<Camino de Santiago 第8日目> 

LOGRONOから、Azofraまで.。料理バトル


  <第8日目> 6月10日(日曜日)  

188 km 7:50 出発 @188 km@ログローニョ  

「日曜日ぐらいゆっくりとさせてくれ!」との思いはあった。長旅では、自分の体力の衰えを早めに感じ取りスケジュールを調整することが一番である。しかし、宿の張り紙を読むと、お祭りの日などの例外を除いては、チェックアウトは8:00までと書いてある。(これは、どこのアルベルゲも同じ)8:00出発のぎりぎりを狙って、遅い朝食を取っていた。朝食を食べている頃、昨日の日本人女性、セイコさんが出発してゆくところであった。ちょうど私がS.J.P.P.をスタートしたのと同じ日に、大聖堂で有名なハカ(フランスを南から来る)からスタートして、7月の中旬までにサンチャゴまで歩くとの事であった。トレドに何年か住んでいたことがあるらしく、巡礼路は2回目らしい。スペイン語も達者なようである。もう会うこともないであろう。まさに、一期一会である。

8:10 国道N-120への入口のモールで雨宿り  

曇り空の元、いや、雨がチョット降り出した。とりあえずは道路標識に従って、ブルゴスを目指す。昨日は何か事件でもあったのであろうか、街の中心が警察のバリケードで封鎖されている。天気もさえないし、ちょっとブルーの気持ちになる。  

9:10 Victoriaと Burgosのへ分岐のガソリンスタンド198km  

ここから再び、林の中へ入り、巡礼路を行く。雲が厚く、今にも雨が降り出しそうな、暗い出発であった。国道にほぼ沿った形で、上を行く草の路である。草が生い茂り始めたシーズンであるため、道幅が非常に狭く感じる。いわゆる、”ヤブコギ”に於いて、鉈目をトレースするような進み方である。対抗者とすれ違うことは無理である。生い茂った草の種やトゲが時折靴の中に入ってくるのと、延びている野バラのトゲが最大の敵であった。肘や手首(こて)に血が走る。

11:05 @210km  バス停で雨宿り。雨が激しくなってくる。今回初めて、雨合羽の下も履く。小降りになったところで出発。国道を行く。

12:30 昼食@215km 雨の中、ようやく開いているレストラン発見  

ハモン入りトルティージャ、豚の内蔵、キノコタパス。

13:25 @225km Najera アルベルゲ;混んでいる。スタンプだけ

 Najerilla川にかかる橋を渡り右に曲がるとSanMiguel教会、隣接の建物がAlbergue。入口で中の様子を覗き見る。脱いだ靴(トレッキング靴)の数が相当である。繁華街も近いので買い物に便利、それに今日は日曜日だし、未だ早いけどチェック・インしたい気分でもあった。しかし、昼過ぎでこれだけの人がいては、後続の人々は泊まれないであろう。特に雨の日の混雑や宿泊拒否は大変である。時間も体力もまだあるので、後続に譲ることとして先へ進むことにする。そこへ、にぎやかなイタリア人の年輩者集団がやってくる。イタリア映画、「海がいっぱい??」の主人公(日本でも車の宣伝に出てる;ジャン・レノ?だったかな)にそっくりのおじさんが、麦わら帽子に、お祭りの羽根飾りを頭いっぱいにつけて陽気な格好であった。

 全部で9人、ザックは小さな(5リットル)ものである。何と、専用運転手付マイクロバスが併走していた。彼らは、ここの宿泊を断られ、その先のAZOFRAでも「ホテルへ行ってくれ」と断られていた。その後、二日後にBobadilla del Camino アルベルゲ(新)で再会する。

