<Camino de Santiago 第3日目> 

IRUN(バスク)から,S.J.P.P.(Saint Jean Pier de Port)まで. 電車


 <第3日目> 6月5日(火曜日)

8:20 IRUNよりのHOSTALを出発  

朝早くに小雨が降ったようである。昨日の天気予報でフランス側にあった雲が南へ下りてきたのかも知れない。泊まったHOSTAL(中華料理屋の隣り)は清潔で居心地の良い物であった。また、BARのおじさんも気持ちの良い人であった。昨日降りたRenfeへ向かう途中で、IRUNからSantiagoへ行く大型バスが止まっていた。ここからも長距離バスは出ているようである。  駅窓口で、サン・ジーン(Saint Michelle in Espanol)へ行く切符を買おうとするが、駅はここではないらしい。少し歩いたところに、Renfeではなく、Eusko Tren のTopo駅がある。130Ptsを買ってHendayaで降りる。もうフランスである。バスクとは違っていた。Bayone経由でのS.J.P.P.行きの切符はペセタで買えた。お釣りで出てくるフランが多い気もした。Hendaya駅の真ん前に銀行があり両替。看板には千円で565Fと書いてあるが、609F出てきた。円が上がっているのだろうか?  

9:34 BayoneまではTGVに乗るはずだった  

出発プラットフォームを確認しに行ったところで、「TGVは自転車ダメ」との事である。切符を発見したやつが悪いらしかった。ここまで階段を登らせておいて、今更何だこのやろう!とも思ったが、これも巡礼の路。17kgの荷物と20kgの自転車を持って、地下道を潜って1番線から6番線まで階段を登り下りするのも神の思し召し、我に架せられた苦行と受け止めた。しかしながら、とりあえずの緊急事態に、これまでのようなフランス語の勉強を兼ねた自己表現の練習は辞め、奥の事務室へ入り、英語の話せそうな若者をひっつかまえては、ビジネスライクにこれまでの経緯を説明し、チケット発券口までつきあってもらった。ポイントを”発券されたチケット”に絞り、話題が紙のチケットに集中するように会話を運んだ。このような事態においては決して自分が悪いとは言わない。これも長いサラリーマン生活で身につけ(させられ)た、さもしい手管である。結論としては、3時間後の、13:14発のローカル線であれば自転車も乗れると言うことで、80Fで買ったTGVチケットを返金してもらい、ローカル線切符を買った。差額はほとんど無かった。どのみち、S.J.P.P.への到着時刻は変わらない。

 こんなことならもっと遅く出れば良かった。IRUNの宿の隣には、15分で175Ptsのインターネットカフェもあったし、、、。ひょっとすると今日中にロンセスバイエスまで行けるかも知れない(無理に決まっていると今は分かるが)と思う淡い期待は一気に消え去った。また、これも経験であろう。少しだけ落胆して駅の中の掲示板を読んでみる。フレンチ、カスティージャ、バスク、ドイツ語に加えて英語もあった。掲示板によると、TGVに自転車を乗せるためには、120cm*90cm以下のバッグに詰めなければならない。日本のJRと同じである。時刻表に自転車マークのある電車だけがそのまま乗れるのである。一方、隣の掲示物には、「TGVにもそのまま自転車を、、。」とする運動ポスターや、自転車輸送の広告もあった。サンチャゴでも見たが同じ料金である。イベリア半島内であれば、ドア・トゥ・ドアで4800Ptsである。

15:00 Bayonneの駅よりS.J.P.P.行きの電車に乗り込む  

2両編成の小さな列車である。大きなザックと一緒に、フランス語以外の言葉を話す若者達が乗り込んでくる。共鳴ドラム付のマリンバ(後にポルトガルの楽器と判る)を担いでいる物もいた。YONEXのバトミントンラケットをピッケルのようにザックにくくりつけている者もいた。自転車を担いでいるのは、Orientalの私だけであった。全部で20人ぐらいであろうか?おそらく全員今日はサン・ジーンに泊まるのであろう。日本で言えば、宇奈月温泉のトロッコ電車のようなものであろうか?

