2002年4月前半の日記へ 過去の日記リストへ トップページへ
033103290326
03240322031903170316


■2002年3月16日〜3月31日


3月31日(日)
 現在、リチャード・マシスンある日どこかで』を読書中。マシスンの作品を読むのは恥ずかしながら初めて。「時空を超えたラブストーリー」というのが、実はツボだったりする。

『ある日どこかで』に挟まれていた新刊案内を見て、ジェレミー・ドロンフィールドというイギリスの新人作家の『飛蝗(ばった)の農場』を購入。タイトルがツボにはまった。登場人物一覧に並んでいる名前が3つだけというのもいい。読むのが楽しみ。

3月29日(金)
ジョン・ソール野村芳夫訳)『妖香』★★★
 ソールの作品は、大雑把にいって「ゴシックホラー系」(直球)と「SFホラー系」(変化球)の2系統に作風がほぼ集約されるのはファンにとっては周知のことだが、今作はより作者が得意とするであろう前者の作品。「幼少期のトラウマ」やら「過去の因縁」、「肉親の愛憎」といったお得意のガジェットが満載で、過去が現在を浸食し、主人公たちがひたすら不幸の底へと追いつめられていく展開は、「金太郎飴作家」の名に恥じないワンパターンぶりだが、そこがファンにとってはたまらない。

 それはいいとして、ソールの作品を読むのは実に数年ぶりなんだけど、こんな「映像作品のできの悪いノベライズ」みたいな文章を書く作家だったかなぁ、と思って少々がっかりした。いや、もう、以前に読んだ作品は細かい部分はすっかり忘れているんだけど。
 具体的にいうと……といいつつ、ネタバレになるので図式的に説明するが、Aという人物と、すでに死んでいるBという人物がいて、BがAに憑依し(厳密には違うのだが)、AがまるでBのように振る舞う場面を描くときに、視点人物を介さずに「その手際のよさは〈B〉そのものだった……」と書いてしまうのは小説としてはあまりに杜撰。もしかして、こういうのを「映像的」だと思っているのだろうか?
 話は逸れるが、以前、『ユージュアル・サスペクツ』のノベライズでは結末部分をどうやって処理しているのか気になって立ち読みしたときのことを思い出す。この作品は基本的に、登場人物の1人が語る事件の顛末を映像的に再現しているという構成なのだが、その再現シーンではない「現実」に登場するある人物について、ノベライズでは「○○の話に出てきた□□と同じ男だった」という、小説としてはほとんど意味不明な、映画の見たままをそのまま文章化しただけの表現に出くわし、あまりのことに開いた口がふさがらなかった。
 ソールがこの作品でやっているのも同じことで、(仮想上の映像の)見たままを書いているにすぎない。小説であれば、Bという人物の印象的な仕草(例えば、髪をかきあげる、とか)をあらかじめ回想シーンにおいて描写しておき、その仕草をAという人物が反復する(まったく同じ文章を反復すればより効果的だろう)ことで、わざわざ「そのものだった」などと書かずともその行為の類似を描くことができるはずだ。

3月26日(火)
東野圭吾レイクサイド』★★★
 私立中学受験をひかえる子供たちの勉強合宿のために湖畔の別荘に集まった4組の家族。主人公である男と息子には血のつながりはない。別荘を訪れてきた主人公の愛人が殺害され、妻は自分が殺したと告げる。一同は妻をかばい、殺人を隠蔽しようとする。
 それぞれに軋みを抱えた親子関係。不可解な親同士の連帯。いささか状況をあからさまに語りすぎるきらいはあるけれど、物語そのものはきっちりと構成されており楽しめた。
 真相そのものは非常にシンプルなのだが、私はミスディレクションに見事に引っかかってしまった。誘導の手順が2段階ふんでおり技術的に巧妙だという理由ももちろんあるんだけど、「東野圭吾だったらこのネタをこういう形で使っても不思議ではない」と思い、疑いもしなかったのだ。このとき思い出していたのは
『放課後』の動機なんだけど、いわば作家性(というのも大袈裟だけど)そのものがミスディレクションとして機能していたという意味で(作者にその意図はないにしろ)、個人的に非常におもしろかった(余談だが、同じネタを使ってミスディレクションを有効に機能させることができるのは、他の作家だと西澤保彦くらいだろうか)。

