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■2002年1月16日〜1月31日


1月31日(木)
 来週末まで更新を休みます。ごめんなさい。

1月27日(日)
金井美恵子噂の娘』★★★
 親戚の「マダム」が経営する美容院に預けられた「私」と弟。父母の不在の理由を「父親の病気」のせいだと聞かされているが、かつて父母のかわしていた会話の断片から漠然とした「秘密」の存在を察している。記憶の断片と、とりとめのない噂話が交錯して語られる小説。
「群像」の対談で作者自身が語っているように、この小説は「
あからさまに回想のナレーションが導入されることを避けようとしたわけです」。例えば1行あけて回想シーンに入るとか、「ふと思い出した」などとは書かず、複数の時間に存在するシーンの断片を連続的に語る技術はさすがに手慣れたもので、また、対象を過剰に描写することによって時間を遅延させ、独特の歪みを生じさせる書き方もこの作者の得意とするところ。同時に、『恋愛太平記』にも通じる美容院の住人(女性)たちの「お喋り」がとりとめもなく語られ、記憶とイメージの断片と浮遊する誰かの語る言葉が明確な区別のないまま小説を形づくる。どこをとっても金井美恵子の小説なのだが、『恋愛太平記』と比較すると、この作品ではどちらかというと細部の描写のほうに重点がおかれている。
 私は基本的に金井美恵子の小説を読むときはほとんど文章としての意味をとることを放棄している。目の前にある言葉の連なりと、そのリズムと、眩暈をもたらすような描写対象のうつりかわりを頭に入るままその感触を楽しんでいる。ただ、この作品では部分的にリズムが自分とあわないところがあって、そのせいか、どうも技巧に走りすぎているような印象を受けたのも確かだ。
 読者として金井美恵子の小説に慣れてしまった、ということなのかもしれないけど、『恋愛太平記』あたりまで感じていた興奮を最近はすっかり感じなくなってしまったのが残念。

高橋源一郎ゴヂラ』★★★
『日本文学盛衰史』と『官能小説家』のあいだにはさまれているせいか、いかにもやっつけ仕事めいた印象が拭えない。「笑い」も「感傷」も中途半端。あ、でも『野生の風』には笑った。石神井公園が舞台、というのは高橋源一郎の読者としてはなつかしい気分にもなるし、近作でほとんどレギュラーと化している森鴎外と夏目漱石も登場するから、他の作品とのつながりを邪推してみたくもなる。でも、それだけ。『虹の彼方に』が好きな人は気に入るかもしれない。私は好きじゃないけど。

森博嗣捩れ屋敷の利鈍』★★★

「館もの」で、なおかつ新旧シリーズのキャラクタが共演というサービス満点の内容ながら、どうしてこんなにあっさりしているんだろう?

 個人的に「異形の館もの」は建物の構造とトリックが密接にかかわっていてほしいと思っている。しかし、この作品では建物が「輪」であることにそれなりの意味はあるけど、それがねじれて「メビウスの輪」になっていることにはまったく意味がないのが残念(それを言い出したら、綾辻行人の〈館シリーズ〉も建物の構造に意味があるのは『迷路館』と『時計館』くらいなんだけど)。
 以下、余談。エンジェル・マヌーバの盗み方(
)を読んで、往年のコマンド入力式不条理アドベンチャーゲーム『デゼニランド』を思い出した。何となくだけど。Polish、Polish。

高橋源一郎官能小説家』★★★★★
 朝日新聞の夕刊での連載を単行本にまとめた作品。これは傑作。
『さようなら、ギャングたち』がほとんど奇跡のように書かれてしまった「天上の傑作」だとすれば、『官能小説家』はもっと泥臭い、あきらかに努力と苦悩の痕跡がうかがえる「地上の傑作」だろう。昨年刊行された『日本文学盛衰史』の姉妹編ともいえる内容で、『日本文学盛衰史』では「現代風俗の配置された明治」と「文豪が甦った現代」が入り乱れていたが、この作品ではその2つの世界が明確に区別されており、朝日新聞に連載を抱える作家・タカハシさんの元に現れた森鴎外と夏目漱石が混乱を巻き起こす現代の章と、半井桃水によって見いだされた樋口夏子が師との二人三脚で作家・樋口一葉として成功し、やがて森鴎外と出会ったために師弟関係の破局を迎えるまでの顛末を描く明治の章が交互に語られる構成になっている。
 おもしろい。くだらなくて馬鹿馬鹿しくて笑えるし、シリアスで感傷的で泣けるところもある。そして、意外なことに、この作品ではきちんとした物語が語られている。明治を舞台とした章は、現代風俗を取り入れるという遊びめいた趣向があるものの、基本的には「
一種の『運命の女ファム・ファタル/ルビ)」(P.26)である樋口一葉(=夏子)を中心とした愛憎劇として描かれている。しかし、この物語は、実在した作家を登場人物としながらも、ほとんど史実を無視した形で進行していく。作中の現代の章でも指摘されているが、あからさまなフィクションとして構成されている。同じ物語を語るうえで、まったく架空の登場人物を設定し、現代を舞台にした小説として語ることもできたはずだが、高橋源一郎はあえてそこに樋口夏子や半井桃水や森鴎外といった実在した作家の名前を与えている。なぜか。高橋源一郎は、というか、高橋源一郎に限った話ではないのだが、こういった手段を用いなければ、もはやシリアスな物語を語ることができないのだ。今さら、まじめな顔で「文学」やら「愛」やら「自己」について語ることは不可能だという認識。おそらくそれは正しい。まじめに語れば語るほど、それは語られる対象から遠く離れていってしまう。単なる言葉遊びに過ぎなくなってしまう。そのとき、書き手はどうするか。「文学」やら「愛」やら「自己」など存在しないかのように振る舞うか。あるいは、まじめに「文学」やら「愛」やら「自己」を語り、無自覚にしろ自覚的にしろ道化となるか。高橋源一郎の選択は、そのどちらでもない。「文学」やら「愛」やら「自己」についての語りを括弧でくくってしまうこと。そして、そんな括弧など存在しないかのように振る舞うこと。そのために、この作品は実在した作家の名前を必要としている。それは単なる羞恥などではないはずだ。……などということは、まあ、今さら私などが書く必要なんてないんだろうけど。
 とにかく、ファンとしてはここ最近の充実ぶりは非常にうれしい。『日本文学盛衰史』を読むまでは、正直なところ「終わった作家」として認識していたので。
 次は何を書いてくれるんだろう。