 駅到着。繁華街まではチョット距離がありそうである。ホテル探しの競争をするとすれば、いくら20kg近い荷物を背負った身でも自転車に部があると思える。とりあえず数件の宿を見たが、満員で泊まれない事はなさそうである。安宿を争って取り合うほどの気力は、この時は未だ生まれていなかった。とりあえず街を散策。街の外れに大きな自転車屋を発見。さすがに中古は売ってないが、日本と変わらぬ品揃えで価格はむしろ安いぐらいであった。サンチャゴ行きの自転車を買うならばここがベストの選択であろう。  ちょっと、街を歩きすぎた。いくらなんでも歩き組にもう先を越されたであろう。しかし、安宿探しもどうでも良くなってきた。本日も列車での移動だけだったので、体力的には差程疲れは無いハズなのだが、眠くなってきた。ビールでも飲もうと自転車を止めて山側へ歩き出した。すると、魔女のような白い顔をしたおばあさんがフランス語で話しかけてきた。「ペリグリーノか?」ぐらいまでは英語らしき言葉であったので聞き取れた。スペイン語を話せるかと聞かれたので、少しだけと答えると、「私もよ!」と返ってきた。宿の客引きのおばあさんであった。まさか、こんなところでボッタクリもないであろうと部屋の値段を聞いてから付いていった。今回の旅行で、このような形で宿を見つけたのは、こことサンチャゴだけであった。

 石畳の坂を登り続けると、「私のメゾンはあれよ!」と高台の塔を指さした。確かにこの村では一番高台にある建物のように見えた。古い木造建物の階段を登って行く。部屋の天井が高いために、階段1段あたりの段数が多い。しかも、4階まで登らされる。だから安いのか、とも一瞬勘ぐったが、部屋を見せてもらい大感激。テラスからは村全体が見下ろせる、最上階の部屋である。おそらくは個人の家を改造して旅行者用にしたのであろう。家具も今は出ていった娘のものそのものなのであろう、少女趣味的なものが多かった。トイレとシャワーは、テラスの横に後から増築したものであった。(問題なし)テラスの椅子に座りこれまでの記録をノートに書きながら、茅ヶ崎の自宅を思い出した。目の前には太平洋の代わりにサン・ジーンの街があった。

19:40 街へ繰り出す  

シャワーを浴び、チョット一眠りしてから食事をしに街へ繰り出す。再びあの自転車屋さんへ行ってみる。なんとかして自転車の後ろに荷台を付けたい。Bayoneの駅での待ち時間の2時間にもトライしたがダメであったのでここが最後のチャンスであった。店は8時までらしく、明日の朝9時に開く、と言われて再び街へ戻る。なんと、すべてのスーパーはもう閉まっている。マダムに推薦された(活字で書いてくれないと読みにくくてしょうが無い。)、レストラン「ITZALPEA」(森田日記にも出ている)は未だ開いていたが、敷居が高かった。スペインのようなBarは見あたらない。レストランは数件くらいは開いているが、フランス語メニューに何が書いてあるか判らない。仕方が無いので、Barらしき(タパス無し)ところでビールとポテトチップ。宿に帰って、なんとなく口元が寂しいので何故か持っていた、「中野の都こんぶ」を2箱食べる。なんと寂しい夕食であろうか?

 大体において、スペインとかフランスっていうのは食べるのにこんなに苦労するところだったのだろうか?米も持っているのがだが未だ燃料を買っていない。今回のストーブは灯油でもガソリンでも燃焼出来るのだが、不純物の入った燃料ではバーナーが詰まってしまってメンテナンスが面倒なので出来れば、ホワイト・ガソリンが売っているまで使うのを待とうと思っていた。


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