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■2001年10月16日〜10月31日


10月30日(火)
 フランシス・アイルズレディに捧げる殺人物語』読了。バークリー/アイルズの既読作品のなかではこれが一番好きかもしれない。とりあえず、感想は後日。

 おそらく誰も興味がないであろうことを長々と書きます。ご容赦を。
 このサイト名の由来というか、名前をつけた経緯なんですが。
 PAPAS FRITASというアメリカのバンドがいまして、「PAPAS FRITAS」ってのはそもそもフライド・ポテトのことで、同時に音が「Pop has freed us」(「ポップは俺たちを自由にした」くらいの意味?)に似ているということで名づけたらしいんですが、私もそんな感じの名前をつけたいなぁと思って、最初、「問わず語り」という言葉と似た音の英文をでっちあげてサイト名にしようと思ったんですけど、英語力が皆無で知人にも英語が得意なのがいなくて挫折しました。
 次に目をつけたのがそのPAPAS FRITASのアルバム・タイトルで、2枚目のアルバムが『HELIOSELF』というんですけど、音の感じがいいなぁと思っていて、辞書を調べてみたら「HELIO-」というのが「太陽」を意味する接頭語ということで、どうも造語らしいとわかりまして、まあ、そのまま使ってしまおうかとも思ったんですが、とりあえずサイトのデザインはオレンジと白を基調にすることだけは決まっていたんで、オレンジ色と「太陽」はばっちり合うだろうという理由で「HELIOなんとか」というタイトルにしようと決めて、辞書を眺めているうちに「HELIOTROPISM」という単語を発見したわけです。
 で、言葉の意味ですが、ここに書いてあるとおり植物が太陽に向かって伸びる性質のことです。詳細はよくわからないんですけど、どうやら学問的には間違いらしくて、正確には「Phototropism」というらしいんですが、語感も悪くないし、同名のサイトもないみたいだし、まあ、いいか、と思って決定しました。それだけです。
 え〜と、長いわりに中身がなくてすみません。一応、明日でサイトをはじめてから丸2年になるんで、思いつきで書いてみました。
 カウンタの数字については触れないでください。

10月28日(日)
 任天堂ピクミン』(GC)
 うわあ、これって、イタチョコのラショウ氏による名作『ボコスカ・ウォーズ』のポリゴン版!? と書こうと思っていたら、すでに同じことを書いている方が。
 ピクミンという謎の生物を率いて墜落した宇宙船の部品を30個集めるのが目的のゲームなんですが、その数100匹! わらわらと主人公の後ろをついてくるピクミンたちがむちゃくちゃかわいいです。でも、ゲームを進めるためには多少の犠牲は避けられません。水際歩いていて赤・黄ピクミンを溺れ死にさせたりとか、爆弾岩を誤爆させて黄ピクミン全滅とか、曲がり角に引っかかったまま忘れてしまって日没で敵に食べられてしまったりとか。心が痛みます。ごめんなさい。俺が悪いんです。夢に見そうです。
 まだ1回目の途中で、ようやく青ピクミンをゲットして増やしているところなんですが、どうも今回はクリアは難しそうです。むむむ。でも、おもしろい〜。1日のサイクルがわりと短めなんで、社会人ゲーマーは(現実の)1日で(ゲーム内の)1日終了といった感じで遊んでも良いかと思われます。いや、絶対「もう1日」ってなるのは目に見えてるんですけど。

10月27日(土)
「女流」なんて反動的な言葉を使うのは、囲碁とか将棋の世界だけだと思っていました。いや、巡回先の複数のサイトで使われているのを見て、自分の認識が間違っていたことに気づいてちょっとショックを受けたというそれだけの話なんですけど(まあ、時々、書籍の帯などでも見かけますが)。

 昨日の日記にアップしたジャック・ケッチャム地下室の箱』の感想ですが、当初、タイトルと★による点数のみアップした時点では★★★をつけていたものの、実際に感想を書いてみると何ひとつ褒めていないのにその点数はどうかと思ったので、★★に減点しました。いかに適当に点数をつけているかがばれますね。