1月25日(金)
 先日、引用した高橋源一郎官能小説家』の一節、あのサインを書いたのが「現代に甦った本物の森鴎外である」という情報が欠落しているので、「偽物がでたらめを書いた」ようにも読めることに気づいた。……叙述トリック? 引用って難しいね。

 牧野修だからドロシー帰っておいで』読了。次は三浦俊彦サプリメント戦争』。

1月23日(水)
 高橋源一郎官能小説家』読了。これは傑作。
 感想は週末にアップするとして、印象に残ったところをちょっとだけ引用してみます。

「ねえねえ」女が割りこんできた。「モリさんて有名な作家なんだって。あんた、知ってる?」
「知ってる」
 おれは仏頂面でいった。そんなこと常識だ。
「だから、色紙書いてもらっちゃったあ」
 女はテーブルの上に置いてあった色紙を持ち上げておれに見せた。
「則天去私 森鴎外」
「仲良き事は美しき哉 森鴎外」
「生まれてきてすいません 森鴎外」


 激シクワラタ。電車の中で読んでいたのに。

 アップしていない本の感想がたまっていますが、そのへんもまとめて週末に。
 20日の日記で金井美恵子の小説について「もうちょっと書くかも」と書きましたけど、『官能小説家』がおもしろくて、何が書きたかったのかすっかり忘れてしまったので思い出したら書くことにします。とりあえず、文学板@2ちゃんねる★金井美恵子の噂の娘★」スレッドのリンクをはってお茶を濁しておこう。『噂の娘』の感想は先日の文章とは別に書くつもりです。
 現在、牧野修だからドロシー帰っておいで』を読書中。

1月20日(日)
 まずは前回の補足。金井美恵子の小説にからめて「映画」について書く場合、「ビデオでの鑑賞」というのは無視して構わない、というか、むしろほとんど無関係だということは承知しているんですが、私がいかに映画を観ていないかということを説明するうえでわかりやすいと思ったのであえて書きました。念のため。

群像」2月号に掲載された対談のタイトルは「映画・小説・批評 −表象の記憶をめぐって−」。メインタイトルはともかくとして、このサブタイトルはちょっと恥ずかしいんじゃないか、という無意味なツッコミはさておき、「小説」よりも先に「映画」がきているところが、この対談のスタンスを明確にあらわしている。ちなみに対談の相手は城殿智行という評論家(初めて名前を知った。今度、チェックしてみよう)で、オールバックにした髪と、きちんと手入れされた鬚は1969年生まれという若さにもかかわらず、まるで明治の文豪のような雰囲気を漂わせており、その写真は一見の価値あり。とこれは余談。

城殿 
(前略)歴史的にいっても、殊にモダニズム以降、文章を書くことと映画を見ることは、切り離して考えられなくなったのではないでしょうか。(P.143)
金井 (前略)でも、たとえば、谷崎について書こうという時、映画について触れずに書くことが出来ますかね。(P.144)

 じゃあ、俺みたいな読者はどうすればいいんだ! と叫びたくもなる。

城殿 金井さんのお書きになる文章は、形容句がどの単語にかかるのかわからないまま長くつながっていくから、構文がとりづらくて、同じ長文とはいっても、プルーストのような構造性を欠いているのだといわれることがある。馬鹿な言いぐさです。そういうことをいうのはルノワールを見たことがない人で、たとえ見たとしても、絶対に見えない人で、金井さんが「漢和辞典」の背のほころびや、「パラソル」の縁飾りをくりかえし描写するとき、構文などよりも先に、そうした細部がそのまま粒だってくる。(P.156)

