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■2001年11月16日〜11月30日


11月30日(金)
 会社に泊まり込んで椅子寝りをしたら風邪がぶりかえして死にました。死んだというのは嘘ですけど。当たり前か。そんな更新も滞りがちな今日この頃。

11月27日(火)
 小川勝己彼岸の奴隷』読了。客観的に見てすごい作品だとは思うし、実際、一気に通読してしまったんだけど、素直に「おもしろかった」「すごい」といえないのはなぜなんだろう。詳細な感想は後日改めてアップするとして、とりあえず余談的な印象をメモしておく。
 読んだ順番のせいか、『眩暈を愛して夢を見よ』との間にそれほどの作風の落差があるとは感じなかった。『眩暈を愛して夢を見よ』よりは、こちらのほうが好み。暴力描写やラストの大活劇など、構成が破綻していない戸梶圭太といった印象を受けた(褒めているのかけなしているのか微妙な表現だな。というか、単純にこの手の作品を他に読んでいないだけなんだけど)。

11月25日(日)
 どうして埼玉高速鉄道はあんなに料金が高いのだろう? 聞いた話によると、日本で一番運賃の高い地下鉄らしいけど……。
 私の利用した「駒込」(東京都文京区)−「川口元郷」(埼玉県川口市)間で片道400円(乗車区間は6駅。そのうち「駒込」−「赤羽岩淵」は南北線)。ちなみに(埼玉高速鉄道の)初乗り運賃は210円。
 それにしても、改札にもホームにも車内にもほとんど人の姿が見えなかったなぁ。

 高橋源一郎『日本文学盛衰史』の感想に加筆しました。内容は……変えたつもりはないけど、変わっているかもしれません。

11月24日(土)
 SEGAUGARez』(PS2)
スペースチャンネル5』を世に送り出した水口哲也率いるUGAの最新作にして、SEGAのPS2参入第1弾ソフト。DC版も同時発売で、SEGA信者としてはDC版を購入するのが断固正しいとは思うのだが、やはりトランスバイブレーターがないのと、描画が秒間30フレームというのが引っかかって、結局、PS2のトランスバイブレーター同梱版を購入。しかし、店員に商品名を口頭で伝えて購入しなければいけない店だと、「トランスバイブレーター同梱版のレズください」って言わなきゃいけないのが難点といえば難点。「そうそう、彼女といっしょにプレイしてる人は、トランスバイブレーターを彼女に渡すと、新しいコミュニケーションが生まれるかもしれませんよ」って、どんなコミュニケーションでしょうか? まあ、「快楽発生装置」だしね。トランスバイブレーターの使用法についても特に指示はないので、おのおの好きな部位で振動を楽しめば良いかと。というか、この手のネタは、すでに散々やり尽くされていると思われるので、このへんでやめておきます。
 基本的には、ロックオン型の3Dシューティング・ゲームで、自キャラをパワーアップしながら敵をロックオンして撃墜し、ステージの最後に待ち受けているボスキャラを倒せば面クリア、という割とオーソドックスなシステム。新しいのは、敵を撃つことで、自分が音楽をつくっているような感覚が味わえるところ。ハードな振動(手元のデュアルショックと、トランスバイブレーター)と、チープなワイヤーフレームが基調ながら独特の色彩感覚があふれる画面との相乗効果で、不思議な陶酔感に浸れるというのがこのゲームの売り。確かに、ヘッドフォンをつけてプレイしていると、没頭して時間を忘れてしまう。あ、ちなみに私は、トランスバイブレーターを背中に入れています。いや、本当に。

 来客で鍋。しかし、私は例によってアルコールが入るとすぐに寝てしまい、気がつくと2時間ほど経過している。あああ。

11月23日(金)
高橋源一郎日本文学盛衰史』★★★★
 男は大儀そうに薄目を開けた。睫毛に白い雪の結晶が積もっていた。
「おれ、死ぬのかな」
「そうみたい」
 男はまた目を閉じた。閉じた瞼の間から大きな涙の粒が溢れた。
「おかしいかな、こんなときに涙が止まらない」
「いや、ぼくもそうだった」
「おれになにか慰めの言葉をかけてくれないかい」
「ただ神に祈りなさい」
「冗談は止めてくれ」
「死とはなんぞや。四大空寂に帰し、細胞は解け、繊維は溶け、原子は原子に、元素は元素に還ることならずや。外に見ゆるこの自然の中に空しく消散することならずや。かの砂、かの松の間に殆んど空間も時間も無き或る物質に復することならずや。これ信ずべきことなりや。将たまたま是非とも信ぜざる可からざることなりや。然らば、ここに吾あるをいかにせん。国木田独歩は儼としてここにあり。目に見よ、耳に聞け、心に知れ、吾が身体は立派に、嘘で無く、明白に、この病状の上にあり。この吾をいかにせん。この人死して、かの自然のうちに散失すときみは信じ得るや。知ることは得べし。然かもそを思ひ断ずることを得るや。他人の事なり。男或いは思ひ信ずるを得べし。されど、吾は吾が事なり。如何にしても思ひ信ずるを得ず」
「なに、それ、お経?」
(P.160〜161)