 任天堂ピクミン』(GC)購入。これからやってみます。

10月26日(金)
ジャック・ケッチャム隣の家の少女』★★★★
 例えるなら、泥沼で遊ぶようなものだろうか。
 よどんだ水は緑色に濁っていて覗き込んでも底は見えないが、いざ足を踏み入れてみればやわらかい泥に足首までめりこむものの、そうしようと思えば足を引き抜くことはたやすい。岸辺はすぐ目の前だし、いざとなったらすぐに引き返せばいい。そう考えて、もう一歩踏み出してみる。後ろを振り返ってみれば、岸辺はやはり手を伸ばせば届くほどの近さにあり、素足を包み込むぬかるみの感触はひんやりと心地よい。足を引き抜き、さらに一歩踏み出す。突然、深みにはまってしまうこともなく、とはいえ、確かにゆるやかに水深は岸から離れるに従って深くなっているようで、ふくらはぎのあたりまでが泥につかっているが、足をとられて動けなくなるほどではない。さらに一歩。
 そうやって、登場人物たちは泥沼にはまりこんでいく。段差はどこにもなく、岸辺とはゆるやかに地続きとなっており、いつでも踵を返して戻ることは可能なように思える。しかし、戻ろうと思った時にはすでに手遅れで、足はすっかり泥にはまりこみ、岸辺は遠くなっている。
 この作品では、常に語り手であるデイヴィッドによって次の展開を曖昧に予告されつつ物語が進む。読者は被害者であるメグを待ち受ける運命を想像し、恐れと期待を抱きながら身構える。しかし、メグに降りかかる運命の過激さは、恐らく、読者が想像していたものよりもほんの少しだけ穏やかな形で終わる。読者は安心すると同時に肩すかしを食った気分になり、あるいは物足りなささえ感じるかもしれない。読者は、メグの運命を「知っている」。そして、それを「待っている」。それこそが、読者にこの小説のページをめくらせる力になっている。
 私は何を期待してこの小説を読んだのだろうか。

ジャック・ケッチャム地下室の箱』★★
『隣の家の少女』と同じく「監禁」「虐待」をテーマとした作品。ところが、似ても似つかない作品になっている。悪い意味で。私はこの小説で作者がなにをしたかったのかがよくわからない。別に読者としては作者の意図を理解できなくても構わないんだけど、これまで私が読んできた3作品(『隣の家の少女』『オフシーズン』『老人と犬』)にあった「緊張感」がこの作品には決定的に欠けている。いや、まあ、緊張感だって、なくたって構わないといえば構わないんだけども、つまり、そんなにおもしろくなかったのだ。
 この小説は三人称多視点の叙述形式を採用している。『隣の家の少女』の冒頭で語り手であるデイヴィットは「なにかを見ることによって苦痛をおぼえることもあるのさ」と語っているが、実際、『隣の家の少女』において苦痛はすべてデイヴィットの視線を通して他者のものとして間接的に語られる。一方、『地下室の箱』では主人公であるサラ自身の感覚として、「肩に炎が走った」「ハンマーで殴られたような、蛇に噛まれたような痛みだった」といった凡庸な比喩を用いて直接的に語られる。読者にとってどちらがより恐ろしいかといえば、間接的に語られる前者だったりする。
 また、この小説では加害者の視点からも物語が語られる。その場合、例えそれまで主人公であるサラが知らなかったことでも、読者にとっては自明のことなので、隠された事実を知った驚きを読者は登場人物と共有することはできない。もちろん、登場人物が騙されていることを明確にすることによって読者の感情移入を誘うといった手法も確かにあり得るだろう(「あなたは騙されている! 早く気づくんだ!」)。しかし、この作品においてはそういう意図すらないように思える。なぜ、こういう形で物語を語ろうとしたのか、まったくわからない。
 妊婦が誘拐され、監禁され、虐待される。本当にそれだけの小説なのでびっくりした。確かに『隣の家の少女』も少女が監禁され虐待されるだけの小説だ。しかし、そこには確かに作者の技術に裏づけされた周到に計算された世界があった。一方、この小説は単に杜撰なだけに見える。
 もしかして、作者はこの結末で読者を「
感動」させようとしているのだろうか? まさか、そんなことはないと信じたい。

