れ切って休んでいるように見えるであろう。それほどにこの水場は目立たない。また標識も全くない。  残っていたレタスの最後の玉に、ポテトサラダの缶詰、チーズにワイン、ニグロ、完璧な昼食である。デザートにオレンジ。一息ついて、さあ出発しようというところで、下から先程休んでいた彼女たちがやってきた。「こんなところに水場!」、砂漠の中のオアシスを見つけたように喜んでいた。さて、もっと早く大声で教えてあげるべきであったか? 続いて、またあいつがやってきた。Mr.Animalである。昨日はいったいどこへ泊まったのやら? しかし、こいつに出会うと必ずと言って良いほどに、自転車のチェーンが外れる。しまいには、自転車のチェーンが外れるたびに、「また、あいつがやってくる。」と思うようになってしまった。

14:00 Rest@767km@ Cla Laguna  人気のない山道を登りきると、見通しの良い頂上に出た。レーダー基地のような建物がある。まっすぐゆくと、すぐ峠を越えるアスファルトの路であるが、左に入る路に黄色の矢印を発見。入ってみる。  強烈な砂利道である。そして目下の砂利道から左右の民家に目を上げると、完璧なあばら屋・廃屋が写った。「最果ての地・ガリシア」、とでも題すれば雑誌に載っけてもらえるかも知れない。しかし、家畜が数頭いるところから推定するに、人の姿は見えないが廃屋ではないのであろう。多分、夏だけでも住んでいるのではないだろうか? では、何故住むか? この問いは、「何故、日本人は巡礼路までやってくるか?」の問いにも近いと思われるので、後にします。いずれにせよ、

ここで今回の旅の第2部:「ガリシア編」に入る。

 坂が急になり、チェーンが外れる。やっぱり、あいつがまたやってきた。相変わらず回転数が多い。彼が休んでいる(あるいは食事)間にこちらが追い越してしまったのであろう。

14:40 Rest@769km@ O Cebreiro

 相変わらずの炎天下。O・Cebreiroまでの間にレオン地方からルゴ地方に入る。「標高1300mにあるセブレイロは1年のほとんど風雨と吹雪にみまわれ、巡礼者を苦しめた」という印象は全く無かった。1995年発行の芸術新潮に載っていた写真のような曇り空の風景、あるいは2週間前にピレネー越えの時に体験した局地的な雨は想像すら出来なかった。今日一日、長い上り坂ではあったものの、あっさりと最後の難所に到着してしまった。まずは、BARで安着祝い。聞いていたイメージとは裏腹に、リゾートのような雰囲気の良いBARやレストランが多い。

 紀元前から住んでいたゲーリック(ケルト人)住居(丸く積み上げた石壁の茅葺き屋根)の名残りがある。また、Villafrancaからのランクル・タクシーの終点ともなっているカテドラルはきれいな建物である。サンチャゴでもそうであるが、ガリシアの歴史を語るに置いてゲーリックの事は忘れてはならない。「バグ・パイプの鼻にかかった音がどうにも我慢ならない!」と、彼らを虐げ続けてきた異国民の作り上げた音楽、それがEurocentrismに名を借りたクラッシック音楽であると思った事もあった。スペインを追われ、北へ北へ。そして最後に辿り着いたのが、離れ小島、スケリグ・マイケル。また一部は東欧へ。縦笛やパンフルートの歴史を語るときにも、ゲーリックの事は忘れてはならない。

 尚、 O Cebreiroのアルベルゲに立ち寄る。辺境の割に、立派な設備である。コンロ有り。洗濯機(アメリカ風コイン式)あり。ホステラーも新設。何の文句もない。出来れば泊まりたい衝動に駆られた。しかし、明日の朝早くの下り坂は寒そうである。やはりこの炎天下の中でこそ、下りの路をとるべきである。あと20km、 Triacastillaまで行こう。

16:10 Rest@778km@ Porto? de Pois 1335

16:45 Cafe@793km@ Triacastillaアルベルゲ 

  セブレイロからの下り、国道はジェットコースターと化した。体重と荷物と自転車本体を合計して100kg近くに達する物体は、時速60kmを何度も囲えた。途中、歩きの巡礼者もたくさん国道にいたが、声援に応える余裕はなかった。