 こういう小説について、近代史とか近代文学史の文脈を踏まえずに語るのもどうかと思うけど、まあ、いいや。
 もう、これは、すごくおもしろかった。作中に
「悲しい詩ですね。でも可笑しい。詩はそうでなきゃ」(P.353)という台詞があるけど、その「詩」を「小説」に置き換えると、それはそのまま高橋源一郎のよい小説についての感想になる。
 ちなみに私にとっての高橋源一郎のよい小説は、『ジョン・レノン対火星人』(これが私的ベスト)、『さようなら、ギャングたち』(デビュー作)、『優雅で感傷的な日本野球』(初めて読んだのがこの作品)と、あとは『ペンギン村に陽は落ちて』の一部で、『日本文学盛衰史』は、『優雅で感傷的な日本野球』と並ぶくらいかもしれない(まあ、このへんは時間を経て何回か読み返したうえでないと断言できないけど)。
 夏目漱石と森鴎外は二葉亭四迷の葬儀の席で「たまごっち」の入手先について情報交換し、石川啄木は伝言ダイヤルで女子高校生を6円で買い、朝日新聞に勤めながらブルセラショップの店長をやり、田山花袋は「露骨なる描写」を求めてアダルト・ヴィデオ『蒲団・女子大生の生本番』を撮り、横瀬夜雨(恥ずかしながら、名前すら知らなかった)のファンはインターネット上の伝言板に「
夜雨さまは、それでもいいの!」(P.80)と書き込み、高橋源一郎は胃潰瘍で死にかけて入院した病院で夏目漱石と同室になり、夏目漱石(二度目ですまん)は高橋源一郎の担当編集者から「玉稿をいただければこの上もない幸福で」と言われて「悪いけど、ぼくはそんな二流の出版社には書かないよ、本屋なら中央公論、新聞なら朝日に読売、国民新聞」と答え、「お言葉ですが、国民新聞は泡沫のごとく消え去り、ついでに言うなら中央公論は読売に吸収されちゃったんですけど」と聞かされ「うそ!」(以上、4箇所はP.322)と驚愕する。
 上記を読んでいただければわかるように、明治/大正時代に現代(というか、この小説の執筆された当時)の風俗が無造作に放り込まれている場合もあれば、逆に文豪たちが現代に甦る(というか、ただ当たり前のように「いる」)場合もあり、そのことについて物語的な理由づけや説明などは一切ない。まあ、その違和感というか齟齬が「笑い」やある種の「批評性」(?)を導入する機能を果たしているのはいつものとおりで、あまりに刹那的な風俗を導入しているために、そのちょっと未来に位置する読者である私たちは「うわ〜、タカハシさん、今どき『たまごっち』はないでしょう。寒いよ〜」と言いたくもなるのだが、あと10年もすれば歴史性や懐古的な空気が生まれるであろうことは恐らく織り込み済みで、でも、やっぱりただミーハーなだけなのかもしれないという不安を感じさせるのが高橋源一郎の高橋源一郎たる所以というか。
 同時に、「栄光なき天才たち」風の群像ものとして読めるような形で文豪たちの姿を描いていたりもして、このへんの「物語化」については政治的だという批判や文学者の神話化を招くといった批判もあり得るだろうけど、ただもう「日本文学」を愛し憎み自分もその流れの末端にいるのだという覚悟とも諦念とも喜びとも苦悩ともつかない感情/思考が渦巻いていて、それがとりもなおさず「日本文学」の過去と現状に対する批判的な言説として機能しているあたりはさすがというか業が深いというか。
 もっとも、私はとにかく高橋源一郎の散文が非常に好きで、何でもない文章にもかかわらず読んでいるとむやみと泣けてきたりするので冷静な評価は不可能だと思われる。とりあえず、今年読んだ小説のなかでは一番おもしろかった(ジャンルの違うものを比較しても仕方がないんだけど)。まあ、それでもあえて不満な点をあげるとすれば、「原宿の大患」から「WHO IS K?」に至る、急遽、連載時に本編に組み込まれることになったと思われる現実の出来事が、若干、小説として消化不足の観が否めない点だろうか。
 冒頭の引用文は、特に深い含意があるわけではなくて、ただ、私がこの小説でもっとも高橋源一郎らしいと感じた部分の引用だったりする。どこが? と問われても困る。私が読んでいる高橋源一郎の小説は、こういうものなのだ。私はこの会話を読んでいるだけで泣けてきてしまう。本当に。