10月25日(木)
 富沢ひとしミルククローゼット』4巻(完結)購入。ところで、この漫画の主人公って誰でしたっけ? 3巻の終わりくらいから4巻にかけて意外な盛り上がりを見せていて、意味がわからないなりに結構おもしろいかも、と思いました。しかし、最初から読み直そうと思ったのに1巻が見つからない……。通して再読してから改めて感想を書くかもしれません(書けないかも)。

 ひぐちアサヤサシイワタシ』購入。前に気まぐれで「アフタヌーン」を買ったときに読んで気になっていたので買ってみました。とにかく会話が良いです。「恋愛もの」なのにモノローグがほとんどないのが素晴らしい(←偏見?)。ヒロインである弥恵の考えているようで何も考えていない(ように見える)エキセントリックなキャラクタはうまいなぁすごいなぁと思います(もちろん、この後は展開は知っています)。一見、ほのぼのした感じの絵柄なんですけど、ときどきすごくシャープな表情があったりして、惚れました。『家族のそれから』も買って読んでみます。

10月24日(水)
 ジャック・ケッチャム地下室の箱』読了。こちらも感想は後日。とりあえず、ケッチャムはしばらくお休みして、バークリーに戻ります。

 アップルが「iPod」を発表。この商品名については「独創的な機器のフリをすることにしよう」(I Pretend it's an Original Device.)とか「この製品に値段を付けた奴は大ばか者」(idiots Price Our Devices.)とか「CDを持ってる方がいい!」(I'd Prefer Owning Discs!)とか「他の機器の方がいい」(I Prefer Other Devices.)などの略称だという話もありますが(元ネタはこちら)、やっぱり47,800円という価格は高いと思います。しょせんは「小型の」ハードディスク内蔵のMP3プレーヤーなんだから、「画期的」とかわざわざ余計なこと言わなきゃ「現在『画期的』に大きくなりつつあるのは、スティーブ・ジョブズ最高経営責任者(CEO)の脳天を角材でぶん殴りたいという欲望だけだ」なんて書かれることもなかったでしょうに(元ネタはこちら)。ただ、後者のリンク先の批判は的はずれだと思いますけど。

10月23日(火)
 ジャック・ケッチャム隣の家の少女』読了。感想は後日。引き続き『地下室の箱』を読んでいます。しかし、同じ作家の小説ばかりを立て続けに読む癖は我ながらどうにかならないのか。

 久々にDTP板@2ちゃんねるを覗いてみたら「浜崎あゆみでお困りの方」というスレッドが。写真の修整にかんする話題です。
 別に芸能人に限った話ではないんですが、印刷物の写真で歯を白く、充血した白目をきれいに、目の下の隈をとる、ほくろや火傷の跡を消すといった修正は日常茶飯事だし、スカートのウエストの部分からはみ出た腹の肉を削ったことや、脇の下のたるんだ肉を削ったこともあります。あとは髭の青い剃り跡を自然な肌色にするとか。さすがに、歯並びを直せというのは経験ありませんが。
 このへんはまあ、容姿を売り物にしている以上、気を使うのも当たり前といえば当たり前の話なんですけど、もうちょっと普段の生活とか写真撮影の段階で何とかしてほしいというのが正直なところ。


10月22日(月)
 かなり前の話ですが、モダンホラーの御三家(キング、クーンツ、マキャモンのこと)が好きで新本格が好きで中でも麻耶雄嵩が好きという読書の嗜好は清涼院流水と非常に近い、ということに気づいたときはちょっとだけ落ち込みました。昨日、ジャック・ケッチャム『オフシーズン』の感想でモダンホラーについて書きながら思い出したんですけど。ちなみに清涼院流水の本は『コズミック』と『ジョーカー』のノベルス版しか読んでいません(それだけ読んでいれば充分という話も)。