 国道を終えて、黄色い矢印に従い、再び山道へ。下り坂続きのせいもあるが、以外に早くアルベルゲを発見。広い芝生の公園の中にある馬鹿でかい公営の宿である。受付は高校生らしき女の子であった。一生懸命英語で話そうと努力はしているが、肝心な説明になると、ほっぺたを膨らまし、「プー、なんて言ったっけ?」となってしまう。Wall Street Institute(英会話学校)にちゃんと通えよー!。これまでに何度か経験はしているがスペイン人の英語は、人にもよるが、通じない部分が多い。旅行者として挨拶程度の会話に置いては何の問題もないが、立ち入った表現になると意志疎通が難しい。そのためか、特に接客のプロ(鉄道員や郵便局などの公務員)においては、英語を解っていてもあえて英語を話さない人が多いと感じる。自分の説明責任を逃れるためには、中途半端な英語は話すべきではないとの判断なのであろうか? 但し、今回のような高校生ぐらいで有れば、親切心と学習意欲の混ざり合いから、積極的に英語で説明しようと思ったのであろう。彼女の言葉をつなぐと次の通りである。

 公営のアルベルゲに於いては、自転車の巡礼者は、部屋が空いていても夜8時までは宿泊を許可できない。この後歩きの巡礼者が来たときに満室で有れば、歩きの人が泊まれなくなる。自転車の走行速度と歩く速度の違いが宿泊許可時間の違いによる、との理論である。納得がゆかないが規則であればやむを得まい。では、歩く人の3倍の走行距離をノルマとしている自転車の人は同じではないのか?彼女も親切に、SAMOSまでの道のりを教えてくれた。しかし、このSAMOS 、後にガイドブックで見ると有名なようであるが、インターネット出力のBICI地図(XACOBEO)には載っていない。国道から黄色い矢印に従って、薄暗い(草の影で日が射さない)全く人の通らない、牛の糞だらけの石畳の巡礼路を心細く進む。地図(ガリシアの道路地図は買わなかった)があれば、国道を進むべきであった。

 18:10 到着@804km @ SAMOS カテドラル&アルベルゲ

 第一印象は、古くさい体育館のような宿と思った。ベッドに枕は無い。カテドラル自身がアルベルゲになっている。国道のすぐそばに入口がある。ガソリンスタンドは入口から1m、ほぼ直結である。カテドラルはすぐその裏、というか、カテドラルの裏口がアルベルゲなのであろう。しかし、西日のあたる大きな石段の入口は日本人の方位学からすれば、”立派な裏口”に見える。

 8時からのカテドラルでのミサに出る。ロンセスバイエス以来、フルコースでちゃんと出席したのは2度目である。正面の飾りは、数少なく小さなおとなしい感じであるが、きれいにまとまっていて気に入った。けばけばしいとも感じられたキリストの十字架像とは異なり、純粋芸術の域にも近いと思った。このような感じのカテドラルは、この後、Pontevedra(サンティアゴの次), Albergaria de Valja (ポルトガル)で見ることになる。スペインとポルトガルの宗教芸術の違いのようにも思われた。また、ミサの中では巡礼者についての言葉が度々出てきた。ここは、スペインの文化を保っているのであろう、ポルトガルでは巡礼者は嫌われ者のようであったから。

 ミサの後で街に繰り出す。といっても、街の半分はカテドラルで占められていてすぐに歩き尽くしてしまう。小さなBARが何件かあるので、勤め帰りの労働者たちのたむろするカウンターで、タダのサンドイッチを食べながらグラスワインを何杯も一気のみする。メニューは無いが、頼めば奥の厨房(自分の家)で何でも料理を作ってくれる。ちなみに、アルベルゲの目の前にもきれいな、大きな、朝早くからやっている、レストランがあるので、「外国人専用」の接客を好む方で有ればこちらのほうがお勧めである。さんざん飲んだ後、明日の朝食用のワインを買うために、村はずれの小さな雑貨やで買い物してから宿へ帰る。

 宿では、オランダからの女性単独自転車のマリーンに出会う。背がデカイ、オランダ人である。セブレイロあたりから私を見ていたそうである。覚えがない。オランダ語のBICI地図を見せてもらうが、非常に詳しく使いやすいと思った。さすが、と思って見ていると、何処かで聞いた声がドアから入ってきた。また、あいつである、Mr.Animalである。彼は今回は数人のスペイン人仲間を連れていた、というか連れられていた。宿で彼に会うのは初めてである。


 【Schedule】 <第17日目> <Special Thanks> <Arriba BICI> <Reference>【Packing List】