 次は、著者自身が「おのずから、高橋源一郎『日本文学盛衰史』批判でもあります」と語るスガ糸圭秀実「帝国」の文学』を読む予定。
 しかし、ケッチャムとバークリーの未読作品も年内に読んでおきたいし、SEGAUGARez』(PS2/DC)もやりたいし……。

11月21日(水)
 加藤元浩Q.E.D.』11巻
 40年前に海で溺れ死んだ少年。そのとき、一緒に泳いでいた3人の友人と、少年の父親の元に差出人不明の手紙が届く。そこには、「あの事故の真相を話しに行く」と記されていた。その直後、友人の1人が海で死体となって発見される……という事件を語る「寄る辺の海」。動物園の檻の中で発見された死体。その死体を見下ろす作家志望の青年の幽霊。彼は事件の真相を世間に知らしめるために、生前、偶然に知り合った燈馬と可奈に働きかける……という事件を語る「冬の動物園」。2編を収録。「寄る辺の海」は非常に美しくまとまった佳作。ポイントは40年前の事件の真相。キーワードは「罪」。あからさまな伏線とさりげない伏線の妙技。「冬の動物園」は、幽霊となった作家志望の青年が考案した「斬新なトリック」が見どころ。手数を増やすだけで意味がまったくないところが素晴らしい。頭悪すぎです。しかし、彼の行動そのものにはちょっと納得がいかないなぁ。とはいえ、冒頭の仕掛け、結末のもうひとつのトリックなど、ちょっと使い方がもったいない気がするくらいのサービスぶりには頭が下がります。
 毎回毎回きっちりトリックを作り込んでいるだけでなく、物語そのものがきちんとパズルとして構成されているところが素晴らしいです。

11月20日(火)
 昨日の昼過ぎから寒気と頭痛と喉の痛みといった症状があらわれて、とりあえず仕事を終え帰宅してから体温を測ってみると38.5度だった。ここ10年くらい、熱が出るほど風邪が悪化したことがなかったので、もうすぐ30歳だし体力が落ちているのかとちょっと鬱になる。体温計はあるのになぜか風邪薬の買い置きはなく、そのままベッドに入って寝る。翌朝、ちょっと調子が良くなっているような気がしてまた体温を測ってみると、38.7度。だめだ、あがってる。とりあえず会社に電話して病院に行きますと伝える。しかし、こっちに引っ越してきてから歯医者以外の病院に行ったことがないので、どこに病院があるのかわからない。Googleで検索。駅の近くにある病院で、それほど待たされずに診察してもらい、熱冷ましと喉の腫れをおさえる薬と抗生物質とうがい薬を処方してもらう。一旦、家に帰り、朝飯を食べ、薬を飲み、会社に向かう。熱冷ましを飲んだせいか、電車のなかで異様に汗をかいて困る。熱の下がる兆候。実際、昼休みに体温を測ると36.0度まで下がっていた。薬、効き過ぎ!
 しかし、夕方になるにつれ寒気と頭痛と喉の痛みが少しずつぶり返してくる。早めに帰宅して、薬を飲んでベッドにもぐりこみ、iBookでこの文章を書いている。いいから早く寝ろ>俺。