10月21日(日)
 著者別索引をつくりました。とりあえず、今年に入ってから読んだ本のみです。しかし、去年はほとんどまともに感想を書いていないので、わざわざつくる必要はないのかも? 今年に入ってからも前半はPSOに狂っていて、本の感想はおろか日記の更新すら壊滅状態だったので、本当は仕切直したいところなんですが、まあ、いいか。

 安彦良和ヴイナス戦記』4巻が手元に戻ってきたのでようやく第2部「マティウ」編を最後まで読みました。…………。『ヴイナス戦記』とジャック・ケッチャム『オフシーズン』を両方読んだことある人は察してください。

 以下、読了本の感想。

ジャック・ケッチャムオフシーズン』★★★★
 一時期、〈モダンホラー〉作品の邦訳ブームがあったときに、「〈モダンホラー〉とは何か?」という問いが繰り返し発せられたわけだけど、それに対する答えとして「〈モダンホラー〉とは怖くないホラーのことである」というのがあって(誰の言葉かは失念)、個人的にも納得できるものがあった。大雑把にいうと、ホラー的なガジェットを用いながら、ジャンル小説というよりは総合的なエンターテインメント小説(抽象的ですみません)を目指した小説、くらいの意味で、この作品も扶桑社ミステリー文庫の赤背表紙ではない(スーパーナチュラルな要素がないから?)ものの、勝手に〈モダンホラー〉であると断定してしまおう。
 ニューヨークからメイン州の避暑地を訪れた6人の男女を〈食人族〉が襲う! というあらすじは確かにそれだけで読者を選別してしまいそうだけど、実際に読んでみれば、やはりホラーというよりは手に汗握るエンターテインメント小説の文法に則って書かれている。冒頭で惨劇の予感させつつ、前半では淡々と登場人物が舞台に集まってくるまでを語り、いったん事態が動きはじめてからは怒濤の展開で結末まで一直線、という一種のジェットコースター・ノベルとして読めるつくりになっている。確かに残酷な描写は多いし、食人という要素を扇情的に用いているので眉をひそめたり拒絶反応を示す人も多いだろうけど、そのへんは噂が一人歩きしているという印象で、逆に描写の残酷さを期待して読むと肩すかしを食うかも。
 もちろん、それだけの小説ではなくて、まあ、その点についてはダグラス・E・ウィンターの「序文」や著者自身による「あとがき」、さらには巻末の風間賢二の「解説」で詳細に語られているのでここでは繰り返さない。とにかく、緊張感に満ちた物語はリーダビリティ抜群で何も考えずに読んでもおもしろいし、それでいて、例えば私みたいに読んだ本にかんして何か意味ありげなことを語らないと気が済まない読者に対しては「読解」を誘うだけの「不条理感」をあわせ持っている。
 というわけで、ケッチャムは私の「好きな作家リスト」入り決定。

10月19日(金)
戸梶圭太溺れる魚』★★★
 なんか、ものすごくもったいないなぁ、というのが率直な感想。むちゃくちゃおもしろくなりそうな要素が満載で、実際、部分的には非常におもしろいんだけど、読み終わって全体を見返してみると、どうにもつくりの粗さばかりが印象に残ってしまう。
 万引きした女性用の下着や服で女装するのが趣味の刑事と、強盗犯が奪った金を着服した刑事。彼らは罪のもみ消しを交換条件に、監察から公安刑事の内偵を命じられる。その刑事は、大手複合企業ダイソーグループから個人的に依頼を受け、脅迫事件の捜査をしていた。
 タイトルの「溺れる魚」というのは、この脅迫犯の名前。この脅迫犯の要求内容が爆笑もの。