14:30 @231km Azofra アルベルゲ到着

 ナヘラを出て5km。小さな街である。市場も無いこの村Azofraの教会にAlbergueがある。翌朝出発してしまえば、通りすがりの一夜の宿として記憶の中からもすぐに忘れ去られてしまうような、どこにでもある宿であった。しかし、今回の巡礼路中でもっとも忘れられない、良い印象に残る宿となる。  到着時宿には5〜6人程度の先客(全員中年のおばさんfromオーストラリア、ドイツ、スイス他)がいた。調理場にある、ダイニングテーブルがレセプションも兼ねていて、ホステラーの中年紳士;Daniel(*注1)は英語が堪能であった。到着と同時に、暖かいヌードルスープが差しだされた。雨で冷え切った体には最高のもてなしであった。自転車は私一人であり、近くの馬屋に駐輪させてくれた。

 (*注1)ホステラーの中年紳士;Daniel  陽気なバスク人。ボランティアの教会のオルガン奏者。ビルバオから、1ヶ月の期間契約ボランティアで、バスに乗ってこの宿の管理をしながら毎晩、教会でオルガンを弾いている。アメリカのモンタナにも別荘を持っているらしく、ビルバオで会社経営の仕事もしているらしい。口癖のように、「私はスペイン人ではなく、バスク人」が出てくる。今日は彼の赴任30日目で、最後の日になるらしい。  

ほどなくすると、3人老婆の新客がやってきた。リーダーとおぼしきばあさんは、摩擦音の切れる英語である、アイリッシュである。ホステラーのダニエルが留守してたので、返ってくるまでの間、話をする。ベット数も残り僅かであったため、ひょっとするとダメかな、とも思ったが、この雨の中を老婆の宿泊を拒否するのは罪にも思えた。すると、先ほどナヘラで見たイタリア人のバス同伴の9人が来た。ダニエルも戻ってきた。バスの御一行はホテルへと案内され、本日の宿泊者は満了となる。

 夕食を作りながら、日記を書きながらのダイニングでの会話は延々と続く。先ほどのアイリッシュのおばあさんは、何と75歳。連れというか、家来のごとく(世界的に、この世代は未だ年功序列の考えが生きているようだ)に同伴していたのは、オランダとイングランドからの60歳以上のおばあさんである。彼女らは、連絡を取り合いながら(しかも、何とこの歳でE-mail)数年に渡って(各年に100km程度)、巡礼路を一緒に旅しているらしい。アイルランドからは、40時間以上かけての夜行列車を乗り継いで、毎年スペイン入りしているようだ。今年はブルゴスまでらしい。来年はレオンまで、そのつぎはルーゴまで、その次は、、と言い出したところで止まった。まさか、天国か?とも言いたくなるような(こんなこと言ったら怒られるが、ある程度許されるような会話の雰囲気はあった)、考えがよぎった。「お父ちゃんはもう10年も前に死んでしまったし、孫は10人いるし、私にゃー怖いものはない。しかし、愛は永遠だ。」と強く言いきるこの態度、日本の75歳がまねの出来る領域では無いと思った。時折、「最近の若い人は、、、。」の話題にふれる。「知らなくとも良いところまで、首を突っ込みすぎる、、、。」と来るので、「では、Curiocity(興味津々)は時代を切り開いてきたエネルギーのではないのか?」と反論してみる。こちらはガスで米を炊きながら、あちらはナイフで野菜を切り刻んでいる。しかも、料理という点で競技意識もあった。まるで戦争だ。  

このあと、議論は永遠と続き、バスクとスペイン、アイリッシュとイングランド、アジア問題にまでふれ、夕食は5時間近くかかった。細かな内容を書くと長すぎるので割愛。時間と共に、「礼節を知る」の話題に収斂していった。食べるものを食べ尽くすと、話題も少なくなっていった。  ダニエルがカテドラルへ行き、オルガンを弾き出した。夕暮れ時の静かな村に、パイプオルガンが静かに響き渡る。30日間のボランティア活動も今日が最後の夜、との感傷がこちらにも伝わってくるような響きであった。


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