3月24日(日)
 東野圭吾レイクサイド』読了。感想は後日。

 ひぐちアサヤサシイワタシ』2巻(完結)を読む。痛々しい。この物語の前半を描かせた編集者に拍手。

 ひさびさに高橋源一郎さようなら、ギャングたち』を読み直す。しみじみと良い話だと思う。

 うわあ、久々の新刊だ。ジョン・ソール妖香』を読みはじめる。
 ところで、ソールの邦訳作品はあらかた読んでいるんだけど、なぜか『暗い森の少女』は未読だったりする。


佐藤友哉水没ピアノ 鏡創士がひきもどす犯罪』★★★
 東浩紀の「
傑作」との言葉に影響されたわけではないと思うのだけど、なかなかおもしろかった。少なくとも『フリッカー式』や『エナメルを塗った魂の比重』よりは格段によくなっている。何よりメインタイトルがいい(サブタイトルは例によって余計だと思うけど)。
 物語は3つの一人称のパートで構成されている。携帯電話にシールを貼るアルバイトをしながら、アパートに引きこもり女子高生とのメール交換に慰みを見いだす青年。心が壊れた姉によって屋敷に軟禁されている家族の一員である絵描きの青年。そして、同級生の少女を傷つけようとする『奴』の悪意に立ち向かおうとする少年。
 表紙の折り返しに「
主な参考資料・つい最近終わった自分の青春」と書かれているように(まあ、その言葉を額面どおりに受け取るのもどうかと思うけど)、青臭くも痛々しい内省的な言葉が綴られている。とはいえ、作者はあきらかにそんな登場人物たちを(自虐的に?)突き放そうとしている。
 この作品に対する最大の不満は、登場人物に対する突き放し方が徹底していないという点に尽きる。肉体にしろ精神にしろ、ただダメージを与えるだけでは突き放しているとは言い難い。このへんについては、他の作家を引き合いに出すのもどうかと思うけど、麻耶雄嵩の徹底ぶりを見習ってほしいと思う。

3月22日(金)
 
iPodのパーソナライズサービス。AppleStoreでiPodの裏面にメッセージを入れてくれるサービスがはじまった。メッセージを入力すると、ブラウザ上でプレビューを見ることができる。こんなのも作れる。使用不可な記号があるので、残念ながら入力できないものも多いんだけど。

 佐藤友哉水没ピアノ』読了。あと、角川スニーカー文庫のミステリーアンソロジー『殺人鬼の放課後』(恩田陸・小林泰三・新津きよみ・乙一)も読了。

3月19日(火)
 
浅田彰の金井美恵子に対する罵倒。容赦ない。ちなみにネタ元は例によって文学板@2ちゃんねるの「★金井美恵子の噂の娘★」スレッド。
田舎者のひとつの定義は『蓮實重彦に幻惑される人間』だ」ということらしい。てことは、私も田舎者だな。

 ついでに、「田舎者」つながりということで、吉野仁孤底のつぶやき」の3月1日の日記にリンクをはっておこう。いや、単に浅田彰の文章を読んで、ふと思い出しただけなんだけど。

 佐藤友哉水没ピアノ』はまだ3分の2くらい。正直、ちょっとおもしろいと思いはじめている。気の迷いだろうか。

 ERGOSOFTEGWORD 12が欲しいなぁ。24種類の「渡辺」が使い分けられるんだもんなぁ。「士+口」の「吉」じゃなくて、「土+口」も使えるんだよなぁ。モリオウガイもスガヒデミも打てるんだよなぁ。PDFの書き出しでフォントも埋め込めるんだよなぁ。いいなぁ。別に使うあてはないんだけど。

3月17日(日)
 
まずは訂正。3月12日の日記で、鯨統一郎『タイムスリップ森鴎外』についてふれたところで、「森鴎外を現代社会に放り込むというシミュレーション的な設定が、高橋源一郎『日本文学盛衰史』、『ゴヂラ』、『官能小説家』あたりとかぶっている」と書きましたが、ざっと読み返してみたら、『日本文学盛衰史』の現代のパートには森鴎外は登場していませんでした。勘違いです。申し訳ありません。