(前略)
経理部長は正午きっかりに銀座Mデパートの正面玄関前に現れよ。服装は、上は白のタンクトップ。黒マジックで前面に“男気”、背面に“嫁さんヨロシク”と大書きすること。(中略)その格好で中央通りを新橋駅に向かって競歩で歩くこと。(後略)

 犯人の目的はいったい何なのか? しかし、事件は思いもかけない方向に進展していく。
 多数の登場人物の視点で事件をさまざまな角度から語るというスタイルはいいとして、いったい誰が主人公なのかがわかりづらい。たぶん、上記に2人の刑事が主人公なんだろうな(冒頭から出てくるし)とは思うんだけど、その2人が主人公である必然性は皆無。特に後半で顕著なように、因縁のあるキャラクタ同士をからませないで、他のキャラクタで代用してしまっているあたりが物語としてちぐはぐな印象を感じさせる原因なのかも。ラストは、運転手を使ってああいう方向にもっていくなら、あらかじめもっと試練を与えておかなきゃ駄目でしょう。かといって、「漁夫の利」的な皮肉なが効いているとも思えないし。公安刑事の「親子の絆」みたいなエピソードも、状況が上向きになったところから読まされても本筋との相乗効果という意味ではあきらかに弱い。
 最後のドタバタでは仕切りの悪さが露呈してしまって、収集がつかなくなっている。その破綻ぶりがおもしろい、というほどには突き抜けていないんだよなぁ。
 基本的には最初に読んだ『なぎら☆ツイスター』と同系統の作品なので、次はホラー作品である『レイミ』を読んでみる予定。

ジャック・ケッチャム老人と犬』★★★★
 ミステリー板@2ちゃんねるの「読後すごくいやな気分になったミステリ」スレッド(過去ログにも残っていないようなのでリンクできない)でこの作者の『隣の家の少女』が話題になっていて、これは読まなくてはと思いつつ何となく機会を逸していたんだけど、スズキトモユさん@見下げ果てた日々の企てのレビューでケッチャム作品が取り上げられているのを読んで、うわあ、やっぱりこれは読まなくちゃ、と思いそのまま本屋に走って(←ちょっと嘘)『隣の家の少女』と『老人と犬』と『オフシーズン』の3冊を買ってきたのだった。
 で、私の場合、「少女」より「食人族」よりも「犬」にツボを刺激されたので、まず最初にこの『老人と犬』を手に取ってみた。久々に思いきり主人公に感情移入モードで読み、ラストシーンでは思わず涙してしまった。うわあ、いい年して恥ずかしい。
 愛犬をショットガンで撃ち殺された老人。加害者である少年たちに法の裁きの手は届かない。老人は“然るべき裁き”を求めて行動を開始する……。
 というふうにあらすじを書くと、いわゆる典型的な復讐譚のようだけど、被害者である老人が求めているのは感情的な復讐心による過剰で暴力的な制裁などではなく、もっと素朴で単純な「罪を認めて罰を受けよ」ということに過ぎない。その「罰」というのも、例えば、父親による叱責とか尻を叩く程度の折檻といった、「悪いことをすると怒られる」というごく常識的な倫理的態度をきちんと示して欲しいということを加害者側に要求しているだけなのだ。そして、老人のその態度は最後まで一貫している(
確かに老人は結末近くで加害者を殺害するが、それとて復讐心に基づく行動ではない)。これは正直なところ意外だった。何だかこの作家はものすごくモラル意識の高い作家なのではないかと一瞬本気で信じそうになるが、他の作品を読む前にそんなことをうっかり断言してしまうと後悔することは目に見えているので、その点はおいておく。とりあえずこの作品に限定して話を進めると、こういう物語において、いわゆる「普通の人」が隠し持つ暴力的な衝動だとか、感情と倫理の葛藤が前面に出ていない作品というのはなかなか珍しいのではないだろうか。
 あとは、キャラクタの配置に見えるバランス感覚にも感心した。作品内の世界観として、「悪役」がなぜそういう人間であるのかという理由づけが容易にできないようになっているのだ。ここでは話を単純化するためにキャラクタの属性を「善」と「悪」に二分するが、加害者である少年は「悪」、そしてその父親も「悪」であるため、作品内で詳細は語られなくとも育った環境が原因で少年が「悪」になってしまったという解釈は確かに可能ではあるんだけど、同時に「善」である主人公の息子の1人もまた「悪」であることが語られているため、作品内のルールとしては必ずしも親子関係が登場人物の属性を決定する原因ではないことが示される。加えて、「悪」である少年と行動をともにする彼の弟は、同じ父親の息子でありながら根本的には「善」として描かれており、また、同様に主人公の子供もまた「悪」である1人と「善」である2人が存在するため、環境や生まれのせいという解釈は言外に否定されている(と私には読めた)。そもそも、主人公の息子のエピソードは物語的には完全に余剰で、同じ「悪」という属性を持つ少年と自分の息子を主人公が重ねて見る、といった形で利用されているわけでもなく、あくまで作品内のバランスをとるために配置されたとしか思えない。しかし、こういうバランス感覚は非常に好ましいと思う。
 とはいえ、他の作品を読んでみたら、ここで書いたことは全部見当違いだったという可能性は大いにありうるだろうなぁ。追って他の作品も随時読んでいく予定。