 ここで「
馬鹿な言いぐさ」と言われているのは恐らく『皆殺し文芸批評』(四谷ラウンド)での東浩紀の発言だと思うけど(本が手元にないので確認できず)、「細部がそのまま粒だってくる」ことの魅力を理解するためには、必ずしも映画の教養を必要としないのではないか、とは思う。実際、私は映画の教養を持たないけれど、金井美恵子の書く小説の肥大化した細部の描写をけっこう楽しんでいる。ここで無視されているのは、その細部の描写にも善し悪しがある、ということではないだろうか。例えば、対談中で城殿智行が絶賛している『噂の娘』の書き出しの冒頭部分。

 緑と灰色のだんだら縞の防水布で出来た日除けと雨除けを兼ねている巻き込み式になって開いたり閉じたりする屋根は、店が西に面しているから、夏の間は午後になると、帆船のたたまれていた帆がくりだされるように、屋根を支えている金属製の枠に組込まれている鎖を操作して──と言っても、垂れ下っている二重の輪っか鎖をガラガラともジャラジャラともきこえる騒々しい音をたてながら両手で引っぱるだけのことなのだが──日焼けと雨で色あせて変色した緑色と灰色の防水布製の屋根が引き出されて店先から奥にまで入り込む、ぎらぎらした長い午後の黄色っぽい西陽をさえぎり、東側に並んで店の入り口が西に向いている商店街の店の内部に、微かな薄暗い陰が出来るのだが、薄暗い陰は涼しさを保証しているわけではなく、まだ熱気がこもっている。(P.3)

 これは、よくないと思う。対談中に金井美恵子自身が語っているように、この小説を書くにあたって「
商店街の見取り図の地図と、美容院の間取り図」を準備したということだが、それが裏目に出ているのではないだろうか。実際、ここでは細部の配置にかんして、描写というよりは説明的になってしまっている(具体的には「東側に並んで店の入り口が西に向いている商店街の店」という一文)。ついでにいうと、この部分の文章はリズムが悪くて読みづらい。読んでいて気持ちよくない。金井美恵子の小説は大好きなんだけど、ときどき、その言葉を刻むリズム感について疑問を感じることがある。いや、もちろん、たいていは気持ちよく読んでいるんだけど。

 思いつくままに書いているので、すでに脈絡がなくなってきている。でも、もうちょっと書くかも。

1月18日(金)
 書店に行くと便意を催す人がいるという話はたまに聞いたり読んだりする。知人にはそういう体質の人がいないので本当かどうかはわからないが、まあ、そういう人もいるのだろう。私の場合、映画館で映画を見ていると尿意を催す。ほぼ確実に。水分をとるのをひかえても駄目。直前にトイレに行っても駄目。理由はわからない。だから、映画館では必ず通路に隣接した座席に座るようにしている。トイレに行くとき、他の観客の視線を遮らないようにするためだ。しかし、そうやって、いつでもトイレに行きやすい座席に座ったとしても、今度はどのタイミングで席を立つかに頭を悩ませることになる。できれば、重要なシーンは見逃したくない。暗闇のなかで腕時計に目を向け、残り時間と尿意の切迫感を比較して検討する。まだ大丈夫。タイミングを見計らい、ここなら見逃しても大丈夫だろうという根拠のない決断をくだして、思い切って席を立つ。しかし、トイレで用を足しているあいだに、館内から観客の笑い声が聞こえたり、何やら感情的に叫ぶ役者の台詞が聞こえたり、派手な爆音が聞こえたりすると、タイミングを見誤ったとひどく悔しい気分になる。そんなわけで、私は映画館で映画を観るのがあまり好きではない。
 しかし、それ以上にビデオで映画を観るのは苦手だ。自慢ではないが、私はレンタルビデオショップの会員になったことがない(つまり、レンタルビデオを利用したことがない)。これにはいろいろと理由があるのだが、免許を持っていないのでわざわざ会員証をつくるために保険証を持っていくのが億劫だというのも理由のひとつだし、それ以上に、注意力が散漫で数十分から数時間、テレビの前にじっとしていることができないというのがもっとも大きな理由だ。ビデオなのだから、中断してまた途中から見はじめればいいのかもしれないが、いったん中断するともう観る気がなくなってしまう。
 そういった理由で、私は映画をあまり、というか、ほとんど観ない。リンクページm@starvisionさんのサイトがあるのは、レビューのテキストがおもしろくて愛読しているからで、映画鑑賞の参考にするからではない(そういう読み方をされるのは恐らく不本意だろうとは思うけど)。
 結局、何が言いたいのかというと、私には映画にたいする素養が決定的に欠けている、という事実である。回りくどくて申し訳ないが、これは金井美恵子の小説について書くための前ふりだったりする。が、本題は追ってまた

 森博嗣捩れ屋敷の利鈍』読了。次は高橋源一郎官能小説家』の予定。

1月16日(水)
 高橋源一郎ゴヂラ』読了。感想は後日。

 津原泰水の新作『少年トレチア』の冒頭部分がこちらで読めます。今月発売。楽しみです。

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