鯨統一郎タイムスリップ森鴎外』★★
 はじめから高橋源一郎の小説と比較するつもりで読み始めたので、感想もその点を中心に書く。高橋源一郎の作品については、『官能小説家』の現代を舞台とした章に限定して比較する。というわけで、主な違いをあげてみよう。
 まずは視点。鯨作品では、鴎外の視点に従った三人称の記述によって語られる。だから、当然、鴎外の心理や思考といった内面が描かれる。一方、高橋作品では、作家・タカハシさんの一人称の記述によって語られる。従って、鴎外は外部からしか描かれない。鴎外の内面を描く、というのは、実は結構大胆なことだと思うんだけど、鯨作品では残念ながら教科書的な知識の反復のレベルにとどまっているように思う。さらに、最後の肝心な部分で鴎外の視点を放棄してしまうのは、物語の構成上やむを得ない部分もあるとはいえ、不徹底だと感じた。
 次に、「なぜ現代に鴎外がやってきたのか?」という説明。鯨作品では、原因は明確にはあかされないものの、「タイムスリップ」という用語によってその理由が説明されている。高橋作品では、理由の説明はいっさいない。これは、まあ、「ミステリ」と「純文学」というジャンルの違いによるものだといえるかもしれない。しかし、鯨作品では「タイムスリップ」という用語を使い、「歴史改編SF」的なプロットを導入しながらも、その因果関係が明確ではないという弱点を持つ。具体的にいうと、「鴎外が現代にやってきた」ということが原因で、なぜ「
歴史から鴎外の存在が消える」という事態が起こるのか、さっぱりわからないのだ。
 逆に共通点をあげてみよう。
 まずは、固有名詞を多用した現代風俗の描写。これは鯨作品も悪くないのだが、カラオケのシーンにおいて、くだらない小ネタ(
歌詞に「ミステリー」という単語を含む曲を羅列する)を優先して、選曲のリアリティを殺してしまっているのが惜しまれる。
 それから、鴎外の現代社会への高い適応力という点も、両作品に共通している。しかし、例えば『官能小説家』の以下の引用部分と比較すると、鯨作品からは表紙イラストに象徴される一発芸めいた「組み合わせのおもしろさ」以上のものは感じられない。

「その文学やってる森ちゃんがAV男優になりたいってわけ説明してくれる?」
「いいよ。昔書いてたものに我慢できなくなったのね。というか、いま読むと古くてとても読めないのよ。たとえば、オナニーのことを『悪い事』としか書けなかったとか。情けないよね。時代が時代だから仕方ないっていえばそうだけど、おれとしては放っておけないのね。そういう自分の限界をなんとかして超えたいわけ。現代の『ヰタ・セクスアリス』ってどんなものかきわめてみたいってゆーか」
(P.250)

 何より、高橋作品のほうが笑える。というわけで、この点数。

3月16日(土)
見下げ果てた日々の企て」からお越しの方はこちらへどうぞ。

 佐藤友哉水没ピアノ』を読み始める。冒頭、いきなり肩に力の入った奇妙なレトリックを駆使する文体にあきれたが、作者にその文体を維持する気力がなかったようで、章が進むごとにわりと普通の文体になっていく(それでも充分ヘンだけど)のはご愛敬として、むしろ読者にとっては幸いなことだと思う。

 鯨統一郎タイムスリップ森鴎外』の感想は明日にでも。とりあえず、下記の感想を先にアップ。

稲生平太郎アクアリウムの夜』★★★★
 この小説のタイトルを見たとき、何となく覚えがあるような気がして、もちろん、この小説は再刊だから初刊のときに目にしていたのかもしれないと思ったのだが、著者名も表紙も出版社名も記憶になくて、でも、やっぱり知っているように思えてならず、「アクアリウム」という言葉が使われている似たタイトルの小説があるのかもしれないと考えたが、いろいろと考えてみてもこれといったものが思い浮かばないので、ネットでいろいろと調べているうちに、初出が角川書店の「小説王」であると知って、もしかしたら雑誌掲載時に部分的に読んでいるのかもしれないという結論に至ったものの、記憶が定かではなく確信を持てず、実際に小説の導入部分を読んでみても、漠然と見知った物語であるような印象を覚えつつ、しかし、この導入部分は非日常的な題材を扱ったジュブナイルでは典型的ともいえるわけで、確かに読んだことがあるという確信を得るには至らず、かといって、読んだことがないと断言もできず、どちらとも判断がつかないのだった。
 と、これは余談。

 驚異の科学魔術〈カメラ・オブスキュラ〉。存在するはずのない地下への階段。死を予言するこっくりさん。ホワイト・ノイズの彼方から聞こえる〈霊界ラジオ〉。そして、水族館。日常にほころびが生じ、次第にあらわれる底なしの闇が登場人物たちを飲み込む。ジュブナイルのフォーマットで語られるホラー小説。主人公である「ぼく」が一人称で語る物語は、基本的に、現前的に語られる。しかし、実際には語り手である「ぼく」は物語の結末の時点から回想的に物語を語っており、時折、というか、頻繁に先の展開を予告する記述が挿入される。そういった手法は、安直に用いると単に思わせぶりなだけでいらいらさせられることが多いのだけれど、この小説の場合は、物語内のガジェットとしての「予言」との効果も相まって、非常にうまく機能している。登場人物は無個性ながら最小限の人数が物語の必要に応じて的確に配置されているため、無駄がない。何より、私はこういった昔懐かしいジュブナイルのフォーマットを用いた物語に弱いのだ。しかし、結末はあきらかに典型的なジュブナイルの「お約束」を逸脱している。そこがまた、この物語を非常に印象深いものにしている。


2002年3月前半の日記へ 過去の日記リストへ トップページへ
033103290326
03240322031903170316