 現在、高橋源一郎日本文学盛衰史』を読んでいます。やはり腐っても高橋源一郎はすごい。しかし、この本、出てるの全然知らなかったよ……。

11月18日(日)
奥泉光鳥類学者のファンタジア』★★★
 奥泉光の作品で既読なのは小説では『プラトン学園』(★★)と『グランド・ミステリー』(★★★★)の2作品だけで、あとはエッセイ集の『虚構まみれ』のみ。最初に読んだ『プラトン学園』の印象が悪かったせいか、この作者のメタフィクション的な作品は駄目だという先入観があって、次に読んだ『グランド・ミステリー』でも硬質な文章は非常にうまいと思ったけれど、時折まぎれ込む幻覚とも現実ともつかない複数の時間の混在する記述はむしろ余計だと感じたし、『鳥類学者のファンタジア』の「語ること」について饒舌に言及する語り手もまったくおもしろいとは思わなかった(これは私の趣味の問題。いまさら物語を語ることの恣意性や不可能性に言及されても、「はしたない」と感じるだけなのだ)。また、「わたし」と「フォギー」をあえて分裂させることによって一人称と三人称を混在させる手法にもあまり意義を感じなかった(何か物語的な必然性があるのかと思っていたので、落胆したという理由が大きいのだけれど)。
 まあ、作者が確信犯的にそれらの手法を採用している以上、あれこれ文句を言うのも野暮かとは思うが、そういった語りのせいで「フォギーの物語1」から「フォギーの物語3」までは、むやみに物語を分断されることに苛々して、結構、読むのがしんどかった(普通の三人称の叙述として読める部分は非常におもしろかっただけに、余計に苛々した)。
 ただ、「フォギーの物語4」と「終曲」は、同じ文体にもかかわらずおもしろく読んだ。前者の牧歌的な展開、そして後者の熱狂的な展開は、物語の進行からはある程度距離をおいているため、いちいち物語が分断されることに苛立つ必要がなかったためだと思われる。
 この文体で、計算し構築された物語を語る、という試みは、私には成功しているとは思えないなぁ。

11月17日(土)
 メールフォームを用意してみました。左のリンクか、トップページの「MAIL」からどうぞ。匿名で直接私に何か言いたい方はご利用ください(一応、名前とメールアドレスの記入欄はありますが)。

MACLIFE」12月号の表4にアップル「iPod」の広告が載っていた。ここ数年、Macの雑誌にアップルの広告が載るのは見たことがない。雑誌内雑誌という体裁の「apeX」で痛烈な(というか、ごく真っ当な)「Mac OS X」批判を行っている同誌にわざわざ広告を掲載するというのは、アップルもまだ捨てたものではないのかな、という気がする。
 あ、そういえば今日は「iPod」の発売日だった。今回は見送って、マイナーバージョンアップ後に買うのが吉なのだろう。しかし。う〜む。


 福本伸行賭博破戒録カイジ』4巻購入。え〜と、私、つい最近まで新シリーズになって巻数がリセットされていることに気づきませんでした。で、まとめ買いした1〜3巻を読んだときは、うわあ、こりゃダメだわ、つまらん、と思ったんですが、4巻はおもしろかったです。ごめんなさい。でも、黒崎の言っていることって何かおかしくないか?(万が一に備えて1ゾロの出るサイコロを用意しておくというくだり。一般的な予防策と今回の特殊な状況をごちゃまぜにしているように思えるんですが)

11月16日(金)
 吉野屋のフラッシュで有名なポエ山さん作のフラッシュ・ムービー「quino」に感動して自分でも何か作ってみたい衝動にかられ、とりあえずMacromedia FLASH5の30日限定体験版を入れていじってみる。しかし、チュートリアルをやってみても今ひとつ使い方よくわからない。そのうえ、11月8日にアップしたイラストが元はAdobe Illustratorで描いたものなので、それを素材にしようと思ったのだが、うまくFLASHに読み込めない(その後、どうやらIllusutorator7形式までのファイルしか読み込めないらしいとわかった)。というわけで、かわりにAdobe LiveMotionの30日限定体験版を入れてみる。Adobeっ子だし。いきなり全身を動かすのも大変そうだと思って、まずは頭のパーツだけを配置し、試行錯誤の末、頭が跳ね回って壁にぶつかりまくるというちょっと悪趣味かつ無意味な動画ができあがる。動画関係を作るのは初めてだけど、これは楽しい。まだ、人様にお見せするようなものではないんで、アップはしませんが。
 まあ、あきっぽい性格なので、いつまでやる気が持続するかは不明。でも、フラッシュ・ムービーでちょっとしたショート・ミステリみたいなものが作れたら楽しいだろうなぁ、と妄想をふくらませてみる。

 奥泉光鳥類学者のファンタジア』は読了までもう少し時間がかかりそう。語り手が「語ること」そのものに言及するタイプの小説はどうも最近苦手なのです……。

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