10月18日(木)
 戸梶圭太溺れる魚』、ジャック・ケッチャム老人と犬』読了。感想は明日アップします。

10月16日(火)
 すっかり書くのを忘れていましたが、9月2日の日記に書いたデジタルビデオの件は、結局、CanonIXY DV2」に決定しました(私が購入したわけではないのですが)。
 個人的には「PV-130」も捨てがたかった……。スペックおたくなもんで、光学式手ぶれ補正は非常に魅力的だったんですけど、結局、「小さいことは良いことだ」という論理が採用されてこの選択となりました。私の所有しているNIKONCOOLPIX880」と比べても、若干厚みがあるもののほとんど大きさは変わりません。かといって、持ちづらいということはないです。
 今のところ室内でしか撮影していないんですが、やっぱり蛍光灯の下での撮影では結構ノイズが出ます。まあ、これは仕方ないですね。バッテリの持続時間にかんしては、試し撮りしかしていないんでまだ何とも。感覚的には、標準バッテリでカタログ値の70〜80%くらいといったところでしょうか。大容量バッテリをつけても想像よりは不恰好ではないです。AFは、ズームしながら被写体を変えると、たまにフォーカスが合うのがひどく遅いときがあります。これは、何だろう? 条件はちょっとわかりません。まあ、そういう撮り方をしなければいいだけの話なんですけど。あと、原色フィルタのCCDを採用ということで期待の持てる発色は、少なくとも蛍光灯の下だと、あくまでそれなりでした。今度、屋外で撮影してみます。ラチチュードは狭いです。蛍光灯の下で人物を撮ると、ハイライトは飛び気味、シャドウはつぶれ気味。静止画はデジタルビデオで撮ろうとは考えていないので、まだ試していません。
 デジタルビデオを使うのは初めてなんで、他と比較してどうこうとはいえないんですけど、まあ、こんなものなのかな? AVケーブルでテレビに接続して再生してみても、何となくデジタル画像っぽい感じなのは他の機種もそうなんでしょうか。
 あと、Macとの連携にかんしては、FireWire(IEEE1394)ケーブルで接続するだけで「iMovie」に取り込むことができるので非常に簡単でした。編集はiMacではスペック的にきつそうなので、まだ試していません。
 とりあえず、ざっと触ってみた感想はこんなところです。

 しかし、早いところデジタルビデオのメディアは新しいものが出てきてほしいなぁ、というのが正直なところ。やっぱりテープはいろいろと面倒です。かといって、SANYOの「iDshot」は買う気にならないし。

 というわけで、この文章は、検索エンジンでデジタルビデオ関連の情報をお求めの方のために書いてみました(予想外に多いので)。もうちょっと使い込んだら、またレポートします。

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